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番外編5 オードリー――黄色いリボン
伯爵家に入って半年ほど経った頃、マギーが熱を出した。
高い熱ではなかったが、喉が腫れ、食事が進まなかった。
伯爵は会合を切り上げて戻り、ウィリアムは妹の部屋の前まで何度も来た。
サミュエルは王都へ発った後だったが、知らせを出すかどうか家令が尋ねに来た。
「大事には至りません」
私は家令にそう言った。
「ですが、経過だけは書いて送りなさい。あの子は気にするでしょう」
家令は頷いた。
マギーは寝台に横たわり、苦い薬湯を飲んだ。杯を盆に戻す時、少し顔をしかめた。
「苦かったでしょう」
「……はい」
素直な返事だった。
「でも、飲めました」
「ええ。よく飲みました」
マギーは少しだけ笑った。熱のせいで頬が赤かった。
淡い青の天蓋の下で、髪が枕に広がっていた。
侍女が薬湯の匂いを逃がすため、窓をほんの少し開けた。外では雨が降っていた。
雨の音。薬草の匂い。寝台の天蓋。
……私は、男爵家の奥の部屋を思い出した。
それから、郊外の小さな家の林檎の木を思い出した。
ロズリーは熱を出した時、どんな部屋に寝かされたのだろう。
乳母は歌を歌っただろうか。
子爵家へ移ってからは、誰が杯を持たせたのだろう。
「……奥様」
マギーが呼んだ。
「はい?」
「お父様は、まだ下にいらっしゃいますか」
「ええ。もう少ししたら、お顔を見に来られます」
「では、髪を整えておかないと」
「そのままで大丈夫よ」
マギーは目だけで少し笑った。
「お父様は、私が寝癖をつけていると大げさに心配なさるのです」
私は侍女に、櫛を持ってくるよう言った。
伯爵は、本当に大げさに心配した。
熱が少し下がったと聞いても、医師の言葉を二度確かめ、翌日の予定を一つ減らした。
ウィリアムは妹のために本を持ってきたが、読むにはまだ早いと私に止められた。
マギーは寝台の中でそれを聞き、少し照れた顔をした。
愛されている子供は、周囲の足音でそれを知るものだ。マギーは、その足音の中で眠っていた。
*
私はその夜、自室へ戻ってロケットを開けた。
写真の中のロズリーは、同じ椅子に座ったままだった。
黄色いリボンも、銀色の留め具の靴も、その時のまま。
子爵家からの最新の手紙は、机の引き出しに入れてある。
伯爵家に嫁いでから、私は父を通さず、子爵家の執事へ礼状を出すようになった。
名目は、縁ある子爵家の令嬢への気遣い。
伯爵家の奥方としてなら、さほど不自然でもない。
執事からの返事は、以前より少しだけ長くなった。
――ロズリーお嬢様は、こちらの作法にも少しずつ慣れておいでです。
少しずつ。
――ロズリーお嬢様は、年齢に比して覚えることが多く、時にはお疲れのご様子もございます。
お疲れ。
――ロズリーお嬢様は、ご自分の立場を理解なさるにはまだ幼く、奥向きでは教育係が根気よく接しております。
根気よく。
私はその言葉を一つずつ覚えた。
子爵家の執事は、私が誰であるか知っている。
初めて直接会ったのは、伯爵家へ嫁いだ翌年の社交の場だった。
子爵家の使いとして、彼は控え室にいた。
白髪交じりの、姿勢のよい男だった。こちらが名乗る前に、彼は一瞬だけ目を上げた。その目でわかった。
――ロズリーがどこから来た子か。
――私がかつてどの家の娘だったか。
――男爵家で何が隠されたか。
彼は少なくとも、その輪郭は知っていた。
「バーレイ伯爵夫人」
彼はそう呼んだ。
「ロズリー様は、いかがお過ごしでしょう」
私は訊ねた。執事は深く礼をした。
「日々、お勉めでございます」
その答えは、手紙と同じだった。けれどその後、彼はほんの少し声を落とした。
「幼い方に、急な変化でございましたので」
――幼い方。
その一言だけは、手紙に書かれていなかった。
