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12:バレリオの胸中
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トルデリーゼが屋敷に来なくなって2週間が過ぎた頃の事だ。
朝、目が覚めて寝台に洗面用の桶を持ってきた侍女に父が呼んでいるからと言われた。桶の中に入れて今まさに湯の中から手のひらの湯を掬い上げようと水面をきれた時だったからか指の間から湯が零れ落ちた。
「バレリオ様?どうされました」
侍女の声にハッとし零れ切った湯をもう一度掬い、顔に浸す。
父にプリシラとの事がバレてしまったのかと心臓がドクンと跳ねた。
私にはマルス子爵家のトルデリーゼと言う婚約者がいる。
好きも嫌いもない。父から諄く言われたのは「嫌われるな」だった。
親の言う通りに定期的な贈り物をし、茶会では微笑を絶やさずに相槌を打ち、夜会ではエスコートをしてダンス。決められた事を淡々とこなしていく日々。
何歳の時だったか。夜会には出ていたから15歳、いや16歳だったか。
この頃になると私も両親の事はよく理解を出来る年齢になっていて、この婚約で今の生活が成り立つのは理解するものの心の中はモヤモヤと黒いものが渦巻いて蓄積していく。
苛立ちも募るのに父も母も己の事は棚に上げて私の不出来を責め立てる。
レンドン侯爵家は名ばかりの高位貴族。
落ちぶれたのは父と母のせいじゃないか。
「彼女とは仲良くするように」
どの口がそんな事を言うのだろうか。
自分たちは大恋愛で我を押し通し、周りに迷惑をかけておきながら何故息子だと言うだけで私が尻拭いをせねばならないのだ。
父も母もだが、余計に苛立つのは私を見て微笑むトルデリーゼ。
何度心で悪態を吐いた事か。
だが、憎らしいと思う反面…気が付いたのだ。
トルデリーゼは私を心から愛している事に。
そして…そんなトルデリーゼを私は欲してやまない事に。
母の躾棒で打たれて真っ赤になった手の甲を抑え、顔を苦痛に歪めながらも私の気遣いの言葉に笑顔を返すトルデリーゼを見た時、雷に打たれたかのような衝撃があった。
どんな目にあってもトルデリーゼは私に従い、私の愛を欲し、そして離れる事がない。少し手を差し伸べてやれば嬉しそうな顔をする。
トルデリーゼは私にとって、よく躾られた従順な犬。
マルス家の立場は二の次に私に絶対の服従をする女なのだ。
それからは今にも涙を溢しそうな顔をしながらも私に従うトルデリーゼを見るのが私の楽しみになった。世間でよく言うじゃないか。「下には下がいる」と。そう、不出来だと私も叱責されるが、手をあげられる事はない。トルデリーゼは申し分ない出来損ないだ。
打たれる場を見たくて何度もこっそりと扉を薄く開けて覗き、心を満たした。だが、教育が終わると母と、母が呼んだ講師は言ったのだ。
「トルデリーゼはもう十分に侯爵夫人としてやっていける」
それではダメだ。
問題なくなれば、トルデリーゼが困らないじゃないか。
悩み、正解のない答えを思案しながら苦しむ姿を見たいのだ。
ただの微笑など掃いて捨てるようなゴミと同じだ。
母や講師に太鼓判を押されたトルデリーゼは叱られる事が無くなった。
私は羽根を捥がれた鳥のように心が折れそうになった。
トルデリーゼは何時だって私より不出来で、私よりも存在が「下」であり、そしてそれでも私を愛し、私に敬愛を向けねばならない人間なのに。
悶々とした日々を過ごしていた時、プリシラと出会った。
田舎の子爵家。小太りの父親に顔立ちのよく似たプリシラ。
彼女の目が私を見て光と熱を持ったのが判った。
