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8章 ひとつの時代
ひとつの時代#7
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「……都合の良い夢でも見た気分だ。これ、僕の願望夢ってわけじゃないよね? 昴、僕の頬、ちょっと抓ってみて」
ふわふわと夢見心地で廊下を歩き進め、荷物を取りに自室へ戻ったところで理月はベッドに腰を下ろした。昴もぽすんと隣に腰掛ける。
「じゃあ抓るね? どう?」
「……痛くない。やっぱり夢か……あ痛っ!」
「夢だったら困るから、二回目は手加減なしで抓りました。はい、りっちゃん、やり返してくれていいよ」
一回目は痛くなかったけれど、二回目は結構しっかり頬を引っ張られて痛かった。昴の頬を抓り返してみると「いひゃい……ほら、ちゃんと現実だよ」と言われて笑ってしまう。
「だけど、今日の一日でどうにかできるような話じゃないだろうなって思ってたから、びっくりした。りっちゃんのお父さん、もっと怖い人ってイメージがあったから」
「実際、今までずっと怖い人だったんだ。父さんの口ぶりからして……祖父が亡くなったのが大きかったんだろうな。自分の運命を受け入れてトップに立ってるんだろうな、って思ってたけど、きっと、ずっと割り切れてなかったんだ。僕は昴を選ぶって決めて、父さんに言えて、了承を得ることが出来たけど……もし昴を諦めてたら、僕も割り切れないまま、生まれた家や父を恨むことになったのかもしれない」
背を後ろに倒し、そのままベッドに上体を預けた。天井だけが映る視界の中にひょいっと昴が横から飛び込んできて、顔が近づき優しく口づけられる。
「君のお父さんが、僕との交際も認めてくれたのもすっごく嬉しいんだけどさ――りっちゃんがピアノを好きだったこと、僕を見るりっちゃんを見て思い出した、って言ってくれたの、嬉しかったな。辞めさせて悪かった、って謝ってくれたことも。僕、りっちゃんがお父さんにピアノ辞めさせられたってこと聞いた時、はらわた煮えくりかえるくらいムカついたから」
「うん。それも、すっごく嬉しい。ピアノが好きだったって覚えていてくれたのも、昴を見る僕を見て思い出したって言ってくれたのも。でもさ、あの頃にピアノを辞めさせられたことも、曲がり曲がって運命だったのかな。家でピアノが弾けなくなったから、音楽室で昴と出逢えた」
そっと口唇が離れ、さらりと髪を撫でられる。手を伸ばし、オールバックにきちんと決めた昴の髪を撫で返した。
「辞めろって言われずにピアノ続けてたら、同じコンクールに出て出逢ってたかもしれないよ。終わりよければ全てよし、とは言うし、大人になったりっちゃんは気持ちを昇華できたかもしれないけど、中学生の頃のりっちゃんの気持ちも守ってあげたい。もしりっちゃんがコンクールに出てたら、やっぱり僕は一目惚れして、めちゃくちゃアタックしに行ったんだろうなあ」
「中学生の頃の僕は、傍に昴が居なかったのが可哀想だな。そういう未来もあったのかもしれないけど……今がすっごく幸せだから、大丈夫。だけど、社会人の部でコンクールとか、出てみようかな……駐在行っちゃうし、練習時間はあまり取れないだろうけど、アメリカでもアマチュアのコンクールとかあるだろうし……」
「えーっ、出てほしい! もしコンクールに出るなら、何が何でも絶対応援しに行くから」
昴は子どもみたいにきらきらと目を輝かせ、ちゅっ、ちゅっ、と頬や額にキスを落としてくる。今日一番の喜び様で笑ってしまう。
「探してみて、ちょうど良いコンクールがあったらね。アマチュアなら自由曲だろうし……何の曲弾こうかな」
「ノクターンM45は?」
「僕のために作られた重たいラブソングを自分で弾くのはちょっと。やっぱり月光かな。昔から大好きで、昴と出逢った時の思い出の曲だから」
