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1章 プレアデスは遥か彼方
プレアデスは遥か彼方#3
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――このまま、つまらないまま終わるのかな。
高校三年生の四月、新学期初日。ホームルームの最中、理月は一番後ろの窓際の席で空を眺めながらそんなことを考えていた。
つまらない、とは今ダラダラと続いているホームルームのことだけじゃなく、理月を取り巻く環境の全部を指している。
ぼんやりと外を眺めているうち、長かったホームルームがようやく終わり放課後になった。本日はどの部活も活動なしだ。
ピアノを辞めて以降、部活動で音楽室が使われていない日や昼休み等は音楽室に出向いてひとりピアノを弾いている。学校の中でなら、ピアノを弾いても父に見咎められることが無いから。音楽室は一般教室棟から離れた特別教室棟の一番隅に位置しているから距離があり、部活動や授業以外で生徒が立ち入るようなことは稀だ。
だから今日も音楽室へと向かい、ピアノの椅子を引いて腰掛けた。白黒の鍵盤に手を置いて、軽いウォーミングアップから始めていく。父に『まだ諦めていないのか』と呆れられたくなくて、家ではピアノが触れなくなった。
ウォーミングアップを終え、楽譜を置いて、鍵盤の上に手をかざす。弾き始めたのは、ベートーヴェンの『月光』。
理月はこの曲が好きだった。第一楽章はまさに月光を感じる静謐で寂しげな曲だ。第二楽章は明るくなって、月の光の下で妖精が躍り出したように聴こえる。そして第三楽章では激情をぶつけるように一気に曲が激しくなる。静謐で美しいだけじゃない、内に秘めた激情をぶつけるようなメロディー。
理月という名に付けられた『月』の意味するところとは全く違う、そんな『月光』という曲に、自分の感情を代弁してもらうことが好きだった。
寂しげな第一楽章を弾き終えて、弾んだ第二楽章を弾き始める。
しかし、その世界に没入していた理月に、それは突然割って入ってきた。
「……っ⁉」
理月が第二楽章を弾き進めていると、不意に譜面には無い低音が絡み合った。いつの間にか横に誰かが立っていて、理月のピアノに介入してくる。正確なリズムを刻んでいた理月の世界に即興のアレンジで入ってきた誰かの音がいとも簡単に溶け込んで、元々弾んだイメージの第二楽章をより明るく、勝手に世界を作り変えていく。けれどそれに怒りや憤りは感じなくて、釣られて楽しく、心地良く思わされる。誰かと一緒に、こんな風に弾くのは初めてだった。
戸惑いながらも第二楽章を弾き終えて、ちらりと飛び入り参加者の顔を伺う。整った顔立ちをした栗色の髪の男だ。ぱちりと目が遭い、続きを促すように微笑みかけられた。
「……その、僕は……即興アドリブみたいなのは、不得手で……連弾とかも、普段しないし」
「じゃあ、譜面通りで良いから、主旋律を弾いてほしいな。僕、合わせるから。自由に、気楽に弾いて」
栗毛の男は、まごつく理月にふにゃっと穏やかに笑い掛けた。理月は楽譜通りきっちり弾くのは得意だけれど、自由に即興で、というのは苦手としている。彼の柔和な笑顔を受けて、理月は困惑したまま楽譜通りの位置に右手をかざした。彼は両手を低音域にかざし、理月にアイコンタクトして、理月と呼吸を合わせて第三楽章を弾き始める。
そもそも、第三楽章はテンポが速く音符の密度が高い独奏曲としてひとりで弾くために作られている上級クラシックで、即興アレンジ向きの曲ではない。それを即興で連弾するなんて、互いを良く知った関係だとしても難しいだろう。けれど彼は理月の奏でる正確なリズムに寄り添うようにぴたりと合わせながらもアレンジを加え、合わせると言いつつも理月が奏でる音とは異なる音色を重ねる。それはまるで、恋に弾むようなきらきらした音だった。最後の一音をポンと弾き終えて理月が隣を見やると、視線がぱちりと交差する。
「――僕もピアノ弾きたいんだけど、一緒に弾いても良い?」
「良いって言う前に勝手に参加して弾いてたじゃないか……君、誰? 何?」
