11 / 35
2 恋の自覚
2-2 メイディと初めてのダンス
しおりを挟む
「入るぞ」
「大丈夫かな? 私、踊れないんだよ」
「それはもう知ってる。問題ないから、行くぞ」
ためらうメイディの手を引き、アレクセイが扉を開ける。
ダンスクラブの活動場所は、廊下の突き当たりにある広いホールだった。色付きのガラスがはめ込まれた窓から七色の光が差し込み、ちらちら揺れて美しい。流れる音楽に合わせて揺れる制服の裾に光がかかり、いろいろな表情を見せている。
魔導具にしてはずいぶん綺麗な音色が流れていると思ったら、ホールの片隅に本物の楽団がいた。呼び寄せるだけで大金貨何枚いるのだろう。メイディはつい、頭の中の算盤を弾く。
「自己紹介、何言おう……」
「そんなものねえよ。皆、ここには踊るために来てるんだ」
「そうなの?」
「ああ。余計なことを考えずに、踊りたい日もあるだろ」
以前メイディが行ったクラブは、自己紹介させられたり雑談したりと、交流が中心で辟易したのだが。ここは違うらしい。確かに、聞こえるのは楽団の演奏と、顔を寄せ合って踊る男女のかすかな囁き声だけだ。
ちょうど曲が終わり、ひと組の男女が手を取りあったまま外へ出て行った。メイディたちのそばを通り過ぎるとき、会釈をひとつだけして。簡素な挨拶である。
「ここに来る男女のペアは、婚約者同士、恋人同士、好ましく思っている者同士。嫌いな相手とはわざわざ踊らねえからな。……そういうことだ。見せつけてやろうぜ、メイディ」
「なるほどね。わかった」
メイディは頷く。
人前で「恋人らしく」振る舞って、自分たちの関係を印象付けようということらしい。
「移動するぞ。まずは俺に身を任せろ。動きを合わせるつもりで、ついて来い」
「動きを合わせる……? おおっ、と」
アレクセイに手を引かれ、メイディの体は自然に前に出た。歩いているのに、歩いているという感じがない、不思議な感覚。気付けばメイディはアレクセイとともに、くるくる回るダンスの輪の中に立っていた。
「うまく歩けたじゃないか。……手は、俺の肩の辺りに添えろ」
片手を握り合ったまま、反対の手が、メイディの背に回る。言われるがままに彼の肩に手を添えたると、体の前面が密着するほどの距離感。アレクセイの甘い吐息が、鼻先をくすぐった。
「ダンスのステップは、俺に合わせれば良い。基本のステップで踊ってやるから、体で覚えろ」
耳元に寄せられた唇が囁き、鼓膜を揺らす。
「音楽に合わせて。1、2、3。1、2、3……」
アレクセイの合図に合わせて片足を引き、前に出し、そうやって動くと、体がくるくる回る。はじめはぶつかりあっていた足も、だんだんとステップを覚えるうちに、ぶつからなくなった。
1、2、3。彼の囁きが脳内をぐるぐる回り、それに合わせて体が動く。あらかじめ定められた場所をなぞるように、ふたりの体は回る。1、2、3。くる、くる、くる。
同じ動きを繰り返すうちに、呼吸が合い、動きが揃いはじめる。
「……気分はどうだ?」
曲が終わり、次に移るまでの少しの空白。アレクセイに問われ、メイディは彼の瞳を見上げた。こうして間近で見ると、アレクセイの身長がやけに高く感じられる。
「少しずつ、上達してる気がする」
次の曲が始まり、アレクセイが動き出す。それにつられて、メイディの体も。呼吸が合い、合図がなくとも、寄り添うように体は動いた。
「上達したかどうかじゃなくて、気分を聞いてんだよ」
「気分?」
「ああ。お前、楽しくないのか?」
「楽しむ前に、上手くならないと。せっかくやるんだから」
メイディが答えると、アレクセイは眉間に皺を寄せる。
「下手なままでもいいだろ」
「良くないよ。上達しなかったら、何もしなかったのと同じじゃない」
人生の価値は、何を成したかにある。取り組むからには、成し遂げないといけない。
「楽しければそれで良いって考えは、お前にはないのか? お前、俺と踊るのは楽しいんだろ。こうして一緒に体を動かしてるんだから、そのくらいはわかる」
勝手に断言されても、反論する気は起きなかった。ただ、アレクセイの動きに合わせて、ゆったりと回る。心地よい回転の中に、ずっと居たくなる。
「上達しなけりゃ、楽しんじゃいけねえって法はない。楽しいなら、それでいいだろ」
「……それでいいと思うの? 楽しむだけじゃ、何も生まれないのに」
楽しいなら、それでいいなんて。成果を得なくていいなんて。何の価値も、なくていいだなんて。
