さえずり宗次郎 〜吉宗の隠密殺生人〜

森野あとり

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第二話 因縁

美しい男

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 明くる日、宗次郎は餌差の姿で、牛込は武家屋敷に囲まれた原町に来ていた。

 今年の梅雨入りは早いのだろうかと、微妙な雲行きの空を見上げてため息を吐く。
 ため息の中に、昨夜の話の憂鬱さが残る。
 無念さや権力欲や復讐心、その中に混じる寂しさの果てに何かを成そうと企てた月光院という未亡人。夫も思ひ人も幼い息子までも喪って、尚今も大奥という美しい鳥籠とりかごに飼われている貴人。かの人は、その鳥籠からお美津を放ってやったのではないか――宗次郎はそんな風に感じていた。

 目の下には恵光寺えこうじの門が見える。
 御鷹のための餌差とはいえ、江戸の町人餌差は無断で寺社や武家屋敷の敷地内には立ち入れない。厳密に言えば、江戸界隈においては、鳥を追う村もそれぞれ許可制である。だが、宗次郎は密偵用に偽の札をいくつか貰っていた。その特権を生かし恵光寺のある街角にて、軒先に集まる雀を追っている。
 今は、恵光寺が真下に見える屋敷の塀に登って出入りする人を観察していた。
 一羽の雀が宗次郎の笠の上に留まる。本気で突く気のないことが雀たちにばれているのか、いつも以上に小鳥たちが宗次郎のそばによって来る。

「こら、あっち行け。邪魔や」

 話しかけると、雀はバサササと、慌てたように飛び立った。
 無邪気に見えるその姿に、お美津を重ねてしまう。

(籠の外に放たれても、飼い鳥は結局、簡単に捕食されてしまうんや……)

 あの雀のように上手く逃げることが叶わず、罠にはまってしまった。きっと籠の中にいる月光院様は、お美津の死を知らないままなのだろう。知ったとて、お美津のことを憶えてくれているだろうか……
 物悲しい空想をしてしまい、つい雀たちから目を逸らすと、一人の男に目がいった。

(あれは……)

  お美津の亡骸なきがらを検分していた同心だった。
 さっそくよじ登っていた塀から飛び降り、勇気を振り絞って声をかける。

「あのっ!」

 こういう時、雲雀ひばりならどうするだろう……と、思案する。武芸や鳥刺しの技なら誰にも負けないくらいに磨いてきた。だが彼女のように諜報ちょうほうに必要な話術など、まったくと言ってよいくらい会得できていない。おまけに話下手と人見知りは人一倍だ。

「なんだい」

 答えた表情から、穏やかそうな男だとわかる。少し安心して、宗次郎は笠を取った。

「おお、お前さんは、あの時の」

 しかも幸いなことに、同心は宗次郎の顔を憶えていた。

「へえー、お前さん、鳥刺しだったのかい。で?」
「はい。こんな所で何かあったのかと……いや」

 上手く言葉が繋げずにいたが、勘の良い同心は、すぐに宗次郎の言いたいことを察してくれた。

「ふっ、浅井殿のお嬢さんの件だよ」
「やはり読売の、恋の」
「おやおや、見かけによらず、お前さんも噂好きなんだな」

 からかわれて恥ずかしくなってしまい、言い訳がましいことを口にした。

「いや、あの時、亡くなった娘さんの親父さんから色々話を聞いちまったから……つい、あの後どうなったんだろうって、その、気になってしまって……」

 同心の目が細められた。

「あの後か。あの後なあ」
 同心の顔から笑みが消え、暗い声でその後を語った。

「あの後、浅井殿は縁談を進めていたお相手の旗本から訴えられちまってな」
「え! なぜですか」
「まあ、当然だわな。良識ある娘だと思っていたのが、身投げなどしちまったのだからな。心中ではないものの、恋文が遺されていたのだから、不義密通を疑われたってわけだ。結果、浅井家は御家存続が云々うんぬんの大騒ぎになったのだ」

 あまりにも惨い仕打ちだ――と、思いもよらなかった顛末に、宗次郎の眉間にも皺が刻まれた。

「そもそも美津殿は一人娘。此度こたびの縁談で養子縁組となるはずだったのが、こじれちまってね。そこへ、あの読売よみうりだ。醜聞しゅうぶんの真偽を確かめよってぇ意見もあってな。そこで、恋の相手だろうと噂される男をお奉行がしょっ引いたってぇ話さ」
「で、どうでしたか」
「どうもこうも、予想通りの反応さ。まるで知らぬ存ぜぬ。会っていたことは認めたものの、思いを抱かれていたとは露知らずってなぁ言い草よ。ついでに、文字を書かせたが、美津殿の草履に添えられていた和歌の手とは違っていた。おまけに、この噂がもとで、寺に居辛くなっちまったと言われて出て行かれちまったと、今度はここの寺の和尚から苦情が来てよぉ」

 困ったとばかりに、同心は眉の上をガリガリと掻いた。

(乙八は寺を出た?)

