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第三部 宰相閣下の婚約者
807 切火幻想
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「ああ、来たか大公」
今はアンディション侯爵ではなく、期間限定で王族復帰した「テオドル大公」だ。
フィルバートがそう声掛けをするのは当然だった。
「お待たせしてしまいましたか」
とはいえ、国の頂点に立つのは国王陛下である。
テオドル大公が片方の拳を胸にあてて、軽く頭を下げるのはごく自然な流れであり、フィルバートも鷹揚に頷いてみせる。
「いや。こちらが席を外しただけのこと。気にする必要はない」
「……牢の視察に赴かれていたと伺いましたが」
ただ、テオドル大公のその返しは予想外だったようだ。
フィルバートだけじゃなく、エドヴァルドの目も、ほぼ同時にこちらへと向いていた。
「姉君の言葉選びは秀逸だな。過不足なく事態を言い表している」
そう言って笑ったのはもちろんフィルバートの方で、エドヴァルドは沈黙したままだ。
表情からすると、フィルバートと大差ないことを思っていそうではあるけれど。
「概ねその通りだ。喜べ大公、これでメダルド陛下は間違いなくアンジェス側に付いてくれるぞ? 我が国が、自国の利益のみを追求すべく針小棒大に語っているわけではないと納得して貰えたからな」
「さ、さようでございますか……」
テオドル大公の視線が、すっかり顔色を失くしているメダルド国王に向く。
若干憐れんでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃないだろう。
自国の人間がやらかしたわけでもないのにその顔色。
いったい何を見たのやら……気にならないと言えばウソになる。多分、テオドル大公も。
「ま、まあもともとサレステーデの宰相殿にどれほどの発言権があるのかという話ではあるでしょうからな……ですがこれでこちらの足並みが揃うというのであれば、それに越したことはありませんな。しかし……この期に及んでまだ、何か戯言を?」
どうやら牢に放り込まれた当初から、かなりの罵詈雑言が展開されていたらしい。
氷柱が落ちてもまだ懲りなかったのかと、アンジェス側では思っていたらしいのだ。
それ故の「この期に及んで」だ。
ただメダルド国王の表情を見ていると、そこからまったく改善されていないらしいことは明らかだった。
「戯言……そうだな、むしろ戯言しかなかった気がするな」
メダルド国王とは対照的に、フィルバートの顔に浮かぶのは、満面の笑みだけれども。
「どこぞの公爵を唆したのも、さもありなん。鉄格子がなければ、同じように『寝言は寝て言え』と説教してやっても良かったんだが……宰相にもメダルド陛下にも止められてしまった」
フィルバートの言う「説教」は、ゲームにも登場していた〝血塗れスチル〟の展開だ。
本気で残念そうにしているあたり、今日も安定のサイコパスさまである。
「いやまったく、どうしてくれようか。サレステーデの宰相が来るのが楽しみで仕方がない」
「い、いや、フィルバート陛下……もともと自治領化を勧告するという話では……」
メダルド国王にしてみれば、テオドル大公ほどの交流を、フィルバートとはしていない。それでも未だにこの国王が独り身であることの理由、あるいは「噂」は当然届いているのだ。
下手をすれば、自治領どころか国の消失では――そんな危機感を抱いているようにも見えた。
「果たして拒否権のない話を『勧告』と呼べるのか……」
「陛下」
そしてさすがに、エドヴァルドがそこで咳払いを挟んだ。
メダルド国王を追い込んでどうする、とその目が語っている。
「ああ、すまないな宰相。淑女がたに聞かせる話でもなかったな」
冗談だとも言わず、主にミルテ王女に聞かせる話ではないと顔を見ながら言うあたり、メダルド国王の胃は多分痛いままだろう。
「会談の間は、アンディション侯爵邸でもてなすのだったな? 宰相が簡易型転移装置を持ってきているから、それで送ってやるといい。王宮内の〝転移扉〟は、じきにサレステーデの宰相一行が来ることになるからな」
「は……では、お言葉に甘えまして。メダルド陛下、陛下は会談終了後改めてお連れ申し上げるということで」
「う、うむ……」
フィルバートとテオドル大公の間で淡々したやりとりが行われた後、不意に自分に話を振られて、メダルド国王は頷くことしか出来なかったようだ。
対フィルバートへの耐性の違いが、この態度の違いになっているのだろう。
さて……と、まるで何事もなかったかのように、フィルバートが笑みを浮かべる。
「では改めて、メダルド陛下と宰相は我が執務室へ。大公は王女殿下らを送り届けた後、可及的速やかに戻って来て貰うとしよう。サレステーデとの話し合いに関して、こちら側で認識の齟齬がないようにしなくてはな」
話し合い、のところに含みがあるように聞こえたのは気のせいじゃないだろう。
それでも、気持ちぼかしているのはミルテ王女への配慮のつもり……なのだろうか。
実際その間、私どころかミルテ王女もシャルリーヌも、一言も声を発することが出来ずにいた。
ミルテ王女はともかく、シャルリーヌの顔には私と同様に「どんな話し合いだ」と書かれていたけれど。
(対サレステーデにどういう交渉を展開するのか、気にはなるけど……後でラハデ公爵に詳細を悟られないためにも、今はこれ以上知らないほうがいいのかも……?)