「どうか、折に触れて知らせてください」
「承知いたしました」
彼はそう答えた。
それから届く手紙には、時々、ロズリーの小さな出来事が入るようになった。
――食卓で硬いパンを残したこと。
――雨の日に庭へ出たがったこと。
――黄色いリボンを好むこと。
――刺繍の糸を何度も絡ませたこと。
――教育係の前ではおとなしいが、夜に乳母を呼ぶこと。
子爵家には、もうあの郊外の乳母はいなかった。別の乳母がついていると書かれていた。
よい者です、と執事は書いていた。けれど、その乳母の名は書かれていなかった。
*
マギーの熱は三日で下がった。
伯爵は安堵し、ウィリアムは妹へ読み聞かせる本をまた持ち込んだ。
マギーは寝台の上で背を起こし、少しだけ声を出して笑った。
窓辺には、見舞いの花が置かれている。淡い紫の花だった。
*
その夜、私は子爵家への手紙を書いた。
季節の挨拶。伯爵家の近況。ロズリー様の健やかな成長を祈る言葉。最後に、差し支えなければ、好みの色を知らせてほしいと添えた。
*
返事は二週間後に届いた。
――ロズリーお嬢様は、黄色を好まれます。
それだけで、十分だった。
私は衣装部屋に黄色いリボンを用意させた。伯爵家の名で、子爵家へ贈る品の中に入れる。
上等すぎず、安すぎず、年頃に合うものを選ばせた。
家令は不思議そうな顔をしたが、伯爵家の奥様が縁ある令嬢へ季節の品を贈ることに、口を挟む理由はない。
箱は翌朝、子爵家へ送られた。
マギーはその日、庭に出ていた。
熱が下がってから初めての外出だった。伯爵が隣につき、ウィリアムが少し後ろを歩く。
マギーは淡い青の上着を着て、日差しの中で眩しそうにしていた。
私は窓からその様子を見た。
伯爵が何か言い、マギーが笑う。
ウィリアムが妹の肩掛けを直し、侍女が少し離れて控える。
庭師は道の先で頭を下げた。よく整った庭だった。
けど、その光景の中に、ロズリーの黄色いリボンだけが、どこにもなかった。
高い熱ではなかったが、喉が腫れ、食事が進まなかった。
伯爵は会合を切り上げて戻り、ウィリアムは妹の部屋の前まで何度も来た。
サミュエルは王都へ発った後だったが、知らせを出すかどうか家令が尋ねに来た。
「大事には至りません」
私は家令にそう言った。
「ですが、経過だけは書いて送りなさい。あの子は気にするでしょう」
家令は頷いた。
マギーは寝台に横たわり、苦い薬湯を飲んだ。杯を盆に戻す時、少し顔をしかめた。
「苦かったでしょう」
「……はい」
素直な返事だった。
「でも、飲めました」
「ええ。よく飲みました」
マギーは少しだけ笑った。熱のせいで頬が赤かった。
淡い青の天蓋の下で、髪が枕に広がっていた。
侍女が薬湯の匂いを逃がすため、窓をほんの少し開けた。外では雨が降っていた。
雨の音。薬草の匂い。寝台の天蓋。
……私は、男爵家の奥の部屋を思い出した。
それから、郊外の小さな家の林檎の木を思い出した。
ロズリーは熱を出した時、どんな部屋に寝かされたのだろう。
乳母は歌を歌っただろうか。
子爵家へ移ってからは、誰が杯を持たせたのだろう。
「……奥様」
マギーが呼んだ。
「はい?」
「お父様は、まだ下にいらっしゃいますか」
「ええ。もう少ししたら、お顔を見に来られます」
「では、髪を整えておかないと」
「そのままで大丈夫よ」
マギーは目だけで少し笑った。
「お父様は、私が寝癖をつけていると大げさに心配なさるのです」
私は侍女に、櫛を持ってくるよう言った。
伯爵は、本当に大げさに心配した。
熱が少し下がったと聞いても、医師の言葉を二度確かめ、翌日の予定を一つ減らした。
ウィリアムは妹のために本を持ってきたが、読むにはまだ早いと私に止められた。
マギーは寝台の中でそれを聞き、少し照れた顔をした。
愛されている子供は、周囲の足音でそれを知るものだ。マギーは、その足音の中で眠っていた。
