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2章

23 母というもの

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 国境の街を出たその日は、朝から天気も良く、温かい日差しが心地よかった。

 二刻ほどで最初の街に到着し、そこで食事を済ませ、買い出しをした後、次の街に向かって出発した。

 この街で、もともと一緒に同行していた御者2人に加え、さらに騎馬の護衛を2名雇ったらしく、何かあるのかと問えば、この先は国境を越えた人々を狙う野盗が多い地域だという。


 特に荷馬車は襲われやすいと聞き、確かに高価なものは載っているしなと霜苓は納得する。

 すべての衣装を既製品にせず、自邸に送るよう手配したのも、そうした、心配があったのだろうか。
 そんな事を考えながら、馬車に揺られる。

 国境を越えたせいか、追われる気持ちは、少しばかり楽になった。このまま馬車で向かえば1週間ほどで上弦に到着するらしい。

 馬車に揺られる旅ではあるが、やはり産まれて間もない子どもを連れてのものである。なるべく早く終えて、落ち着かせてやりたい。
 そう思うと、陵瑜からの提案は、霜苓親子にとってはまさに渡りに船だった。

 籠の中で乳を飲み終えうつらうつらしている珠樹を見守り微笑む。不意に視線に気づけば、そんな自分達を陵瑜がじっと見つめている。

「なんだ?」

 なにかおかしいことでもしていただろうか?不思議に想って首を傾ければ、対する陵瑜はゆっくり首を振って、頬を緩める。

「いや、赤子と母親のこうした姿は尊いなと思ってな」

「っ……なんだそれは…」

 いきなりそんな恥ずかしいことをよくもヌケヌケと言えるものだ! この男の言うことは時々本当に調子が狂う。

眉を寄せると、陵瑜が「ははは、すまない」と手を挙げる。

「俺はそうした母の愛情を知らずに育ったのでな」

なんでもない事のようにさらりと言った陵瑜の言葉に霜苓は、さらに意味が分からないと、彼を見つめる。

 商家の放蕩息子で跡取り……どう考えても親の期待と愛情を一身にうけて伸び伸びと育っているように思うのだが、そうではなかったと言うのは以外な事だった。

 霜苓のそんな考えをなんとなく読み取ったであろう、陵瑜は「意外に思うかもしれんな……」と肩をすくめた。

「俺の母は、政略結婚で父と結婚したが、それでも父に思いはあった人だった。だから父も、母には目をかけたし俺をすぐ授かった。俺が生まれて、父は更に母を大切にしたし周囲も跡取りの母親として彼女を立てた。だが彼女は俺を見なかった」

「見なかったとは……?」

 どういう事だ?と注視する霜苓に、陵瑜は視線をわずかに伏せて、困ったように微笑む。

「子を身ごもり産み落とす中で、自身の身体や心が変化する事を彼女は嫌がった。父には他にも妾がいて、美しい彼女達に父を取られる事に心を狂わせた。
 生まれた息子には目もくれず、また彼女達と競う土俵に上がった。だからおれは実質、母ではない世話役の者に世話をされて育った。それが普通でない事は子どもながらによく分かった。だが、どう頑張っても母は俺を見ない。忌々しいと、恋敵の女達を睨め付け、父の気を引く事に全てを注いでいた。俺はいつしか彼女を諦めた」


 顔を挙げた陵瑜の視線が、真剣に話に耳を傾ける霜苓を捉える。どこか皮肉めいていた笑みが柔らかくなったように感じられた。

「だから、母子とはこれほど尊いものかと、お前達を見てて思うのだ。霜苓が珠樹を愛おしそうに大切に扱かう姿を見ていると、俺自身が救われるような気になる」

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにも眩しそうに言われ、霜苓は言葉に詰まる。

 なんと声を変えるべきなのだろうか、辛かったなと言うべきなのか、少しでも役にたてたのならば、それは良かったと言うべきなのだろうか……こんな時どんな言葉を掛けるのが良いのか、霜苓は知らない。

 おそらく陵瑜には、そんな霜苓の戸惑いなど手にとるように分かったに違いない。返答などいらないのだとでも言うように、彼は声の調子を少しだけ上げた。

「すまない。母に愛されなかった寂しい男の子戯れ事と思ってくれ! ただ、珠樹は幸せな子だと言いたかっただけだ。母がここまで愛してくれているのだからな!」

「っ……だと、いいのだが……。私はこの子に父を与えてやれなかったから、父の分もこの子を思ってやりたい。正直、この子を産むまで、自分がこれほど、子供に必死になるとは思わなかった」

 陵瑜が霜苓親子を尊く想ってくれている気持ちが伝わって来て、霜苓は胸の奥が詰まる思いがした。
 霜苓の胸の内にも、ずっと痼になったまま封印している後ろめたい思いがあるのだ。それがズクズクと疼き出し、声を上げているような気がするのだ……そんな美しいものではないのだと。
 
「人はいずれ死ぬ、そして他の命となり近くへ戻る。死することは悲しいことではないと教えられてきた。だが、私はこの子を失う事が怖い、近くへ戻るとはいえ、この子はこの子でこの温もりはこの子にしかないものだ。変えになどならない。どこでこんな臆病者になったのかわ分からないと、ずっと戸惑っていた。なぜ私は自分の母や、父の妻達のように、子は郷のためのもので、適正の無いものは死しても仕方ないと割り切れないのかと何度も自分に失望した。
だから逃げたのだ……尊くなどない。私は臆病で、親の素質がないとずっと自分を責めていた」

 堰を切った言葉は、ずっと霜苓が胸の内に抱えてきた懺悔の思い。珠樹を生かすために逃げたことには間違いはない。しかし同時に、郷の人間としての親になれなかった自分からも逃げたのだ。

 そんな美しいものではないのだ……。だからそんなに眩しそうに見るな……。失望しただろう……と陵瑜を見る。

 彼の瞳は、まっすぐに霜苓を見つめていた。先程までの皮肉気な笑みも、無理に作った笑みもない。ただ彼は首を振って、辛そうに眉を寄せている。

「お前の郷ではそれが、欠陥事項であったかもしれん。だがこちらの世の中では、それこそが、母というものだ。もしかしたら郷の中にも、他にも同じ事を思う者もいたのかもしれないが、そんな事を言えるような環境でもなかっただろう? そうであるなら、掟に逆らってでも、命を投げ打つ覚悟で珠樹を生かそうとする霜苓の行動は、とても勇気がいる行動だったと思うぞ」

「っ──」

 陵瑜の言葉に喉の奥が詰まる。自分ですら呆れている霜苓の行動を、彼は肯定して、くれるのだ。

 涙が滲みそうになるのをこらえて。視線を落とす。

「ありがとう」と言いかけて……しかし霜苓は口を引き結んで、腰を浮かせた。同じくして陵瑜も腰を浮かせて、剣の柄に手を当てた。

 同時に馬車が急激に減速して止まった。

「陵瑜様……」
「分かっている。賊だな……」

 御者席から、幌越しに御者の男のくぐもった声が聞こえてくる。

 それに承知していると答えた陵瑜は霜苓に視線を向けると頷く。
 霜苓も、彼らと同じように気配を感じている。

 馬車を囲むように、複数の人間の気配がするのだ。
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