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第15話(1) 執事の信条
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事が終わってみれば鳥の声しか聞こえない静かな路地裏を二人並んで歩いている。
フィリアはこの色褪せてジメジメとした空間を初めて知った。
土壁の建物に挟まれた圧迫感満載の薄暗い道には、黒く汚れたゴミ箱や苔生した樽が無造作に置かれている。見上げれば切り取られた細い空と、煙突からは紙を燃やした時の匂いを放つ白い煙。側溝を流れる水の音さえ見知らぬ人の生活感を覚えて不気味だった。
建物の裏側の方から石畳を走り回るかすかな靴音が聞こえて来る。あのヒールの入った靴音は恐らくミーナだ。さっき、彼女たちを放ってシドを追いかけてきてしまったから、フィリアを探し回っているのだろう。主人を見失った侍女の真っ青な顔が脳裏に浮かんだ。
ごめんなさいと心に呟きながら、けれど今は……今だけはシドと二人で話がしたい。
「……あ、あの、シド様はこういう場所には慣れておられるのですか……?」
「……え?」
「その、不思議な場所だと思いまして」
シドは自分をミーナだと思いこんでいる――そんな勘違いがフィリアにそれを言わせていた。犯人や護衛とは少し距離を置いているから聞こえないだろうし、同じ使用人のミーナになら、シドが個人的な話をしてくれるかもしれないと思ったのだ。
サプラスさえも騙しおおせたフィリア渾身のミーナっぽい口調に、シドも躊躇いがちに優しく返事をしてくれた。
「……あ、ああ、いや……、ここは私の庭みたいな場所なんだ」
「庭……?」
丁度その時、居住区の勝手口と思われる部分のドアが開き、中から小太りのおばさんが現れた。濃い焦げ茶色の髪が特徴的で質素なエプロンをしている。シドを見るなりぱっと明るい表情になった。
「おや、シドじゃないか。久しぶりだねぇ。良い身なりして里帰りかい?」
「ああ、センリさん、こんにちは。残念ながら今日は違うんだ。今から帰るところだよ」
「なぁんだ、あんたがいると知ったらヨハンもベンスもみんな喜ぶだろうに。この間イグルさんとこで赤ちゃんが生まれたんだよ。女の子。また今度帰ったら会いに行きな」
「それは良かった、もちろん会いに行くよ」
シドは少しだけ歩を止めて談笑した後、おばさんに手を振ってすぐに歩き出した。そして再びフィリアの方を見る。
「この近くに生家があるんだ。ここよりもう少し開けた所だけどね。バゼルも休みの日には帰ってきた場所だよ」
「まあ……」
驚くことばかりだ。シドやバゼルがこの近くに暮らしていたなんて想像もできなかった。上級使用人は基本的に貴族家出身だから、シドももっと良い場所に住んでいると思いこんでいたのだ。
住人は気さくなようだから少し安心したけれど、街の裏側を知らなかったフィリアにとっては、うらびれた空気や黴のにおいがとてもショックだった。
「私は子供の頃はこの辺りでよく遊んだものだ。今も母が住んでいるよ。帰ればいつもご馳走を用意して歓迎してくれる」
「ご馳走を? 愛すべきお母様ですね」
「ああ。アイボット家の男は仕事ばかりで家に帰ることが少ないが、それを承知でうちに嫁ぎ、ほとんど一人で私を育ててくれた。敬愛すべき母だと思う」
知らなかった。アイボット家は、侯爵家のせいで多くの自由を奪われて来たのだ。少し考えれば容易に想像できたはずなのに。何も、知らなかった。
「……シド様は、侯爵家に縛られるまま使用人になって……その、お辛くはないですか」
「…………これも私の運命だ。執事という職もなかなか面白いものだよ」
「本当にそうでしょうか、でしたらどうして騎士団学校へ行ってらっしゃったのですか」
「…………さあ、どうしてだったかな」
彼はまるで今話したことを後悔するように空を見上げて息を吐き、そして黙り込んでしまった。
フィリアはヴェールの下でその人の顔を見上げる。
「でしたら、質問を変えましょう。どうして黒髪の騎士がご自分だと名乗り出なかったのですか」
「……名乗り出たら終わってしまうからね」
「なにが?」
突然、側溝から白い蒸気がもくもくと噴き出してフィリアの行く手を阻んだ。
思わず「ひゃぁっ」と声を上げておののいたのを見てシドが笑った。
「こういう場所は初めてかい。裏側はあまり綺麗な所じゃないが、表の道路沿いにはなかなか良い店が並んでいるんだ。特に噴水近くにあるパン屋は旨い」
「いえ、あの、何が……?」
「うーん、ベリーのジャムパンも良いが、あの店はベーグルパンが一番旨いかな」
「そうじゃなくて」
「食べたことないだろう。なら、もし私が執事を続けることができたら、また今度君に買ってきてあげよう。もしかするとその前に左遷になってしまうかもしれないが」
「…………」
シドは自分がミーナではないと気付いている――と、その時ようやく分かった。また騙された気分だ。人のことは言えないけれど。
これで従順に芝居に付き合ったつもりなのだろうか。ミーナ達がシドから貰ったベーグルパンがどれだけ羨ましかったか知らないくせに!
