魔法使いの弟子の勤労

ルカ

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第十五話 師匠の祈り

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 *****
 あなたは一度たりとも私を愛さなかった。
 そう確信したのは、街に残ると言った私にあなたが「そうか」とただ一言返したあの時。
 私は平凡で、平凡以下で。そしてあなたは特別な人間。子供の頃からそうわかっていた。
 あなたの体には血の代わりに魔力が流れている。
 あなたの執着は魔法のない所には存在し得ない。
 執着は愛故で、ならば愛に反するものは無関心だ。
 あなたは魔法を持たずに生まれた私に無関心だった。
 私はあなたのようにはならないと決めていた。
 生まれてくる我が子がどんなに平凡でも、それ以下であっても、
 心から愛し慈しむと、何があっても手を離さないと、そう決めていた。
 でも、あの子は特別だった。恐ろしいほど特別な子だった。あなたと同じに。
 我が子にとりついた魔法が憎い。
 魔法にとりつかれた我が子が疎ましい。
 許せない、許せないどうしても。
 あなたを許せない。









 修行を修了し館を出て、教職に就き、リーブラの貸家に住むようになってからも、エヴァンズは『人喰い館』を訪ねていた。
 軍人のウィリアムはいまや国外にいる時間が多くなり定期的な訪問は叶わなかった。「放っておくと好き勝手しすぎるから釘を刺しに行け」と彼に言われており、エヴァンズは一年に二、三度は仕事の合間を縫って師匠と顔を合わせていた。
「大昔、子を産んだ。男だ」
 その時、訪ねて来たエヴァンズはまだ席にも着いていなかった。
「昨晩飲みすぎた」と言った師匠は、居間の窓辺のソファに肘を付いて横たわっている。
「師匠から産まれた生きている人間がいるという意味ですか」
 あまりに唐突な話にもエヴァンズの表情は無だったが、言葉を発するまで少しの間を挟んだ。今まで彼女の夫や子供の影など一切感知したことが無かった。
 レベッカは欠伸を一つしてから続けた。
「あれが十だかそこらの時の引っ越しで、住み込みの仕事をして街に残ると言うから別れてそれきりだったが、お前らが館を出た後に便りが届いた。結婚して二人子供がいる、八歳になる姉の方を〝見〟に来てほしいと」
 行き倒れや貧救院行きになる母子家庭が少なくない中で、この母子が他と違う点は母親が優れた魔女であることだった。男親が不在のまま子を持っても、何一つレベッカの不自由にならなかった。気ままさも失われなかった。母親の役目というものを彼女自身よく知らないでいたが、子が死ななければまあそれでいいのだろうという考えでいたので、最低限以外は放任だった。置いて出かけ際に泣かれた時は、代わりに自分の疑体を設置して出て行った。
 母親の気まぐれな引っ越しの何度目かに、まだ幼さの残る息子は「今の街に残る。友達もいるし住み込みで働かせてもらえる所もある」と言った。レベッカは「そうか」と感慨無く返答した。悲しくも嬉しくも無く、ただ彼の好きにするのに何の疑問も無かったからだった。
 それから十年以上もの音信不通の間に、息子が何をしていたかも、自分が弟子を取って修了させたという報告も、レベッカにはどうでもよかった。ただ突然届いた彼の手紙に書かれていた孫のとある様子には、興味が湧いた。
 レベッカがブライアント家を訪れた時、家の前の道で姉妹が笑い声をあげて遊んでいた。姉が持つ杖の動きに連動する蝶を、妹がよたよたと追いかけていた。
「ごきげんよう」
 少し離れた所に立つ日傘の貴婦人に、テアは身動きを止めた。レベッカが優雅に微笑って返す。その間に蝶が自由を得て飛び去って行く。
