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2章:一家集団殺人事件

8話:記憶(シウス)

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 少し寒い午後の時間。シウスは聖ヨハンナ修道院を訪れた。
 あんな事件があったのに、子供達は変わらぬ様子で遊んでいる。

「あ! シウス兄ちゃん!」

 一番元気のいい子がいち早くシウスを見つけて飛び込んでくる。笑ってそれを受け止めたシウスは、グリグリっと髪を撫で回した。

「お前は本当に元気がいいの」
「当ったり前だろ!」

 ニィと笑う顔さえも小憎たらしく愛らしい少年を見ると、多少癒やされもする。やはり子供は可愛いものだ。元気な姿が一番いい。

「あっ、シウス様」

 柔らかな声が響き、シウスは下げていた視線を上げた。柔らかな髪、ライトブラウンの瞳。あどけない様子のラウルは子供達と遊んでいたのだろう、雪まみれだ。

 ズキリと胸が痛む。変わらない笑みを見ると苦しくてしかたがない。息が詰まってしまう。
 そうした様子を誤魔化すように、シウスは柔らかな笑みを浮かべた。

「ラウル、変わりないか?」
「はい……すみません、お気遣い頂いて」
「よいよ。私が心配で、こうして訪ねてくるのだ」

 よしよしと頭を撫でるとくすぐったそうにはにかむ。そんな所もなんら変わらない。
 変わらないのに…………この子の中に記憶はないのだ。



 ラウルが目覚めた後、エリオットが来てシウスの異変を見て慌てた。涙が止まらないままくずおれたシウスはファウストの手で運び出され、エリオットは直ぐさまラウルの治療を試みてくれた。


「結果から申し上げます。ラウルは教会を出る前までしか、記憶がありません」

 場に集まったファウスト、クラウル、オスカルが息を飲むのが伝わる。そしてシウスは、「やはり」という思いで項垂れた。

「頭に怪我はなかったのだろ? どこが……」

 珍しくクラウルが狼狽して問いかけている。そこに、エリオットは沈み込むような声で伝えた。

「精神的なもの……だと思います」
「精神的なものって……」

 オスカルが気遣わしくシウスを見つめ、戸惑っている。当然だ、シウスも未だに信じられないのだから。

「問診をしても、自分は聖ヨハンナ修道院のラウルだと淀みなく答えます。年齢は、一ヶ月程前に十四歳になったと。そこで催眠をかけてみたのですが……それ以降の記憶に触れようとすると急激な拒絶反応があって」
「どんな?」
「頭が割れるように痛い、息が苦しい。そう言って苦しみだしてすぐに催眠を解いたのですが、嘔吐と目眩と情緒不安定。落ち着ける薬を飲ませ、今はランバートが側についています」

 つまり、消したのだ。苦しく辛い記憶全てを……シウスごと。

「戻るのか?」

 ファウストが不安そうに問いかける。それにもエリオットは困りながら、否定も肯定もできずにる。

「今の段階では分かりません。時間が経ってから全てを思いだした事例もありますし、所々が抜けていてもおおよそを思いだした事例もあります」
「じゃあ逆にまったく思い出せなかったり、もの凄く断片的に思いだして大半忘れたままなんてことも、あるって事?」
「……はい」

 言いづらそうに、エリオットは肯定する。

 側を離れたあの時よりも今は遠い。たった一日だ、暗府の仕事で離れている時間よりも短い。なのに……果てしない距離を感じてしまう。

「催眠療法などが有効ではありますが……今は拒絶が強くて負担をかけてしまいます。自ら記憶に蓋をするということは、一種の精神的防御でもあるのです。そうしなければ正常を保てないのです」
「無理矢理治療したら、どうなる?」
「……心が、壊れてしまうかもしれません」

 重い言葉がのしかかり、どうする事も出来ない事を知る。

 辛い記憶……その中にシウスはきっと入っている。あの子の抱えているものも知らず、暢気で、鈍感で……その裏で苦しんだり、悲しんだりしていたんだ。言いだせず、耐えていたんだ、四年近く。どれほどの苦痛を強いてしまったんだ。

「ですが希望はあります! 落ち着いてきた段階で少しずつ問診や催眠を行い、記憶や精神に呼びかけてみます。その時には効果がなくても数日してふと思い出すかもしれない。一つ思い出せばそのまま断片的でも小さく思い出せるかもしれない。それに、何か大きな……それこそ、忘れたくない思い出に触れる事があれば一気に思い出せる可能性もあります!」

 不自然に明るく、声を大きく、エリオットはシウスへ向けて励ますように伝えてくる。
 それでも、シウスは顔を上げられない。違和感に気付きながらも追求しなかった事、離れる前まで共にいたのに手を離してしまった事、助けが遅くなってしまった事……なによりも、ラウルとこんなに近くにいたのに何一つ気付いてやれなかった事が苦しい。

