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康太と夏帆
俺を知らない君〈康太〉
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まだ新しく小綺麗な病院の、最上階の最奥の病室。
もうすっかりと通い慣れてしまったそこを、今日も俺は訪れた。
コンコン
どうぞ、と中から穏やかな中年男性の声がした。それを聞いて俺は静かに扉を開ける。
「こんにちは」
「あぁ康太くんか。いつもありがとう」
大きくなりすぎないように注意した俺の挨拶に、ベッドの側の椅子に腰掛けた男性が振り返った。先ほどの返事もこの男性のものである。
「いえ、俺がしたくてしてることですから。……今日は敦子さんはいらっしゃらないんですか?」
「あぁ、妻は夏帆の服なんかを取りに家に戻ったところだよ。……夏帆、康太くんが来てくれたぞ」
そう言って彼はベッドに横たわる若い女性に声をかけた。
のそのそと起き上がった彼女はこちらににっこり微笑んで軽く頭を下げた後、僅かに首を傾げる。
「お父さんの、知り合いの方?」
その言葉に、分かってはいたものの胸がきりりと痛んだ。悲しそうな顔をした男性が、諭すように自らの娘に言う。
「いや、この人は夏帆の ─── 大切な人、だよ」
父親の言葉に目を瞬いた彼女は、俺の方に視線を移した。
初めて出会ったときと何ら変わらなく見えるその瞳には、悲しそうな顔の俺が映っている。
「すみません、もしかしてどこかでお会いしたことがありますか?」
彼女 ─── 婚約者の言葉に、俺ははんなりと笑った。
俺が初めて彼女に出会ったのは、高校二年の夏休み明け最初の日だった。
『佐々川夏帆です。よろしくお願いします』
なんのひねりもないありきたりな自己紹介だったが、そのときのことは鮮烈に俺の記憶に残っている。
抜けるように白い肌。
癖のない艶やかな黒髪。
儚いほどに華奢な身体。
そして、まるでビー玉のように澄んだ瞳。
一目惚れだった。
彼女は、いわゆる目立つタイプとは違った。特別目を引く容姿と言うわけではなかったし、性格もおとなしい方だったからだ。でもそれすらもが俺の興味をかき立てた。
彼女は、たまたま空いていた俺の斜め後ろの席に座ることになった。男らしさとは無縁で気の弱い俺が彼女に自分から話しかけることはなかったが、側にいられるだけでも幸せを感じていた。
……けれど意外なことに、そんな俺が彼女と親しくなるのにそう時間はかからなかった。
彼女は転校してきた一週間後、俺の所属する美術部に入部した。
部員の中で唯一彼女と同じクラスであった俺は、自然と彼女を任されるようになった。
部活内のルールや備品のしまう場所の説明、細かな連絡の伝達……。そういった何気ない日々のやり取りを経て、俺は彼女と雑談もできる仲になっていった。
彼女は人見知りをするらしかったが、一度親しくなると意外によく話した。俺も彼女にいろんな話をした。
彼女との話は楽しく、時間が過ぎるのが早かった。
彼女は打てば響くような深みのある人で、彼女の性格にも惚れ込むのは必然だったように思う。
彼女とはその後大学・職場ともにずっと一緒で、俺の傍らには常に彼女の姿があったと言っても過言ではない。長い時を共に過ごす中で、俺たちは交際を始めた。
いつも穏やかで思慮深く、優しい彼女との付き合いは順調だった。俺は彼女を、彼女は俺を愛していた。
そして初めて出会ったときから十年の時が流れ、俺は彼女にプロポーズをした。それがつい先日のことである。
彼女は緊張しながら告げた俺の言葉に、泣きながら何度も頷いてくれた。結婚式も、もう二ヶ月後に迫っていた。
今ある幸せを、彼女と守って生きていくのだと ─── それができると、信じて疑わなかった。
─── けれど。
その認識が覆るのは、ほんの一瞬のことだった。
♢♢♢♢♢♢
雪が降り始めた。
婚約者との待ち合わせ場所で彼女を待ちながら、俺は空を仰いだ。はらり、はらりと落ちてくるそれは、イルミネーションの光を受けて様々に輝く。
宙を舞う白を見るともなく眺めていた俺は、皆一様に寒そうに首を竦めて早足に通り過ぎてゆく人混みに、愛しい婚約者の姿を見つけた。彼女も俺を見ていて、嬉しそうに顔を綻ばせている。
