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Chap.1 白銀にゆらめく砂の城
Chap.1 Sec.9
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——その夜に、セトは中央棟を訪れていた。
例のステンドグラスを模したディスプレイはドアとなって滑り開き、細い通路を進んだ先の〈暖炉の間〉の応接スペースは、燃えさかる火の赤い光によって色をくすませていた。本来ならばロイヤルブルーの布地に金の装飾、暖炉の前に置かれた長ソファで、サクラは座って本を手にしている。いつもの眼鏡。〈いつもの〉と表現するには久方ぶりだった。
近寄るセトに、サクラの目が上がる。グラスを外して、本と共に目の前のローテーブルへと置いた。その顔は耽美主義の絵画にえがかれる青年のようで、感情が読めない。見る者の主観にゆだねられる。
森の静寂みたいな、感情の起伏がない顔。人形めいたこの顔が、昔の常だった。
「——これ」
腰をかがめて、手首に巻いていたブレス端末をローテーブルに載せた。
「ハウスのは返す。仮のデバイスはロキにもらった」
左手の甲をサクラに向ける。中指につけたリングが、炎を灯して赤く光った。
サクラの眼は暗い色をしてそれを眺めている。何も言わない顔を見下ろしていると、脳をチリチリと炙られるような苛立ちが——。
「——セト、お前はあれを置いて行くのか?」
〈あれ〉。いまだに代名詞で呼んでいた事実が、燻っていた苛立ちに火を点けた。
「あ?」
「ジャッカルは連れて行くのだろう? あれも、お前が拾ったものだろうに——置いて行くのか?」
「俺が決めることじゃねぇだろ。だいたい俺に所有権がねぇっつったのはあんたじゃねぇか」
「所有権はないだろうね。過去の法にしても、ここの規則にしても」
目を合わせたサクラは、炎に染まる瞳を揺らすことなく、
「残していくものは、害になれば殺処分にしてもよい——と言っていたな。あれも、お前にとってはもう要らないか?」
——手を、
その胸ぐらへと、出しそうになった。
「……いい加減にしろよ」
掴み上げて、殴り飛ばすイメージまでも浮かんでいた。
思いとどまったのは、これまでにセトを作り上げてきた環境が、暴力を許すものではなかったからにすぎない。
意思は、暴力を振るうことを望んでいる。感情を発散するためだけに、殴り飛ばしてしまいたい。
怒りを抑え込みながらも恐ろしい目つきで見下ろすセトに、サクラは微笑みを返した。
「あれが、なぜ自白剤を飲んだのか、教えてやろうか?」
「……は?」
唐突に切り替わった話題が、セトの眉間に深い溝を刻んだ。
いきなりなんの話か。ワードからすぐに理解する。自白剤。ティアの飲んだ紅茶に、ウサギが毒を入れたと疑ったサクラが——
「あれは、私が無理に飲ませたわけではなくてね……最後は自分の意思で飲んだのだが、そこまで話していなかっただろう?」
「今さらなんの言い訳だ? ウサギの意思も何も、あんたが脅して飲ませたんだろ。そんなもんは意思とは呼ばねぇ」
「そうか? ——なら、その目で見てみるといい」
宙に出されたサクラの白い手が、ひらりと指先を揺らした。
空間が白くゆらめく。耳に届いたかすかなホワイトノイズが立体投影による動画をしらせたため、突如として目の前に出現したウサギに驚くことはなかった。
《……サクラさん。私がグラスを飲めば、セトを赦してくれるんですよね……?》
テーブルに向かって座っているウサギは、意味の分からない言語を唱えた。聞き取れたのは自分の名前だけ。
サクラは音声のみだが、そのサクラに向けて彼女は懸命に喋っている。くり返されるセトの名と、交わされる言葉の空気から、
(俺を……護ろうとしてる?)