「えー、りっちゃんも自分で弾いてくれていいのにな。でも、月光は大賛成。あ、肩慣らしがてら、今からちょっと弾いてみない? ここで」
昴は立ち上がると、そう言って手を差し伸べてきた。差し伸べられた手を掴むと、ぐいっと引っ張られて上体を起きあがらされる。
「ここでって、リビングのピアノ?」
「そう。実はまだピアノ弾いてまーすって、ここで弾いてお父さんに教えてあげようよ。別に、当て付けとかじゃなくて。辞めろって言ったの、お父さんも後悔してそうだったから。後悔するなら言うなと思うけど、まあ、汲むべき事情があったんだろうっていうのも理解できるし」
「じゃあ、執務室まで音が届くように弾かなきゃね。吹き抜けがあるし、ドア閉めてても聞こえるかも。行こっか」
笑ってそう言い、立ち上がる。荷物を持って自室を出て、綺麗に片付けが終わり誰も居なくなったリビングに出向き、ピアノの椅子に腰掛けて――昔よく、ここでひとり弾いていた月光を、昴に見守られながら弾き始めた。
あの頃の音とはもう違う。今もほとんど毎日ピアノに触っているけれど、練習時間は当然昔の方がずっと多かったし、今よりも指が軽やかに回った。かつてはピアノに、怒りや悲しみや、やりきれなさをぶつけていたように思う。その感情も、月光によく似合っていた。だけど、今の自分の音の方がずっと好きだ。清濁併せ呑んだ今は、激情も手懐けて、美しく弾けていると思ってる。
最後の一音をポンと弾き終えて、鍵盤からそっと手を離した。ぱちぱちと拍手の音がして振り返ると、ピアノの傍に椅子を置いて座っていた昴の笑顔が目に映る。
「りっちゃんの月光、いつ聴いても惚れ惚れする」
「あははっ、ありがと。昴にそう言われると自信が付く。折角だし、何か一緒に一曲弾かない? 昔ここに来てくれた時、一緒に連弾出来なかったからさ。曲は昴が選んでいいよ」
「もちろんオッケー。んー、月繋がりで、月の光とか?」
「良いよ。そうしよう」
スムーズに曲が決まり、最後に一曲、楽しく弾いた。父まで届いたかは分からないけれど、聞いてくれていたら良いなと、ただそう思う。
ふわふわと夢見心地で廊下を歩き進め、荷物を取りに自室へ戻ったところで理月はベッドに腰を下ろした。昴もぽすんと隣に腰掛ける。
「じゃあ抓るね? どう?」
「……痛くない。やっぱり夢か……あ痛っ!」
「夢だったら困るから、二回目は手加減なしで抓りました。はい、りっちゃん、やり返してくれていいよ」
一回目は痛くなかったけれど、二回目は結構しっかり頬を引っ張られて痛かった。昴の頬を抓り返してみると「いひゃい……ほら、ちゃんと現実だよ」と言われて笑ってしまう。
「だけど、今日の一日でどうにかできるような話じゃないだろうなって思ってたから、びっくりした。りっちゃんのお父さん、もっと怖い人ってイメージがあったから」
「実際、今までずっと怖い人だったんだ。父さんの口ぶりからして……祖父が亡くなったのが大きかったんだろうな。自分の運命を受け入れてトップに立ってるんだろうな、って思ってたけど、きっと、ずっと割り切れてなかったんだ。僕は昴を選ぶって決めて、父さんに言えて、了承を得ることが出来たけど……もし昴を諦めてたら、僕も割り切れないまま、生まれた家や父を恨むことになったのかもしれない」
背を後ろに倒し、そのままベッドに上体を預けた。天井だけが映る視界の中にひょいっと昴が横から飛び込んできて、顔が近づき優しく口づけられる。
「君のお父さんが、僕との交際も認めてくれたのもすっごく嬉しいんだけどさ――りっちゃんがピアノを好きだったこと、僕を見るりっちゃんを見て思い出した、って言ってくれたの、嬉しかったな。辞めさせて悪かった、って謝ってくれたことも。僕、りっちゃんがお父さんにピアノ辞めさせられたってこと聞いた時、はらわた煮えくりかえるくらいムカついたから」
