聖女の姉ですが、宰相閣下は無能な妹より私がお好きなようですよ?

渡邊 香梨

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第二部 宰相閣下の謹慎事情

266 トレーナーが付くようです

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※1日複数話更新です。お気を付け下さい。

 公爵邸でお世話になるようになってからこちら、朝食だけは共にするのが習慣化していた筈だった。

「…レイナ。私は王宮に行くから、もう起きるが――朝食は摂れるか?」

 朝。
 寝台ベッドの中ですっぽりと抱きすくめられた状態のまま、耳元でバリトン声が囁かれる。

「………ごめんなさい。無理です………」

 長年のクセで、決まった時間に目が醒めるのは、悪い事ではない筈なんだけど。
 そこから起き上がれるかとなると、また別問題なんだなと、最近気が付いた。
 …気付かされてしまった、とも言う。

 これはまた確実に、起き上がったら「生まれたての小鹿かキリン」になる筈だ。
 身体中、痛いのかだるいのかさえも良く分からない。

(……初心者に何してくれてるんですか……)

 本人エドヴァルド曰く「貴女に一瞬たりとも私の事を疑われたくはない」との事らしいが、もうちょっと穏便にはいかないものだろうか。

 しかもどうやら「何も考えられなくなってしまうから止めてほしい」と言うのは逆効果らしかった。
 鉄壁ぶりをどこかに置いてきた、色気駄々洩れの表情で、嬉しそうに「ああ…ここが良いのか、貴女は……」などと囁かれては、もう、今すぐ!と思った。

 そう言えば、コノヒトが毎回涙目の宰相副官シモンに容赦なく仕事を振っているところを思えば、間違いなくドSの気質があった気はする。

 …そして結局、今朝も声が掠れ気味で、身体も全身がどんより重く、朝食の為に起き上がるのは困難だとの判断に至った訳だった。

 何せ「北の館」ではない以上、一定数住み込みの使用人が存在している。

 一階であり棟も違うし、基本的には「まだらの紐」を思わせる呼び鈴を鳴らさない以上は、セルヴァンやヨンナでさえ出入りはしないので、何が起きているのかあからさまな「声」は、聞かれていないと――信じたい。

「後でヨンナにスープでも運ばせよう。王宮内で話し合った事は、話せる範囲で、戻って来たら共有するつもりだ」

「……ハイ」

 名残惜しい、と言った感じに頭を撫でられた気はしたけど、多分本当に時間の猶予がなかったんだろう。
 
 呼び鈴に応じてやって来たヨンナに「私の朝食はいい。レイナには、後でスープを。このまま王宮に行くから、支度を頼む」と言い置いて部屋を出ていくのが、扉の開閉音なんかで何となく分かった。

「レイナ様……」

 あー…えーっと…別に、死ぬほどイヤとか、そう言う事じゃないので、うっかり受け入れてしまうんですけど……。
 ただ、もうちょっと、ほんのちょっとで良いから手加減して欲しいと思うだけで……。

 えーっと…呼び鈴に手を伸ばす余裕さえない場合は、どうしたら良いんでしょう…?

 ――などと、声に出せなかったところを、ヨンナも何となく察してくれたみたいだった。

「……これは、浮かれすぎの旦那様を根気よくしかありませんね」

「………ゼヒオネガイシマス」

 結局午前中は、不本意にもベッドの住人になるしかなかった。

*        *         *

 午後。
 遅まきながらシャルリーヌに宛てた手紙を書いていると、窓の外から何やら賑やかな声が聞こえてきた。

 ガラス越しに階下を見下ろすと、どうやらファルコ達〝鷹の眼〟がトレーニングの様な事をしているのが垣間見えた。

「あー…私もジョギングくらいはした方が良いのかな……」

 ランニング、とまでは言わない。
 どこを目指しているのかと言う話になる。

 ダンスの練習を再開出来れば、それなりに運動不足は解消出来るだろうけど、今のままではニートな引きこもり一直線だ。

「ねぇセルヴァン、マリーツ先生のダンス講義って、いつ頃再開出来そうかな?」

 私の問いかけに、手紙の封蝋をしてくれていたセルヴァンが、ふと顔を上げた。

「レイナ様は、ダンスがお好きなのですか?」

「うーん…大好きかと言われるとそうでもないんだけど…姿勢も良くなるし、運動不足も解消されるし、合理的な側面から言って、やった方がよさそうだな…と。事態が落ち着くまで公爵邸でじっとしてろとか言われると、明らかに運動不足で太りそうな気がして……」