最後は奪うように。自白剤が入っていると思われる小瓶を取って、一気に呷った。
床に倒れ込むところで動画は掻き消えたが……残像の奥から、こちらを眺めるサクラの目とかち合う。薄い笑みを浮かべる唇が動いた。
「あれがここに残った理由は、お前を盾に私が脅したからだ。それは知らせたはすだが——忘れたか?」
「……それは、逃亡のあとの話だろ。あいつは、俺に命を救われて恩を感じてたから……」
「——私は、最後まであれを脅していた。脅しについても、お前が勝手に思っている内容ではないだろうな」
薄ら寒い笑みの上で、暗い眼が、じっ……と。
紡がれる真実は、惑わすように。
「——私は、“セトに罰を与えない代わりに、毒を飲め”と言っていた。ここに残ることが条件ではなく、臨床試験に付き合うことが正確な条件だった。その時点では致死量に満たない量だったが、銃撃を受けたお前の治療を願い出て……最終的に、お前の命と引き換えに一瓶すべてを飲み干した。——これは致死性の毒だと、私が伝えていたのにも拘らずな」
頭を殴られたような衝撃と、胸を締め付ける痛みは、同時だった。
身体に走った戦慄は、冷えた血が流れるような感覚に変わる。
何を言っているのか。
このひとは、何をやっていたのか。
サクラの言葉を真に受けるなら、あのとき、ウサギがずっと庇っていたものは——
「お前を命懸けで護ったあれを、お前は——私の許へ置いて行くのだね?」
確認するように問うその声は、ひどく静かだ。
責める意も蔑む意もない。
ただ冷淡に、その事実を突きつける。
——私と一緒に、逃げて。
頭のなか、波のさざめきのように響く彼女の声が、どうしても消えない。
「俺は……ウサギの意思を尊重する。もう二度と自分勝手に振り回さない。……ウサギがここを望んでるなら、無理やり攫いもしない。……なのに、なんであんたは俺を煽るんだ? 俺に恨みでもあんのか」
「恨みという言葉が出るのなら、お前のほうにその自覚があるのだろう?」
「なに言って……」
「——では、こう訊こうか」
くすりと鳴った呼気を終わりにして、サクラの微笑は冷ややかに変貌した。
「ミヅキの父は——誰だ?」
問いかける顔は、温もりを忘れ去った表情でセトを眺めた。
答えられないセトの横顔を、赤い光がゆらりと舐める。
(——知っていたのか)
やはり、と思うだけで、セトは何も返せなかった。
ただ、サクラのその問いは、セトの胸にかすかに残っていた躊躇を浚う。
ここに残る理由など、初めからなかった。
例のステンドグラスを模したディスプレイはドアとなって滑り開き、細い通路を進んだ先の〈暖炉の間〉の応接スペースは、燃えさかる火の赤い光によって色をくすませていた。本来ならばロイヤルブルーの布地に金の装飾、暖炉の前に置かれた長ソファで、サクラは座って本を手にしている。いつもの眼鏡。〈いつもの〉と表現するには久方ぶりだった。
近寄るセトに、サクラの目が上がる。グラスを外して、本と共に目の前のローテーブルへと置いた。その顔は耽美主義の絵画にえがかれる青年のようで、感情が読めない。見る者の主観にゆだねられる。
森の静寂みたいな、感情の起伏がない顔。人形めいたこの顔が、昔の常だった。
「——これ」
腰をかがめて、手首に巻いていたブレス端末をローテーブルに載せた。
「ハウスのは返す。仮のデバイスはロキにもらった」
左手の甲をサクラに向ける。中指につけたリングが、炎を灯して赤く光った。
サクラの眼は暗い色をしてそれを眺めている。何も言わない顔を見下ろしていると、脳をチリチリと炙られるような苛立ちが——。
「——セト、お前はあれを置いて行くのか?」
〈あれ〉。いまだに代名詞で呼んでいた事実が、燻っていた苛立ちに火を点けた。
「あ?」
「ジャッカルは連れて行くのだろう? あれも、お前が拾ったものだろうに——置いて行くのか?」
「俺が決めることじゃねぇだろ。だいたい俺に所有権がねぇっつったのはあんたじゃねぇか」
「所有権はないだろうね。過去の法にしても、ここの規則にしても」
目を合わせたサクラは、炎に染まる瞳を揺らすことなく、
「残していくものは、害になれば殺処分にしてもよい——と言っていたな。あれも、お前にとってはもう要らないか?」
——手を、
その胸ぐらへと、出しそうになった。
