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妄想編
56話【off duty】新條 浩平:119番(藍原編)①
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西園寺先生からのむちゃぶりのおかげで、最近は残業続きで帰りが遅くなる。おかげで、実家の親からの不在配達票が3日間も放置されてた。生ものって書いてあるから、さすがにこれ以上はまずいわ。水曜日の今日は早く帰って、宅急便を受け取った。見ると……段ボールいっぱいの、梨。
『香織ちゃん、元気? 旬の梨を送ります。無理せず頑張ってね! お母さんより』
えーと、うれしいんだけど、さすがにひとりでは食べきれない。どうしよう……医局に持っていって、みんなに食べてもらおうかしら。でも、運ぶの重たいし……。
ふと、隣の部屋で物音がした。新條くん、いるのね。……こないだ迷惑かけたし、新條くんにおすそ分けしようかしら……。あんまり、患者さんと仲良くなったりプライベートで付き合うのは好きじゃないんだけど……もう、あんなことになってしまったし、今更よね……。
ビニール袋に梨を入れて、新條くんちのインターホンを押した。
ピンポーン。
……。返事がない。おかしいな、さっき物音がしたと思ったけど。取り込み中かな?
ピンポーン。
もう1回鳴らしてみる。やっぱり出ない。留守なのかな? また後で来ようかな……と思いながらドアノブを回してみたら……鍵が、開いてる。
「……新條くん……?」
そーっとドアを開けて、中を覗いてみる。いた。新條くん、床に寝っ転がってる。なんだ、いるんじゃない。
「新條くん、ちょっとおすそ分けを……」
声をかけながら近づいて、異変に気づいた。
「う……はぁ、はぁ、うう……」
新條くんが、苦しそうに胸を抱えるようにして倒れていた。
「新條くん!? どうしたの、大丈夫!?」
大粒の汗をかきながら、新條くんがあたしのほうを見た。
「せ、先生……く、るし……息が……」
うそでしょ。どうしちゃったの、新條くん!? 過呼吸? 喘息? どれも違う。身の置き所がないように体をよじり、浅く速い息をして、大量の汗と、……首筋の頸静脈が、怒張してる。
「……救急車呼ぶわよ!?」
あたしはダッシュで部屋に置いてきた携帯電話を取りに行く。救急車に通報なんて、人生で2度目だ。1回目は、博多で西先生とCPAに遭遇したとき。あのときと同じくらい、パニックになりそうに心臓がバクバクいってる。でも、あのときとは違って、今は西先生はいない。あたしひとりだけだ。あたしが、何とかしなきゃ……!
「新條くん、すぐ救急車来るから、がんばって!」
新條くんが苦悶様の表情を浮かべる。
「胸が、痛い……息が、苦しい……」
新條くんの手首を持って脈を測る。116回、頻脈だ。でも、それ以上に気になるのは……脈が、弱い。血圧が、下がってるかもしれない。チアノーゼはない。若い男性で、突然の胸痛と呼吸苦、そして頸静脈怒張……。
ものすごく、いやな予感がする。
ふいにサイレンの音が聞こえてきて、アパートの前で止まった。すぐに救急隊が入ってくる。ストレッチャーで手際よく救急車に乗せた。あたしも一緒に乗る。
「20歳男性、突然の胸痛と呼吸苦です」
「あなたはご家族ですか?」
「いえ、隣に住んでる者です」
救急隊のひとりが血圧や脈を測り始める。もうひとりが受け入れ先の病院を探し始めたのを見て、あたしは叫んだ。
「M病院に搬送してください! あたし、そこの内科医の藍原です」
「意識レベル1、血圧92の40、脈拍120、整。呼吸数24回、サチュレーション92%!」
救急隊が報告する。酸素が低い。血圧も、プレショックの状態だ。
「三次救急の適応よ!」
「こちら〇×救急、三次救急の受け入れ要請です。同乗者はそちらに勤務している内科の藍原先生――」
「聴診器ちょうだい」
ひったくるように壁にかかった聴診器を取ると、急いで胸の音を聞いた。左胸の呼吸音が、ほとんど聞こえない。右は正常。聴診器を投げ捨て、今度は胸の打診をする。トントン、トントン、と叩くと、左胸で音が響く。
これは、間違いない……間違いないと、思うけど……。
バクバクうるさい心臓の音を何とか無視しながら、懸命に頭を働かせる。国試に頻出の疾患だから、特徴は頭に入ってる。あたしも救命を研修してるときに1回だけ遭遇した。でもあのときは、ショックになる前だったし、こんなに緊急性はなかった。だけど……
救急車がサイレンを鳴らして動き始めた。よかった、M病院の救命センターが、すぐ受け入れてくれたらしい。
「血圧78の34、意識レベル2に落ちてます!」
切羽詰まった救急隊の声で、あたしは決断した。