突き上げるように愛しさが込み上げてきた。
あの柔らかい笑みを、ずっと俺のものにしたい。特別他には望まないから。ただ俺の側で、俺だけを見ていてくれればそれでいい。
「夏帆」
彼女の名前を呼んで控えめに手を振れば、彼女の笑顔がさらに深まったように感じた。あぁ、幸せだ ─── そう感じたとき、
キキキキキィィィイイイイッッッ
ゴムの擦れるような音、人々の甲高い悲鳴、鳴り響くクラクションの音 ───
彼女がこちらに手を伸ばすのが見えた。
康太くん、とその唇が動く。
その一瞬の後、彼女の華奢な体は大きく揺さぶられ、俺の視界から消えた。
「か、ほ……?」
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。でもそれを気にする余裕なんて俺にはなかった。
だって、彼女は? 俺の愛しい彼女は、いったいどうなったんだろう。さっきまで彼女がいたはずの場所には、ぐちゃぐちゃに大破したワゴン車が煙を上げている。
「夏帆……っ、夏帆、夏帆、夏帆っ」
俺はワゴン車に駆け寄った。黒い煙が目に染みるけれど、そんなのには構っていられない。
婚約者の姿を目で探したとき、ワゴン車の下から細い腕が伸びているのに気が付いた。
その白い指には、俺と揃いの指輪がはまっていて ───
死にものぐるいでその体を引きずり出した。そして血にまみれた彼女の顔を見て、その体を抱いたまま崩れ落ちる。
「夏帆、夏帆……俺だよ。康太だよ、聞こえる? ねぇ、こっち見てよ、夏帆……夏帆、夏帆、か、ほ、かほ」
もはや自分でも何を言っているのか分からなくなった。ただうわごとのように彼女の名前を繰り返す。
救急車のサイレンの音が、近づいてきていた。
その日、大型ワゴンが歩道に突っ込み、多くの死傷者が出た。運転席で意識を失っていた男からは、覚醒剤が検出されたらしい。事故現場となった場所にはたくさんの花束が供えられ、ワイドショーでは連日この事故の話で持ちきりとなった。
やがて時は過ぎ、一ヶ月もする頃にはもうテレビでその話題を見ることはなくなった。そして ───
それきり俺の婚約者は、俺のことを忘れた。
医師には、助かっただけでも奇跡なのだと言われた。外傷も完全に塞り、そのうちあの大事故に巻き込まれたなんて言われなければ分からなくなるだろう。だが問題があるのはむしろ中の方だったらしい。
彼女は、中学以降の記憶をなくしてしまった。また、ひとたび眠ればその日の出来事もリセットされてしまう。彼女の心は中学生の少女のまま時を止めた。
高校生になってから出会った俺のことを、当然彼女は知らなかった。毎日のように病室を訪ねても、彼女はそのたびに「誰?」と首を傾げる。忘れられていることもショックだったが、これから先、どれだけの時を彼女と過ごしても、彼女は眠るたびに俺を忘れてしまうのだということに打ちひしがれた。
俺たちには、過去も未来も失われてしまったらしかった。
彼女の両親は泣いていた。そして彼女の母は俺に頭を下げてこう言った。
『ごめんなさい、康太くん。あんなにも夏帆を愛してくれて、夏帆の新しい家族にまでなろうとしてくれていたのに。夏帆も、康太くんのこと大好きだったのよ。会うたびにいつも康太くん、康太くんって、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいに。本当にごめんね、勝手なこと言ってるのは分かってる。でも、夏帆から離れないでいてあげて。夏帆のこと、置いていかないであげて ─── 』
今にも倒れそうな彼女の母の手をとって、俺もともに涙を流したのだった。
♢♢♢♢♢♢
カタン、と小さな音を残して扉が閉まった。
気を遣って席を外してくれた彼女の父の代わりに、ベッドの側の椅子に腰掛ける。
俺を忘れてしまった愛しい人は、落ち着かない様子で自らの手を弄っていた。
「体の調子はどう? 座っているのが辛かったら、俺に遠慮しないで寝ててくれていいからね?」
彼女に微笑みかけると、戸惑ったように彼女は俯いた。そして鼻先まで布団を引き上げて、「……大丈夫、です」ともごもご答える。
俺にとっては長い時をともに過ごした人だけど、今の彼女にとって俺は初対面の男だ。お得意の人見知りを思いっきり発動させている。
