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長い春〜雫と慎二の場合〜①
しおりを挟む俺には長年付き合っている恋人がいる。
学生時代からの付き合いで、一緒に暮らし始めてからもう15年になる。
三並 雫。
女性のような名前だからと自己紹介の時いつも前置きする彼は、あまり自分の名前を気に入っていない様子だけれど、俺は彼の繊細さと穏やかさにちょうど良い綺麗な名前だと思う。
彼の両親は、雫が生まれた時にもう彼の特質を見抜いていたのだろうか、と不思議に思うほどしっくりくる名前だ。
年齢不詳の中性的な顔つきに、男にしては小柄な身体。
細い髪質、色素の薄い茶色の髪。
細くて縁のないメガネが、もはや顔の一部に思えるほどよく似合う。
30半ばを過ぎるというのに、付き合いはじめの頃からほとんど変わらない印象。
大学の講師をしている彼は、とても穏やかでマイペース。
マイペースというのは悪い意味で使われがちだけれど、彼は自分自身をとてもよく知っていて、生きるのに心地よいペースというものを確立している大人だ。
俺は時々それがひどく羨ましくて、仕事でうまく行っていない時なんかは、彼の穏やかさが鼻について八つ当たりしたりする。
どんなにひどく八つ当たりしても彼は怒ることなく、「慎二君の今の状態はそうなんだね。」という一言で、俺を落ち着けてくれる。
20年近くの付き合いになるけれど、雫が怒っているのを俺は一度も見たことがない。
同じ歳なのに精神年齢が30くらい上に思える彼との生活は、基本的にはとても穏やかで心地よいものだった。
「雫、今度は何読んでるんだ?」
2人掛けの若草色のソファーは、雫が気に入って買ったもので、読書好きな彼の定位置だ。
天然木の深い色合いの手すりが、若草色の布生地とよく調和している。
男二人で座るには小さなソファーだけれど、これを買うと彼は譲らなかった。
「ドイツの冬の物語だよ。」
本から顔を上げてこちらを向くと、彼は綺麗な指で眼鏡の位置を直した。
彼のこの仕草が好きだ。
彼が本を読んでいる時、必ず声をかけてしまうのは、その仕草が見たいからだった。
「卒業旅行で、ドイツ行ったよな。」
「慎二君、ノイシュヴァンシュタイン城で感動してたよね。」
懐かしいね、と目を細めて微笑む彼はとても可愛い。
俺の人生の半分は彼と思い出を共有している。
昔のことを思い返す時、そこにはいつも雫がいた。
どんな事象も良い面と悪い面があるけれど、この15年は良い面だけが浮き彫りになった関係性だった。
問題が起こらず安定した関係。俺は仕事にだけ集中していれば良かった。
生活の基盤である家庭が安定していることは重要だと、ありがたく思ったほどだ。
穏やかな生活の悪い面。
それは刺激がないことだ。
特別不満はないけれど、特別嬉しかったり楽しかったりすることもなくなっていた。
「先輩。知らないんですか?このお店、最近すごく流行ってるんですよ。」
穏やかな生活に突然入り込んだ異分子。
幼さが残る、高くてよく通る声。
新入社員の直生は、人懐っこくて犬ころみたいに俺のあとをついて回る。
「知らない。お前、こういうの好きなの?」
最近会社の近くにできたチーズフォンデュの店。
「すごい好きです!慎二先輩、会社帰りに一緒に行きませんか?」
こちらが素っ気なく対応しても、めげずにニコニコ話しかけてくる彼の素直さは、純粋に眩しい。
「あ~・・・そうだな。」
チーズフォンデュは、雫の好物だ。
今度一緒に行くための下見として、と軽い気持ちでOKする。
「やった~!今夜いいですか?!」
今日は雫も俺も早く帰れる水曜日。
特別何か約束している訳ではないし、雫とは毎日一緒にいられる。
心の中で言い訳めいたことを呟く。
直生の嬉しそうな顔を目の前にして、俺は断ることが出来なかった。
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