【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第11話 桜の季節

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第11話 桜の季節

水曜日の朝、オフィスの窓から見える街路樹に、小さな桜の蕾が見えた。

もうすぐ春が来る。季節の変わり目に、私は美咲との関係の変化を重ね合わせていた。昨日の雨の中を一緒に歩いた記憶が、まだ鮮明に残っている。

「おはようございます」

美咲がやってきた。今日は薄いピンクのブラウスを着ている。桜の季節を意識したのだろうか。

「おはようございます。桜の蕾、見えますね」

私は窓の方を指差した。

「本当ですね。もうすぐ咲きそうです」

「美咲さんは桜、好きですか?」

「大好きです。毎年、楽しみにしているんです」

彼女の目が少し輝いた。

コーヒーを渡しながら、私は提案した。

「今度の土曜日、お花見はどうでしょう?」

美咲は少し驚いたような顔をした。

「お花見ですか?」

「はい。近くの公園で桜祭りがあるんです。よろしければ、一緒に」

「ぜひお願いします」

彼女の返事は即答だった。それが嬉しくて、私の心は軽やかになった。

午前中、私たちは仕事に集中していたが、時々桜の話になった。好きな桜の名所、お花見の思い出、桜餅と桜茶の話。春の話題で、オフィスの空気も明るくなったような気がする。

十時頃、総務部の佐々木さんがやってきた。

「皆さん、お疲れさまです。来月の歓送迎会の件でご相談が...」

歓送迎会。この時期の恒例行事だが、私は少し複雑な気持ちになった。人事異動の季節でもある。

「今年は誰か異動になるんですか?」

私が聞くと、佐々木さんは資料を見ながら答えた。

「まだ正式発表前ですが、営業部の田村さんが大阪支社に...」

美咲の顔が少し曇った。田村さんは彼女がよくお世話になっている先輩だった。

「田村さんが...」

「来月末の予定です。寂しくなりますね」

佐々木さんが去った後、美咲は少し沈んだ表情になった。

「大丈夫ですか?」

「はい...でも、田村さんには本当にお世話になって」

「きっと大阪でも頑張られますよ」

「そうですね...」

でも彼女の表情は晴れなかった。人事異動の話は、いつも職場に微妙な空気をもたらす。

昼休み、私たちはいつものレストランに行った。美咲は朝からの沈んだ気持ちを引きずっているようだった。

「田村さんの件、気にされているんですね」

「はい。入社当初から、色々と教えていただいて...」

「きっと田村さんも、美咲さんのことを心配されるでしょう」

「私、一人でちゃんとやっていけるでしょうか」

美咲の不安そうな表情を見て、私は優しく答えた。

「大丈夫ですよ。美咲さんはとても頼りになる方です」

「本当ですか?」

「もちろんです。いつも丁寧で、責任感が強くて...僕もいつも感心しています」

美咲の顔が少し明るくなった。

「ありがとうございます。佐藤さんがそう言ってくださると、心強いです」

「何かあったら、いつでも相談してください」

「はい...でも」

「でも?」

「佐藤さんも、もしかしたら異動になったりしませんか?」

その質問に、私はドキッとした。確かに、この時期は誰にでも異動の可能性がある。

「まだ何も聞いていませんが...」

「もし佐藤さんがいなくなったら...」

美咲は言いかけて、やめた。

「もし僕が異動になっても、連絡は取り続けられますよ」

「そうですね...」

でも彼女の表情は、まだ不安そうだった。

午後、私は人事部に用事があって席を立った。戻ってくると、美咲が一人で考え込んでいた。

「どうかしましたか?」

「あ、佐藤さん。お疲れさまです」

「何か心配事でも?」

美咲は少し迷ってから、口を開いた。

「この時期って、色々な変化があって...不安になってしまうんです」

「変化ですか」

「人事異動もそうですし、新しい人が入ってきたり...今の環境が変わってしまうのが怖くて」

私は彼女の気持ちがよく分かった。変化は時として不安をもたらす。特に、居心地の良い関係が築けている時には。

「でも、変化が必ずしも悪いことだとは限りませんよ」

「そうでしょうか?」

「はい。新しい出会いもあるし、今まで気づかなかった自分の可能性を発見できるかもしれません」

「佐藤さんは、変化を恐れませんか?」

私は少し考えてから答えた。

「正直、怖いこともあります。でも、変化があったからこそ出会えたものもある」

「出会えたもの?」

「はい。例えば...」

私は言いかけて、やめた。「美咲さんとの出会い」と言いそうになった。

「例えば?」

「例えば、新しい趣味や、新しい考え方とか」

曖昧な答えだったが、美咲は少し納得したような表情を見せた。

夕方、桜の蕾はさらに膨らんでいるように見えた。

「明日には咲き始めるかもしれませんね」

美咲が窓の外を見ながら言った。

「楽しみですね。土曜日までには満開になるでしょう」

「はい。お花見、とても楽しみです」

美咲の表情が明るくなった。朝の沈んだ気持ちから、少し立ち直ったようだった。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした。また明日」

「また明日。桜、咲くといいですね」

「きっと咲きますよ」

美咲が去った後、私は窓の外の桜を見つめた。もうすぐ春が来る。新しい季節、新しい始まり。

でも人事異動の話は、少し気になった。もし私が異動になったら、美咲との関係はどうなるだろう。

指先が触れる距離にいられるのは、今だけかもしれない。だとしたら、この時間をもっと大切にしなければ。

土曜日のお花見が、私たちにとって特別な意味を持つ日になるような気がしていた。

桜の蕾を見つめながら、私は週末を心待ちにした。美咲と過ごす、桜の下での時間を。
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