「うん。それも、すっごく嬉しい。ピアノが好きだったって覚えていてくれたのも、昴を見る僕を見て思い出したって言ってくれたのも。でもさ、あの頃にピアノを辞めさせられたことも、曲がり曲がって運命だったのかな。家でピアノが弾けなくなったから、音楽室で昴と出逢えた」
そっと口唇が離れ、さらりと髪を撫でられる。手を伸ばし、オールバックにきちんと決めた昴の髪を撫で返した。
「辞めろって言われずにピアノ続けてたら、同じコンクールに出て出逢ってたかもしれないよ。終わりよければ全てよし、とは言うし、大人になったりっちゃんは気持ちを昇華できたかもしれないけど、中学生の頃のりっちゃんの気持ちも守ってあげたい。もしりっちゃんがコンクールに出てたら、やっぱり僕は一目惚れして、めちゃくちゃアタックしに行ったんだろうなあ」
「中学生の頃の僕は、傍に昴が居なかったのが可哀想だな。そういう未来もあったのかもしれないけど……今がすっごく幸せだから、大丈夫。だけど、社会人の部でコンクールとか、出てみようかな……駐在行っちゃうし、練習時間はあまり取れないだろうけど、アメリカでもアマチュアのコンクールとかあるだろうし……」
「えーっ、出てほしい! もしコンクールに出るなら、何が何でも絶対応援しに行くから」
昴は子どもみたいにきらきらと目を輝かせ、ちゅっ、ちゅっ、と頬や額にキスを落としてくる。今日一番の喜び様で笑ってしまう。
「探してみて、ちょうど良いコンクールがあったらね。アマチュアなら自由曲だろうし……何の曲弾こうかな」
「ノクターンM45は?」
「僕のために作られた重たいラブソングを自分で弾くのはちょっと。やっぱり月光かな。昔から大好きで、昴と出逢った時の思い出の曲だから」
「えー、りっちゃんも自分で弾いてくれていいのにな。でも、月光は大賛成。あ、肩慣らしがてら、今からちょっと弾いてみない? ここで」
昴は立ち上がると、そう言って手を差し伸べてきた。差し伸べられた手を掴むと、ぐいっと引っ張られて上体を起きあがらされる。
「ここでって、リビングのピアノ?」
「そう。実はまだピアノ弾いてまーすって、ここで弾いてお父さんに教えてあげようよ。別に、当て付けとかじゃなくて。辞めろって言ったの、お父さんも後悔してそうだったから。後悔するなら言うなと思うけど、まあ、汲むべき事情があったんだろうっていうのも理解できるし」
「じゃあ、執務室まで音が届くように弾かなきゃね。吹き抜けがあるし、ドア閉めてても聞こえるかも。行こっか」
笑ってそう言い、立ち上がる。荷物を持って自室を出て、綺麗に片付けが終わり誰も居なくなったリビングに出向き、ピアノの椅子に腰掛けて――昔よく、ここでひとり弾いていた月光を、昴に見守られながら弾き始めた。
あの頃の音とはもう違う。今もほとんど毎日ピアノに触っているけれど、練習時間は当然昔の方がずっと多かったし、今よりも指が軽やかに回った。かつてはピアノに、怒りや悲しみや、やりきれなさをぶつけていたように思う。その感情も、月光によく似合っていた。だけど、今の自分の音の方がずっと好きだ。清濁併せ呑んだ今は、激情も手懐けて、美しく弾けていると思ってる。
最後の一音をポンと弾き終えて、鍵盤からそっと手を離した。ぱちぱちと拍手の音がして振り返ると、ピアノの傍に椅子を置いて座っていた昴の笑顔が目に映る。
「りっちゃんの月光、いつ聴いても惚れ惚れする」
「あははっ、ありがと。昴にそう言われると自信が付く。折角だし、何か一緒に一曲弾かない? 昔ここに来てくれた時、一緒に連弾出来なかったからさ。曲は昴が選んでいいよ」
「もちろんオッケー。んー、月繋がりで、月の光とか?」
「良いよ。そうしよう」
スムーズに曲が決まり、最後に一曲、楽しく弾いた。父まで届いたかは分からないけれど、聞いてくれていたら良いなと、ただそう思う。
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