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第2話 捕獲作戦
①
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早朝にも拘わらず、築地の場内市場は活気に満ちていた。
天井からぶら下がった裸電球、ブリキの看板、水浸しになったコンクリートの床。薄暗く狭い通路には、発泡スチロールのケースが、往来の邪魔になるほどはみ出している。
それを縫うように行き交う、人、人、人。異国の言葉と独特のだみ声が混じる中を、鷹山は目的の店まで、人ごみを掻き分けるように進んでいく。
やがて、とある一角にある目的の店にたどりついた。
「おっ、毎度! スーツのお兄さん!」
鷹山の顔を見るなり、腹の出た中年の店主が声を掛けてくる。
「おはようございます。今日は何がおすすめですか?」
「どれもいいよ。特にキンメとヤリイカがいいね」
鷹山は小さく唸って顎に指を宛てた。強い明かりに照らされて、金目鯛の鱗がつやつやと輝いている。
「では金目鯛とサーモン、真蛸と、海老。それから、ムール貝を300グラムとヤリイカをください」
あいよ! と威勢のいい声を上げて、店主は商品を手早く包んだ。鷹山は支払いを済ませたのち、きちんとお辞儀をしてから雑踏の中を再び歩き出す。
仕事が休みの日、鷹山はこうして市場まで買い出しに出かけては、料理の腕を振るうことがある。その出来栄えは自分でも悪くないと思っているが、残念なことに食べてくれる相手がいない。唯一呼べば来てくれたのはボスである星見だったが、あいにく彼はフィアンセに夢中だ。お陰で最近では料理する機会もめっきり減ってしまった。
今朝、築地までわざわざ買い出しに出掛けたのは、山際いずみにランチをご馳走する約束をしたからだった。彼女とはあれ以来たびたび顔を合わせる仲だったが、仕事の都合でなかなか誘うことができずにいたのだ。
約束を取り付けたのは三日前のこと。シーフードなんかいかがでしょう、と尋ねたら、「大好きです!」と明るい返事が返ってきた。
鷹山は内心ほくそ笑んだ。彼女が喜ぶのも当たり前。完璧主義の敏腕秘書である鷹山は、いつその時が来てもいいように、日夜綿密なリサーチを続けてきたのだから。
お隣の玄関前に置かれた寿司桶。換気扇から流れてくる料理の匂い。彼女の母親をスーパーで見掛けた時には、何気ないふりをしてこっそりと様子を伺っていた。
結果、導き出した答えは、『隣のお宅は魚料理が大好き』ということだ。基本和食のようだから、彼女には洋食を食べさせてあげたい。あまり外に出掛けることもなさそうなので、普段家では食べないような、お洒落で大人っぽい雰囲気の食事を。
*
鷹山が自宅のドアを開けたとき、佳恵さんは出てこなかった。
珍しいこともあるものだ。いつもならポケットから鍵を取り出す音がするなり、框に三つ指をついて待っているのに。
「ただいま戻りましたよ。佳恵さーん?」
呼びながら靴を脱ぎ、キッチンへと向かう。冷蔵庫に食材をしまい終えると、ベッドルームへ入った。案の定、彼女はきれいにメイキングし直したベッドの上で丸まっている。
「佳恵さん」
脱いだスーツをハンガーに掛けて、ひと通りブラッシングをした。その後、鷹山はそっとベッドに横たわる。眠っていた佳恵さんが細く瞼を開け、こっちを睨み付けてからまた閉じた。
「お寝坊さんですね。今日はあなたのお友達も来るんですからシャキッとしていただかないと」
柔らかな後頭部の下あたりに鼻を埋め、ぐりぐりとかき回す。彼女はにゃあんっ、と悲鳴を上げて身体を捩った。こういう時が一番危ない。顔に猫フックを浴びせられないよう、素早く両腕を封じ込めて抱きすくめる。
「美人が台無しですよ。そんなことだと、いつかこのベッドを他の女性に取られてしまいますからね」
そう言いながら頭に浮かぶるのはもちろんいずみのことだ。佳恵さんの身体はふわふわでかなり気持ちがいいが、彼女はどうだろう。
指の細さからしてかなり華奢なタイプだと想像はしている。ボスのフィアンセと違って肉感的な体つきではないだろうが、元より自分は細身の女性が好みだ。清楚な黒髪も、抜けるような白い肌も、古風なイメージも、すべてが要求にマッチしている。
何より、あの声がいかにも魅力的に感じた。彼女の声は瑞々しく、有名店のマカロンを思わせるほど繊細でジューシー。なおかつ、天使のような空気感を持っているのだ。
夜のしじまの、甘く淫らな交わりの時に、あの声が自分の鼓膜を震わせたらどんなにか素晴らしいだろう。啼かせてみたい。吐息交じりの声で「祐輔さん」と囁いてほしい。
そのために、数日前から鷹山は入念に準備を進めてきた。部屋もキッチンもトイレも掃除は完璧、生活感の出るものはすべてクローゼットへしまいこんだ。猫砂も今朝替えた。いい匂いのするフレグランスも初めて部屋に置いた。
三十八にもなって、こんなにも本気になれる相手が現れるとは思っていなかった。
