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1章

4 覚醒

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 ひやりと頬を冷たい物が撫でる。
 火照った肌にはそれがとても気持ちよくて、もう少し……そう口を動かしかけて、霜苓はパチリと瞳を開いた。

「気が付いたか……」
 ふわりと心地いい風と共に、霜苓の耳をくすぐるのは低くて、しかしどこか重みのある、落ち着いた男の声だった。
 ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になってゆくのと同時に、あぁ、この声は今目の前にいるこの男から発されたのだと思った。
 黒い髪に野生身を感じる太い眉に、切長の黒い瞳、整った顔立ちの30手前ほどの男の顔をパチパチと瞬いて見つめて、そう遠くない過去にこんな角度から異性の顔を見たような気がして……それがどんな時の光景だったかを思い出し、慌ててその記憶を頭の片隅に押しやる。
 「何かに追われていたのか? 一通り怪我は処置したが、しびれるところはないだろうか」
 何も言葉を発せずにいる霜苓をどう思ったのだろうか、男は不思議そうに首を傾けて、頬を指さす。
 頬に独特な薬草の臭いを感じる。彼は、逃げる途中に枝先にひっかけてしまって切った頬の傷を手当してくれたのだろう。それ以外にも、腕や足に何かを巻き付けられている感覚がある。
 目の前で心配そうにこちらを見下ろす男からは、郷の人間の香りも息遣いも感じない。どうやら、逃げ切る事には成功したらしい。
 ほっと息を吐こうとして、霜苓は飛び起きると、慌てて周囲を見渡す。
 霜苓が寝かされていたのは、どこかは分からないが、低地で生活する者達が移動の際に利用する宿屋というものの一室のようだった。二つある寝台の内の一つに霜苓が寝かされていて、もう反対側には男が腰を下ろしていて……よく見ればその男の膝の中に置かれた真っ白な布の塊の中で、探していた珠樹がすやすやと眠っていた。
「この子は怪我もなくて無事だ。少し前に腹が空いて泣いたから、宿屋の女将に山羊のミルクを温めて飲ませてもらったら、また眠りだした」
 いい子だな……と珠樹のまだ細くて薄い髪を撫でた男は、柔らかく微笑む。
 その様子に息を吐く。無事に逃げられても珠樹に何かあっては意味がない、あの激しい逃亡戦の中、泣くことも騒ぐこともせず、耐えてくれた愛娘。霜苓が生きて来た全てを投げうってでも守りたいとおもった我が子。
 霜苓の最後の記憶は、じっとこちら見つめる深緑色の珠樹の双眸を見つめて、つぶしてしまわぬよう抱き寄せ、そして意識を手放したところで途切れていた。もう腕も上がらず、足も前に出ない。ここまでだったのだという絶望を抱えて……それなのに。
 「あなたは誰? 助けてくれたの? どうやって?」
 こうして郷の追手を撒いて、珠樹といられる事実が不思議でならなかった。
「っ……」
 霜苓の問に、男が息を詰める。そして、何かを逡巡するように、視線を上に向けると、大きく息を吐いた。
「道で……倒れていたところを馬車で通りかかったんだ。そのまま馬車にのせて、ここまで運んで手当したのだ……」
 それ以外に説明しようがないと肩を竦める男は、それ以上の事を何も見ていないらしい。
 どうやら運よく馬車に拾われたため、追手を撒くことができたというのだ。
 部屋の外の気配をさぐるが、同族の気配や男の仲間が様子を窺っている気配はない。本当に運が良かったらしい。
 しかし、安心してばかりもいられない。
「ここはどこ? 私はどれくらい眠っていたの⁉︎ っ‼︎」
 こんな所で休んでいるわけにはいかない。すぐにでも動き出さねばと立ち上ろうとすると、体中に痛みが走り、咄嗟に身体を縮める。
 この感覚には、嫌と言うほど覚えがある。郷でよく暗器に塗って使う毒のひとつだ。そう言えば心なしか身体が熱い気もする。
「毒にやられているんだ、動くな!」
 男の片腕が伸びてきて霜苓の身体を押し戻す。力のあるしっかりとした大きな手だが、普段の霜苓であれば簡単に振り払えるものを容易く押し戻されてしまう。随分と毒に身体をやられているらしい。
 押し戻された身体は情けない事にそのまま寝台に沈み込んでしまう。上手く逃げおおせてもこれでは絶望的だ。

「っ……」
 思わず唇をかみしめる。霜苓の出奔が明らかになれば、郷は必ず追手を差し向けて来るに違いない。すぐにでもここを離れてもっと遠く、人の多い所に紛れねばならないのに……。
「ここは、渡南《となん》の街の宿場だ。そなたは半日ほど眠っていただけだ」
 霜苓を落ち着かせるためだろうか、男の声は静かで言い聞かせるようだった。
「っ……渡南⁉︎」
 思いもかけない地名に、男を見返す。
 一晩で……そんなに遠くまで⁉︎
 
 大陸の中央に位置する霊月山は、どの国にも属さない言わば聖域とされている。蝕の郷は霊月山の西側に位置し、渡南の街は南西寄りの街となる。人の足であれば3.4日ほどの時間を要すこの場所に、半日で到着しているというのだ。
 俄かに信じられない、この男は出鱈目を言っているのではないだろうか。そんな霜苓の想いはどうやら男にも伝わっていたらしい。
「大切な荷を急いでこの町まで運んでいる途中だったんだ、午前の内に納品せねばならんくてな」
 そのため、医者に見せるのが少し遅くなってしまった、すまない。そう申し訳なさそうに言われて、霜苓は何も言えなかった。
 昨晩の出奔で現在地が渡南であることが本当であるならば、一晩で随分と距離を稼いだことになる。とてもありがたい。
 霜苓がほっと息を吐きだすと、男の膝の中で珠樹がもぞもぞと動き出し「ふえっ」っと声を上げて顔を歪ませる。その小さな身体を男がぎこちないながらも抱き上げて、揺すりながらトントンと尻を叩いてあやす。 
 その様子を呆気に取られて見ていると、男は霜苓の視線を受けて照れ臭そうに破顔する。
「かわいらしいな……どれだけでも見ていられる」
 その言葉は思いの他、霜苓の胸の奥の深い場所をぎゅっと締め付けた。気が付くとハラハラと頬を熱い物が落ちていた。

 そんな言葉、珠樹が生まれて三ヵ月、誰からも言われた事はなかったのだ。
 
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