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1.おばあちゃんのこと
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三年前の七月、大好きなおばあちゃんが金目病院に入院した。
『検査をするだけだから、一週間で退院できるよ』
そう言っていたのに、夏休みが終わっても帰って来なかった。
病院はあまり好きじゃない。それは今も変わらない。
理由はいろいろあるけど……。
いつも過ごしている世界と別世界――異世界にトリップしたようで怖い、からかもしれない。
でも、おばあちゃんのために我慢して、できるだけ毎日お見舞いに行った。
それで分かった。病院にも校則みたいな院内規則というものがあり、入院生活もきゅうくつだと。
「お見舞いはね、面会時間内に伺うのが礼儀なのよ。滞在時間は一時間以内がベストね。患者さんが疲れちゃうから」
物知りが顔でお母さんはそう言っていたけど、自分はおばあちゃんと二、三時間以上はおしゃべりしていた。言動が一致していないこういう子は、学校にもけっこういる。そういうところも学校とちょっと似ていた。
時々、私もそういう子になるけど、おばあちゃんのことは別だった。
病室に長く居座る気は全くなかった。
元気な姿を見てホッとすると、お尻がムズムズしたからだ。
理由は――窓の下に見えるブランコに乗りたかったからだと思う。
「公園に行ってもいい?」
「またぁ? だからお留守番していなさいって言ってるのに。それに……」
お母さんは、三十分も経たないうちにそう言い出す私に、毎回、あきれたようすでお小言を並べた。
「まぁまぁ、いいじゃないかい。病室なんて所は、子供が長くいる場所じゃないんだから」
それをなだめてくれたのは、いつもおばあちゃんだった。
お母さんもおばあちゃんには逆らえないみたいだ。
「気を付けるのよ。知らない人には付いていっちゃダメよ」
しぶしぶだけどOKしてくれたのは、だからだと思う。
「うん。いってきまーす」
「ここから見ているからね」
おばあちゃんはそんな風にいつも私を見守ってくれた。
だから、安心してどこへでも行けたんだろうな。なのに――。
赤や黄色の葉っぱが地面に舞い散り始めたあの日。本当に穏やかな日だったのに……。
いつものようにお見舞いに行き、いつものように飽きて、いつものように公園で遊んでいたら、お母さんとおばあちゃんがやって来た。こんなことは初めてだった。
私はすぐさまブランコから飛び降りると、車椅子を押すお母さんに駆け寄った。
「どうしたの外出していいの?」
「ええ、お医者様が許可して下さったの」
「そっかー、おばあちゃん、良かったね」
お母さんの答えが嬉しくて、ぴょんぴょん飛び跳ねていたら、「あらあら、めぐちゃんたら、うさぎさんみたいだね」とおばあちゃんが笑い出した。
おばあちゃんはころころと本当に楽しそうに笑う。その笑い声が好きだった。
なのに……入院してからあまり笑わなくなった。
こんな風に声を上げて笑ったのは久し振りだった。だから、すごく嬉しかった。
もっと笑って欲しくて、両手を頭の上に立てて、ぴょんぴょん跳ねた。
でも……その格好で車椅子を覗き込んだとたん――固まってしまった。
太陽の下で見るおばあちゃんは、カーテンの敷かれた病室で見るおばあちゃんと、ぜんぜん違ったからだ。
骨と皮だけの顔は土色に黒ずんでいて、頬や目はげっそり凹んでいて、まるで骸骨みたいで……あのキリリとした美しいおばあちゃんとは別人だった。
「ここは、気持ちがいいね」
微笑みまで違って見え、しゅるしゅると元気が消えていった。
「久し振りに、私も乗ろうかね」
そんな私の様子に気付いたのか、おばあちゃんが元気よく声をかけた。
「えっ、何に?」
「ブランコだよ」
「だいじょうぶかな?」
心配になり、お母さんに目を向けると、お母さんはこくりとうなずき、車いすをブランコのわきに寄せた。
どうしたんだろう? ちょっといつものお母さんと違って見えた。
「恵も手伝って」
それから二人でおばあちゃんを支えながらブランコに座らせてあげた。
しわしわの細い手が、弱々しいながらもしっかり鎖を握り締めるのを見て、なぜか涙が出そうになった。
「おばあちゃん、押す?」
それを誤魔化すように訊くと、おばあちゃんが大きくうなずいた。
「はい、お願いします」
「恵、優しくよ」
お母さんが心配そうに目配せする。
「うん」
(やさしく……やさしく……)
そう心の中で呟きながらおばあちゃんの背中を押した。
「いい気持ち。このまま天に昇って行けそうだね」
ゆらゆら揺れるおばあちゃんが、空を仰いで嬉しそうに笑った。
(あっ、同じだ!)