 不意に、手が肩に掛かった。僅かに顔を上げればエリオットが辛そうな顔をしている。明るい緑色の瞳から、ポロッと涙がこぼれた。

「すみません……」
「エリオット?」
「すみません、シウス。私は医者なのに、あの子を治してあげられなくて……ごめんなさい」

 ファウストも、クラウルも、それぞれに俯いて手を握っている。
 あの子は皆に愛されていた。どんな罪があろうとも、過去があろうとも、関係無しに愛されている。エリオットは特に仲が良かった。団長を恋人に持つ者同士、なにかと話をしていたらしい。

 オスカルが進み出てエリオットの頭を抱き寄せる。珍しく、とても静かな目だ。

「駄目だよ、エリオット。君が泣いたら、シウスが泣けないだろ?」
「! ごめんなさい、シウス!」
「……よいよ」

 もう、泣きすぎて目が痛い。頭が痛い。何年分を一気に泣いたんだ。もう……涙も出ないんだ。

 その時不意にノックがあって、ランバートが入ってきた。そしてシウスに視線を止めると、淀みない声で伝えた。

「シウス様、側にいてあげてください」
「……え?」

 あの状態のラウルの側に? 見ている事すらもできないのに。

 だがランバートはとても厳しい様子で頷いている。何か、あったのか。

「現状と記憶が一致しないことに、戸惑っています。なにせ失った記憶は六年分、大きすぎます。記憶よりも大きくなっている事や、騎士団にいる事を訝しんでいます」
「だが、私は……」

 忘れたいほどに、辛い相手だ。

「幸い、俺が近づいても拒絶はありません。先程の嘔吐や頭痛が幸いしたのか、自分が怪我をしているという事は受け入れています。どういった経緯だったかは覚えておりませんが」
「だが」
「貴方が逃げたら、ラウルはこのままです。それで、本当にいいのですか?」

 冷たい声と視線はランバートなりの喝なんだと分かる。厳しい事を言う事で、奮い立たせようとしているのも分かる。

 シウスはヨロヨロと立ち上がり、戸口へと向かった。このままでいいわけが無い。少しでも記憶が戻ってくれるなら……関係を取り戻せるなら。

 重い足取りでラウルの待つ病室を訪ねると、彼は明るい瞳を驚きに開いて、控えめな笑みを浮かべてくれる。驚いて、はにかむ時に見せる表情だ。

「あの、大丈夫ですか?」
「あぁ、問題ない。其方こそ、大丈夫かえ? 具合は?」
「はい、大丈夫です。さっきは驚いたけれど」

 困った様子のラウルはしきりに自分の手や身長、そして顔を見ている。
 出会った時よりもずっと身長が伸びた。手が、大きくなった。顔立ちが大人びた。

「あの、伺っても良いでしょうか?」
「なんじゃ?」
「僕、十四歳だと自分では思っているのですが……ちょっと、違和感があって。それに、どうして騎士団の医務室にいるのですか? 町のお医者様じゃなくて」

 なるほど、元からこの子は聡いのだ。記憶と現状の不一致を認識できている。

「……ラウル、これから私が話す事を、よく聞いておきなさい」
「はい」
「お前は、民間から初めて登用された騎士なのだよ」
「僕が……騎士に?」

 大きく驚きに見開かれる瞳は信じられない様子だった。何度も口の中で「僕が騎士」と反芻している。

「驚いたかえ?」
「はい、正直。勉強は好きですが、僕にそんな能力があるなんてとても」
「お前はとても優秀な隊員だよ」

 優秀過ぎるくらいだ。

「だが、先の作戦で負傷し、ずっと眠っていたのだ」
「……もしかして、頭を怪我したのですか?」
「……そうだ」

 嘘だが、これが一番納得がいく。ラウルの中で。

 実際、ラウルは戸惑いながらも飲み込んでいる。「だからさっき、頭が痛かったんだ」とか「記憶がないのも?」とか、小さく呟いている。

「あの、先程綺麗な顔をした金髪の方が付き添ってくれていたのですが、もしかしてその方も僕を知っているのですか?」
「あぁ、知っているよ。あいつはランバートと言って、同室だったのだ」
「そんな! 僕、失礼な事を……初めましてなんて……」

 泣き出しそうな、落ち込んだ顔。俯いて、キュッと布団を握る。その手にそっとシウスは触れた。
 温かい、生きている人間のもの。教会でかき抱いた冷たい体ではない。

「もしかして、貴方も僕と親しかったのですか?」
「え?」

 戸惑うように揺れるラウルの瞳が、答えを求めている。

 恋人……そう、言いたい。喉元までその言葉が出ている。

 でも、混乱させてしまう。また苦しませてしまうかもしれない。今のラウルは十四歳、感覚も一般のものだ。男同士の恋愛なんて、想像だにしないだろう。

「……あぁ、友人だったよ」

 乾いた唇から絞り出すように出てきたのは、これが精々だった。

 涙は流せない、またラウルに心配される。ついた嘘に真実味がなくなる。友人なのだ……恋人ではなく。この子の事を一番に。自分は、その後だ。

 思っても、眉間の辺りからワンワンと鳴るような頭痛がする。酷い睡眠不足後のような痛みだ。

「あの、ごめんなさい! 僕、覚えていなくて。あの、僕は今何歳なのですか?」
「今年の四月で、二十歳になる」
「二十歳! どうりで、顔も身長も違うんだ……どうしよう、覚えていないのに……」

