【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第14話 残された時間

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第14話 残された時間

火曜日の朝、オフィスには微妙な空気が漂っていた。

昨日の人事異動発表の余韻が残り、同僚たちの私を見る視線が少し変わっていた。気遣うような、惜しむような眼差し。

「おはようございます」

美咲の挨拶はいつもと同じだったが、声に少し寂しさが混じっているような気がした。

「おはようございます」

私はいつものようにコーヒーを淹れた。でも今日は、これがあと何回続けられるのかを考えてしまう。

「佐藤さん、昨日はお疲れさまでした」

美咲がコーヒーを受け取りながら言った。

「ありがとうございます。まだ実感が湧きませんが...」

「私も。昨日から、なんだかぼんやりしてしまって」

彼女の正直な言葉が嬉しかった。私だけが動揺しているわけではないのだ。

午前中、営業部の田村さんがやってきた。

「佐藤さん、異動おめでとうございます」

「ありがとうございます。田村さんも大阪、頑張ってください」

「お互い新天地ですね。でも寂しくなります」

田村さんが美咲の方を見た。

「田中さんも、佐藤さんがいなくなると寂しいでしょうね」

美咲の頬が少し赤くなった。

「はい...とても」

その素直な返事に、私の胸が温かくなった。

田村さんが去った後、美咲が小声で言った。

「みんな、私たちのことを分かっているんですね」

「そうみたいですね」

「恥ずかしいような、でも嬉しいような...」

そんな会話を交わしながら、私たちは普段通りに仕事をしようとした。でも集中できない。時計を見る回数が増え、残された時間を意識してしまう。

昼休み、私たちはいつものレストランに行った。でも今日は、特別な場所に見えた。もうそんなに多く来ることはできないのだから。

「佐藤さんは、横浜の異動をどう思っているんですか?」

美咲が聞いた。

「正直、複雑です」

「複雑?」

「昇進の機会だから、本来は嬉しいことなんです。でも...」

私は言葉を選んだ。

「でも、今の環境を離れるのが辛いです」

「今の環境?」

「はい。この職場も、同僚の皆さんも...そして美咲さんとの時間も」

美咲の目が少し潤んだ。

「私も、佐藤さんがいなくなるなんて考えられません」

「でも、連絡は取り続けられます。休日に会うこともできるし」

「そうですね。でも...」

「でも?」

「毎日の何気ない時間が、一番大切だったんだと気づいて」

美咲の言葉が胸に響いた。本当にその通りだった。

「朝のコーヒー、お昼のランチ、仕事の合間の会話...すべてが特別だったんです」

「僕も同じです。指先が触れる距離にいられることが、どんなに大切だったか...」

その時、美咲が少し驚いたような表情を見せた。

「指先が触れる距離?」

私は自分が口にした言葉にハッとした。心の中で思っていたことが、つい口に出てしまった。

「あ、いえ...隣に座っていて、資料を渡したりする時に...」

美咲は少し考えてから、微笑んだ。

「素敵な表現ですね。確かに、指先が触れる距離」

「変ですか?」

「いえ、とても美しい言葉だと思います。私たちの関係を表すのにぴったりです」

午後、私は残務整理を始めた。引き継ぎ資料を作成し、後任の準備をする。現実的な作業をしていると、異動が現実のものだと実感させられる。

三時頃、美咲が私のデスクにやってきた。

「佐藤さん、これ」

彼女が差し出したのは、小さな手作りのノートだった。

「何ですか?」

「私たちの思い出を書き留めました。初めて隣に座った日から、お花見まで...」

ページをめくると、丁寧な字で日付と出来事が記されている。「初めてコーヒーをもらった日」「雨の日に一緒に帰った日」「鎌倉で海を見た日」...

「こんなに詳しく覚えていてくれたんですね」

「大切な思い出ですから」

最後のページには、桜の花びらが押し花として挟んであった。

「お花見の時の桜です。佐藤さんにも同じものを」

「ありがとうございます。一生の宝物にします」

美咲の心のこもった贈り物に、私は深く感動した。

夕方、定時が近づいてきた。今日という日も終わろうとしている。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした。ノート、本当にありがとうございました」

「喜んでもらえて良かったです」

美咲が立ち上がろうとした時、私は思わず声をかけた。

「美咲さん」

「はい」

「異動まで、まだ少し時間があります」

「はい」

「その間に...もっとたくさん話をしませんか?」

「もちろんです」

「毎日のランチの時間、もっと特別にしましょう」

美咲の顔が明るくなった。

「はい。残された時間、大切に過ごしましょう」

美咲が去った後、私はノートを読み返した。こんなに丁寧に私たちの時間を記録してくれていたなんて。

指先が触れる距離。彼女も同じように、その距離を大切に思ってくれていた。

残された時間は限られている。でも、その時間をより濃密に、より特別なものにできるはずだ。

窓の外では、桜の花びらが舞い散っている。季節は移ろい、時間は過ぎていく。でも、美咲との思い出は永遠に心に残るだろう。

明日からは、一日一日をもっと大切に過ごそう。後悔のないように、精一杯の気持ちを込めて。

手作りのノートを胸に抱きながら、私は家路に着いた。
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