星の少女

米原湖子

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2.思い出のブランコ

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 ぼーん、ぼーん。
 柱の大時計が鳴り出した。これはおばあちゃんの部屋にあったものだ。私が形見にもらった。
 この音を聞くたびに、いつも少しだけ淋しさがまぎれる。

(八時か……)
 時計に目をやり明日のことを考える――と、とたんに喉が詰まり、息苦しくなる。
「いやだな……学校……行きたくないなぁ」
 気分を変えようと読みかけの本を開くが、目尻の上がったお母さんの顔が浮かび、そっと閉じる。

『またそんな本を読んで! そんな暇があるなら勉強しなさい!』
 五年生になったとたん、口うるさくなったお母さん。
 塾にも週四日、通わされるようになった。これでもまだ少ないらしい。
 ――だから近頃、少しもゆっくりする暇がない。

「疲れたなぁー」
 溜息を吐いた瞬間、笑いが込み上げてきた。
「やだ、お母さんの口ぐせ、そっくり」

 朝早くから夜遅くまで働きづめのお母さん。
 年なんだから疲れるのは当たり前なのに……。
『あなたを私立中学に行かせるにはたくさんお金がいるの。お父さんと二人、一生懸命働かなくちゃ』
 そう言って、もうひとつパートを増やしたお母さん。
(私立になんて行かなくてもいいのに……)
 お父さんにもお母さんにも、無理をして欲しくなかった。

 だから何度も『あのね……』と話しかけるが、聞いてくれない。
『言いたいことがあったら早く言って。時間がないの忙しいの。そうそう、お友だちのお子さんがね、友長女学院に入学されたんですって、あそこもいいかも』
 話を聞かない代わりに、言いたいことだけ言って、『勉強はね、できるときに頑張ったほうがいいのよ!』と、意見だけする。
 おまけに、『あなたのことを思って言っているの。分かっているの?』と、最後はこの言葉で締めくくられ、何も言えなくなってしまう。

(そんなの分かっている。けど……何でだろ……)
 ふとした瞬間、淋しさや悲しみが胸の中からあふれ出てきて、溺れそうになる。
(勉強って……何だろう……)

 こんな思いまでしてしなければいけないのだろうか?
 それがどんな意味を持つのだろう?
 その先には何があるというの?

(けっきょく、私は何がしたいの? どうなりたいの?)
 考えれば考えるほど分からなくなってしまう。
(物語を読んだり、書いたりしているほうが楽しいのに……)
 そして、考えるのが嫌になり、最後はそう思うのだった。

 学校でイジメが始まったのも、そんな風に思い始めた頃からだ。
『お前、何見てんだよ!』
 いつもどこか遠くを見つめ、ぼんやりしている私が、皆は気に食わないようだ。
『お前、普通じゃないよなぁ』
(普通って何?)
『ぼけぼけするなよな」
 一人が悪口を言い出すと、尻馬に乗って他の子たちも面白そうにはやし立てる。
 ターゲットの誕生だ。

『恵ちゃんって、変だよね』
(どこが変なのかな?)
 考えても分からなかった。
 ただ、この学校は名の通った学校で、学年の半数以上の子が中学受験をする。
 だからだと思う。高学年になったとたん、ピリピリとした空気が漂い始めたのは。
 ターゲットは、そのイライラを発散するための生けにえだと思う。

「おばあちゃんのところへ行こうかな……」
 そんなことを思い返していると、ふと、あの公園が頭に浮かんだ。
(楽しかったな……)

「そうだ、おばあちゃんのところへ行こう!」
 ちょうど、お父さんは残業で、お母さんはPTAの用事で出かけていた。チャンスだった。
 カーテンを少し開け、外を見る。夜空にまん丸いお月様とたくさんのお星様が顔を出していた。月明かりのおかげでそれほど暗くない。

「うん」
 大きくうなずくと、白いジャケットを着込み、自転車のカギを持って外に出た。でも、四月といっても夜はまだ肌寒い。
「やっぱりやめようかな……」
 暖かな部屋を思い出して一瞬ためらうが、明日のことを考えると――それはすぐに消え去った。