「……ホルブルックおばさん?」
 レベッカの表情が急に白けた。
「誰だそれは」
「?」
 首をかしげながらテアはやけに険しい表情をしている。レベッカはその様子を眺めていた。
「なんだ、目か」
 事態が呑み込めないでいるテアに歩み寄ると日傘を閉じた。ぱっと光が散ると白い日傘が扇子に変わった。
「!」
 テアが目をまるまるとしている間に、扇子の先を己の目に近付けたり遠ざけたりして「こんなもんか」と呟いた後、テアの目のあたりで振った。一瞬の眩しさに閉じた目をテアが開くと、それまでの曖昧な世界が一変していた。
「!!!」
 硬直する姉の顔に出現した装身具を、妹が横から覗き込んでいる。レベッカはしゃがんでテアの目線の中央に自分を置いた。
「これが私だ。名はレベッカ。ホルなんちゃらおばではない。魔女で、一応お前の祖母だ」
「祖母……魔女…………!?」
 孫の目はルブも無いのに猛烈にきらきらとした。
「いまのどうやったの? 傘は、その扇子は? これ、この、平べったいのはなに?」
「眼鏡だ」
「メガネ!! どうして? どうやったらできる? わたしもやりたい!」
 テアは抱き着かんばかりにしてレベッカのスカートを引っ張った。
「おお。上品な躾をされた娘ごだ。さぞや高貴なお生まれ、舞踏もお手の物」
 扇子がついと動くとテアはレベッカから離れて、手持無沙汰の妹の周りを蝶の代わりにくるくると舞った。
 初めはぽかんとしていたテアはやがて妹と一緒に笑い出した。
「どうして、かってに動く! これも魔法なの? ねえ、わたしもやってみたい!」
「ふぅん。お前にはそんなにおもしろいのか、魔法というものは」
「うん! おもしろい!」
 ますます高くなる歓声を聞きつけて、家から姉妹の父親が出てきた。
「――母さん?」
 振り向いたレベッカは扇子を下した。娘達のもとへ父親が険しい表情で駆けつける。
「止めてください。こんな子供を操るなんて……」
「お父さん! このひと祖母で魔女だって! すごいの、目をぎゅっとしなくても見えるの! わたしがちょうちょにするみたいに、わたしを動かせるの!」
 魔法が解けた娘がしがみついてくる。彼女が眼鏡をしているのに気付いた後、父親は複雑な表情をレベッカに向けた。レベッカはただ泰然と視線を返している。
「ああ。見た。確かにあれは生体操作だ」
「……同世代の子達とは比べられない程の魔法を使うんです。いや、大人だって敵わない」
「そうか」
「テアもあなたと同じように特殊な魔法を使うようになるんですか」
「さあ。顔だって似ないんだ、血筋なぞ当てにならない。だが――」
『血筋なぞ当てにならない』という言葉は息子の顔を一瞬曇らせた。母はそれに目もくれないで愉快そうに目尻を垂らす。
「好きにさせておけば、きっとこれはおもしろい魔女になるだろう」
 そう言うやいなや光が散って扇子は日傘に戻った。
「用は済んだな? 愉快なものを見せてくれてどうも」
 久方ぶりの再会の感動はこの母子には無かった。あっさりと背を向けた母へ息子はわずかに口を開いたが、結局何も言わなかった。
「あの、あの」
 控えめな呼び声にレベッカが足を止め振り向く。
「さっきは服を引っぱってしまってごめんなさい……」
 父親の服を掴みながら、上目遣いのテアが言った。先ほどまでの興奮から我に返ったらしく恥じらいの様子を見せている。
「構わない」
「また、遊びにきてくれますか?」
「どうだかな」
「あの、つぎは、魔法のやり方を、教えてくれる……?」
 孫の問いかけに言葉は返さず、魔女はただ一度笑んで日傘に隠れた。レベッカはブライアント家を後にした。
 以降も母子の間に交流が復活することは無かった。レベッカが館で一人気ままな暮らしを続けた九年後の――先日の事だった。突然息子の名で二度目の手紙が届いたのは。