*
私はその夜、自室へ戻ってロケットを開けた。
写真の中のロズリーは、同じ椅子に座ったままだった。
黄色いリボンも、銀色の留め具の靴も、その時のまま。
子爵家からの最新の手紙は、机の引き出しに入れてある。
伯爵家に嫁いでから、私は父を通さず、子爵家の執事へ礼状を出すようになった。
名目は、縁ある子爵家の令嬢への気遣い。
伯爵家の奥方としてなら、さほど不自然でもない。
執事からの返事は、以前より少しだけ長くなった。
――ロズリーお嬢様は、こちらの作法にも少しずつ慣れておいでです。
少しずつ。
――ロズリーお嬢様は、年齢に比して覚えることが多く、時にはお疲れのご様子もございます。
お疲れ。
――ロズリーお嬢様は、ご自分の立場を理解なさるにはまだ幼く、奥向きでは教育係が根気よく接しております。
根気よく。
私はその言葉を一つずつ覚えた。
子爵家の執事は、私が誰であるか知っている。
初めて直接会ったのは、伯爵家へ嫁いだ翌年の社交の場だった。
子爵家の使いとして、彼は控え室にいた。
白髪交じりの、姿勢のよい男だった。こちらが名乗る前に、彼は一瞬だけ目を上げた。その目でわかった。
――ロズリーがどこから来た子か。
――私がかつてどの家の娘だったか。
――男爵家で何が隠されたか。
彼は少なくとも、その輪郭は知っていた。
「バーレイ伯爵夫人」
彼はそう呼んだ。
「ロズリー様は、いかがお過ごしでしょう」
私は訊ねた。執事は深く礼をした。
「日々、お勉めでございます」
その答えは、手紙と同じだった。けれどその後、彼はほんの少し声を落とした。
「幼い方に、急な変化でございましたので」
――幼い方。
その一言だけは、手紙に書かれていなかった。
「どうか、折に触れて知らせてください」
「承知いたしました」
彼はそう答えた。
それから届く手紙には、時々、ロズリーの小さな出来事が入るようになった。
――食卓で硬いパンを残したこと。
――雨の日に庭へ出たがったこと。
――黄色いリボンを好むこと。
――刺繍の糸を何度も絡ませたこと。
――教育係の前ではおとなしいが、夜に乳母を呼ぶこと。
子爵家には、もうあの郊外の乳母はいなかった。別の乳母がついていると書かれていた。
よい者です、と執事は書いていた。けれど、その乳母の名は書かれていなかった。
*
マギーの熱は三日で下がった。
伯爵は安堵し、ウィリアムは妹へ読み聞かせる本をまた持ち込んだ。
マギーは寝台の上で背を起こし、少しだけ声を出して笑った。
窓辺には、見舞いの花が置かれている。淡い紫の花だった。
*
その夜、私は子爵家への手紙を書いた。
季節の挨拶。伯爵家の近況。ロズリー様の健やかな成長を祈る言葉。最後に、差し支えなければ、好みの色を知らせてほしいと添えた。
*
返事は二週間後に届いた。
――ロズリーお嬢様は、黄色を好まれます。
それだけで、十分だった。
私は衣装部屋に黄色いリボンを用意させた。伯爵家の名で、子爵家へ贈る品の中に入れる。
上等すぎず、安すぎず、年頃に合うものを選ばせた。
家令は不思議そうな顔をしたが、伯爵家の奥様が縁ある令嬢へ季節の品を贈ることに、口を挟む理由はない。
箱は翌朝、子爵家へ送られた。
マギーはその日、庭に出ていた。
熱が下がってから初めての外出だった。伯爵が隣につき、ウィリアムが少し後ろを歩く。
マギーは淡い青の上着を着て、日差しの中で眩しそうにしていた。
私は窓からその様子を見た。
伯爵が何か言い、マギーが笑う。
ウィリアムが妹の肩掛けを直し、侍女が少し離れて控える。
庭師は道の先で頭を下げた。よく整った庭だった。
けど、その光景の中に、ロズリーの黄色いリボンだけが、どこにもなかった。
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