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第2章
Ghota's side 1
しおりを挟む◆3年前……
初めてその人を見た時、なんてきれいなひとだろう、と思った。
ちょうど、ビルから出てくるところだった。
日差しに目を眇め、ちょっとだけ、眉を寄せた。左手を目の上に当て、降り注ぐ日差しを遮る仕草をした。
長袖のワイシャツを着て、上着は脱いでいる。
足早に歩き出した。
去りゆく背中が、すっと伸びていて美しかった。
「あの人です」
傍らで、太田蒼が言った。
「あの人が、柳ヶ瀬遼。俺の先輩です」
「きれいな人ですね」
言葉がぽろりと口からこぼれ、豪太はあせった。
「いや、その、男性ですけど」
「きれいな男です」
蒼は真面目な顔で頷いた。
「きれいで、傲慢で、人の言うことを聞かない、どうしようもない男です」
石川豪太は、労働法専門の弁護士だった。
区役所で行われた法律相談会に来たのが、太田蒼だ。
明らかに違法な条件で働いている人がいる、というのだ。
職場の先輩だという。
話を聞いてみると、蒼自身が、かなり過酷な条件下で働いていることがわかった。
無報酬の残業、休日出勤。
責任を取る上司がいない現場。
休日が一日もない月もあった。
「その人は、俺よりもっとひどい働き方をしてるんです」
その点を指摘すると、蒼は言った。
「俺の働き方なんか、メじゃないです」
「あなたは、その先輩に不満を持っているのですか? 先輩が帰らないから、自分も帰れないと」
「いいえ、違います」
思ってもいないことを言われたという風に、蒼は目を見開いた。
「俺は、あの人を幸せにしてあげたいんだ。仕事だけじゃなく、もっともっと、人生を楽しんでほしいんだよ」
「彼は、ワーカホリックだということですか?」
蒼の言っていることが理解できず、豪太は尋ねた。
だとしたら、産業カウンセラーに相談するのもいいかもしれない。
「仕事しか生き甲斐がないとか。いますよね、そういう人」
「いいや、彼の場合は、仕事が生き甲斐なんかじゃない、生き甲斐そのものがないんだと思う。だから、あんなにめちゃくちゃな働き方をするんだ。なんだかあの人は、自分を罰そうとしているように見える」
確かに、柳ヶ瀬遼の働き方は、異常だった。
しかしそれにつきあう蒼も、豪太にいわせれば、たいがい、おかしかった。
法律相談会が縁となり、蒼とは、それからも何度か会った。
同い年だったこともあり、まもなく気安く付き合うようになった。
蒼は、そういう男だった。
すぐに、人の懐に飛び込んでしまう。
二人とも、仕事が忙しいことに違いはなかった。それでも時間を作って、食事などを共にするようになった。
お互い、社会に出たばかりで右も左もわからない頃である。
異業種の、気の置けない友達は、貴重だった。
「仕事が忙しいからと断ってたら、誘ってくれる友達がいなくなっちゃったよ」
居酒屋で、蒼はそう言って笑った。
「時間は作るもんだ」
豪太はグラスを口に運んだ。
一日の終わりのビールがこんなにおいしいものだとは、誰も教えてくれなかった。
「君には、先輩がいるじゃないか。先輩とは、飲みにいかないの?」
「あの人は……」
蒼は眉間を曇らせた。
「今も、あの人は会社だよ。受付のミスをフォローしている。俺も手伝うと言ったら、帰れる時に帰れって、尻を蹴飛ばされた」
「人の仕事だろ?」
「そういう人なんだ。優しいんだよ。その上、なまじ有能なものだから、自分の仕事が、さっさと片付いてしまう。でも、俺が飲みに誘おうとすると、いつの間にか、修羅場のグループに加わっている」
「なんだそりゃ」
「ヒマな時間が嫌いなんだ。何もしないでいると、ネガティブになるんだって」
「だからって、働かなくてもいいじゃないか。遊べばいいのに」
豪太には、まったく理解できないことだった。
頑張って勉強して、司法試験に受かりはしたが、彼にとって、仕事は仕事だった。
プライベートの方が大切で、仕事はその為の手段に過ぎない。
今は、イソ弁として、大手法律事務所に勤務し、それなりに働いている。だが、いずれは独立して、余裕のある働き方をするつもりだった。
その為の弁護士資格だといっても、過言ではない。
会社の為に、身を粉にして働くという姿勢が、豪太には、不思議でならない。
「あの人は、さあ、」
そう言う蒼の目元が赤い。
もうずいぶん、グラスを重ねている。