きっとこれが最後の恋になるだろう。成就すれば最高だが、もしもだめなら、せめて華々しく散りたい。そう思っている。
天井からぶら下がった裸電球、ブリキの看板、水浸しになったコンクリートの床。薄暗く狭い通路には、発泡スチロールのケースが、往来の邪魔になるほどはみ出している。
それを縫うように行き交う、人、人、人。異国の言葉と独特のだみ声が混じる中を、鷹山は目的の店まで、人ごみを掻き分けるように進んでいく。
やがて、とある一角にある目的の店にたどりついた。
「おっ、毎度! スーツのお兄さん!」
鷹山の顔を見るなり、腹の出た中年の店主が声を掛けてくる。
「おはようございます。今日は何がおすすめですか?」
「どれもいいよ。特にキンメとヤリイカがいいね」
鷹山は小さく唸って顎に指を宛てた。強い明かりに照らされて、金目鯛の鱗がつやつやと輝いている。
「では金目鯛とサーモン、真蛸と、海老。それから、ムール貝を300グラムとヤリイカをください」
あいよ! と威勢のいい声を上げて、店主は商品を手早く包んだ。鷹山は支払いを済ませたのち、きちんとお辞儀をしてから雑踏の中を再び歩き出す。
仕事が休みの日、鷹山はこうして市場まで買い出しに出かけては、料理の腕を振るうことがある。その出来栄えは自分でも悪くないと思っているが、残念なことに食べてくれる相手がいない。唯一呼べば来てくれたのはボスである星見だったが、あいにく彼はフィアンセに夢中だ。お陰で最近では料理する機会もめっきり減ってしまった。
今朝、築地までわざわざ買い出しに出掛けたのは、山際いずみにランチをご馳走する約束をしたからだった。彼女とはあれ以来たびたび顔を合わせる仲だったが、仕事の都合でなかなか誘うことができずにいたのだ。
約束を取り付けたのは三日前のこと。シーフードなんかいかがでしょう、と尋ねたら、「大好きです!」と明るい返事が返ってきた。
鷹山は内心ほくそ笑んだ。彼女が喜ぶのも当たり前。完璧主義の敏腕秘書である鷹山は、いつその時が来てもいいように、日夜綿密なリサーチを続けてきたのだから。
お隣の玄関前に置かれた寿司桶。換気扇から流れてくる料理の匂い。彼女の母親をスーパーで見掛けた時には、何気ないふりをしてこっそりと様子を伺っていた。
結果、導き出した答えは、『隣のお宅は魚料理が大好き』ということだ。基本和食のようだから、彼女には洋食を食べさせてあげたい。あまり外に出掛けることもなさそうなので、普段家では食べないような、お洒落で大人っぽい雰囲気の食事を。
*
鷹山が自宅のドアを開けたとき、佳恵さんは出てこなかった。
珍しいこともあるものだ。いつもならポケットから鍵を取り出す音がするなり、框に三つ指をついて待っているのに。
「ただいま戻りましたよ。佳恵さーん?」
呼びながら靴を脱ぎ、キッチンへと向かう。冷蔵庫に食材をしまい終えると、ベッドルームへ入った。案の定、彼女はきれいにメイキングし直したベッドの上で丸まっている。
「佳恵さん」
脱いだスーツをハンガーに掛けて、ひと通りブラッシングをした。その後、鷹山はそっとベッドに横たわる。眠っていた佳恵さんが細く瞼を開け、こっちを睨み付けてからまた閉じた。
「お寝坊さんですね。今日はあなたのお友達も来るんですからシャキッとしていただかないと」
柔らかな後頭部の下あたりに鼻を埋め、ぐりぐりとかき回す。彼女はにゃあんっ、と悲鳴を上げて身体を捩った。こういう時が一番危ない。顔に猫フックを浴びせられないよう、素早く両腕を封じ込めて抱きすくめる。
「美人が台無しですよ。そんなことだと、いつかこのベッドを他の女性に取られてしまいますからね」
そう言いながら頭に浮かぶるのはもちろんいずみのことだ。佳恵さんの身体はふわふわでかなり気持ちがいいが、彼女はどうだろう。
指の細さからしてかなり華奢なタイプだと想像はしている。ボスのフィアンセと違って肉感的な体つきではないだろうが、元より自分は細身の女性が好みだ。清楚な黒髪も、抜けるような白い肌も、古風なイメージも、すべてが要求にマッチしている。
何より、あの声がいかにも魅力的に感じた。彼女の声は瑞々しく、有名店のマカロンを思わせるほど繊細でジューシー。なおかつ、天使のような空気感を持っているのだ。
夜のしじまの、甘く淫らな交わりの時に、あの声が自分の鼓膜を震わせたらどんなにか素晴らしいだろう。啼かせてみたい。吐息交じりの声で「祐輔さん」と囁いてほしい。
そのために、数日前から鷹山は入念に準備を進めてきた。部屋もキッチンもトイレも掃除は完璧、生活感の出るものはすべてクローゼットへしまいこんだ。猫砂も今朝替えた。いい匂いのするフレグランスも初めて部屋に置いた。
三十八にもなって、こんなにも本気になれる相手が現れるとは思っていなかった。
きっとこれが最後の恋になるだろう。成就すれば最高だが、もしもだめなら、せめて華々しく散りたい。そう思っている。
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