「よし!」
 口を一文字に結びペダルを強く踏み込むと、ショートヘヤーの髪が風にさらりと流される。
「うわあ、寒いよぉ」
 とっさに出た言葉はそれだった。
「でも、いい気持ちだよぉ……うわぁ」
 スピードを出すにしたがって、冷たい風が肌をす。
 でも、頭の中がまっさらになっていくようだった。それは久し振りに味わう、いい気分だった。

 そのまま団地を抜け、シャッターの閉まった商店街通りに入る――その時だった。
(まずい!)
 前方から数人の大人たちがこちらに向かって歩いてきた。
(何か言われたらどうしよう)
 ドキドキしながら通り過ぎる――が、大人たちは話に夢中で何も言わなかった。

(塾帰りだとでも思ったのかな?)
 こんな時間に子供が一人でうろうろしていても、不思議だと思わないのが、普通の世の中なのかな?
 首を傾げるが、でも……とニヤリと笑って、「良かった」とまたペダルを思いっ切り踏んだ。

 誰にも邪魔されない空間。そこに身を置いていると、少しだけ大人になったような気がした。
「うーん、いい! 気持ちいいー」
 自転車をどんどん走らせる。

 商店街から大通りのポプラ並木を通り抜け、角の交番脇を右に曲がり、川沿いに坂を上る。
「えっほ! やっほ!」
 足を踏ん張り立ちこぎする。
「ふえー」
 そして、上り切ったところで大きく息を吐き出した。
 あんなに寒かったのに体がぽかぽかしていた。

「あった!」
 少し向こうに木々に囲まれた小さな公園が見えた。
「ん……?」
 もやがかかっているのか、公園が、月明かりに照らされて青白い影絵のように見えた。

(幻想的な世界……)
 以前読んだ本に、こんな場面が描かれていた。その挿絵さしえにそっくりの風景だった。
「最高!」
 小躍りしたくなるような感動を覚え、ワクワクと胸躍らせながら少し坂を下る。

(行けるかも……)
 そして、急いで自転車を降り、乱暴にフェンスに立てかけると、どきどきする胸を押さえて、その世界に足を踏み入れた。

「あっ!」
 靄の中にブランコが見えた。その瞬間、私は駆け出した。
(何年ぶりだろ?)
「あれ? 低くなった?」
 腰掛ける部分が前よりずっと下に見える。
 ぐるりと辺りを見回して、(……こんなだっけ?)ときょとんとする。
 小さな公園が、さらに小さくなったように感じたのだ。

(あっ)
 だが、変わらないものもあった。
(あそこにおばあちゃんがいたんだ)
 五階の右端。見上げたのは金目病院だった――なのに、夜見るとその建物は、とてつもなく大きな怪物に見え、怖いと思った。

 ごくりとつばを飲み込むと、ぶるぶると頭を振り、「さてと!」と、わざと大きな声を出してブランコの鎖をつかんだ。
「うわっ、冷たい!」
 氷のような冷たさだった。
 それでもめげずに鎖を握ったまま、すとんと腰を下ろした。そして、縮こまっていた首をぐっと伸ばすと、勢い良く地面を蹴った。

 最初は小さな揺れが、足を振るたびにどんどん大きくなっていく。
 ひんやりとした風が全身を覆う。
「うひょー、さむーい!」
 でも、笑いが込み上げる。
(ほんとうに久し振りだなぁ)
 頭の中にいろんな思いが浮かんでは消えていく。
 
(おばあちゃん……)
 いつの間にか靄が晴れていた。澄み切った夜空にたくさんの星が競い合うように輝いている。
 私は星を見上げながらブランコをこぎ続けた。

 高く上がったブランコが、地上に降りるたびに、お腹の中がぐにゅとして、頭の中がふわっと浮き上がる。
「行ける! 待っていてね、おばあちゃん」
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