龍帝の許嫁

松林ナオ

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回廊に、張りつめた空気が流れていた。

「皇后陛下」

甘やかな声とは裏腹に、その響きは冷たい。
淑妃・姚芳《ようほう》は、扇を口元に添えながら、わずかに顎を上げていた。

「そのお辞儀では、燈の国の礼には及びませんわ」

リゼッタは、言われた意味を咀嚼するのに一瞬遅れた。
慌てて、もう一度腰を折る。

「……失礼いたしました」

「まあ」

くすり、と笑う。

「異国の姫君とはいえ、皇后陛下ともあろうお方が。
この後宮では、立ち居振る舞い一つで噂になるのですよ」

女官たちが、息を殺して成り行きを見守っている。
誰も、口を挟まない。

リゼッタは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
正しい作法が分からない。
聞こうにも、誰も教えてくれない。

――ここは、優しい場所ではない。

「その辺りまでで、よろしいかしら」

低く、凛とした声が空気を断ち切った。

振り向くと、そこに立っていたのは胡蝶だった。
貴妃の衣を纏いながら、その姿勢は武人のそれだ。

「……貴妃」

淑妃が、眉をひそめる。

胡蝶は、皇后であるリゼッタの前に一歩進み出る。
庇うような、その立ち位置。

「慣れない異国に来て間もない皇后陛下に、
この国の完璧な礼儀を即座に求めるのは、無礼にございます」

声音は穏やかだ。
だが、一切の揺らぎがない。

「礼は、教えるものであって、
責めるためのものではありません」

一瞬、回廊が静まり返る。

淑妃の笑みが、わずかに引きつった。

「貴妃ともあろうお方が、皇后陛下を甘やかすおつもり?」

「いいえ」

胡蝶は、まっすぐに淑妃を見る。

「守るべきものを、守っているだけです」

それ以上の言葉はなかった。

沈黙の末、淑妃は扇を閉じる。

「……さすがは将軍家の娘」

皮肉を残し、踵を返した。

その背が遠ざかるのを見届けてから、
胡蝶は、ようやくリゼッタを振り返る。

「お怪我はありませんか、皇后陛下」

「……はい」

胸の奥が、じんわりと温かい。
誰かに守られたのは、いつぶりだろう。

「ありがとうございます」

そう告げる声が、少し震えた。

胡蝶は、わずかに目を伏せる。

「後宮は、思っているより厳しい場所です。
ですが――」

視線を上げ、はっきりと告げる。

「独りで立つ必要はありません」

その言葉が、深く胸に刺さる。

(……この人だ)

理由は分からない。
ただ、確信だけがあった。

リゼッタは、この後宮で、
初めて“欲しい”と思ってしまったのだ。

強く、まっすぐで、
自分に足りないものをすべて持つ、この人を。

胡蝶は、何も知らないまま、静かに背を向ける。

その背を、リゼッタはいつまでも見つめていた。
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