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元禄三年(一六九〇年)の水無月、きちは、坂田川を上る川船の上にいた。
早朝に海庄を船出して、一時半ほど経っているだろうか。
谷間の川面にも陽の光が時々差し込むようになった。
船は高田屋の持ち物だった。
お得意の接待用に造られた、人だけを運ぶ特別な船だった。
自らの境遇を不運と嘆いてしまったら申し訳ない、と心に何度も言い聞かせるのだが、それでも思い出す度に、きちは重く暗い気持ちになった。
「この幸運を嘆いたりしたら、あきまへんえ」
「そない言うたかて、おかあさん」
「私は、滝もいるし、心配あらへん」「きちは、自分のことだけ、考えておったらええ」
それは、きちには無理な相談だった。
瑞江はきちにとって、心の拠り所だった。
そういう気持ちは、きよが亡くなり、瑞江が病床に伏すようになってさらに強くなっていった。
瑞江にしても同じ気持のはずだった。
母親の存在から引き離される、というのは自分の宿命なのだろうか、ときちは思わざるを得なかった。
それともう一つ、少しだけ気がかりなこともあった。
「父の後妻は、どんな人なんだろうか」「せんは幸せに暮らしているのか」「こんな幸運が続くわけがない」
瑞江との別れが、知らず知らずのうちにきちを気弱にしているのかもしれなかった。
掴みどころのない様々な不安な思いが、川面の渦や水泡のように湧いては消えていった。
川船は、時より大きく左右に蛇行しながら、ゆっくりと進んでいく。
そして、今度は緩やかに左に進路を取った。
川の左岸は切り立った崖になっており、まだまだ若い青葉が鮮やかだった。
滝が一筋、流れ落ちていた。
それは、白い生糸のような繊細な滝だったが、同時に芯の通った力強さをたたえていた。
不意に、船頭が掛け声をかけた。
よお、えさの、まがっしょ
えんやこらまっがせえ
えん、えんやあ、ええ
えんやあ、ああ、えんええ
ええん、えんやああ、ええどお
よお、えさの、まがっしょ
えんやこらまっがせえ
それは掛け声には違いなかったが、歌のように心地よい抑揚があった。
その声は、力強くも柔らかく、きちの胸の中に、すうっと降りていった。
きちは、自然の力に突き動かされて、即興で唄い始めた。
おめえはあ、まめだが
おとうは、おかあは
都、おお、土産ば
もてぐさあげ
いますこすばり
待ってでけろちゃ
待ってでけろちゃ、ああ
ああ、なあれえ
唄は、川面に、そして川谷に反響して、流れていった。
待つはずのない亡き母のことを、きちは敢て唄った。
きちの右頬を涙が一筋伝って、風に舞い、川面に落ちていった。
早朝に海庄を船出して、一時半ほど経っているだろうか。
谷間の川面にも陽の光が時々差し込むようになった。
船は高田屋の持ち物だった。
お得意の接待用に造られた、人だけを運ぶ特別な船だった。
自らの境遇を不運と嘆いてしまったら申し訳ない、と心に何度も言い聞かせるのだが、それでも思い出す度に、きちは重く暗い気持ちになった。
「この幸運を嘆いたりしたら、あきまへんえ」
「そない言うたかて、おかあさん」
「私は、滝もいるし、心配あらへん」「きちは、自分のことだけ、考えておったらええ」
それは、きちには無理な相談だった。
瑞江はきちにとって、心の拠り所だった。
そういう気持ちは、きよが亡くなり、瑞江が病床に伏すようになってさらに強くなっていった。
瑞江にしても同じ気持のはずだった。
母親の存在から引き離される、というのは自分の宿命なのだろうか、ときちは思わざるを得なかった。
それともう一つ、少しだけ気がかりなこともあった。
「父の後妻は、どんな人なんだろうか」「せんは幸せに暮らしているのか」「こんな幸運が続くわけがない」
瑞江との別れが、知らず知らずのうちにきちを気弱にしているのかもしれなかった。
掴みどころのない様々な不安な思いが、川面の渦や水泡のように湧いては消えていった。
川船は、時より大きく左右に蛇行しながら、ゆっくりと進んでいく。
そして、今度は緩やかに左に進路を取った。
川の左岸は切り立った崖になっており、まだまだ若い青葉が鮮やかだった。
滝が一筋、流れ落ちていた。
それは、白い生糸のような繊細な滝だったが、同時に芯の通った力強さをたたえていた。
不意に、船頭が掛け声をかけた。
よお、えさの、まがっしょ
えんやこらまっがせえ
えん、えんやあ、ええ
えんやあ、ああ、えんええ
ええん、えんやああ、ええどお
よお、えさの、まがっしょ
えんやこらまっがせえ
それは掛け声には違いなかったが、歌のように心地よい抑揚があった。
その声は、力強くも柔らかく、きちの胸の中に、すうっと降りていった。
きちは、自然の力に突き動かされて、即興で唄い始めた。
おめえはあ、まめだが
おとうは、おかあは
都、おお、土産ば
もてぐさあげ
いますこすばり
待ってでけろちゃ
待ってでけろちゃ、ああ
ああ、なあれえ
唄は、川面に、そして川谷に反響して、流れていった。
待つはずのない亡き母のことを、きちは敢て唄った。
きちの右頬を涙が一筋伝って、風に舞い、川面に落ちていった。
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