「楽しい思い出が生まれるんじゃねえのか? いいだろ。楽しむために、人生はあるんだよ」
「……でも」
本当に、いいんだろうか。
人生は、何かを成すためじゃなくて、楽しむためにあるだなんて。そんな自堕落な考え方をしても。
「いいんだよ」
アレクセイの確信に満ちた瞳が、メイディの心の奥を揺らした。
「……いいんだ」
胸の奥にくすぶる、ほんの少し速い鼓動に身を任せて。頬から広がる、体温の上昇に身を任せて。ふつふつと湧き上がる、楽しいという感情に身を任せて。
何も成さない人生に、価値はない。メイディの根底に流れる信念すら、アレクセイは揺らそうとしている。
「そう、それでいい」
彼の許しは、あまりにも優しかった。
肩の力が、ふっと抜ける。足が軽くなる。
見えるのは、アレクセイの美しい瞳だけ。その青の中に意識は吸い込まれ、深い水の底に、息もせずに潜っていくような没入感。くる、くる。回るふたりの動きが水流を生み、その流れに身を任せる。
自然と体が動き、思わぬ方向に流れる。それを引き戻し、アレクセイに委ねる。互いの鼓動が一致する。一緒に息を吸って、一緒に吐く。鼓動も、呼吸も同じ。そして、感情も。
楽しい。胸の奥から温かく広がるその気持ちは、間違いなく、楽しいという感情だった。
「楽しかったか?」
「……うん」
夕陽の照らす廊下は、橙で美しい。廊下は静かなのに、胸の内は妙にざわめいている。楽しい、の余韻が、まだ残っていた。
「良かったな。人生、楽しいのが一番だ」
そう言うアレクセイの横顔も、橙に染まっている。夕暮れの中で微笑む表情が、メイディにはひどく崇高なものに見えた。
「そう、だよね」
あまりの尊さに、つい同意してしまう。
今までずっと、楽しさよりも、成果を大切にしてきたのに。楽しい時間を犠牲にしてでも、何かを成し遂げようとしてきたのに。「楽しいのが一番」なんて認めたら、今までの自分ではなくなってしまうのに。
「どうせ一緒に過ごすなら、楽しく過ごしたほうが良い。そうだろ? 肩肘張らず、楽に生きろよ」
「……ありがと」
なのにメイディは、アレクセイの言葉に身を任せてしまうのだった。
「大丈夫かな? 私、踊れないんだよ」
「それはもう知ってる。問題ないから、行くぞ」
ためらうメイディの手を引き、アレクセイが扉を開ける。
ダンスクラブの活動場所は、廊下の突き当たりにある広いホールだった。色付きのガラスがはめ込まれた窓から七色の光が差し込み、ちらちら揺れて美しい。流れる音楽に合わせて揺れる制服の裾に光がかかり、いろいろな表情を見せている。
魔導具にしてはずいぶん綺麗な音色が流れていると思ったら、ホールの片隅に本物の楽団がいた。呼び寄せるだけで大金貨何枚いるのだろう。メイディはつい、頭の中の算盤を弾く。
「自己紹介、何言おう……」
「そんなものねえよ。皆、ここには踊るために来てるんだ」
「そうなの?」
「ああ。余計なことを考えずに、踊りたい日もあるだろ」
以前メイディが行ったクラブは、自己紹介させられたり雑談したりと、交流が中心で辟易したのだが。ここは違うらしい。確かに、聞こえるのは楽団の演奏と、顔を寄せ合って踊る男女のかすかな囁き声だけだ。
ちょうど曲が終わり、ひと組の男女が手を取りあったまま外へ出て行った。メイディたちのそばを通り過ぎるとき、会釈をひとつだけして。簡素な挨拶である。
「ここに来る男女のペアは、婚約者同士、恋人同士、好ましく思っている者同士。嫌いな相手とはわざわざ踊らねえからな。……そういうことだ。見せつけてやろうぜ、メイディ」
「なるほどね。わかった」
メイディは頷く。
人前で「恋人らしく」振る舞って、自分たちの関係を印象付けようということらしい。
「移動するぞ。まずは俺に身を任せろ。動きを合わせるつもりで、ついて来い」
「動きを合わせる……? おおっ、と」
アレクセイに手を引かれ、メイディの体は自然に前に出た。歩いているのに、歩いているという感じがない、不思議な感覚。気付けばメイディはアレクセイとともに、くるくる回るダンスの輪の中に立っていた。
「うまく歩けたじゃないか。……手は、俺の肩の辺りに添えろ」
片手を握り合ったまま、反対の手が、メイディの背に回る。言われるがままに彼の肩に手を添えたると、体の前面が密着するほどの距離感。アレクセイの甘い吐息が、鼻先をくすぐった。
「ダンスのステップは、俺に合わせれば良い。基本のステップで踊ってやるから、体で覚えろ」