「七年前、人体操作が行使できるようになった十歳のテアを、金を出して魔法を忌避する地域の家によこしたという事後報告だった。興味深い随筆も添えてあったな。私は魔法に執着し、執着は愛故で、魔法を持たない息子には無関心だったと。なるほど執着こそが愛ならば、確かに私は実の息子を一度も愛さず放棄した悪母だな」
 そう話すレベッカは悪びれもせず他人事のようでいた。横たわったままの彼女をエヴァンズは黙って見下ろしている。彼自身自分の母親についての記憶はおぼろすぎて、特に感慨は無かった。
「なかなかに愉快な筋書きを立てたものだ。報告が今になった理由は知らんが、とりあえず年数が経てば娘の魔法が彼の地で矯正されきってどうにもならなくなっているはずという考えだろう。祖母に起因して生じた孫の悲劇を祖母自身へ披露したかったらしい。が、孫がどうなっていようが私には知らん」
 淡々と続ける魔女の目は宙を見ている。
「私の興味を引いたのは、あの娘のじゃじゃ馬な魔力が片田舎の偏屈な矯正法如きで本当に飼いならせたのか、だ。どんなあくどい魔女が生まれたか、想像するだけでわくわくするだろう? だが、早速観に行ってみれば、筋書きは妙な展開を見せていた。あの娘は私が誰か全くわからなかったうえに、ひどい錯乱状態に陥った。気を絶えさせて見てみれば、自分で自分に記憶改変を施した痕跡があった」
「改変で自分の祖母が誰か分からないようにしたという事ですか」
「同時に己が魔法使いであった事も、ついでにパン屋の一家に向けても。規模だけで言えばどこぞの少年のいたいけな忘却魔法よりも優秀だな? だがあんな力任せのど下手クソでよくぞ今まで安寧を保てたもの。人体操作を使えると言っても記憶改変においては未熟も未熟だ。どうせ改変するなら己をパン屋の実子にするなりうまい手があった。何より魔力については見えないようにしただけで封じたわけでもなし。記憶より一足先に、火魔法を筆頭に露出しつつある」
「改変のほころびは、どの程度まで」
「既にほころびだらけなうえに、忘却が適切な部分も無理に改変しているせいで固く脆くへばりついて実にややこしい状態になっている。〝呪い〟としては高得点をやれるぞ」
「解除か、補強は」
「今のところ出来ない。ややこし過ぎて外からは手が出せん。下手に思い出させるような事をすれば気が狂うのかもしれんな。特に、あの娘にとって〝私〟は、己が〝魔女の孫〟であったことは、猛毒らしい。此度の再会だけは忘却を行使しておいた」
「……魔法が解けるのに必要な時間は」
「持ってあと数年というように見えた。それに伴って記憶が徐々に戻るのはさておき、興味深いのは魔力の方――単なる成長過程なら暴発なんぞ滅多に見られるものではないが、あの娘の場合『無い』と思っているものが実は『有る』状態だ。記憶に先んじて未熟なりに人体操作を扱えるだけの魔力が蓋を越えて溢れてくるようなら、暴発で身を滅ぼす。肉に触れずに臓を止め、記憶を殺して生ける屍を生む。扱いをろくに教えられもしないままなら」
 そこまで言って、宙を見ていたレベッカが弟子を見上げた。
「おまえ、あの娘にその気があるようなら、魔法の扱い方を教えてやってくれないか」
「わかりました」
「即答するなよつまらん奴だな。師匠が首を垂れて弟子に請う愉快なショーが見れたかもしれないだろう」
「そうですか」
 残念がる師匠に弟子は無感動な返事をした。
「師弟になれという話じゃない。かわいい孫のお世話をお願いしたいのではない。お前のとこの学校を利用するなり方法はなんでもいい」
「はい」
「改変魔法が頑ななうちは私が関わっていることは伏せろ、妙な刺激になる。学生のスカウトなり人体操作の適合者探しなり適当な動機をほざいておけ。必要な時間が経てば緩んで、思い出すのに耐えられるようになるだろう」
