【完結】指先が触れる距離

山田森湖

文字の大きさ

大中小

16 / 50

第16話　新しい隣人

しおりを挟む

第16話　新しい隣人

月曜日の朝、私は最後の出社をした。

荷物をまとめ、同僚の皆さんに挨拶をして、美咲と最後の時間を過ごす。今日で、隣の席での日々が終わる。

「おはようございます」

美咲の声がいつもより小さかった。

「おはようございます。今日で最後ですね」

「はい...」

私は最後のコーヒーを淹れた。二人分。明日からは、美咲が一人でコーヒーを飲むことになる。

「ありがとうございます」

美咲がカップを受け取る時、いつもより長く手が触れ合った。お互いに、この瞬間を記憶に留めておきたかったのだろう。

午後、私は正式に職場を去った。美咲との別れは短く、でも心に深く刻まれるものだった。

「元気で」

「佐藤さんも」

そして私は横浜へ。新しい職場、新しい仲間、新しい生活が始まった。

---

三週間後。

横浜での仕事にも慣れ始めた頃、私は美咲に連絡を取った。

『元気にしていますか？』

すぐに返事が来た。

『はい、元気です。佐藤さんはお仕事いかがですか？』

『忙しいですが、充実しています。今度、お会いできませんか？』

『ぜひ。今度の土曜日はいかがですか？』

土曜日、私たちは例のコーヒーショップで待ち合わせた。久しぶりに会う美咲は、以前と変わらず美しかった。でも、どこか少し寂しそうに見えた。

「お疲れさまです。元気そうですね」

「美咲さんも。でも、少し疲れているように見えますが...」

「実は...」

美咲は少し迷ったような表情を見せた。

「隣の席に新しい方が来られたんです」

「そうなんですね」

「松田さんという方で、とても親切な方なんですが...」

なぜか、私の胸に小さな嫉妬のような感情が湧いた。

「男性の方ですか？」

「はい。私より少し年上で、とても優しくて...」

美咲の話を聞いていると、その松田さんという人は、以前の私と同じような存在になっているようだった。

「毎朝コーヒーを淹れてくださったり、分からないことがあると教えてくださったり...」

私がしていたことを、今は松田さんがしている。それは自然なことなのかもしれないが、複雑な気持ちになった。

「良い方のようですね」

「はい。でも...」

「でも？」

「佐藤さんとは違うんです」

その言葉に、私は少しほっとした。

「どう違うんですか？」

「なんというか...距離感が違うんです。松田さんは親切だけど、佐藤さんのような...特別な感じがないんです」

特別な感じ。その言葉が嬉しかった。

「そうですか」

「私、わがままですよね。せっかく親切にしていただいているのに」

「わがままなんかじゃありませんよ。人との相性は大切です」

でも心の奥では、松田さんのことが気になっていた。美咲と毎日顔を合わせて、コーヒーを飲んで、ランチを一緒にして...

「松田さんと、お昼は一緒に？」

「時々。でも、たいていは他の同僚の方たちと」

少し安心した。

一週間後、また美咲から連絡があった。

『今度の日曜日、お時間ありますか？』

『もちろんあります』

『実は、相談があるんです』

相談。何だろうと思いながら、私は待ち合わせの場所に向かった。

「お疲れさまです」

美咲は少し困ったような表情をしていた。

「どんな相談ですか？」

「実は、松田さんのことなんです」

私の心臓が少し早く打った。

「松田さんが？」

「最近、お食事に誘われることが増えて...」

私の中で、嫉妬という感情がはっきりと形を取った。

「食事ですか」

「はい。『今度の休日、美味しいレストランを知っているので』って」

「それは...どうお答えになったんですか？」

「まだお返事していないんです。どうしたらいいか分からなくて」

美咲の悩みが、私には別の意味で聞こえた。彼女は松田さんの誘いを断りたがっている。でも、なぜ？

「松田さんは、どんな方なんですか？」

「真面目で、優しくて...きっと良い人だと思います」

「でも？」

「でも、特別な感情が湧かないんです。申し訳ないんですが...」

「それなら、無理にお受けする必要はないと思います」

「でも、毎日隣に座っているので、断りにくくて...」

隣に座っている。私がいた場所に、今は松田さんがいる。そして美咲に食事を誘っている。

「美咲さんは、どうしたいんですか？」

「正直に言うと...お断りしたいです」

「なぜですか？」

美咲は少し頬を赤らめた。

「他に、大切に思っている人がいるからです」

その瞬間、私の心は大きく動いた。

「大切に思っている人？」

「はい...」

美咲は恥ずかしそうに俯いた。

「その方は...」

「佐藤さんです」

静かに、でもはっきりとした声で、美咲は私の名前を呼んだ。

私の世界が、一瞬で変わった。美咲も私と同じ気持ちでいてくれたのだ。

「美咲さん...」

「松田さんは良い方です。でも、佐藤さんのような特別な気持ちにはなれません」

指先が触れる距離。それがどれほど大切だったか、離れてから改めて分かった。そして、それは美咲にとっても同じだったのだ。

「僕も、美咲さんを大切に思っています」

やっと、本当の気持ちを伝えることができた。

カフェの窓から差し込む午後の光の中で、私たちは初めて、お互いの本当の気持ちを確認し合った。

長い時間をかけて育まれた関係が、ついに新しい段階に入った瞬間だった。

しおりを挟む