なんだか、ムッとしてしまった。
苛立ち紛れにシドの腕をぎゅっと掴む。
「ばかね……!」
「はっ?」
声を出す間も与えず脇道へ連れ込んでやった。
護衛たちの後ろ姿が視界から消える。入り組んだ細い道へ駆け入ってさらに奥のそのまた奥の路地へ連れて行く。当然道なんか知らないから、シドがこの場所を知らなかったら迷子だ。
二人以外に動いている物は何もなくなり、上から細長い青空だけがのぞく一角で、フィリアは全身を使ってシドを壁に押し付けた。
長身の体と華奢な体が僅かに触れ合う。その人の顔を、これ以上ないくらいの切なげな表情で見上げた。ヴェールに隠れているからシドにはほとんど分からないだろうけれど。
「左遷になんかしないわ。させない。あなたは私だけの執事よ。誰にも渡さない」
「……お、お嬢様……いけません。護衛達が行ってしまいます。お嬢様は護衛から離れてはなりません」
「黙ってなさい。サプラスなんか信用できないわ。あの人はいつも笑顔の中に嘘を潜ませているの」
シドは首を横に振りながら、慌てたように彼女の両肩に手をやって距離をとった。
「例えそうであっても、今はお嬢様の護衛をお任せしている大事な騎士様です」
「護衛なんかもう不要でしょ。シドがいれば十分よ。私知ってるの。サプラスは悪い人には見えないけれど、本当はとても怖い一面を持っているって。歴戦の武人だから仕方がないけれど、お父様とは違うあの人特有の怖さがあるの。だから、あまり近付きたくないのよ」
「……ですが、この状況は」
「私はシドが好きよ」
「……っ」
怯んだシドとは対照的に、フィリアは真っ直ぐに正直に思いの丈を紡いだ。
「誰がなんと言おうとあなたは黒髪の騎士、運命の人よ……出会った時からそんな気がしていたわ。私は貴方を待っていたんだわ。ずっと、ずっと……」
いきなりそんなことを言われても理解できないだろうし、困るだろう。そんなことはフィリアにだって分かっている。けれど、もう破れかぶれだ。
<つづく>
フィリアはこの色褪せてジメジメとした空間を初めて知った。
土壁の建物に挟まれた圧迫感満載の薄暗い道には、黒く汚れたゴミ箱や苔生した樽が無造作に置かれている。見上げれば切り取られた細い空と、煙突からは紙を燃やした時の匂いを放つ白い煙。側溝を流れる水の音さえ見知らぬ人の生活感を覚えて不気味だった。
建物の裏側の方から石畳を走り回るかすかな靴音が聞こえて来る。あのヒールの入った靴音は恐らくミーナだ。さっき、彼女たちを放ってシドを追いかけてきてしまったから、フィリアを探し回っているのだろう。主人を見失った侍女の真っ青な顔が脳裏に浮かんだ。
ごめんなさいと心に呟きながら、けれど今は……今だけはシドと二人で話がしたい。
「……あ、あの、シド様はこういう場所には慣れておられるのですか……?」
「……え?」
「その、不思議な場所だと思いまして」
シドは自分をミーナだと思いこんでいる――そんな勘違いがフィリアにそれを言わせていた。犯人や護衛とは少し距離を置いているから聞こえないだろうし、同じ使用人のミーナになら、シドが個人的な話をしてくれるかもしれないと思ったのだ。
サプラスさえも騙しおおせたフィリア渾身のミーナっぽい口調に、シドも躊躇いがちに優しく返事をしてくれた。
「……あ、ああ、いや……、ここは私の庭みたいな場所なんだ」
「庭……?」
丁度その時、居住区の勝手口と思われる部分のドアが開き、中から小太りのおばさんが現れた。濃い焦げ茶色の髪が特徴的で質素なエプロンをしている。シドを見るなりぱっと明るい表情になった。
「おや、シドじゃないか。久しぶりだねぇ。良い身なりして里帰りかい?」
「ああ、センリさん、こんにちは。残念ながら今日は違うんだ。今から帰るところだよ」
「なぁんだ、あんたがいると知ったらヨハンもベンスもみんな喜ぶだろうに。この間イグルさんとこで赤ちゃんが生まれたんだよ。女の子。また今度帰ったら会いに行きな」
「それは良かった、もちろん会いに行くよ」
シドは少しだけ歩を止めて談笑した後、おばさんに手を振ってすぐに歩き出した。そして再びフィリアの方を見る。
「この近くに生家があるんだ。ここよりもう少し開けた所だけどね。バゼルも休みの日には帰ってきた場所だよ」
「まあ……」
驚くことばかりだ。シドやバゼルがこの近くに暮らしていたなんて想像もできなかった。上級使用人は基本的に貴族家出身だから、シドももっと良い場所に住んでいると思いこんでいたのだ。