「幸せが怖いんだと思う。たとえ幸せになっても、その幸せを、きっと自分の手で叩き壊すと思う、って、自分で言ってた」
「……歪んでるね」
「歪んでる」
蒼は頷いた。
「でも、幸せにしてやりたい」
違和感を感じた。
「幸せは、自分でつかむもんじゃないのか?」
「あの人は、目の前を幸せが通り過ぎても、手を出そうとしないから。一人でいると、寂しくて死んでしまうくせに」
「それは……」
「だから、必要以上に働くんだ。人生をどう過ごしていいかわからないから」
「随分上から目線だな」
どうにも座りの悪い思いで、豪太は言った。
上から目線も、ちょっと違う気がする。
「人を幸せにできると思うなんて」
「そんなんじゃなくて。あの人を幸せにすることで、俺自身も、幸せになりたいんだよ」
「? なぜ、人を幸せにすると、自分も幸せになれるんだ?」
「あんた、恋をしたことがないのか?」
「恋?」
全く思いもかけない言葉に、豪太は、箸でつかみかけたトマトを落としてしまった。
呆然として繰り返す。
「恋」
対面の蒼は、無言だった。
酔った頭に、ビルから出てきて日差しを遮ろうとする男の姿が浮かんだ。
ワイシャツの袖から覗く、骨ばった手首がひどくなまめかしかった。去っていく、美しく伸びた背中が、涼しげだった。
皿に落としたトマトよりもっと、豪太は赤くなった。
「すまない」
「なぜ謝る」
「僕は、偏見はないつもりだった。でも、こんな風に驚いたりして」
「片想いだから」
蒼は言った。
それから、ちょっと悲しそうな顔をした。
「あの人、自分のことを好きになる人間は、嫌いなんだって。職場の女の子がコクッったら、そう言ってふられたと……伝説になってる」
「やっかいな男だな」
「ああ。でも、俺は好きだ」
「告白するのか?」
「当たって砕けろタイプだからな、俺は。何も言わずにうじうじしてるのが、一番、性に合わない」
告白する以前に、両方男だということが、最も問題であるように豪太には思えた。
柳ヶ瀬という男が、理解のない人間なら、蒼は傷つくことになる。
「君は、その……、相手は……」
「あの人が、ホテルから出てくるのを見たことがある。男と一緒だった」
「……」
人は、こんなにも簡単に、ボーダーを超えてしまうものなのか。
豪太はぼんやりと考えた。
豪太自身は、女の子としか、つきあったことがない。
しかし、こうして蒼の話を聞いていると、同性間の恋愛は、しごく当たり前のことのように思われてきた。
男女のそれと、なんら変わるところはない。
豪太は考えた。
もし自分の好きな女のコが、他の男とつきあってるとしたらどうだろう……。
そして、頭を振った。
「だって、その人、恋人がいるんだろ? 一緒にホテルへ行くような」
「恋人? さあ、どうだろ」
そういう声は、冷たかった。
「アレ、恋人かな」
負けずに豪太は言い募る。
「告白して、拒絶されたら? 同じ職場だと、やっかいだぞ」
蒼が、にやりと笑った。
「そしたら、ただの後輩に戻るだけさ。そして忘れた頃、またトライする。なにせ、自分の幸せを叩き壊す人だからね。誰とつきあったって、どうせ続きっこないさ。その隙を、俺は衝く」
「君との幸せだって、叩き壊されるんじゃないか? その前に、拒否られるかもしれないんだぜ」
「うん。だから、保険をかけておいた」
「保険?」
「一緒に会社を興そうって。二人の会社を創るんだ。そしたら、ずっと一緒にいられる」
「今の会社、辞めるのか?」
「うん。ブラックだもの」
「彼は?」
「乗り気」
「……君、ひどいやつだな」
不意に激しい疎外感を覚えた。
「せっかく、労働環境改善の為に、知恵を絞ってきたのに。会社、辞めるのかよ」
それが一番いいのでは、と、心の中では思っていた。
会社と争って権利を獲得しても、居づらくなったのでは、元も子もない。
だが、豪太は、心の底からむっとしていた。
なんだか、自分一人、仲間外れになった気がする。
「新しい会社創っても、もう、相談には乗ってやらんぞ。早々に潰れちまえ」
はじかれたように、蒼は笑い出した。
「会社が苦しくなったら、あの人と、もっともっと親密になれるさ。二人で力を合わせて、同じ目的に向かって。つまり、そういう保険。そして仲を深めて、また、告白」
「懲りない男だな。相手の人が、かわいそうになってきたよ」
ますます愉快そうに、蒼は笑った。
本当にこいつは、あのきれいな男のことが好きなんだな、と、豪太は思った。
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