「外はすごく寒かったよ。雪がちらついてた。もしかしたら積もるかもしれないね」
彼女を怖がらせてしまわないよう、俺はことさらにゆっくりと喋る。医師から無理に思い出させるようなことはするなと忠告されているので、なんてことはない、無難な話。
ふと、昔出会ったばかりの頃を思い出した。あの頃もこうやって、選び選び話したなぁ、なんて。
彼女を見ると、鼻先を布団に埋めたまま、じぃっとこちらを見つめていた。俺はそんな彼女に微笑みかける。
「手土産があるんだよ。プリン、好きだよね?」
こっくりと頷いた彼女に笑って、俺は手に持っていた袋からプリンを取り出した。 ─── いつも彼女のご機嫌をとるために用意していたのと、同じプリン。
寒空の下を歩いてきたので、そのままでも十分冷えているはずだ。
スプーンを添えて差し出すと、彼女は目を見開いてプリンを見つめたまま固まった。ややあって今度は俺の顔を見て、目を僅かに細める。俺は首を傾げた。
「どうぞ?」
彼女はおずおずとプリンを受け取った。そしてそろりと蓋を開け、こちらを気にしながら食べ始める。
コチ、コチ……という時計の秒針の音のみを残し、部屋は静まりかえった。彼女は一人部屋を与えられているので、沈黙の中を二人きりで過ごす。俺は頬杖をついて彼女を見つめた。
実はこれ、ここ最近は毎日していることである。
でも彼女にとっては毎度初めてのことだし、今日こうしたことも明日目が覚めればきっと忘れているのだろう。それを思うと切なくなる。
「あの」
プリンを食べ終えた彼女が、サイドテーブルに空になった器を置いた。そして小さく呟く。
「私、こ……康太、さんと会ったこと、ありますよね。よく、覚えてないけど……。でも何か、大切なことを忘れてるような、気が ─── 」
気が付いたら俺は、彼女を抱きしめていた。彼女の言葉が途切れる。胸いっぱいに広がる彼女の匂いに、俺は泣きそうになった。ここしばらく、お預けになっていた匂い。そしてはっと我に返る。
「ご、ごめん」
しまった。彼女を怖がらせないように、とずっと我慢していたのに、思わず衝動で抱きしめてしまった。
でも、それくらいの衝撃だった。彼女がこんなことを言うのは、記憶を失ってから初めてのことである。
「ごめ、つい、いやえっと、あの」
しどろもどろになりながら彼女から離れようとしたとき、くいっと袖が引っ張られた。見ると、彼女が俯いて俺の服を掴んでいる。
「やっぱり、前に、こうやってしてもらったこと、ありますよね?」
顔を上げた彼女と目が合った。ドク、ドクと胸が痛いほどに脈打つ。
もしかしたら ─── そう思って、俺は恐る恐る彼女にもう一度腕を回した。
力を入れすぎないように注意しながら抱きしめて、いつもしていたように、彼女の髪を撫でる。
ふるり、と愛しい人が腕の中で震えた。
「夏帆。君は、知らないかもしれないけど。俺は、君のことを ─── 愛してるよ」
ずっと、そうだった。
俺を忘れてしまった彼女。でも、俺の愛情までなくなるわけではない。
彼女が俺を忘れても、俺が覚えていればいいと思っていた。彼女が何度俺を忘れても、何度でも彼女に会いに行こうと思った。そしてそのたびにまた出会えばいいと。
それでも。
悲しかったのだ。俺を忘れてしまった彼女を見るのは。俺の贈った指輪が外されてひっそりと置かれているのを見るのは。彼女に、触れることができないのは。
「君が俺を覚えていなくても、これから先何度俺を忘れようとも、俺は君を愛してるよ。でも ─── それだけじゃ、足りないよ……」
涙が溢れた。熱い雫が彼女をも濡らす。
これを医師に見られたら、こっぴどく叱られるかもしれない。それでも、一度溢れたものはとどまることを知らなかった。
「好きだよ、夏帆。好き。大好き。愛してる。夏帆 ─── 」
「……康太、くん」
─── 華奢な腕が、俺の背に回った。
「……夏帆?」
「康太、くん。康太くん ─── 」
懐かしい呼び方に、胸が震えた。また懲りずに涙が溢れる。
「夏帆…っ」
「ごめんね、康太くん。ごめんね……っ」
華奢な腕が俺の背を撫でる。何がごめんなんだろう。分からないけれど、何でもいい気がした。
だって、彼女が俺を怖がらずに、また俺の名前を呼んでくれた。今までみたいに。