「……いい加減にしろよ」
掴み上げて、殴り飛ばすイメージまでも浮かんでいた。
思いとどまったのは、これまでにセトを作り上げてきた環境が、暴力を許すものではなかったからにすぎない。
意思は、暴力を振るうことを望んでいる。感情を発散するためだけに、殴り飛ばしてしまいたい。
怒りを抑え込みながらも恐ろしい目つきで見下ろすセトに、サクラは微笑みを返した。
「あれが、なぜ自白剤を飲んだのか、教えてやろうか?」
「……は?」
唐突に切り替わった話題が、セトの眉間に深い溝を刻んだ。
いきなりなんの話か。ワードからすぐに理解する。自白剤。ティアの飲んだ紅茶に、ウサギが毒を入れたと疑ったサクラが——
「あれは、私が無理に飲ませたわけではなくてね……最後は自分の意思で飲んだのだが、そこまで話していなかっただろう?」
「今さらなんの言い訳だ? ウサギの意思も何も、あんたが脅して飲ませたんだろ。そんなもんは意思とは呼ばねぇ」
「そうか? ——なら、その目で見てみるといい」
宙に出されたサクラの白い手が、ひらりと指先を揺らした。
空間が白くゆらめく。耳に届いたかすかなホワイトノイズが立体投影による動画をしらせたため、突如として目の前に出現したウサギに驚くことはなかった。
《……サクラさん。私がグラスを飲めば、セトを赦してくれるんですよね……?》
テーブルに向かって座っているウサギは、意味の分からない言語を唱えた。聞き取れたのは自分の名前だけ。
サクラは音声のみだが、そのサクラに向けて彼女は懸命に喋っている。くり返されるセトの名と、交わされる言葉の空気から、
(俺を……護ろうとしてる?)
最後は奪うように。自白剤が入っていると思われる小瓶を取って、一気に呷った。
床に倒れ込むところで動画は掻き消えたが……残像の奥から、こちらを眺めるサクラの目とかち合う。薄い笑みを浮かべる唇が動いた。
「あれがここに残った理由は、お前を盾に私が脅したからだ。それは知らせたはすだが——忘れたか?」
「……それは、逃亡のあとの話だろ。あいつは、俺に命を救われて恩を感じてたから……」
「——私は、最後まであれを脅していた。脅しについても、お前が勝手に思っている内容ではないだろうな」
薄ら寒い笑みの上で、暗い眼が、じっ……と。
紡がれる真実は、惑わすように。
「——私は、“セトに罰を与えない代わりに、毒を飲め”と言っていた。ここに残ることが条件ではなく、臨床試験に付き合うことが正確な条件だった。その時点では致死量に満たない量だったが、銃撃を受けたお前の治療を願い出て……最終的に、お前の命と引き換えに一瓶すべてを飲み干した。——これは致死性の毒だと、私が伝えていたのにも拘らずな」
頭を殴られたような衝撃と、胸を締め付ける痛みは、同時だった。
身体に走った戦慄は、冷えた血が流れるような感覚に変わる。
何を言っているのか。
このひとは、何をやっていたのか。
サクラの言葉を真に受けるなら、あのとき、ウサギがずっと庇っていたものは——
「お前を命懸けで護ったあれを、お前は——私の許へ置いて行くのだね?」
確認するように問うその声は、ひどく静かだ。
責める意も蔑む意もない。
ただ冷淡に、その事実を突きつける。
——私と一緒に、逃げて。
頭のなか、波のさざめきのように響く彼女の声が、どうしても消えない。
「俺は……ウサギの意思を尊重する。もう二度と自分勝手に振り回さない。……ウサギがここを望んでるなら、無理やり攫いもしない。……なのに、なんであんたは俺を煽るんだ? 俺に恨みでもあんのか」
「恨みという言葉が出るのなら、お前のほうにその自覚があるのだろう?」
「なに言って……」
「——では、こう訊こうか」
くすりと鳴った呼気を終わりにして、サクラの微笑は冷ややかに変貌した。
「ミヅキの父は——誰だ?」
問いかける顔は、温もりを忘れ去った表情でセトを眺めた。
答えられないセトの横顔を、赤い光がゆらりと舐める。
(——知っていたのか)
やはり、と思うだけで、セトは何も返せなかった。
ただ、サクラのその問いは、セトの胸にかすかに残っていた躊躇を浚う。
ここに残る理由など、初めからなかった。
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