耳元に寄せられた唇が囁き、鼓膜を揺らす。
「音楽に合わせて。1、2、3。1、2、3……」
アレクセイの合図に合わせて片足を引き、前に出し、そうやって動くと、体がくるくる回る。はじめはぶつかりあっていた足も、だんだんとステップを覚えるうちに、ぶつからなくなった。
1、2、3。彼の囁きが脳内をぐるぐる回り、それに合わせて体が動く。あらかじめ定められた場所をなぞるように、ふたりの体は回る。1、2、3。くる、くる、くる。
同じ動きを繰り返すうちに、呼吸が合い、動きが揃いはじめる。
「……気分はどうだ?」
曲が終わり、次に移るまでの少しの空白。アレクセイに問われ、メイディは彼の瞳を見上げた。こうして間近で見ると、アレクセイの身長がやけに高く感じられる。
「少しずつ、上達してる気がする」
次の曲が始まり、アレクセイが動き出す。それにつられて、メイディの体も。呼吸が合い、合図がなくとも、寄り添うように体は動いた。
「上達したかどうかじゃなくて、気分を聞いてんだよ」
「気分?」
「ああ。お前、楽しくないのか?」
「楽しむ前に、上手くならないと。せっかくやるんだから」
メイディが答えると、アレクセイは眉間に皺を寄せる。
「下手なままでもいいだろ」
「良くないよ。上達しなかったら、何もしなかったのと同じじゃない」
人生の価値は、何を成したかにある。取り組むからには、成し遂げないといけない。
「楽しければそれで良いって考えは、お前にはないのか? お前、俺と踊るのは楽しいんだろ。こうして一緒に体を動かしてるんだから、そのくらいはわかる」
勝手に断言されても、反論する気は起きなかった。ただ、アレクセイの動きに合わせて、ゆったりと回る。心地よい回転の中に、ずっと居たくなる。
「上達しなけりゃ、楽しんじゃいけねえって法はない。楽しいなら、それでいいだろ」
「……それでいいと思うの? 楽しむだけじゃ、何も生まれないのに」
楽しいなら、それでいいなんて。成果を得なくていいなんて。何の価値も、なくていいだなんて。
「楽しい思い出が生まれるんじゃねえのか? いいだろ。楽しむために、人生はあるんだよ」
「……でも」
本当に、いいんだろうか。
人生は、何かを成すためじゃなくて、楽しむためにあるだなんて。そんな自堕落な考え方をしても。
「いいんだよ」
アレクセイの確信に満ちた瞳が、メイディの心の奥を揺らした。
「……いいんだ」
胸の奥にくすぶる、ほんの少し速い鼓動に身を任せて。頬から広がる、体温の上昇に身を任せて。ふつふつと湧き上がる、楽しいという感情に身を任せて。
何も成さない人生に、価値はない。メイディの根底に流れる信念すら、アレクセイは揺らそうとしている。
「そう、それでいい」
彼の許しは、あまりにも優しかった。
肩の力が、ふっと抜ける。足が軽くなる。
見えるのは、アレクセイの美しい瞳だけ。その青の中に意識は吸い込まれ、深い水の底に、息もせずに潜っていくような没入感。くる、くる。回るふたりの動きが水流を生み、その流れに身を任せる。
自然と体が動き、思わぬ方向に流れる。それを引き戻し、アレクセイに委ねる。互いの鼓動が一致する。一緒に息を吸って、一緒に吐く。鼓動も、呼吸も同じ。そして、感情も。
楽しい。胸の奥から温かく広がるその気持ちは、間違いなく、楽しいという感情だった。
「楽しかったか?」
「……うん」
夕陽の照らす廊下は、橙で美しい。廊下は静かなのに、胸の内は妙にざわめいている。楽しい、の余韻が、まだ残っていた。
「良かったな。人生、楽しいのが一番だ」
そう言うアレクセイの横顔も、橙に染まっている。夕暮れの中で微笑む表情が、メイディにはひどく崇高なものに見えた。
「そう、だよね」
あまりの尊さに、つい同意してしまう。
今までずっと、楽しさよりも、成果を大切にしてきたのに。楽しい時間を犠牲にしてでも、何かを成し遂げようとしてきたのに。「楽しいのが一番」なんて認めたら、今までの自分ではなくなってしまうのに。
「どうせ一緒に過ごすなら、楽しく過ごしたほうが良い。そうだろ? 肩肘張らず、楽に生きろよ」
「……ありがと」
なのにメイディは、アレクセイの言葉に身を任せてしまうのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
86
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる