死神若殿の正室

三矢由巳

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第二章 果報者

06 象の死

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 下屋敷の美伊の方の二人目の子、賀津姫は大きな赤子であった。そのせいか美伊の方は難産だったようで、産後しばらく動けず中屋敷に挨拶に来ることができなかった。そこでわらわは祝いを持って下屋敷に行った。
 美伊の方は恐縮することしきりだった。登与姫は物ごころがついてきたのか、母親と父の正室の関係がわかってきたようで、わらわの顔を見ると少しばかり顔をこわばらせるようになっていた。わらわも意味もなく笑うような真似はできぬので、互いの挨拶も堅苦しいばかりであった。
 いずれ我が娘となるかもしれぬのだから、もう少しなつくように少しは愛想よくせねばと思うのだが、なかなかうまくはいかぬもの。
 賀津姫はずっしりと重く、乳母も肩が凝ると言っておった。なにしろ飲む乳の量も多く、乳母もこんな赤子は初めて見たと言っておった。まこと赤子というのは十人いれば十人全部違う。
 とはいえいくらなんでも急に這いまわったり歩き出すわけではない。乳を飲む以外は寝ているばかりだから楽であろう。珠姫のように歩き始めたらこんなものでは済むまい。身体が大きいのだから何をしでかすことか。
 そんな心配をよそに二人目ということで美伊の方は落ち着いていた。
 春に桃園にともに行ったり、桃の節句を祝ったりしたのがよかったのかもしれぬ。つまみ細工の作り方の話をするうちに、旧知の仲のようにわらわは笑っていた。美伊の方はまことは緊張していたのかもしれぬが、以前のように恐れているようには見えなかった。



 桃園といえば、あの象である。
 下屋敷を訪れて数日後、若殿が夕餉の後に象が亡くなったと話してくれた。やはり、あの肥えた男は象を利用するだけ利用して金を儲け、餌を満足にやらなかったのではないか。
 なれどあの男だけが悪いとわらわには断言できない。勝姫の最期の時のわらわと同じように何もしなかった者が大勢いるのではないか。

「象を殺したのは、あの百姓だけではない、わらわたちもではないか」

 そう言った時の若殿の顔ときたら見た事もないような顔であった。象のことをわらわもともに悲しむと思っていたのに、わらわ達も象を殺したと言われれば、そうもなろう。

「私達は何もしておらぬではないか」
「何もしていない、つまり、あの象に悪いこともせなんだが、良いこともしておらぬということではないか」

 若殿は言葉につまっているようだった。わらわはついつい言わずもがなのことまで口にしていた。

「公方様もそう。連れて来たのはいいが、餌代が増えて扱いに困って、中野村の者に下げ渡したのであろう。一番は公方様がお悪い。なれど、それを見て喜んで、飽きたら見に行かなくなった我らもどうであろうか」
「飽きたわけではない。皆、それぞれ忙しいのだ」
「なれど、我らは象で金儲けをしていた男を見ておるのじゃ。あんな者に飼われておったら、いずれはろくなことにならぬことはわかっておったのに、何もせなんだではないか」
「何ができるというのだ、我らに」
「それは、わらわもわからぬ。誰ぞ知恵のある者がおれば、なんとかなったやもしれぬ。だが、あれだけの大きな身体の生き物を養うのはこの国では難しいこと。飢饉があれば、すぐに大勢の者が飢えて死ぬのだから。日の本に合わぬ生き物であったのだ。それに気付かず、連れてきた公方様の罪は重い」

 御庭番とかいう者が聞いていたら大変なことになりそうなことをわらわは言ってしまった。若殿はひどく衝撃を受けているように見えた。このまま同じような文句を連ねたら、また離縁だとなりかねない。
 それに、象が死んだことは哀れなことには違いない。

「だが、象が哀れであったことはまことのこと。だから、そういう哀れな生き物がおったこと、伝えねばならぬのではないか。同じ間違いをせぬように。それくらいしか、わらわにはできぬのかもしれぬ」

 口にしながら少し鼻の奥がつんとしてきた。まったく子を産んでから、なぜこんなことが増えたのか。わらわは涙ぐんだ顔を見せたくなくて下を向いた。
 折よく隣の部屋から珠姫の泣き声が聞こえた。歩くようになったとはいえ、まだまだいとけない。いつまでも泣き止まぬので、わらわはよう泣く赤子じゃと言って襖を開けた。すると若殿も入って来て、乳母から重くなった姫を取り上げ抱き上げてあやし始めた。その抱き方が手慣れていて、下屋敷でも同じようにしていたのだろうと思われた。少しだけ美伊の方を羨ましく思った。
 姫が泣き止んだ後、若殿はぽつりと言った。

「まことけだものを飼うのはよいが、人の心と倉にゆとりがなければけだものにとっては哀れなことになるな」

 この後も江戸では駱駝や、駝鳥、鸚鵡、孔雀などの物珍しい生き物が見世物小屋で大勢の人々の目を楽しませた。なれど彼らの行く末は誰も知らぬ。後の世では人に養われるけだもの達は皆幸せなのであろうか。人々はけだもの達に安楽な暮らしをさせる知恵を持つようになっているのであろうか。いやけだものよりも人が先かもしれぬな。



 翌寛保三年(1743年)、わらわは二人目の子を産んだ。名を月姫と言う。若殿は四人の姫の父となった。
 月姫のお産は珠姫ほど重くはなかった。ただ、少々身体が小さかった。風邪をひかぬようにあれこれ気を配ったものじゃ。その年の冬から翌年にかけて疱瘡がはやったため、中屋敷と下屋敷では姫たちがかからぬようにお札を屋敷のあちこちに貼り、赤い着物を着せたものであった。幸いに姫たちも家中の者もかかることはなかった。
 寛保四年は二月に延享と年号が変わった。
 さらに年は明け延享二年(1745年)。この年は殿様が参勤のため江戸に出てくる年ゆえ、屋敷はすべて畳を替え障子を張り替えた。
 そろそろ国許を出られる頃と思っていた二月十二日の昼のことであった。六道火事と呼ばれることになる大火が起きた。
 

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