そして、私の心を更に高鳴らせたのは一瞬にして目から光が消え、表情も「貴族」になったトルデリーゼだった。ドクンとひと際高く拍動をした心臓に私は踊りたくなるほどの衝動に駆られた。
中座したトルデリーゼは私に哀しそうな微笑を向けた。
あと、一押し。
いつもなら玄関までは見送るが、私はプリシラに付き添った。
そうする事でトルデリーゼはより私を欲するだろう。
嫉妬に歪んだ顔が見たい。
プリシラを優先する事で、物欲しそうに「待て」をする姿が見たい。
私は体の芯からゾクゾクと歓喜の震えを抑えられなかった。
本来なら婚約者の茶会は前もって予定をされており、途中でお開きになる事はない。もし、そうなれば立場は関係なく侘びに行かねばならない。
父はスブレ子爵と話し込んでいる。
母は、父との話が終われば直ぐにでもトルデリーゼの好きな菓子を商店街で買ってマルス家に謝罪に行くように言ったが私はそうしなかった。
領地経営など「犬」であるトルデリーゼが行えばいいのだ。
些細な間違いで代官を任せている者達に頭を下げる父と私は人種が違うのだから、そんな低俗なものは「下々の者」が行えば事が足りるではないか。
何のためにトルデリーゼに侯爵夫人たる者への教育をしたのだ?そんなだから父も母も侯爵家を落ちぶれさせたのだ。道を踏み外し、周りから総スカンを食らった者が足掻いてもこの程度だと何故判らないのか理解に苦しむ。
「劇場に併設されたカフェに連れて行ってやろう」
「わぁ。ほんとに?カフェって初めてですぅ」
「そこは茶を飲むだけではなく、ドレスや宝石も一流の商会が王族や高位貴族相手にその場で色々と見繕ってくれたりもするんだ。きっと楽しめるよ」
「あ…でも、そんなにお金はないので…見るだけって出来ますか?」
「見るだけ?君は私に恥をかけと言ってるのかな?」
「恥ッ?まさか!そんな事っ」
レンドン侯爵領は王都から離れているし、東西に細長い形をしていてスブレ子爵はその中でも端の方を任されている。何もかもが珍しいプリシラは田舎者丸出しで連れて歩くのは気が引けるが、友人の誰かがトルデリーゼにこの事をこっそりと伝える事でトルデリーゼは嫉妬に駆られるだろう。
3日と空けずにレンドン侯爵家を訪れているトルデリーゼ。
次に会う時はどんな顔をするだろう。
そう思ってプリシラを劇場併設のカフェに連れて行き、適当な宝飾品も買い与えた。
高い宝飾品は買えないが、並べられた物の中で一番安い物を買い与えてはみたが、やはりプリシラには似合わない。宝飾品の方が主張が大きくプリシラが負けているのだ。
だが、予想に反しカフェの中は年配者が多く友人はいなかった。
数日、プリシラを連れ回し敢えて噂になるようにしたのだが不可解な事があった。
それまで3日と空けずにレンドン侯爵家に来ていたトルデリーゼが来ないのだ。具合でも悪いのかと思ったが母には茶会の日に謝罪に行った事にしており聞き出す事も出来ない。
「母上、この1週間ルーが来ていないようですが」
探りを入れるために母に聞いてみるが、教育も終わっておりどうしても来なければならない訳でもなく、結婚式まであと半年と迫っているためウェディングドレスや輿入れ道具の見直しなどもあり、忙しいのだろうとけんもほろろ。
仕方なく数日後には領地に戻るというプリシラを連れてマルス家に行ってみれば「先触れ」がないと会ってもくれないなどと傲慢な事を言われてしまった。
顔を洗い、着替えを済ませるが父の要件とは何だろうか。
まさかプリシラを連れ回していた事がバレてしまったのか。
婚約中に不貞行為を疑われるような事は瑕疵になるとは聞いたが、数日のうちにプリシラは領に戻るし、何より誰にも関係はバレていないはずだ。