「18ゲージの針、ください!」
「え、18ゲージ?」
「何でもいいから、一番太いやつ! 留置針、なければ直針でも、とにかく早くっ!」
手渡された点滴用の針を持ち、新條くんの左胸の肋骨を触る。針を、まっすぐに構える。刺そうとして、一瞬だけためらう。
もうさっきからずっと、心臓が早鐘を打っている。この処置で、あってるはず。あってるはずだけど、教科書でしか見たことのないやり方だし、もしあたしの診断が間違ってたら、逆に新條くんの命を危険に曝すことになる……。
「ううっ、はぁ、はぁ、ううう……っ」
新條くんは呻き声をあげながら頭を振っている。博多での、西先生の姿を思い出した。自信にあふれ、的確な判断、無駄のない動き。
「新條くん、がんばって! あと少しで病院だから!」
もう、迷ってる暇はない。あたしは全神経を集中させて、慎重に、素早く、針を刺した。左胸に突き刺さった針から、シューッと音がして空気が勢いよく抜ける。もう1本。2本針を刺したところで、またバイタルを測る。
「血圧72の32、脈拍124、サチュレーション90%」
ダメだ、間に合わないかもしれない。
「新條くん、聞こえる!? がんばるのよ、絶対助かるから!」
耳元で懸命に叫ぶ。病院が近づいてきた。
「血圧80の42、サチュレーション93%!」
少しだけ回復した! サイレンが止み、救急車が停まった。ハッチが開き、搬入口では群青色の術着を着た救命センターの医師たちが待っていた。
「藍原! おまえだったのか」
医師たちの中に、同期の桜庭くんを見つける。あたしは叫んだ。
「緊張性気胸よ! 救急車内でショック状態になったから、緊急処置で左胸に18ゲージを2本差した!」
「了解! あとは任せろ」
4人の医師たちが、ストレッチャーに乗せられた新條くんを手際よく処置室に運んでいった。その後ろ姿を、ぼんやりと見送る。さっきまでひとりで不安で仕方なかったけれど、センターに消えていった新條くんを見て、どっと体の力が抜ける。白衣ではなく半袖の術着を着て、素早く指示を飛ばしながら治療に向かう救命センターの医師たちの背中が、とても頼もしく見えた。
「藍原先生、お疲れ様です。同乗って聞いたから外勤先の患者様かと思ったら、たまたま遭遇したんですね? こちらでお待ちになりますか?」
救命センターのナースが案内してくれる。そうだよね、普通は、医者が同乗するっていったら、白衣着て、勤務中に診た患者さんを送るんだものね。あたしだって、まさかお隣さんが救急搬送になるなんて夢にも思わなかった。
「……そうね、待たせてもらうわ。落ち着いたら、声かけてくれる?」
ナースはにっこり笑った。
「了解です。大丈夫ですよ、きっと助かります」
『香織ちゃん、元気? 旬の梨を送ります。無理せず頑張ってね! お母さんより』
えーと、うれしいんだけど、さすがにひとりでは食べきれない。どうしよう……医局に持っていって、みんなに食べてもらおうかしら。でも、運ぶの重たいし……。
ふと、隣の部屋で物音がした。新條くん、いるのね。……こないだ迷惑かけたし、新條くんにおすそ分けしようかしら……。あんまり、患者さんと仲良くなったりプライベートで付き合うのは好きじゃないんだけど……もう、あんなことになってしまったし、今更よね……。
ビニール袋に梨を入れて、新條くんちのインターホンを押した。
ピンポーン。
……。返事がない。おかしいな、さっき物音がしたと思ったけど。取り込み中かな?
ピンポーン。
もう1回鳴らしてみる。やっぱり出ない。留守なのかな? また後で来ようかな……と思いながらドアノブを回してみたら……鍵が、開いてる。
「……新條くん……?」
そーっとドアを開けて、中を覗いてみる。いた。新條くん、床に寝っ転がってる。なんだ、いるんじゃない。
「新條くん、ちょっとおすそ分けを……」
声をかけながら近づいて、異変に気づいた。
「う……はぁ、はぁ、うう……」
新條くんが、苦しそうに胸を抱えるようにして倒れていた。
「新條くん!? どうしたの、大丈夫!?」
大粒の汗をかきながら、新條くんがあたしのほうを見た。
「せ、先生……く、るし……息が……」
うそでしょ。どうしちゃったの、新條くん!? 過呼吸? 喘息? どれも違う。身の置き所がないように体をよじり、浅く速い息をして、大量の汗と、……首筋の頸静脈が、怒張してる。
「……救急車呼ぶわよ!?」
あたしはダッシュで部屋に置いてきた携帯電話を取りに行く。救急車に通報なんて、人生で2度目だ。1回目は、博多で西先生とCPAに遭遇したとき。あのときと同じくらい、パニックになりそうに心臓がバクバクいってる。でも、あのときとは違って、今は西先生はいない。あたしひとりだけだ。あたしが、何とかしなきゃ……!