まさかそこまでフィルバートは考えていて、己の執務室に誘おうとしているのか。
怖くてとても確かめる気にはなれないが。
「……レイナ」
「⁉」
そんな中で、いつの間にすぐ傍にいたのか。
低音バリトンボイスが突然耳元に響き、危うく悲鳴をあげそうになってしまった。
「会談が終わったら、私も大公と顔を出す」
「だ、出せるんですか……?」
大公殿下はともかく、宰相としてそんな時間はあるのだろうか。
素で聞いてしまった私に、言葉より先に返ってきたのはひんやりとした空気だった。
「私は顔を出す、と言った」
出さない選択肢がどこかにあったか?
そんな空気だ。
「あ、はい」
条件反射的に頷いてしまった私に、更にエドヴァルドの声が耳元に響く。
「アンディション侯爵邸で少しは寂しく思ってくれたなら嬉しいのだが」
「……っっ!」
めちゃめちゃ小声になったからって、何を言っているんですかこんなところで!
国王陛下を止めるのに疲れて、壊れていませんか⁉
はくはくと口を開くだけで声の出ない私を見て満足したのか、エドヴァルドはひらりと身を翻した。
去り際に、テオドル大公に簡易型の転移装置を手渡しているのが見えた……が、私の内心はそれどころではなかった。
誰も何も言わないけれど、多分表情で察した人間は何人かいたような気がする。
生温かい、いたたまれないこの空気をどうしろと⁉
そして結局は何も言えず、黙って二人の国王とエドヴァルドを見送るしかなかったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
魔力のない私は〝転移〟にどうしても躊躇がある。
なので、テオドル大公やミルテ王女に見えない範囲で、シャルリーヌのドレスの袖を少し掴ませて貰った。
テオドル大公がやや身を屈めて「どうぞ、王女殿下」と、エスコートを申し出たからこそ出来た小技だ。
「さて、団欒の間が無難かな」
そんなテオドル大公の一言に合わせて皆の歩が進み、一瞬ぐにゃりと景色が歪んだかと思うと、そこは見慣れない玄関ホールへと姿を変えていた。
「レンシオ!」
大きくはないが、威厳のある声がテオドル大公の口から発せられる。
恐らくは事前に話が通っていたのだろう。ほとんど間を置かずに、セルヴァンやラリよりは少し年上、マクシム侍従長に近い年代と思しき男性が、すぐに姿を現した。
服装から言っても、アンディション侯爵邸の家令と思って良さそうだった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、儂は陛下に呼ばれていてすぐに戻らねばならぬ。委細ユリアに任せる故、頼むぞ」
もう戻るのか、といったような感情を表に出すことがないあたり、きっと大公に仕えて長いのだろう。
承知いたしました、と頭を下げるまでの流れは実に自然だった。
「あなた」
そしてユリア夫人も、団欒の間に響いた声が聞こえるところにいたのかも知れない。
慌てず騒がず、大公夫人としての品位はそのままに。
静かに傍までやって来た夫人の頬に、大公殿下は挨拶代わりのキスを落としていた。
「すまぬな、ユリア。すぐに戻らねば」
「承知しておりますわ。御用がお済みになられたところで、メダルト陛下と共にいらっしゃるのでしょう?」
「うむ。それまでは女子だけの会を楽しんでいてくれ。多少の愚痴は甘受しておこう」
「まあ」
どうやらテオドル大公、女子会の何たるかをよくお分かりのようだ。
大公の言う「御用」が何なのかを理解しているらしいユリア夫人も、コロコロと笑っている。
とても始まりが政略婚とは思えぬ仲の良さだ。
というか、良すぎてユリア夫人に挨拶をする隙もない。
「どうぞこちらのことはお気になさらず、ご存分に」
「うむ、行ってくる」
……うっかり火打石で切り火をする幻が見えてしまった。
どこに殴り込みに行くのか、とでもいうような会話を残して、テオドル大公は帰還用として持っていた簡易型転移装置を起動させると、その場から姿を消したのである。
今はアンディション侯爵ではなく、期間限定で王族復帰した「テオドル大公」だ。
フィルバートがそう声掛けをするのは当然だった。
「お待たせしてしまいましたか」
とはいえ、国の頂点に立つのは国王陛下である。
テオドル大公が片方の拳を胸にあてて、軽く頭を下げるのはごく自然な流れであり、フィルバートも鷹揚に頷いてみせる。
「いや。こちらが席を外しただけのこと。気にする必要はない」
「……牢の視察に赴かれていたと伺いましたが」
ただ、テオドル大公のその返しは予想外だったようだ。