これからまた、止まっていた時が進みだす。そんな予感がした。
─── 二人で。
もうすっかりと通い慣れてしまったそこを、今日も俺は訪れた。
コンコン
どうぞ、と中から穏やかな中年男性の声がした。それを聞いて俺は静かに扉を開ける。
「こんにちは」
「あぁ康太くんか。いつもありがとう」
大きくなりすぎないように注意した俺の挨拶に、ベッドの側の椅子に腰掛けた男性が振り返った。先ほどの返事もこの男性のものである。
「いえ、俺がしたくてしてることですから。……今日は敦子さんはいらっしゃらないんですか?」
「あぁ、妻は夏帆の服なんかを取りに家に戻ったところだよ。……夏帆、康太くんが来てくれたぞ」
そう言って彼はベッドに横たわる若い女性に声をかけた。
のそのそと起き上がった彼女はこちらににっこり微笑んで軽く頭を下げた後、僅かに首を傾げる。
「お父さんの、知り合いの方?」
その言葉に、分かってはいたものの胸がきりりと痛んだ。悲しそうな顔をした男性が、諭すように自らの娘に言う。
「いや、この人は夏帆の ─── 大切な人、だよ」
父親の言葉に目を瞬いた彼女は、俺の方に視線を移した。
初めて出会ったときと何ら変わらなく見えるその瞳には、悲しそうな顔の俺が映っている。
「すみません、もしかしてどこかでお会いしたことがありますか?」
彼女 ─── 婚約者の言葉に、俺ははんなりと笑った。
俺が初めて彼女に出会ったのは、高校二年の夏休み明け最初の日だった。
『佐々川夏帆です。よろしくお願いします』
なんのひねりもないありきたりな自己紹介だったが、そのときのことは鮮烈に俺の記憶に残っている。
抜けるように白い肌。
癖のない艶やかな黒髪。
儚いほどに華奢な身体。
そして、まるでビー玉のように澄んだ瞳。
一目惚れだった。
彼女は、いわゆる目立つタイプとは違った。特別目を引く容姿と言うわけではなかったし、性格もおとなしい方だったからだ。でもそれすらもが俺の興味をかき立てた。
彼女は、たまたま空いていた俺の斜め後ろの席に座ることになった。男らしさとは無縁で気の弱い俺が彼女に自分から話しかけることはなかったが、側にいられるだけでも幸せを感じていた。
……けれど意外なことに、そんな俺が彼女と親しくなるのにそう時間はかからなかった。
彼女は転校してきた一週間後、俺の所属する美術部に入部した。
部員の中で唯一彼女と同じクラスであった俺は、自然と彼女を任されるようになった。
部活内のルールや備品のしまう場所の説明、細かな連絡の伝達……。そういった何気ない日々のやり取りを経て、俺は彼女と雑談もできる仲になっていった。
彼女は人見知りをするらしかったが、一度親しくなると意外によく話した。俺も彼女にいろんな話をした。
彼女との話は楽しく、時間が過ぎるのが早かった。
彼女は打てば響くような深みのある人で、彼女の性格にも惚れ込むのは必然だったように思う。
彼女とはその後大学・職場ともにずっと一緒で、俺の傍らには常に彼女の姿があったと言っても過言ではない。長い時を共に過ごす中で、俺たちは交際を始めた。
いつも穏やかで思慮深く、優しい彼女との付き合いは順調だった。俺は彼女を、彼女は俺を愛していた。
そして初めて出会ったときから十年の時が流れ、俺は彼女にプロポーズをした。それがつい先日のことである。
彼女は緊張しながら告げた俺の言葉に、泣きながら何度も頷いてくれた。結婚式も、もう二ヶ月後に迫っていた。
今ある幸せを、彼女と守って生きていくのだと ─── それができると、信じて疑わなかった。
─── けれど。
その認識が覆るのは、ほんの一瞬のことだった。
♢♢♢♢♢♢
雪が降り始めた。
婚約者との待ち合わせ場所で彼女を待ちながら、俺は空を仰いだ。はらり、はらりと落ちてくるそれは、イルミネーションの光を受けて様々に輝く。
宙を舞う白を見るともなく眺めていた俺は、皆一様に寒そうに首を竦めて早足に通り過ぎてゆく人混みに、愛しい婚約者の姿を見つけた。彼女も俺を見ていて、嬉しそうに顔を綻ばせている。
突き上げるように愛しさが込み上げてきた。
あの柔らかい笑みを、ずっと俺のものにしたい。特別他には望まないから。ただ俺の側で、俺だけを見ていてくれればそれでいい。
