桑の実のみのる頃に

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第7話

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 囲炉裏端の一箇所がぽっかりと開いている。

 そこはむかし、清吉の席だった。ここ二、三日は左吉の席である。

 今日は、その左吉もいない。

 人一倍飯を食い、人一倍笑う人である。

 その人がいないだけで、随分寂しい夕餉になった。

 夜の四つ(午後十時頃)を過ぎた。

 左吉が帰ってくる様子はなかった。

 老人の草鞋を編む音だけが、静かに響き渡った。

「うむ、遅い」

 弥平がそわそわとし始めた。

 確かに遅いとおすみも思った。

 ―― まさか、左吉さん、竜蔵のところで………………、いや、そんなことはない。だって、弥平さんだって、左吉さんは剣が達者だって………………

 竜蔵の子分に囲まれても、何とか掻い潜ってくるだろう。

 そうだ、きっとそうだ、とおすみは弥平を見たが、その彼も眉間に皺を寄せて、ぶつぶつと呟いていた。

「うむ、あの左吉さんのことだ、何があっても大丈夫と思うが。いや、そうだ、うむ、きっと次から次へと美味い酒が出ているのだろう。だから帰れなくなったのだ。いや、しかし、うむ、もし左吉さんの身に何かあったら、取り返しの付かないことに。うむ、いや………………」