小さな不安を抱きつつ、私は父の部屋に向かった。
朝、目が覚めて寝台に洗面用の桶を持ってきた侍女に父が呼んでいるからと言われた。桶の中に入れて今まさに湯の中から手のひらの湯を掬い上げようと水面をきれた時だったからか指の間から湯が零れ落ちた。
「バレリオ様?どうされました」
侍女の声にハッとし零れ切った湯をもう一度掬い、顔に浸す。
父にプリシラとの事がバレてしまったのかと心臓がドクンと跳ねた。
私にはマルス子爵家のトルデリーゼと言う婚約者がいる。
好きも嫌いもない。父から諄く言われたのは「嫌われるな」だった。
親の言う通りに定期的な贈り物をし、茶会では微笑を絶やさずに相槌を打ち、夜会ではエスコートをしてダンス。決められた事を淡々とこなしていく日々。
何歳の時だったか。夜会には出ていたから15歳、いや16歳だったか。
この頃になると私も両親の事はよく理解を出来る年齢になっていて、この婚約で今の生活が成り立つのは理解するものの心の中はモヤモヤと黒いものが渦巻いて蓄積していく。
苛立ちも募るのに父も母も己の事は棚に上げて私の不出来を責め立てる。
レンドン侯爵家は名ばかりの高位貴族。
落ちぶれたのは父と母のせいじゃないか。
「彼女とは仲良くするように」
どの口がそんな事を言うのだろうか。
自分たちは大恋愛で我を押し通し、周りに迷惑をかけておきながら何故息子だと言うだけで私が尻拭いをせねばならないのだ。
父も母もだが、余計に苛立つのは私を見て微笑むトルデリーゼ。
何度心で悪態を吐いた事か。
だが、憎らしいと思う反面…気が付いたのだ。
トルデリーゼは私を心から愛している事に。
そして…そんなトルデリーゼを私は欲してやまない事に。
母の躾棒で打たれて真っ赤になった手の甲を抑え、顔を苦痛に歪めながらも私の気遣いの言葉に笑顔を返すトルデリーゼを見た時、雷に打たれたかのような衝撃があった。
どんな目にあってもトルデリーゼは私に従い、私の愛を欲し、そして離れる事がない。少し手を差し伸べてやれば嬉しそうな顔をする。
トルデリーゼは私にとって、よく躾られた従順な犬。
マルス家の立場は二の次に私に絶対の服従をする女なのだ。
それからは今にも涙を溢しそうな顔をしながらも私に従うトルデリーゼを見るのが私の楽しみになった。世間でよく言うじゃないか。「下には下がいる」と。そう、不出来だと私も叱責されるが、手をあげられる事はない。トルデリーゼは申し分ない出来損ないだ。
打たれる場を見たくて何度もこっそりと扉を薄く開けて覗き、心を満たした。だが、教育が終わると母と、母が呼んだ講師は言ったのだ。
「トルデリーゼはもう十分に侯爵夫人としてやっていける」
それではダメだ。
問題なくなれば、トルデリーゼが困らないじゃないか。
悩み、正解のない答えを思案しながら苦しむ姿を見たいのだ。
ただの微笑など掃いて捨てるようなゴミと同じだ。
母や講師に太鼓判を押されたトルデリーゼは叱られる事が無くなった。
私は羽根を捥がれた鳥のように心が折れそうになった。
トルデリーゼは何時だって私より不出来で、私よりも存在が「下」であり、そしてそれでも私を愛し、私に敬愛を向けねばならない人間なのに。
悶々とした日々を過ごしていた時、プリシラと出会った。
田舎の子爵家。小太りの父親に顔立ちのよく似たプリシラ。
彼女の目が私を見て光と熱を持ったのが判った。
そして、私の心を更に高鳴らせたのは一瞬にして目から光が消え、表情も「貴族」になったトルデリーゼだった。ドクンとひと際高く拍動をした心臓に私は踊りたくなるほどの衝動に駆られた。