「あ、僕は一年三組のヒュウガスバル。漢字は『日に向かう』で日向。スバルは、曜日の『日』の下に十二支の『卯』って書いて昴。先輩……なのかな? めた正確で綺麗に弾くね。つい参加したくなっちゃった」
昴は少しばかり方言を交じえて喋りながらニコニコと穏やかな笑みを理月に向けた。しかし一方の理月は困惑しきりだ。
「僕は三年だから、先輩にあたるけど……そんなことは置いておいて。君、知らない名前だけど、コンクールとかは出てないの? 凄く上手だけど、独学?」
「コンクールはここ暫らく出とらんよー。ちっちゃい頃には何度か出てたけど、山奥住みだったもんで、出るのが大変でさ」
ニコニコと笑う昴はなんと言うか、のほほんと穏やかで調子が狂う。なんというか、愛情たっぷりに育てられたボンボンともまた違う、田舎育ちという感じのオーラだ。擦れていないというか。
「そっか、これだけ上手ければ出てたら知ってるだろうしな……。えっと……ピアノ、弾きたいんだっけ。良いよ。でも、僕も聴いてても良い? 君の演奏、もっと聴いてみたい」
「わ、弾かせてくれるの? やった。勿論良いよー。じゃあ、僕が好きな曲弾こうかな」
立ち上がった理月と入れ替わりに昴が椅子に座り、ピアノへと向かい合う。昴が弾き始めたのは、音が弾けてきらきらと光るような、きらきら星変奏曲だった。
理月は数多くのクラシックを聴いてきて、著名なオーケストラのコンサートにも幾度となく足を運び、自分でも長年ピアノを弾いている。耳には自信がある方だ。昴の演奏は、そんな理月でも驚かされる音色だった。ただ正確だとか、上手だとか、それだけじゃない。
綺麗なものを見た。音が具現化したように、たくさんの星が降り注いで見えた。その音色に耳を澄ませた。鼓膜がぞくぞくと震えた。息を飲めば、爽やかで甘い味がした。コンクリートで造られた音楽室の中なのに風が肌を撫でて、木々の匂いがした。五感全部をくすぐられた。天才っていうのは、こういうものなのかと思い知らされた。
他を寄せ付けない閉じこもった理月ひとりきりの世界に、この日初めて、他人が飛び込んできた。
それが、高一になったばかりの昴だった。
高校三年生の四月、新学期初日。ホームルームの最中、理月は一番後ろの窓際の席で空を眺めながらそんなことを考えていた。
つまらない、とは今ダラダラと続いているホームルームのことだけじゃなく、理月を取り巻く環境の全部を指している。
ぼんやりと外を眺めているうち、長かったホームルームがようやく終わり放課後になった。本日はどの部活も活動なしだ。
ピアノを辞めて以降、部活動で音楽室が使われていない日や昼休み等は音楽室に出向いてひとりピアノを弾いている。学校の中でなら、ピアノを弾いても父に見咎められることが無いから。音楽室は一般教室棟から離れた特別教室棟の一番隅に位置しているから距離があり、部活動や授業以外で生徒が立ち入るようなことは稀だ。
だから今日も音楽室へと向かい、ピアノの椅子を引いて腰掛けた。白黒の鍵盤に手を置いて、軽いウォーミングアップから始めていく。父に『まだ諦めていないのか』と呆れられたくなくて、家ではピアノが触れなくなった。
ウォーミングアップを終え、楽譜を置いて、鍵盤の上に手をかざす。弾き始めたのは、ベートーヴェンの『月光』。
理月はこの曲が好きだった。第一楽章はまさに月光を感じる静謐で寂しげな曲だ。第二楽章は明るくなって、月の光の下で妖精が躍り出したように聴こえる。そして第三楽章では激情をぶつけるように一気に曲が激しくなる。静謐で美しいだけじゃない、内に秘めた激情をぶつけるようなメロディー。
理月という名に付けられた『月』の意味するところとは全く違う、そんな『月光』という曲に、自分の感情を代弁してもらうことが好きだった。
寂しげな第一楽章を弾き終えて、弾んだ第二楽章を弾き始める。
しかし、その世界に没入していた理月に、それは突然割って入ってきた。
「……っ⁉」