 弥平は、はたと顔を上げた。

「私、少々見てまいります」

 言うが早いか、土間に飛び下りた。

「あっ、私も………………」

「いえ、おすみさんはここで」

 勢いよく戸を開けて、一気に駆け出していった。

 おすみは、出口まで駆け出たところで義父に呼び止められた。

「おすみ、外は暗い、これを持っていけ」

 囲炉裏にくべてあった一本の薪を取り出した。

 おすみは走った。

 弥平の跡を追いかけて走った。

 火のついた薪を松明代わりにして、通いなれた道を走り続けた。

 炎が、箒星のごとく尾を引いた。

 彼はまだ、そんなに遠くへは行っていないはずだ。

 おすみは男の名を呼んだ。

 先に行くであろう、男の名を呼んだ。

 傍から見れば、恋しい男を慕って名を呼び続ける感動的な場面に見えたかもしれない。

 だが、おすみには、それを考えている余裕などなかった。

「弥平さ~ん、弥平さ~ん」

「おすみさんか?」

 遠くから声がした。

「弥平さ~ん」

 おすみは力を込めて男の名を呼んだ。

 地べたを蹴り上げるような音が近づいて来た。

 一瞬緊張が走った。

 もし、弥平ではなかったら。

「おすみさん、どうして?」

 炎に照らされた顔は、まさしく弥平の顔だった。

 おすみは、ほっと胸をなで下ろした。

「おとっつぁんが、暗いのでこれをと」

 薪を渡した。

「うむ、これはありがたい。しかし、これを受け取ってはおすみさんが帰れまい」

「いえ、あたしは………………」

「来ますか、一緒に?」

 願ってもない言葉だった。

 おすみは、「はい」と頷いた。

「では、足下に気をつけて」

 弥平が、おすみの足下を照らすかのように近づいてきた。

 思わぬ夜の逢引となった。

 しばらく、近くに弥平の肩を感じながら歩いていくと、前のほうから一つの小さな明かりが見えてきた。

 ゆっくりと上下しながら近寄って来る。

 どうやら提灯明かりのようだ。

 その提灯明かりの後ろに、二つ三つ明かりが見えた。

「左吉さんでしょうか?」

「うむ、それならば良いのだが」

 二人の足が速くなった。

 ちょうど道の半ば辺りで提灯の持ち主と行き会った。

「おや、弥平さんじゃないかい。これはおすみさんまで。さては、逢引か。やるな、弥平さん」

 提灯の持ち主は、なんとも間の抜けたことを言った。

「余りに遅いので迎えに来たのですよ。それより、後ろに気づかれてますか」

 弥平は、すばやく後ろを見やった。

 おすみも見た。

 明かりが確実に近付いている。

「ああ、竜蔵の家を出てからすぐにな。さて、どうする弥平さん」

「ここで騒動を起こすのは得策ではありますまい」

「では、急いで帰るとするか」

 左吉が走り出した。

 おすみは、弥平に手を握られた。

「おすみさん、大丈夫ですね」

 返答をする間もなく、弥平は走り出した。

 おすみはいま、幸せを感じていた。

 同時に、不安でもあった。

 ―― 弥平さんがあたしの手を握ってくれた。でも、こんながさがさの手だと分かったら、弥平はどう思うだろう。

 切迫した状況なのに、妙に冷静なおすみがいた。

 後ろを振り返った。

 後ろの明かりは徐々に近付いてくる。

 やはり女がいては男たちも早く走れないようだ。

 桑の木が見えた辺りで、男たちに囲まれてしまった。

「やい、待て、おまんら!」

 鋭い声が飛んだ。

 二人の男は、おすみを後ろに庇った。

 男たちは、二十人近くはいるだろうか。

 薪を翳すと、厳つい顔たちが浮かび上がった。

 炎に照らされ、顔に漆黒の影ができて、鬼のような面相になっている。

 おすみは、背中に悪寒が走った。

 男たちの中から、二人の男が歩み出た。

 一人は、左目に刀傷が見える。

「隻眼の竜」こと、竜蔵だ。

 もう一人は、闇夜と同じ漆黒の点が四つ見えた。

 ―― まあ、虎八まで。二人とも、いつから手を組んだんだい。

 隻眼の竜が凄んだ。

「おう、おまんらの素性は分かってるんだぞ!」

「素性といいましても、私らはただの刀売りでございますよ。それは竜蔵親分さんもご存知のはずでは?」

 左吉は、相変わらず笑顔を崩さない。

 弥平は、僅かに腰を落とし、虎八をじっと睨みつけている。

「うるせえ、この宿場荒しが。宿場だけじゃ飽き足らず、今度は土場まで荒そうって魂胆だろうが、そうはいかねえぞ」

「俺たちの土場を狙ったのが運の尽きだったな」

 虎八が加勢した。

「いや、それは誤解でございますよ。本当に、私たちは正真正銘の刀売りで……と、言っても、この様子じゃ信じてもらえそうにありませんね、弥平さん」

「そのとおりですね、左吉さん、ここは一つ、正真正銘のというところを見せましょうか」

 おすみは、左吉と弥平の顔を見た。

 二人は、まるでこの状況を楽しんでいるかのようであった。

 おすみには、理解できない心境だ。

「おすみさん、ちょいと後ろに下がっていてくださいよ」

 そう言うと弥平は、薪を投げ捨てた。

 おすみは、数歩下がった。

 ―― ああ、始まる。とうとう始まってしまう。

 頬が冷たくなるのが分かった。

 囲みがじりじりと小さくなっていく。

 男たちの手には、ぎらぎらと鈍い光を放つ刀が。

 風が吹き荒れる。

 刹那!

 数人、飛び掛かる。

 おすみは目を瞑る。

 ぎゃっという絶叫。

 やられた! と思った。

 恐る恐る目を開けた。

 二人は立っていた。

 いつの間にか、刀まで手にしていた。代わりに、数人の男が2人の周りに蹲っていた。

「弥平さん、その刀は売り物ですから、丁寧に扱ってくださいよ」

「こうなったら、もう売れないでしょう」

「何を言ってるんですか。次の客に売るんですよ」

「ああ、そうですね」

 囲炉裏端で話しているときと何ら代わりはない。

 息一つ乱れていない。

 ―― 強い、この二人、本当に強いんだ。

 数人の男たちが飛びかかっていくが、あっと言う間に叩き伏せられた。

「あっと、ごめんなさいよ。刀背打ちですが、ここんとこ私は畑仕事に出て、体が思うように動かせませんから、力の加減が利きません。少し、強く打ちつけるかもしれませんよ」