私も、思いきりこいで、空が近くになると――いつもお腹の中がくにゅとして、頭の中がふわっと浮き上がって、「飛んで行けそう」そう感じた。
「私もあの空まで行ける?」
真っ青な空に白い雲が一つ、二つ、気持ちよさそうに浮かんでいた。
(あの雲の上でお昼寝できたら、きっと気持ちがいいだろうな……)
うっとりと見上げていると、「残念だけど、めぐちゃんはまだ行けないね」とおばあちゃんが答えた。
「えっ! どうして?」
驚いて訊くと、「そうだね……」とちょっと考えて、ゆっくり話し出した。
「もっとたくさん学んだり遊んだりして、楽しい思い出をいっぱい作って、おばあちゃんぐらいの年にならないとね、行けないんだよ」
その声はしみじみと落ち着いていたけど……いつものような柔らかさはなかった。
「ふうん」
再び空を見上げると、雲はあいかわらずぷかぷか気持ち良さそうに青い空を泳いでいた。
(早く行ってみたいなぁ)
そう思いながら見つめていた空に……おばあちゃんは二日後、一人で行ってしまった。
その日も抜けるような青空だった――が、気持ちがいいとは思わなかった。
空に突き刺さるようにそびえる煙突が、すごく憎らしかったからかもしれない。
そこから煙は出ていなかったけど、陽炎のような揺らめきは見えた。
訊かなくても分かった。あの陽炎がおばあちゃんだと。
それが天に昇り、白い雲と溶け合い、風に吹かれ、消えた。
(おばあちゃんが行っちゃった……もういない……)
そう思ったとたん、私の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
私が『死』というものを初めて認識したのは、この時だった。
『検査をするだけだから、一週間で退院できるよ』
そう言っていたのに、夏休みが終わっても帰って来なかった。
病院はあまり好きじゃない。それは今も変わらない。
理由はいろいろあるけど……。
いつも過ごしている世界と別世界――異世界にトリップしたようで怖い、からかもしれない。
でも、おばあちゃんのために我慢して、できるだけ毎日お見舞いに行った。
それで分かった。病院にも校則みたいな院内規則というものがあり、入院生活もきゅうくつだと。
「お見舞いはね、面会時間内に伺うのが礼儀なのよ。滞在時間は一時間以内がベストね。患者さんが疲れちゃうから」
物知りが顔でお母さんはそう言っていたけど、自分はおばあちゃんと二、三時間以上はおしゃべりしていた。言動が一致していないこういう子は、学校にもけっこういる。そういうところも学校とちょっと似ていた。
時々、私もそういう子になるけど、おばあちゃんのことは別だった。
病室に長く居座る気は全くなかった。
元気な姿を見てホッとすると、お尻がムズムズしたからだ。
理由は――窓の下に見えるブランコに乗りたかったからだと思う。
「公園に行ってもいい?」
「またぁ? だからお留守番していなさいって言ってるのに。それに……」
お母さんは、三十分も経たないうちにそう言い出す私に、毎回、あきれたようすでお小言を並べた。
「まぁまぁ、いいじゃないかい。病室なんて所は、子供が長くいる場所じゃないんだから」
それをなだめてくれたのは、いつもおばあちゃんだった。
お母さんもおばあちゃんには逆らえないみたいだ。
「気を付けるのよ。知らない人には付いていっちゃダメよ」
しぶしぶだけどOKしてくれたのは、だからだと思う。
「うん。いってきまーす」
「ここから見ているからね」
おばあちゃんはそんな風にいつも私を見守ってくれた。
だから、安心してどこへでも行けたんだろうな。なのに――。
赤や黄色の葉っぱが地面に舞い散り始めたあの日。本当に穏やかな日だったのに……。
いつものようにお見舞いに行き、いつものように飽きて、いつものように公園で遊んでいたら、お母さんとおばあちゃんがやって来た。こんなことは初めてだった。
私はすぐさまブランコから飛び降りると、車椅子を押すお母さんに駆け寄った。