フィルバートだけじゃなく、エドヴァルドの目も、ほぼ同時にこちらへと向いていた。
「姉君の言葉選びは秀逸だな。過不足なく事態を言い表している」
そう言って笑ったのはもちろんフィルバートの方で、エドヴァルドは沈黙したままだ。
表情からすると、フィルバートと大差ないことを思っていそうではあるけれど。
「概ねその通りだ。喜べ大公、これでメダルド陛下は間違いなくアンジェス側に付いてくれるぞ? 我が国が、自国の利益のみを追求すべく針小棒大に語っているわけではないと納得して貰えたからな」
「さ、さようでございますか……」
テオドル大公の視線が、すっかり顔色を失くしているメダルド国王に向く。
若干憐れんでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃないだろう。
自国の人間がやらかしたわけでもないのにその顔色。
いったい何を見たのやら……気にならないと言えばウソになる。多分、テオドル大公も。
「ま、まあもともとサレステーデの宰相殿にどれほどの発言権があるのかという話ではあるでしょうからな……ですがこれでこちらの足並みが揃うというのであれば、それに越したことはありませんな。しかし……この期に及んでまだ、何か戯言を?」
どうやら牢に放り込まれた当初から、かなりの罵詈雑言が展開されていたらしい。
氷柱が落ちてもまだ懲りなかったのかと、アンジェス側では思っていたらしいのだ。
それ故の「この期に及んで」だ。
ただメダルド国王の表情を見ていると、そこからまったく改善されていないらしいことは明らかだった。
「戯言……そうだな、むしろ戯言しかなかった気がするな」
メダルド国王とは対照的に、フィルバートの顔に浮かぶのは、満面の笑みだけれども。
「どこぞの公爵を唆したのも、さもありなん。鉄格子がなければ、同じように『寝言は寝て言え』と説教してやっても良かったんだが……宰相にもメダルド陛下にも止められてしまった」
フィルバートの言う「説教」は、ゲームにも登場していた〝血塗れスチル〟の展開だ。
本気で残念そうにしているあたり、今日も安定のサイコパスさまである。
「いやまったく、どうしてくれようか。サレステーデの宰相が来るのが楽しみで仕方がない」
「い、いや、フィルバート陛下……もともと自治領化を勧告するという話では……」
メダルド国王にしてみれば、テオドル大公ほどの交流を、フィルバートとはしていない。それでも未だにこの国王が独り身であることの理由、あるいは「噂」は当然届いているのだ。
下手をすれば、自治領どころか国の消失では――そんな危機感を抱いているようにも見えた。
「果たして拒否権のない話を『勧告』と呼べるのか……」
「陛下」
そしてさすがに、エドヴァルドがそこで咳払いを挟んだ。
メダルド国王を追い込んでどうする、とその目が語っている。
「ああ、すまないな宰相。淑女がたに聞かせる話でもなかったな」
冗談だとも言わず、主にミルテ王女に聞かせる話ではないと顔を見ながら言うあたり、メダルド国王の胃は多分痛いままだろう。
「会談の間は、アンディション侯爵邸でもてなすのだったな? 宰相が簡易型転移装置を持ってきているから、それで送ってやるといい。王宮内の〝転移扉〟は、じきにサレステーデの宰相一行が来ることになるからな」
「は……では、お言葉に甘えまして。メダルド陛下、陛下は会談終了後改めてお連れ申し上げるということで」
「う、うむ……」
フィルバートとテオドル大公の間で淡々したやりとりが行われた後、不意に自分に話を振られて、メダルド国王は頷くことしか出来なかったようだ。
対フィルバートへの耐性の違いが、この態度の違いになっているのだろう。
さて……と、まるで何事もなかったかのように、フィルバートが笑みを浮かべる。
「では改めて、メダルド陛下と宰相は我が執務室へ。大公は王女殿下らを送り届けた後、可及的速やかに戻って来て貰うとしよう。サレステーデとの話し合いに関して、こちら側で認識の齟齬がないようにしなくてはな」
話し合い、のところに含みがあるように聞こえたのは気のせいじゃないだろう。
それでも、気持ちぼかしているのはミルテ王女への配慮のつもり……なのだろうか。
実際その間、私どころかミルテ王女もシャルリーヌも、一言も声を発することが出来ずにいた。
ミルテ王女はともかく、シャルリーヌの顔には私と同様に「どんな話し合いだ」と書かれていたけれど。
(対サレステーデにどういう交渉を展開するのか、気にはなるけど……後でラハデ公爵に詳細を悟られないためにも、今はこれ以上知らないほうがいいのかも……?)