中座したトルデリーゼは私に哀しそうな微笑を向けた。
あと、一押し。
いつもなら玄関までは見送るが、私はプリシラに付き添った。
そうする事でトルデリーゼはより私を欲するだろう。
嫉妬に歪んだ顔が見たい。
プリシラを優先する事で、物欲しそうに「待て」をする姿が見たい。
私は体の芯からゾクゾクと歓喜の震えを抑えられなかった。
本来なら婚約者の茶会は前もって予定をされており、途中でお開きになる事はない。もし、そうなれば立場は関係なく侘びに行かねばならない。
父はスブレ子爵と話し込んでいる。
母は、父との話が終われば直ぐにでもトルデリーゼの好きな菓子を商店街で買ってマルス家に謝罪に行くように言ったが私はそうしなかった。
領地経営など「犬」であるトルデリーゼが行えばいいのだ。
些細な間違いで代官を任せている者達に頭を下げる父と私は人種が違うのだから、そんな低俗なものは「下々の者」が行えば事が足りるではないか。
何のためにトルデリーゼに侯爵夫人たる者への教育をしたのだ?そんなだから父も母も侯爵家を落ちぶれさせたのだ。道を踏み外し、周りから総スカンを食らった者が足掻いてもこの程度だと何故判らないのか理解に苦しむ。
「劇場に併設されたカフェに連れて行ってやろう」
「わぁ。ほんとに?カフェって初めてですぅ」
「そこは茶を飲むだけではなく、ドレスや宝石も一流の商会が王族や高位貴族相手にその場で色々と見繕ってくれたりもするんだ。きっと楽しめるよ」
「あ…でも、そんなにお金はないので…見るだけって出来ますか?」
「見るだけ?君は私に恥をかけと言ってるのかな?」
「恥ッ?まさか!そんな事っ」
レンドン侯爵領は王都から離れているし、東西に細長い形をしていてスブレ子爵はその中でも端の方を任されている。何もかもが珍しいプリシラは田舎者丸出しで連れて歩くのは気が引けるが、友人の誰かがトルデリーゼにこの事をこっそりと伝える事でトルデリーゼは嫉妬に駆られるだろう。
3日と空けずにレンドン侯爵家を訪れているトルデリーゼ。
次に会う時はどんな顔をするだろう。
そう思ってプリシラを劇場併設のカフェに連れて行き、適当な宝飾品も買い与えた。
高い宝飾品は買えないが、並べられた物の中で一番安い物を買い与えてはみたが、やはりプリシラには似合わない。宝飾品の方が主張が大きくプリシラが負けているのだ。
だが、予想に反しカフェの中は年配者が多く友人はいなかった。
数日、プリシラを連れ回し敢えて噂になるようにしたのだが不可解な事があった。
それまで3日と空けずにレンドン侯爵家に来ていたトルデリーゼが来ないのだ。具合でも悪いのかと思ったが母には茶会の日に謝罪に行った事にしており聞き出す事も出来ない。
「母上、この1週間ルーが来ていないようですが」
探りを入れるために母に聞いてみるが、教育も終わっておりどうしても来なければならない訳でもなく、結婚式まであと半年と迫っているためウェディングドレスや輿入れ道具の見直しなどもあり、忙しいのだろうとけんもほろろ。
仕方なく数日後には領地に戻るというプリシラを連れてマルス家に行ってみれば「先触れ」がないと会ってもくれないなどと傲慢な事を言われてしまった。
顔を洗い、着替えを済ませるが父の要件とは何だろうか。
まさかプリシラを連れ回していた事がバレてしまったのか。
婚約中に不貞行為を疑われるような事は瑕疵になるとは聞いたが、数日のうちにプリシラは領に戻るし、何より誰にも関係はバレていないはずだ。
小さな不安を抱きつつ、私は父の部屋に向かった。
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