「どうしたの外出していいの?」
「ええ、お医者様が許可して下さったの」
「そっかー、おばあちゃん、良かったね」
お母さんの答えが嬉しくて、ぴょんぴょん飛び跳ねていたら、「あらあら、めぐちゃんたら、うさぎさんみたいだね」とおばあちゃんが笑い出した。
おばあちゃんはころころと本当に楽しそうに笑う。その笑い声が好きだった。
なのに……入院してからあまり笑わなくなった。
こんな風に声を上げて笑ったのは久し振りだった。だから、すごく嬉しかった。
もっと笑って欲しくて、両手を頭の上に立てて、ぴょんぴょん跳ねた。
でも……その格好で車椅子を覗き込んだとたん――固まってしまった。
太陽の下で見るおばあちゃんは、カーテンの敷かれた病室で見るおばあちゃんと、ぜんぜん違ったからだ。
骨と皮だけの顔は土色に黒ずんでいて、頬や目はげっそり凹んでいて、まるで骸骨みたいで……あのキリリとした美しいおばあちゃんとは別人だった。
「ここは、気持ちがいいね」
微笑みまで違って見え、しゅるしゅると元気が消えていった。
「久し振りに、私も乗ろうかね」
そんな私の様子に気付いたのか、おばあちゃんが元気よく声をかけた。
「えっ、何に?」
「ブランコだよ」
「だいじょうぶかな?」
心配になり、お母さんに目を向けると、お母さんはこくりとうなずき、車いすをブランコのわきに寄せた。
どうしたんだろう? ちょっといつものお母さんと違って見えた。
「恵も手伝って」
それから二人でおばあちゃんを支えながらブランコに座らせてあげた。
しわしわの細い手が、弱々しいながらもしっかり鎖を握り締めるのを見て、なぜか涙が出そうになった。
「おばあちゃん、押す?」
それを誤魔化すように訊くと、おばあちゃんが大きくうなずいた。
「はい、お願いします」
「恵、優しくよ」
お母さんが心配そうに目配せする。
「うん」
(やさしく……やさしく……)
そう心の中で呟きながらおばあちゃんの背中を押した。
「いい気持ち。このまま天に昇って行けそうだね」
ゆらゆら揺れるおばあちゃんが、空を仰いで嬉しそうに笑った。
(あっ、同じだ!)
私も、思いきりこいで、空が近くになると――いつもお腹の中がくにゅとして、頭の中がふわっと浮き上がって、「飛んで行けそう」そう感じた。
「私もあの空まで行ける?」
真っ青な空に白い雲が一つ、二つ、気持ちよさそうに浮かんでいた。
(あの雲の上でお昼寝できたら、きっと気持ちがいいだろうな……)
うっとりと見上げていると、「残念だけど、めぐちゃんはまだ行けないね」とおばあちゃんが答えた。
「えっ! どうして?」
驚いて訊くと、「そうだね……」とちょっと考えて、ゆっくり話し出した。
「もっとたくさん学んだり遊んだりして、楽しい思い出をいっぱい作って、おばあちゃんぐらいの年にならないとね、行けないんだよ」
その声はしみじみと落ち着いていたけど……いつものような柔らかさはなかった。
「ふうん」
再び空を見上げると、雲はあいかわらずぷかぷか気持ち良さそうに青い空を泳いでいた。
(早く行ってみたいなぁ)
そう思いながら見つめていた空に……おばあちゃんは二日後、一人で行ってしまった。
その日も抜けるような青空だった――が、気持ちがいいとは思わなかった。
空に突き刺さるようにそびえる煙突が、すごく憎らしかったからかもしれない。
そこから煙は出ていなかったけど、陽炎のような揺らめきは見えた。
訊かなくても分かった。あの陽炎がおばあちゃんだと。
それが天に昇り、白い雲と溶け合い、風に吹かれ、消えた。
(おばあちゃんが行っちゃった……もういない……)
そう思ったとたん、私の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
私が『死』というものを初めて認識したのは、この時だった。
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