「そういうことですかい。それでは誰も浮かばれませんな」

 背後から声がして、宗次郎の肩がぴくりと揺れた。

「九鬼丸!」

 話に夢中だったとはいえ、気配を気付けなかった自分に驚いた。
 宗次郎の知り合いだと思ったのか、同心が気を許して、さらに詳しい事情を話す。

「そうなんでさ。しかし、与力よりき殿はまだ納得いかねえみたいでね、こちらとしては乙八を探りたいところであるが」
「娘さんの片思いとくりゃあ、何ともできませぬな。無念でござろう」

 真に同情を示すように、九鬼丸が眉を下げた。

「まあ、そういう具合であるから、結局は泣き寝入りをするしかなかろうな。では、拙者せっしゃはこれにて」

 同心が立ち去ると、九鬼丸の表情が一変した。

「まさか本気で密偵みっていの真似事をしているとはな。求馬にでも頼まれたのか」

 少し怒っているようにも見える。

「雀を追っていただけですよ。たまたまこの間の同心を見かけたから、声をかけただけで」

 腰の籠を揺らすと、囚われの雀がチュチュチュチュと騒いだ。

「ああ、そうかい。しかし求馬様はごそごそと何やら探ろうとしてなさるぞ」
「それは……」
 上様が余計な情報を授けたからだ――とも言えず、口ごもる。

「とにかくついて来い。こんな所で立ち話などできぬ」

 恵光寺の門を一瞥いちべつして、門前を掃く寺男たちを顎で指す。
 彼らもまた、寺社奉行ではなく町奉行の同心が来たことで、何やら集まって噂話に花を咲かせていた。

「いったい何で急に監察方のような事をおっぱじめやがったのか。そんなに暇なのかね、大名の部屋住みってのは」
「でしょうね」

 前を歩きながら不服を漏らす九鬼丸に同意する。大層な身分を割り当てられていても、幕府の役に就かなくては、無役の旗本奴はたもとやっこらと何ら変わらない。

 九鬼丸の背中に向かって話しかけた。

「あのう、あの和歌。あれ、乙八……いや、噂の寺小姓なんですけどね、乙八の手とも違っていたそうです」
「そうかえ」

 前を向いたまま、ムスッとした声だけが返ってきた。

「それって、別の男が存在しているということですよね」

 不機嫌な背中に問いかける。

「俺はな、この探索には反対だ」

 九鬼丸が唐突に振り返った。

「明らかにして誰が喜ぶよ。ええ? 相手がわかったところで、娘の身投げがくつがえることはねえ。ああやっぱり色恋の末かと言われる。しかも相手が寺小姓とくりゃあ、同情どころかさげすまれるのがオチだ。どちらにせよ、娘の乱心から世継ぎのなくなった浅井殿の御家取り潰しは免れぬだろうよ」
「それでも! 色恋であればなおさら、男が独りのうのうと生き残るたあ、許せねえと思いませんか」

 思わず熱くなって言い返した。

「知るかよ、勝手にしろ。俺は手を貸さねえぜ」

 言い捨てると、またもスタスタと宗次郎の前を歩き始めた。


 ――筑土明神八幡宮つくどみょうじんはちまんぐう……

 神楽坂から通り二本ほど逸れた位置にある筑土明神は、参拝の人で賑わっていた。
 てっきり求馬と合流するのだと思っていた宗次郎は、いぶかしく思いながらも黙って九鬼丸の後をついて行く。
 九鬼丸は参道の人混みを避け、本殿のさらに奥に向いて入って行った。雑木の間に末社のほこらが見えたところで急に立ち止まると、ぼそりと零した。

「まだいたな」

 宗次郎は無意識に、腰の籠を押さえ、雀たちが騒がないよう静かに九鬼丸に並んだ。
 九鬼丸の視線の先にいたのは、求馬ではなかった。
 白地に薄墨色の竹が描かれた幽玄な着流し姿の美しい男――いや、あれは男なのか?
 すでに元服を迎えていてもおかしくない年頃なのに未だ若衆髷で、さらに襦袢じゅばんの衿はまるで女子おなごのような赤に近い海老茶えびちゃ色。その襟足を見せつけるように着崩した格好で、紺色の手ぬぐいを頬かむりにした商人らしき男と寄り添い談笑しているのだ。

「ここの末社には縁結びの噂があるらしい。まあ、武家の娘やそれに仕える下女たちが勝手に仕立てたいい加減な風説らしいが、若い娘というのは、そういう怪しげな話が好みらしい」