「なるほど……。マリーツ様はもう、使用人皆が把握をしておりますから、邸宅やしきにお招きする事にも否やはありませんが、念の為旦那様の許可は取りましょう。馬車の馭者など、思わぬところで不埒な輩と入れ替わられても困りますからね」

 そうか。この前みたいに、エッカランタ伯爵の付き添いと称して、特殊部隊の人間が紛れ込んでいた…みたいな事があると困るんだ。

「それまでは、そうですね……気になるのでしたら〝鷹の眼〟の誰かを道案内に、敷地内の散歩でもなさいますか?彼らは訓練を兼ねて日々走り回っていますから、運動不足の解消をしたいとでも言えば、それに応じたコースは組んでくれる筈ですよ」

 敷地内の散歩に道案内とか言われると、狭い島国日本の常識では、もはや推し量れないレベルだ。

 しかも、その言い方だと〝鷹の眼〟は、ジムのトレーナーか何かかと言う話になってしまう。

「あー……そうだね。そうして貰おうかな?それと、ついでに『護身術』的な事も教わった方が良いのかな?狙われてるとか言われると、今のままで良いのかなと言う気も、しないでもないし」

 これは、割と本気で心配な事ではある。
 もちろん〝鷹の眼〟の皆の事は信頼しているんだけど、それでも万一の状況と言うのは、考えずにはいられない。

 セルヴァンも「そうですね…」と、少し迷っている様だった。

「彼らの潜在能力を思えば、万が一と言う事も考えにくいとは思いますが……王宮に行かれた際などを考えますと、全力疾走である程度距離を稼いだり、不埒者の股間を蹴り上げたりが出来る脚力は、あっても良いかも知れませんね」

「………えっと?」

 セルヴァンさん、何気にもの凄い事を言いませんでしたか、今?

「では、散歩よりは少し速度を早めるのと、蹴り上げの力を鍛えさせるのとを、ファルコに言っておきましょう。今日はいかがなさいます?早速始められますか?」

「………まずは散歩からお願いします」

 別の意味で、今日はジョギングも蹴り上げの訓練?も無理デス。

 乾いた笑いの私から、セルヴァンも言いにくいところを察してくれたっぽい。

 咳払いを一つして「ヨンナに言って、動き易い服に着替えさせましょう。少しお待ち下さい」と言い置いて、手紙を持って部屋を後にして行った。

 ところが、実際に話を聞いてやって来たヨンナとファルコが、セルヴァンも交えて侃々諤々、私の「トレーニング計画」?を話し合い始めた。

「ただでさえ『自重』の足りないお嬢さんに、これ以上余計な事を覚えさせてどうすんだよ。っつーか、王宮以外なら〝鷹の眼オレら〟で守り切ってやるよ」

「分かっている。だから、王宮に居る間の話をしたいんだ。いくら王宮付護衛騎士サタノフが元特殊部隊出身でも、一人では行き届かない部分だってあるだろう。味方が来るまで走って逃げられる、あるいは万一組み敷かれでもした時に相手を蹴り上げる事が出来るよう、最低限教え込んでおくべきじゃないか?」

「まあ……確かに王宮の話を持ち出されると、反論はしづらいが」

「セルヴァン、ファルコ。でしたら、ドレスとヒールのある靴はそのままの方が良いでしょう。王宮に滞在中となれば、動き易い服や靴でウロウロしている訳ではないのですから、着替えてしまうと逆に訓練になりません」

 ……もう、本人そっちのけで話が進んでます。
 どうやら私は三人のトレーナーから、しばらくあれこれ指導を受けるようです。

 いつの間にやら朝のジョギングと、朝食後、人形を置いての蹴り上げに特化した練習?と、ドレスを着て、ヒールのある靴を履いての公爵邸内の廊下全力疾走が、カリキュラムとして組み上げられていました。

 えーっと…「廊下は走っちゃいけません」じゃなかったでしょうか……いや、危急時に備えての訓練だから良い、のかな……?
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