住人は気さくなようだから少し安心したけれど、街の裏側を知らなかったフィリアにとっては、うらびれた空気や黴のにおいがとてもショックだった。
「私は子供の頃はこの辺りでよく遊んだものだ。今も母が住んでいるよ。帰ればいつもご馳走を用意して歓迎してくれる」
「ご馳走を? 愛すべきお母様ですね」
「ああ。アイボット家の男は仕事ばかりで家に帰ることが少ないが、それを承知でうちに嫁ぎ、ほとんど一人で私を育ててくれた。敬愛すべき母だと思う」
知らなかった。アイボット家は、侯爵家のせいで多くの自由を奪われて来たのだ。少し考えれば容易に想像できたはずなのに。何も、知らなかった。
「……シド様は、侯爵家に縛られるまま使用人になって……その、お辛くはないですか」
「…………これも私の運命だ。執事という職もなかなか面白いものだよ」
「本当にそうでしょうか、でしたらどうして騎士団学校へ行ってらっしゃったのですか」
「…………さあ、どうしてだったかな」
彼はまるで今話したことを後悔するように空を見上げて息を吐き、そして黙り込んでしまった。
フィリアはヴェールの下でその人の顔を見上げる。
「でしたら、質問を変えましょう。どうして黒髪の騎士がご自分だと名乗り出なかったのですか」
「……名乗り出たら終わってしまうからね」
「なにが?」
突然、側溝から白い蒸気がもくもくと噴き出してフィリアの行く手を阻んだ。
思わず「ひゃぁっ」と声を上げておののいたのを見てシドが笑った。
「こういう場所は初めてかい。裏側はあまり綺麗な所じゃないが、表の道路沿いにはなかなか良い店が並んでいるんだ。特に噴水近くにあるパン屋は旨い」
「いえ、あの、何が……?」
「うーん、ベリーのジャムパンも良いが、あの店はベーグルパンが一番旨いかな」
「そうじゃなくて」
「食べたことないだろう。なら、もし私が執事を続けることができたら、また今度君に買ってきてあげよう。もしかするとその前に左遷になってしまうかもしれないが」
「…………」
シドは自分がミーナではないと気付いている――と、その時ようやく分かった。また騙された気分だ。人のことは言えないけれど。
これで従順に芝居に付き合ったつもりなのだろうか。ミーナ達がシドから貰ったベーグルパンがどれだけ羨ましかったか知らないくせに!
なんだか、ムッとしてしまった。
苛立ち紛れにシドの腕をぎゅっと掴む。
「ばかね……!」
「はっ?」
声を出す間も与えず脇道へ連れ込んでやった。
護衛たちの後ろ姿が視界から消える。入り組んだ細い道へ駆け入ってさらに奥のそのまた奥の路地へ連れて行く。当然道なんか知らないから、シドがこの場所を知らなかったら迷子だ。
二人以外に動いている物は何もなくなり、上から細長い青空だけがのぞく一角で、フィリアは全身を使ってシドを壁に押し付けた。
長身の体と華奢な体が僅かに触れ合う。その人の顔を、これ以上ないくらいの切なげな表情で見上げた。ヴェールに隠れているからシドにはほとんど分からないだろうけれど。
「左遷になんかしないわ。させない。あなたは私だけの執事よ。誰にも渡さない」
「……お、お嬢様……いけません。護衛達が行ってしまいます。お嬢様は護衛から離れてはなりません」
「黙ってなさい。サプラスなんか信用できないわ。あの人はいつも笑顔の中に嘘を潜ませているの」
シドは首を横に振りながら、慌てたように彼女の両肩に手をやって距離をとった。
「例えそうであっても、今はお嬢様の護衛をお任せしている大事な騎士様です」
「護衛なんかもう不要でしょ。シドがいれば十分よ。私知ってるの。サプラスは悪い人には見えないけれど、本当はとても怖い一面を持っているって。歴戦の武人だから仕方がないけれど、お父様とは違うあの人特有の怖さがあるの。だから、あまり近付きたくないのよ」
「……ですが、この状況は」
「私はシドが好きよ」
「……っ」
怯んだシドとは対照的に、フィリアは真っ直ぐに正直に思いの丈を紡いだ。
「誰がなんと言おうとあなたは黒髪の騎士、運命の人よ……出会った時からそんな気がしていたわ。私は貴方を待っていたんだわ。ずっと、ずっと……」
いきなりそんなことを言われても理解できないだろうし、困るだろう。そんなことはフィリアにだって分かっている。けれど、もう破れかぶれだ。
<つづく>
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