「夏帆」
彼女の名前を呼んで控えめに手を振れば、彼女の笑顔がさらに深まったように感じた。あぁ、幸せだ ─── そう感じたとき、
キキキキキィィィイイイイッッッ
ゴムの擦れるような音、人々の甲高い悲鳴、鳴り響くクラクションの音 ───
彼女がこちらに手を伸ばすのが見えた。
康太くん、とその唇が動く。
その一瞬の後、彼女の華奢な体は大きく揺さぶられ、俺の視界から消えた。
「か、ほ……?」
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。でもそれを気にする余裕なんて俺にはなかった。
だって、彼女は? 俺の愛しい彼女は、いったいどうなったんだろう。さっきまで彼女がいたはずの場所には、ぐちゃぐちゃに大破したワゴン車が煙を上げている。
「夏帆……っ、夏帆、夏帆、夏帆っ」
俺はワゴン車に駆け寄った。黒い煙が目に染みるけれど、そんなのには構っていられない。
婚約者の姿を目で探したとき、ワゴン車の下から細い腕が伸びているのに気が付いた。
その白い指には、俺と揃いの指輪がはまっていて ───
死にものぐるいでその体を引きずり出した。そして血にまみれた彼女の顔を見て、その体を抱いたまま崩れ落ちる。
「夏帆、夏帆……俺だよ。康太だよ、聞こえる? ねぇ、こっち見てよ、夏帆……夏帆、夏帆、か、ほ、かほ」
もはや自分でも何を言っているのか分からなくなった。ただうわごとのように彼女の名前を繰り返す。
救急車のサイレンの音が、近づいてきていた。
その日、大型ワゴンが歩道に突っ込み、多くの死傷者が出た。運転席で意識を失っていた男からは、覚醒剤が検出されたらしい。事故現場となった場所にはたくさんの花束が供えられ、ワイドショーでは連日この事故の話で持ちきりとなった。
やがて時は過ぎ、一ヶ月もする頃にはもうテレビでその話題を見ることはなくなった。そして ───
それきり俺の婚約者は、俺のことを忘れた。
医師には、助かっただけでも奇跡なのだと言われた。外傷も完全に塞り、そのうちあの大事故に巻き込まれたなんて言われなければ分からなくなるだろう。だが問題があるのはむしろ中の方だったらしい。
彼女は、中学以降の記憶をなくしてしまった。また、ひとたび眠ればその日の出来事もリセットされてしまう。彼女の心は中学生の少女のまま時を止めた。
高校生になってから出会った俺のことを、当然彼女は知らなかった。毎日のように病室を訪ねても、彼女はそのたびに「誰?」と首を傾げる。忘れられていることもショックだったが、これから先、どれだけの時を彼女と過ごしても、彼女は眠るたびに俺を忘れてしまうのだということに打ちひしがれた。
俺たちには、過去も未来も失われてしまったらしかった。
彼女の両親は泣いていた。そして彼女の母は俺に頭を下げてこう言った。
『ごめんなさい、康太くん。あんなにも夏帆を愛してくれて、夏帆の新しい家族にまでなろうとしてくれていたのに。夏帆も、康太くんのこと大好きだったのよ。会うたびにいつも康太くん、康太くんって、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいに。本当にごめんね、勝手なこと言ってるのは分かってる。でも、夏帆から離れないでいてあげて。夏帆のこと、置いていかないであげて ─── 』
今にも倒れそうな彼女の母の手をとって、俺もともに涙を流したのだった。
♢♢♢♢♢♢
カタン、と小さな音を残して扉が閉まった。
気を遣って席を外してくれた彼女の父の代わりに、ベッドの側の椅子に腰掛ける。
俺を忘れてしまった愛しい人は、落ち着かない様子で自らの手を弄っていた。
「体の調子はどう? 座っているのが辛かったら、俺に遠慮しないで寝ててくれていいからね?」
彼女に微笑みかけると、戸惑ったように彼女は俯いた。そして鼻先まで布団を引き上げて、「……大丈夫、です」ともごもご答える。
俺にとっては長い時をともに過ごした人だけど、今の彼女にとって俺は初対面の男だ。お得意の人見知りを思いっきり発動させている。
「外はすごく寒かったよ。雪がちらついてた。もしかしたら積もるかもしれないね」
