聖女の姉ですが、宰相閣下は無能な妹より私がお好きなようですよ?

渡邊 香梨

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第三部 宰相閣下の婚約者

653 怒りの炎は鎮火せず(後)

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「そもそも投資を実践する以前に契約書の在り方を学ぶ方が先でしょう!何ですか、この穴だらけの契約書は‼」

 どうやらヒース君が手にしていた書類をパシっと叩いたのは、それが言いたかったからのようだ。

「それ以前に、まず立ち会い!きちんとした契約書面を交わす場合には、内容に応じてギルド職員あるいは法律の専門家の立ち会いが必須です!どちらの条件も満たさないデリツィア夫人で良い筈がないんですよ!」

 若いのに詳しいなと思っていると、表情に出たんだろうか。
 お義兄様ユセフが「将来の選択肢の一つとして、商業の基礎は学園で習う」と、隣で呟いた。

 なるほど……と私が頷いている傍で、ヒース君の言葉に目を見開いたマリセラ嬢が、弾かれたようにデリツィア夫人に視線を投げていた。

 もしかして、自分が立ち会い人になるとでも言われていたんだろうか。

 そしてヒース君の舌鋒はまだまだ続く。

「開拓による事故や保障、欠陥に関わる費用が買主払いの上に指定解除不可とか、どういうことです⁉万一の際の責任は買主100、売り主0と言っているようなものでしょう!しかも現場も見ていない、獲れるジェイも見ていない時点で、本来は手付と残金と分けて支払っておくべきところ、前払い一択とか……!」

 確かに不動産投資として考えてみると、物件の購入代金は、申し込みや契約の時点で手付金を払っていることが一般的で、残りの支払いは物件の引渡しと同時に支払うのが一般的だ。

 契約に添わないものだった場合のダメージを少なくするためで、引き渡し前に全て支払うことになっていたりする場合は、なかなかに要注意だ。

 そして前半を聞いていると、契約不適合責任は存在せず、著しく買主不利な契約が書かれていると言うことになる。

(まあ、それ以前にどうやら漁場自体が存在していないらしいけど……)

 漁場が存在しないにも関わらずそんな契約書を作成していると言うことは、もしもまんまと騙されたなら、今度は工事が滞ってるだのなんだのと理由を付けて、二度三度と現金を引き出す腹積もりがあったと言うことだろう。それしか考えられない。

 商業素人のマリセラ嬢はともかく、長年商売をしてきた筈のカルメル商会が、よくそんな契約で首を縦に振ったなと言うくらいの強欲な中身だ。

 カルメル商会長は昔気質な人だと言うから、もしかしたらビュケ男爵家かエモニエ侯爵家かに恩でもあって、不利な契約と承知で引き受けた可能性はある。

 まさか契約そのものが詐欺とまでは思っていなかったのかも知れない。

「なっ……何ですの、さっきから!こ、これが詐欺だとどうして……っ」

「マトヴェイ卿も、何なら父上も確認済みだよ!開発中あるいは新たに開発予定の漁場は存在しない、って!」

「――――」

 弟に反論出来ないマリセラ嬢が、はくはくと口を開いて言葉を失っている。

「だいいち、先に被害に遭った商会もあるって言ったよね⁉この話は既に王都商業ギルドも関わっているし、ウチが関わったことで高等法院案件にもめでたく昇格したよ‼」

 弟は一気にアレコレと吐き出した反動で、こちらはぜいぜいと荒く息を吐き出している。

「姉上は自分の小遣いの範疇で軽くやってみたつもりかも知れませんけど、アイツらが仮に地方に出て『あのコンティオラ公爵家も投資した』って触れて回ったらどうなったと思ってます⁉どう取り繕おうと、詐欺の片棒ですよ、片棒!」

「……そんな……」

 多分今頃門の外でコテンパンに叩きのめされているはず――などと言うことは、今は誰も口にしない。

 しばらくは、しでかした事態が広げた波紋の大きさを自覚しておけと言うことなのかも知れなかった。

「デリツィアさま……」

 そんなマリセラ嬢から、半ば茫然とした表情のまま視線を向けられて、デリツィア夫人はピクリと肩を震わせた。

「デリツィアさまは、この話が詐欺だったと知って……⁉」

「……っ」

 膝に乗せていた両手を、ドレスごとギリリと握りしめて、デリツィア夫人はずっと俯いていた。

わたくし……は……」

 それまでは絶対的な信を置いていたのが、付き添いの件で小さな疑いの芽が出て来たのかも知れない。

 マリセラ嬢から愕然とした目を向けられても、デリツィア夫人は抗弁をする気がないのか、そこに視線を合わせようとはしなかった。

「⁉」

 そんな中突然、ガタンッと突然椅子ソファが大きく動いた音が静かな邸宅内に響き渡った。

「デリツィアさま⁉」

 突然立ち上がった夫人は、部屋の隅に置かれていた果物のあるテーブルに走り寄ったところで、そこに置いてあった果物ナイフにやおら手をかけた。

「いやあぁぁっ!夫が!このままではあの人が……っ!」

 動揺と、それ以上に自分が「失敗した」と言う認識が大半を占めているのかも知れない。

 あの人が……っ!と叫んだまま、周囲の人間を近付けさせまいとするかのように、むやみやたらと小さなナイフを振り回しはじめた。

「な……何……いきなり……」
「夫人……?」

 冷静さを無くして暴れ出した夫人を前に、荒事慣れしていないらしいコンティオラ家の姉弟が固まっている。

 近くにいたラジス副団長が、私を庇うように立ち塞がってくれたので、ここはキーロに姉弟を任せて、ルヴェックに夫人を眠らせて貰おうと口を開きかけたその時――すぐ傍で、空気が動いた。

 ――それは一瞬の出来事だった。

 瞬きをしたくらいの間で、いつの間にかキーロが崩れ落ちたデリツィア夫人を片手で支えていた。

「だいじょうぶ、ちょっと眠らせた、だけ」
「⁉」

 何が起きたのか理解が追いついていないコンティオラ家の姉弟や私をよそに、ラジス副団長とルヴェックは「……早すぎだろ」「王都警備隊員がここまでとは聞いてない……」などと、それぞれが目を瞠っている。

 いや、うん、ルヴェックさん。
 その人キーロ、王都警備隊所属の前に、元特殊部隊員です。
 と言うか、何があったの、今。

「……えっと」

 デリツィア夫人が追い詰められて暴れかけた、などと言う話は正直にするべきなんだろうか。


 あまりに一瞬すぎて、私もどうするのが最適解か、判断に困ることになった。
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