 不安がるラウルを抱きしめてやりたい。だがそれは友人の距離ではない。
 シウスはそっと手にふれて、ありったけの努力で柔らかな笑みを浮かべた。

「お前を治療していた医者がな、時間が経つにつれて記憶が戻るかもしれないと言っておった。焦らずにゆこう。無理をすれば怪我に響くでな」
「……はい! そうですね、焦っちゃいけませんね」

 素直で、屈託がなくて、戸惑い辛くても笑みを忘れない。そんなお前が好きだよ、ラウル。私の希望、私の癒やし。何がなくなっても、変わらない心。

 どうしたらいい? 何でもする。この子が元に戻るなら何を捨てても構わない。神が駄目なら悪魔でもいい。死後の魂などくれてやる。だから、どうか……

「あの」
「ん?」
「ごめんなさい。その……改めて、お名前を伺ってもよろしいですか?」

 ズキリと痛みが走った。引きつるような笑みになっていないか、心配だった。
 忘れてしまったのだと、痛切に感じる。

「……シウスだ」
「シウス様!」
「っ!」

 明るく、綻ぶような笑顔は変わらない。毎日見ているものだ。
 変わらないのに、違うんだ。

 息ができない。覚めない悪夢の只中に叩き込まれてしまっている。



 それから、ラウルの様子を見て皆が教会に一時的に戻す事を選んだ。
 騎士団にいて、他の隊員を混乱させない為でもある。だが何よりもラウルが「自分は教会の」と思っている節がある。精神的に安定する場所にいるほうがいいと判断された。

 シスタードロシアに事を伝えると、彼女は涙をこぼしながらも受け入れてくれた。
 そして子供達も、「ラウルは怪我をして、記憶がないんだ」と伝えた。心配しながらも同じ事件に巻き込まれた事で、子供達は言う事を理解してくれた。


 シウスは毎日教会に通っている。
 明け方、まだ日も昇りきらない時間に悪夢で目が覚め、仕事を始めて、昼を過ぎた頃には終えてここに来る。少しでも長く、ラウルと居るためだ。
 宰相府の者達も他の団長達も現状を把握し、協力してくれる。おかげでできる事だ。

 既にあの子が記憶を無くしてから一週間が経とうとしている。変わらない、元気な姿を見せている。


 ラウルと何があったかを楽しく話し、帰路についた。
 冬ということもあり、早く傾く太陽が空を染め上げている。
 宿舎につくと丁度、ファウストがいた。

「シウス、今帰りか。ラウルの様子はどうだ?」

 問いかけに答えられない。こいつの顔を見て、どうにもならなくなった。いや、本当はもっと前に限界だった。心が悲鳴を上げていた。
 ファウストのコートの前を握ったシウスは思いだしたように涙を流しながら、ファウストを睨み上げて叫んでいた。

「どうしてラウルなのだ! どうしてあの子がこのような目に合わねばならない!」
「シウス落ち着け!」
「変わらぬのだ! 私に微笑みかける様子も、恥ずかしそうに話す声も、嬉しそうな様子も! なのにあの子の中に私はいないのだ! 私の中はあの子で一杯なのに、それなのに!!」
「シウス!!」

 強い力が頭の後ろへと回り、強く胸元に押しつけるように抱きしめる。
 分かっているんだ、困らせているのは。でも一度堰を切った思いや言葉は濁流のように行く所まで行かなければ止まりようがなかった。

「怖い夢で目が覚める。ある日あの子が私に、幸せそうな顔で女性を紹介するのだ。『僕達、結婚します』と」
「!」
「嫌だ……あの子は私のなんだ! あの子は……私はあの子のものなんだ。私の心はそれしか求めていないのに、どうして奪われるんだ! どうして!!」

 夢の中のシウスは嵐のような感情を抱くのに、出てくる言葉は「よかったな」だ。
 分かっている、世間一般で同性愛は珍しい。否定されてもいないが、それでも……。だから、記憶のないあの子が女性を将来の伴侶として選ぶのは当然で、それに対して何かを言う権限はない。記憶と共に、感情も消えてしまったのだから。

 それでも、渡したくない自分がいる。将来の事を、あの子の事を思えばそれでいいんだ。夢の中のお利口な自分はそれを繰り返す。
 だが違う。お利口になんてなりたくない。エゴでいい。抱きしめて、キスをして、戸惑ったって構わない。攫ったっていい。ラウルは、私のものだと主張したい。

「っ!」
「シウス?」
「うっ……」

 酷い頭痛と回るような目眩がして、立っていられなくなったシウスはファウストの胸元に顔を押し当てたまま座り込んだ。

「シウス!」
「っ……」

 嫌だ、眠りたくない。悪夢ならばもう沢山だ。
 痛みに崩れ、目眩に吐き気を催してもこみ上げるのは胃液のみ。体が心臓になったみたいに音が響く。体が酷く熱い。心はこんなにも冷たいのに。

「シウス!」

 必死な様子のファウストを見上げたのが最後、シウスは意識を手放した。
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