彼女を怖がらせてしまわないよう、俺はことさらにゆっくりと喋る。医師から無理に思い出させるようなことはするなと忠告されているので、なんてことはない、無難な話。
ふと、昔出会ったばかりの頃を思い出した。あの頃もこうやって、選び選び話したなぁ、なんて。
彼女を見ると、鼻先を布団に埋めたまま、じぃっとこちらを見つめていた。俺はそんな彼女に微笑みかける。
「手土産があるんだよ。プリン、好きだよね?」
こっくりと頷いた彼女に笑って、俺は手に持っていた袋からプリンを取り出した。 ─── いつも彼女のご機嫌をとるために用意していたのと、同じプリン。
寒空の下を歩いてきたので、そのままでも十分冷えているはずだ。
スプーンを添えて差し出すと、彼女は目を見開いてプリンを見つめたまま固まった。ややあって今度は俺の顔を見て、目を僅かに細める。俺は首を傾げた。
「どうぞ?」
彼女はおずおずとプリンを受け取った。そしてそろりと蓋を開け、こちらを気にしながら食べ始める。
コチ、コチ……という時計の秒針の音のみを残し、部屋は静まりかえった。彼女は一人部屋を与えられているので、沈黙の中を二人きりで過ごす。俺は頬杖をついて彼女を見つめた。
実はこれ、ここ最近は毎日していることである。
でも彼女にとっては毎度初めてのことだし、今日こうしたことも明日目が覚めればきっと忘れているのだろう。それを思うと切なくなる。
「あの」
プリンを食べ終えた彼女が、サイドテーブルに空になった器を置いた。そして小さく呟く。
「私、こ……康太、さんと会ったこと、ありますよね。よく、覚えてないけど……。でも何か、大切なことを忘れてるような、気が ─── 」
気が付いたら俺は、彼女を抱きしめていた。彼女の言葉が途切れる。胸いっぱいに広がる彼女の匂いに、俺は泣きそうになった。ここしばらく、お預けになっていた匂い。そしてはっと我に返る。
「ご、ごめん」
しまった。彼女を怖がらせないように、とずっと我慢していたのに、思わず衝動で抱きしめてしまった。
でも、それくらいの衝撃だった。彼女がこんなことを言うのは、記憶を失ってから初めてのことである。
「ごめ、つい、いやえっと、あの」
しどろもどろになりながら彼女から離れようとしたとき、くいっと袖が引っ張られた。見ると、彼女が俯いて俺の服を掴んでいる。
「やっぱり、前に、こうやってしてもらったこと、ありますよね?」
顔を上げた彼女と目が合った。ドク、ドクと胸が痛いほどに脈打つ。
もしかしたら ─── そう思って、俺は恐る恐る彼女にもう一度腕を回した。
力を入れすぎないように注意しながら抱きしめて、いつもしていたように、彼女の髪を撫でる。
ふるり、と愛しい人が腕の中で震えた。
「夏帆。君は、知らないかもしれないけど。俺は、君のことを ─── 愛してるよ」
ずっと、そうだった。
俺を忘れてしまった彼女。でも、俺の愛情までなくなるわけではない。
彼女が俺を忘れても、俺が覚えていればいいと思っていた。彼女が何度俺を忘れても、何度でも彼女に会いに行こうと思った。そしてそのたびにまた出会えばいいと。
それでも。
悲しかったのだ。俺を忘れてしまった彼女を見るのは。俺の贈った指輪が外されてひっそりと置かれているのを見るのは。彼女に、触れることができないのは。
「君が俺を覚えていなくても、これから先何度俺を忘れようとも、俺は君を愛してるよ。でも ─── それだけじゃ、足りないよ……」
涙が溢れた。熱い雫が彼女をも濡らす。
これを医師に見られたら、こっぴどく叱られるかもしれない。それでも、一度溢れたものはとどまることを知らなかった。
「好きだよ、夏帆。好き。大好き。愛してる。夏帆 ─── 」
「……康太、くん」
─── 華奢な腕が、俺の背に回った。
「……夏帆?」
「康太、くん。康太くん ─── 」
懐かしい呼び方に、胸が震えた。また懲りずに涙が溢れる。
「夏帆…っ」
「ごめんね、康太くん。ごめんね……っ」
華奢な腕が俺の背を撫でる。何がごめんなんだろう。分からないけれど、何でもいい気がした。
だって、彼女が俺を怖がらずに、また俺の名前を呼んでくれた。今までみたいに。
これからまた、止まっていた時が進みだす。そんな予感がした。
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