「新條くん、すぐ救急車来るから、がんばって!」
新條くんが苦悶様の表情を浮かべる。
「胸が、痛い……息が、苦しい……」
新條くんの手首を持って脈を測る。116回、頻脈だ。でも、それ以上に気になるのは……脈が、弱い。血圧が、下がってるかもしれない。チアノーゼはない。若い男性で、突然の胸痛と呼吸苦、そして頸静脈怒張……。
ものすごく、いやな予感がする。
ふいにサイレンの音が聞こえてきて、アパートの前で止まった。すぐに救急隊が入ってくる。ストレッチャーで手際よく救急車に乗せた。あたしも一緒に乗る。
「20歳男性、突然の胸痛と呼吸苦です」
「あなたはご家族ですか?」
「いえ、隣に住んでる者です」
救急隊のひとりが血圧や脈を測り始める。もうひとりが受け入れ先の病院を探し始めたのを見て、あたしは叫んだ。
「M病院に搬送してください! あたし、そこの内科医の藍原です」
「意識レベル1、血圧92の40、脈拍120、整。呼吸数24回、サチュレーション92%!」
救急隊が報告する。酸素が低い。血圧も、プレショックの状態だ。
「三次救急の適応よ!」
「こちら〇×救急、三次救急の受け入れ要請です。同乗者はそちらに勤務している内科の藍原先生――」
「聴診器ちょうだい」
ひったくるように壁にかかった聴診器を取ると、急いで胸の音を聞いた。左胸の呼吸音が、ほとんど聞こえない。右は正常。聴診器を投げ捨て、今度は胸の打診をする。トントン、トントン、と叩くと、左胸で音が響く。
これは、間違いない……間違いないと、思うけど……。
バクバクうるさい心臓の音を何とか無視しながら、懸命に頭を働かせる。国試に頻出の疾患だから、特徴は頭に入ってる。あたしも救命を研修してるときに1回だけ遭遇した。でもあのときは、ショックになる前だったし、こんなに緊急性はなかった。だけど……
救急車がサイレンを鳴らして動き始めた。よかった、M病院の救命センターが、すぐ受け入れてくれたらしい。
「血圧78の34、意識レベル2に落ちてます!」
切羽詰まった救急隊の声で、あたしは決断した。
「18ゲージの針、ください!」
「え、18ゲージ?」
「何でもいいから、一番太いやつ! 留置針、なければ直針でも、とにかく早くっ!」
手渡された点滴用の針を持ち、新條くんの左胸の肋骨を触る。針を、まっすぐに構える。刺そうとして、一瞬だけためらう。
もうさっきからずっと、心臓が早鐘を打っている。この処置で、あってるはず。あってるはずだけど、教科書でしか見たことのないやり方だし、もしあたしの診断が間違ってたら、逆に新條くんの命を危険に曝すことになる……。
「ううっ、はぁ、はぁ、ううう……っ」
新條くんは呻き声をあげながら頭を振っている。博多での、西先生の姿を思い出した。自信にあふれ、的確な判断、無駄のない動き。
「新條くん、がんばって! あと少しで病院だから!」
もう、迷ってる暇はない。あたしは全神経を集中させて、慎重に、素早く、針を刺した。左胸に突き刺さった針から、シューッと音がして空気が勢いよく抜ける。もう1本。2本針を刺したところで、またバイタルを測る。
「血圧72の32、脈拍124、サチュレーション90%」
ダメだ、間に合わないかもしれない。
「新條くん、聞こえる!? がんばるのよ、絶対助かるから!」
耳元で懸命に叫ぶ。病院が近づいてきた。
「血圧80の42、サチュレーション93%!」
少しだけ回復した! サイレンが止み、救急車が停まった。ハッチが開き、搬入口では群青色の術着を着た救命センターの医師たちが待っていた。
「藍原! おまえだったのか」
医師たちの中に、同期の桜庭くんを見つける。あたしは叫んだ。
「緊張性気胸よ! 救急車内でショック状態になったから、緊急処置で左胸に18ゲージを2本差した!」
「了解! あとは任せろ」
4人の医師たちが、ストレッチャーに乗せられた新條くんを手際よく処置室に運んでいった。その後ろ姿を、ぼんやりと見送る。さっきまでひとりで不安で仕方なかったけれど、センターに消えていった新條くんを見て、どっと体の力が抜ける。白衣ではなく半袖の術着を着て、素早く指示を飛ばしながら治療に向かう救命センターの医師たちの背中が、とても頼もしく見えた。
「藍原先生、お疲れ様です。同乗って聞いたから外勤先の患者様かと思ったら、たまたま遭遇したんですね? こちらでお待ちになりますか?」
救命センターのナースが案内してくれる。そうだよね、普通は、医者が同乗するっていったら、白衣着て、勤務中に診た患者さんを送るんだものね。あたしだって、まさかお隣さんが救急搬送になるなんて夢にも思わなかった。
「……そうね、待たせてもらうわ。落ち着いたら、声かけてくれる?」
ナースはにっこり笑った。
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