 だが、祠の前の二人は若い娘でも女でもない。
 石灯籠の陰から二人の男を観察しながら宗次郎は問うた。

「女ってのは美しい男が好きなのだと聞いた。そんなものなのか」

 盗み見る二人の男は、どちらも揃って見目麗しい。彼らが誰なのか、聞かずともわかった。少なくとも、若衆髷の男の正体だけは見当が付いた。

「ふっ」

 色気のある含み笑いが宗次郎の耳をくすぐる。被っていた笠がずらされると、その手は耳元まで下りて来て、宗次郎のおくれ毛をもてあそんだ。

「男でもそうだろうが。お前も劣らず美しいぞ」

 首筋に落とされた言葉に、血潮が熱を持つ。その熱に感づかないふりを決め込み、前を睨んでいた。
 まるで鏡写しのように、盗み見ていた祠の二人……商家のドラ息子にしか見えない若者が、指の背で美しい男のたぼ(結った襟足の膨らみ部分)を撫で上げている。美しい男の手がその指をしなやかになぞった。

乙八おとはちと言う男は寺小姓だ。女を抱くこたぁねえんだよ。わかるか、この意味が」

 耳のごく近い位置に九鬼丸の息を感じつつ、宗次郎は白い着流しの男と目が合った気がした。
 美しい男の、弧を描いた唇は、花を思わせるほどに紅かった。


 ◇

 いよいよ梅雨が近付いて来たのか、いつもは涼しいはずのつしも蒸し暑かった。拭ったそばから汗が首を伝う。
 玄関式台の脇にはつしに上がる幅広の梯子があって、宗次郎はそこに腰を掛けて、雲雀相手に乙八についての報告をしていた。
 宗次郎の前で足を崩して座る雲雀の首も、しっとりと濡れているように見える。

「確かに寺小姓というのは男色がほとんどですが、でも、手が届かないからこそ惚れてしまうのではないでしょうかねぇ」

 九鬼丸は「乙八は寺小姓だから女は抱かない」と断言していた。つまり、お美津とは恋に落ちないということだ。だが、雲雀の考えはそうではないようだ。

「八百屋お七……芝居や浄瑠璃じょうるりの。知っていますか」
「ん、ああ、それくらいは。芝居は観たことがないが、話くらいは知っている。叶わぬ恋に狂った娘が、町に火を放つって話だろ」
「あのお七の恋の相手は寺小姓でございますよ」
「そういえば」

 ちまたでは、お美津の身投げを『享保のお七』だと噂する者もいたとかいないとか。

「どうしたって叶うことない恋だからこそ、情に狂ってしまったのですよ」
「しかし、お美津さんが、そんな簡単に家を捨てて?」

 月光院が私的に囲うほどに優秀な女だったのだ。自分の家の事情だって分かっていたはず。物語の娘なら(しかもお七は大店の娘、町人だ)いざ知らず、現実に、親を裏切って身投げまでするだろうか。宗次郎にはまだ納得がいかない。

「遠目にしか見てへんが、あれが乙八やとしたら……お美津のような賢い娘が、いかにも体を売っていそうな、あんな破廉恥ハレンチな男に惚れるもんやろか」

 弧を描いた真っ赤な唇、細い腰、しなを作った指の動き。どれもこれも、いかにも相手を誘っていそうな、下品な仕種にしか見えなかった。

「あらあら、噂の美男子も宗次郎さんにかかっては、けんもほろろですね」

 色恋が苦手な宗次郎にとって、ああいう色気は気持ち悪いだけだった。だが、それをガキ扱いされたようで悔しくなって、口を尖らす。

「言ったでしょう。大奥の女を落とすなんて造作ないことだと。せめて『思ひ合っていたが身分違いだからと別れたのだ』位のことは言えば救われるのに。『勝手に惚れられた』とは、図々しい男だこと……」
「なあ、雲雀、乙八の足取りを追うことはできるか? 寺を出てどこにいるのか。俺はしばし雀を追う」

 雲雀がはすっぱに片頬を上げた。

「ようござんすよ。それにしても神さんの前で、よくまあ……今度は商家の男を食い物にするつもりですかねえ」

 嫌味のこもった雲雀の言い草に、たぼを撫でる男の仕種が目に浮かんだ。
 どうも、あの男が乙八の本命には思えなかったのだ。

(あの男も叶わぬ恋に溺れてるんやろか)

 九鬼丸にささやかれた言葉は忘れてしまったが、かかる息と指のこそばゆさだけがよみがえって、つい左手で首を撫でた。

 汗が沸騰したかと思うほど熱く感じたのに、触れた自分の皮膚は、意外なほど冷たかった。

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