【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第13話 変化の予感

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第13話 変化の予感

月曜日の朝、私のデスクには一輪の桜の花が置かれていた。

美咲が既に出社していて、私が到着する前に置いてくれたのだろう。土曜日のお花見の続きのような、優しい気遣いだった。

「おはようございます」

美咲が振り返った。今日はいつもより少し明るい表情をしている。

「おはようございます。桜の花、ありがとうございます」

「公園で拾ったんです。佐藤さんのデスクにあったら素敵かなと思って」

その心遣いが嬉しくて、私は自然に笑顔になった。

「とても嬉しいです。大切にします」

コーヒーを淹れながら、私は土曜日のことを思い出していた。桜の下での時間、美咲の「大切です」という言葉、そして別れ際の手の触れ合い。

「今日はどんな一日になるでしょうね」

美咲がコーヒーを受け取りながら、なんとなくつぶやいた。

「きっといい一日になりますよ」

そう答えながら、私は一抹の不安を感じていた。春は出会いの季節でもあるが、別れの季節でもある。

午前中、私たちはいつものように仕事に集中していた。でも時々、目が合うことがある。その度に、土曜日の記憶がよみがえる。

十時頃、人事部の林さんがやってきた。

「皆さん、お疲れさまです。来年度の配置についてお話しがあります」

その瞬間、オフィス全体の空気が変わった。ついに人事異動の正式発表だった。

「まず営業部の田村さんですが、来月から大阪支社に転勤となります」

既に知らされていた内容だったが、改めて聞くと現実味を帯びる。美咲の表情が少し曇った。

「それから...」

林さんが資料を確認している。私の心臓が少し早く打った。

「企画部の佐藤さん、横浜支社への異動をお願いしたいと思います」

その瞬間、時間が止まったような感覚になった。横浜支社。そんなに遠くはないが、毎日顔を合わせることはできなくなる。

美咲の方を見ると、彼女も驚いたような表情を浮かべていた。

「佐藤さん、詳細は後ほど個別にお話しします」

林さんが去った後、オフィスは静かになった。同僚たちが気遣うような視線を向けているのが分かる。

「佐藤さん...」

美咲が小声で私の名前を呼んだ。

「大丈夫です。まだ正式に決まったわけじゃないかもしれません」

でも、人事部が正式に発表したということは、ほぼ確定だろう。

昼休み、私たちは重い足取りでレストランに向かった。いつもの明るい会話は少なく、お互いに考え込んでいた。

「横浜って、そんなに遠くないですよね」

美咲が言った。

「はい。電車で一時間程度です」

「休日なら、会うこともできますね」

「もちろんです」

でも、毎日隣に座って、コーヒーを飲みながら何気ない会話を交わす。そんな日常が失われてしまうのは確かだった。

「寂しくなります」

美咲が小さくつぶやいた。

「僕も寂しいです」

私は正直に答えた。

「でも、佐藤さんなら横浜でも活躍されると思います」

「ありがとうございます。でも...」

「でも?」

「美咲さんがいない職場なんて、想像できません」

その言葉に、美咲の目が少し潤んだ。

「私も、佐藤さんのいない隣の席なんて...」

私たちは言葉を失った。指先が触れる距離にいることの大切さを、失って初めて実感していた。

午後、私は人事部に呼ばれた。異動の詳細についての説明だった。

「来月の中旬から横浜支社で新プロジェクトのリーダーをお願いします」

昇進を兼ねた異動だった。本来なら喜ぶべきことかもしれない。でも、素直に喜べない自分がいた。

「検討のお時間はありますか?」

「一週間程度でお返事いただければ」

オフィスに戻ると、美咲が心配そうに私を見つめていた。

「どうでしたか?」

「来月中旬からの予定です」

「そうですか...」

美咲の声が小さくなった。

夕方、定時になっても私たちは席を立とうとしなかった。今日という日が終わると、残された時間がまた一日減ってしまう。

「佐藤さん」

「はい」

「土曜日のお花見、本当に楽しかったです」

「僕も楽しかったです」

「あの時、来年も一緒に桜を見ましょうって約束しましたね」

「はい」

「その約束、守ってもらえますか?」

美咲の真剣な表情を見て、私は答えた。

「もちろんです。横浜からでも、必ず来年のお花見には」

「ありがとうございます」

美咲は少し安心したような笑顔を見せた。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした。また明日」

「また明日」

でも、その「また明日」がいつまで続くのか、もう分からなくなっていた。

家に帰る電車の中で、私は今日の出来事を振り返った。人事異動の発表、美咲との会話、そして来年の桜の約束。

指先が触れる距離。それがどれほど特別なことだったのか、失いそうになって初めて気づいた。

でも、まだ時間はある。残された日々を、もっと大切に過ごそう。美咲との関係を、もっと深められるかもしれない。

窓に映る自分の顔が、決意を固めたように見えた。限られた時間だからこそ、後悔のないように過ごしたい。

桜の花びらを大切にしまっていた財布から、あの日美咲からもらった花びらを取り出した。少し色あせているが、まだ春の香りが残っている気がした。
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