 弥平は、片笑窪を作りながら言った。

「何を言ってやがる、おい、おまんら、やれ、やれ」

 虎八と竜蔵は子分たちを嗾けるが、誰もが怖気づいている。当の虎八と竜蔵も逃げ腰だ。

「ええい、おまんが行け!」

 虎八に押し出されたのは、金次だった。

 両の手で刀を確りと持っているが、体全体が震えている。

「金次!」

 おすみは叫んだ。

 ―― 駄目だ、駄目だよ、金次、止めるんだ。

 と思うが、首が絞められたような感じで声が出なかった。

「ほう、お前さんがおすみさんの息子さんか。ふむ、うむ」

 左吉が金次に近付いた。

 突然、金次は狂ったように刀を振りかざした。

 左吉は、すっと肩を逸らして避けた。

 金次は、そのままは前のめりに転げてしまった。

「金次さん、あんたに人は殺せねえよ。いい子だから、家に帰って、ご老体やおすみさんの手伝いをしてやんな」

「お、おら、百姓なんか嫌だ」

 再び振り上げたが、簡単に刀を取り上げられてしまった。

「おい、おめえに人は殺せねえと言っただろう。おめえの手は人を殺(あや)めるようにできちゃいねんだ。いいか、その手は田畑を耕し、命を育む手だ。大事にしな」

「う、うるせえ」

 なおも意地を張る金次に、左吉は鬼の形相で睨み付けた。

「やかましい! てめぇ、俺に斬られて、おすみさんに寂しい思いをさせたいのか!」

 余りの迫力に、金次は泣き出した。

 まるで赤子のように泣いて、宿場のほうへと走り去った。

 おすみは、息子の哀れな後姿を黙って見送った。

「大丈夫です。あいつは、私たちが責任をもって連れて帰りますから。おすみさんも、いまのうちに家のほうへ」

 弥平の言葉に、おすみは頷いた。

 そのまま男たちの中から抜け出し、家へと飛び込んだ。

 老人が、険しい顔つきで待っていた。

 それから半時ほどして、左吉と弥平が戻ってきた。

 二人とも、先程まで大立ち回りをしていたような素振りは全く見られなかった。

「虎八と竜蔵には、話をつけてきましたから、お二人には危害を加えないと思います。何、ちょっと脅してやっただけですよ。それから、虎八には、おすみさんに手を出すなと言っておきましたので」

 弥平からその言葉を聞いて、嬉しかった。

「あと一つ」と、弥平は続けた、「こいつのことも許してやってはくれませんか。私たちが、きつく叱っておきましたので」

 左吉の後ろから、金次が泣き腫らした顔を晒した。

 神妙な顔をしている。

「金次!」

 おすみは、金次の頬に一発入れた。

 左吉と弥平はあっと目を瞠った。

 老人も驚いたようだ。

 一番驚いていたのは、叩かれた本人だった。

 左吉や弥平は、許してやってくれと言った。

 もちろん、許してやるつもりだ。

 だが、どうしてもそれをしておかなければ、おすみの心が済まなかった。

 それは、一つの区切りだ。

「いままでごめん、かあちゃん」

 おすみは泣いた。

 声を上げて泣いた。

 清吉が死んだときでさえ、こんなに泣かなかったのに、人目を気にせず泣き続けた。

 桑の葉擦れが聞こえた。

 今度は、笑っているようだった。

 翌朝、朗らかな空だった。

 旅立ちには、良い朝だ。

「ひと騒動を起こしましたので、陣屋に知られる前に宿場を抜けます。短い間でしたが、本当にありがとうございました」

 旅装を整えた二人は、頭を下げた。

 老人は、二人に草鞋を渡した。

「荷物にはならないと思いますので、どうかお使いください」

「もしやこれは、夜中に編んでおられたものでは。いや、忝い、泊めていただいて、尚且つ、このようなものまで………………」

 左吉は、戴くようにして、それを受け取った。

「お二人には、孫を連れ戻していただいた恩義がありますので。今度、犬目を通る際には、また是非、お越しください」

 老人は笑みを零した。

 おすみは、弥平を見詰めた。

「行くんですね」

「ええ、こういった商売ですから」

 弥平は目を逸らした。

「くわ餅………………」

「えっ? ああ、くわ餅、おすみさんのくわ餅が食べたかったな」

「きっと、今度、きっと………………」

 それ以上は言えなかった。

 言えば、言葉だけではなく、間違いなく涙も出るだろう。

 ―― そうさ、弥平さんはただの行商人だよ。たまたまうちに泊まっただけさ。それだけなんだよ。

 自分にそう言い聞かせた。

「きっと………………」

 弥平は、おすみに背を向けたまま言った。

「きっと、食べにきますから」

「ええ、きっと………………」

 おかしな二人組みが、春霞棚引く街道を歩いていく。

 おすみは、二人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 二人の姿が、涙で霞んだ。
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