理月が第二楽章を弾き進めていると、不意に譜面には無い低音が絡み合った。いつの間にか横に誰かが立っていて、理月のピアノに介入してくる。正確なリズムを刻んでいた理月の世界に即興のアレンジで入ってきた誰かの音がいとも簡単に溶け込んで、元々弾んだイメージの第二楽章をより明るく、勝手に世界を作り変えていく。けれどそれに怒りや憤りは感じなくて、釣られて楽しく、心地良く思わされる。誰かと一緒に、こんな風に弾くのは初めてだった。
戸惑いながらも第二楽章を弾き終えて、ちらりと飛び入り参加者の顔を伺う。整った顔立ちをした栗色の髪の男だ。ぱちりと目が遭い、続きを促すように微笑みかけられた。
「……その、僕は……即興アドリブみたいなのは、不得手で……連弾とかも、普段しないし」
「じゃあ、譜面通りで良いから、主旋律を弾いてほしいな。僕、合わせるから。自由に、気楽に弾いて」
栗毛の男は、まごつく理月にふにゃっと穏やかに笑い掛けた。理月は楽譜通りきっちり弾くのは得意だけれど、自由に即興で、というのは苦手としている。彼の柔和な笑顔を受けて、理月は困惑したまま楽譜通りの位置に右手をかざした。彼は両手を低音域にかざし、理月にアイコンタクトして、理月と呼吸を合わせて第三楽章を弾き始める。
そもそも、第三楽章はテンポが速く音符の密度が高い独奏曲としてひとりで弾くために作られている上級クラシックで、即興アレンジ向きの曲ではない。それを即興で連弾するなんて、互いを良く知った関係だとしても難しいだろう。けれど彼は理月の奏でる正確なリズムに寄り添うようにぴたりと合わせながらもアレンジを加え、合わせると言いつつも理月が奏でる音とは異なる音色を重ねる。それはまるで、恋に弾むようなきらきらした音だった。最後の一音をポンと弾き終えて理月が隣を見やると、視線がぱちりと交差する。
「――僕もピアノ弾きたいんだけど、一緒に弾いても良い?」
「良いって言う前に勝手に参加して弾いてたじゃないか……君、誰? 何?」
「あ、僕は一年三組のヒュウガスバル。漢字は『日に向かう』で日向。スバルは、曜日の『日』の下に十二支の『卯』って書いて昴。先輩……なのかな? めた正確で綺麗に弾くね。つい参加したくなっちゃった」
昴は少しばかり方言を交じえて喋りながらニコニコと穏やかな笑みを理月に向けた。しかし一方の理月は困惑しきりだ。
「僕は三年だから、先輩にあたるけど……そんなことは置いておいて。君、知らない名前だけど、コンクールとかは出てないの? 凄く上手だけど、独学?」
「コンクールはここ暫らく出とらんよー。ちっちゃい頃には何度か出てたけど、山奥住みだったもんで、出るのが大変でさ」
ニコニコと笑う昴はなんと言うか、のほほんと穏やかで調子が狂う。なんというか、愛情たっぷりに育てられたボンボンともまた違う、田舎育ちという感じのオーラだ。擦れていないというか。
「そっか、これだけ上手ければ出てたら知ってるだろうしな……。えっと……ピアノ、弾きたいんだっけ。良いよ。でも、僕も聴いてても良い? 君の演奏、もっと聴いてみたい」
「わ、弾かせてくれるの? やった。勿論良いよー。じゃあ、僕が好きな曲弾こうかな」
立ち上がった理月と入れ替わりに昴が椅子に座り、ピアノへと向かい合う。昴が弾き始めたのは、音が弾けてきらきらと光るような、きらきら星変奏曲だった。
理月は数多くのクラシックを聴いてきて、著名なオーケストラのコンサートにも幾度となく足を運び、自分でも長年ピアノを弾いている。耳には自信がある方だ。昴の演奏は、そんな理月でも驚かされる音色だった。ただ正確だとか、上手だとか、それだけじゃない。
綺麗なものを見た。音が具現化したように、たくさんの星が降り注いで見えた。その音色に耳を澄ませた。鼓膜がぞくぞくと震えた。息を飲めば、爽やかで甘い味がした。コンクリートで造られた音楽室の中なのに風が肌を撫でて、木々の匂いがした。五感全部をくすぐられた。天才っていうのは、こういうものなのかと思い知らされた。
他を寄せ付けない閉じこもった理月ひとりきりの世界に、この日初めて、他人が飛び込んできた。
それが、高一になったばかりの昴だった。
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