まさかそこまでフィルバートは考えていて、己の執務室に誘おうとしているのか。
怖くてとても確かめる気にはなれないが。
「……レイナ」
「⁉」
そんな中で、いつの間にすぐ傍にいたのか。
低音バリトンボイスが突然耳元に響き、危うく悲鳴をあげそうになってしまった。
「会談が終わったら、私も大公と顔を出す」
「だ、出せるんですか……?」
大公殿下はともかく、宰相としてそんな時間はあるのだろうか。
素で聞いてしまった私に、言葉より先に返ってきたのはひんやりとした空気だった。
「私は顔を出す、と言った」
出さない選択肢がどこかにあったか?
そんな空気だ。
「あ、はい」
条件反射的に頷いてしまった私に、更にエドヴァルドの声が耳元に響く。
「アンディション侯爵邸で少しは寂しく思ってくれたなら嬉しいのだが」
「……っっ!」
めちゃめちゃ小声になったからって、何を言っているんですかこんなところで!
国王陛下を止めるのに疲れて、壊れていませんか⁉
はくはくと口を開くだけで声の出ない私を見て満足したのか、エドヴァルドはひらりと身を翻した。
去り際に、テオドル大公に簡易型の転移装置を手渡しているのが見えた……が、私の内心はそれどころではなかった。
誰も何も言わないけれど、多分表情で察した人間は何人かいたような気がする。
生温かい、いたたまれないこの空気をどうしろと⁉
そして結局は何も言えず、黙って二人の国王とエドヴァルドを見送るしかなかったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
魔力のない私は〝転移〟にどうしても躊躇がある。
なので、テオドル大公やミルテ王女に見えない範囲で、シャルリーヌのドレスの袖を少し掴ませて貰った。
テオドル大公がやや身を屈めて「どうぞ、王女殿下」と、エスコートを申し出たからこそ出来た小技だ。
「さて、団欒の間が無難かな」
そんなテオドル大公の一言に合わせて皆の歩が進み、一瞬ぐにゃりと景色が歪んだかと思うと、そこは見慣れない玄関ホールへと姿を変えていた。
「レンシオ!」
大きくはないが、威厳のある声がテオドル大公の口から発せられる。
恐らくは事前に話が通っていたのだろう。ほとんど間を置かずに、セルヴァンやラリよりは少し年上、マクシム侍従長に近い年代と思しき男性が、すぐに姿を現した。
服装から言っても、アンディション侯爵邸の家令と思って良さそうだった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、儂は陛下に呼ばれていてすぐに戻らねばならぬ。委細ユリアに任せる故、頼むぞ」
もう戻るのか、といったような感情を表に出すことがないあたり、きっと大公に仕えて長いのだろう。
承知いたしました、と頭を下げるまでの流れは実に自然だった。
「あなた」
そしてユリア夫人も、団欒の間に響いた声が聞こえるところにいたのかも知れない。
慌てず騒がず、大公夫人としての品位はそのままに。
静かに傍までやって来た夫人の頬に、大公殿下は挨拶代わりのキスを落としていた。
「すまぬな、ユリア。すぐに戻らねば」
「承知しておりますわ。御用がお済みになられたところで、メダルト陛下と共にいらっしゃるのでしょう?」
「うむ。それまでは女子だけの会を楽しんでいてくれ。多少の愚痴は甘受しておこう」
「まあ」
どうやらテオドル大公、女子会の何たるかをよくお分かりのようだ。
大公の言う「御用」が何なのかを理解しているらしいユリア夫人も、コロコロと笑っている。
とても始まりが政略婚とは思えぬ仲の良さだ。
というか、良すぎてユリア夫人に挨拶をする隙もない。
「どうぞこちらのことはお気になさらず、ご存分に」
「うむ、行ってくる」
……うっかり火打石で切り火をする幻が見えてしまった。
どこに殴り込みに行くのか、とでもいうような会話を残して、テオドル大公は帰還用として持っていた簡易型転移装置を起動させると、その場から姿を消したのである。
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