 そう言う師匠にエヴァンズはやはり悠然と了承の返事をするだけだった。レベッカが欠伸をして「今日はもう眠いから帰れ」と言ったのを機にその場は解散となった。
 彼の師匠の気ままさは周囲を振り回すものであったが、基本的に己の欲求は己で片を付ける気性であったし何かを「してくれないか」と弟子に請うことなど今まで無かった。並の感受性があれば「人喰らいの魔女も血の繋がった孫については思うところがあるのか?」とでも勘繰っただろうが、エヴァンズは今更彼女の思惑を考えるでもなくただ応えるのみだった。
 生憎学校の試験期間に入るところで、体が空き次第師匠の孫を訪ねることにしていた。そんな彼のもとへ、ある日学校経由で電報が届けられた。
 知らぬ乳牛牧場からだったが、エヴァンズはその地名に見覚えがあった。師匠の館の近くだった。
 彼でなければあまりにも無秩序な展開に思わず笑いでもしたかもしれない。
 突然の乳牛屋がレベッカの死と埋葬を報せた。
 その牧場は鉄道網を利用したロンドンへの出荷の他に、荷車を引いて回れる範囲内での地道な訪問販売をしていた。レベッカの館はそのうちのひとつだった。
 嫌な予感を感じ取ったのは、牧場の十八歳になる息子だった。訪問販売に連日反応がなく――集落から離れた独居客、特に若人以外には時折あることなので――窓から室内を覗くと予感の通り、倒れている女主人を発見した。
 孤独死に遭遇するのが商売柄初めてでもなく、レベッカが病死かつ親族の気配が無かった事から、牧場の者達は女主人を早々に地域の墓地に埋葬した。その後彼らの間で、相続人もいないようだし館の高価そうな家具はこっそり売ってしまおうかという話が持ち上がったが、唯一異を唱えたは件の息子で、レベッカに本当に身寄りがいなかったのか館を調べ直した彼はエヴァンズの名が記された手紙を見つけた。宛先が分からなかったため同じく手紙から見つけたリーブラ魔法学校という施設名を頼りに電報を打った。
 墓へ案内された時、医者の簡易的な検死の結果レベッカは慢性的な病を抱えていたかもしれない事、彼女のおおよその死亡日は孫について話し合った二日後だった事を、エヴァンズは彼から聞いて知った。
「半年くらい前かな、配達に引いてた荷車の車輪が壊れかけてたんです。悲鳴みたいな音がずっと出てました。それをあのひとが館に入る時に、なんか扇子をひらっとして。俺よくわかんなくてぼーっとしちゃって、あのひとの魔法だった! って、直ってからだいぶ後で気付いて」
 くたびれたシャツを着た牧場の息子は、整然とした身なりのエヴァンズが恐れ多いのか墓石に視線を落としたままでいる。
「あんな魔法使いに会ったの初めてだったんです。俺、水と風しか使えないし、その、かっこいいなって、憧れだったんです……そんな年寄りには見えなかったし、全然。まさか……せめて、知り合いにお墓に来てもらえたから、あの魔法使いさんの為になったかな。仕事の大事な相棒を直してもらったのに、俺が馬鹿で、結局意気地が無くてお礼も言えなかったから」
 エヴァンズが生徒達と年端の変わらぬ彼に「あなたは聡くて清廉な人です」と悠然と言うと、牧場の息子は驚きの表情を向けた後、照れを隠して鼻を掻いた。
 エヴァンズはその足で汽車に乗りウィンフィールドへ向かった。ベイカー家のパン屋に着いたのは夕方頃だった。
 店に入った時会計には誰もいなかった。一人の男性客が店員を呼び慌ただしい気配が近付いて、自分も目の前の適当なパンを掴んで後に続いた。
 自分の番がくると、壁に空けられた四角い会計口越しに女性が見え――かと思うと横からもう一人別の女性が出てきて「どいて」と言い、代わった。
「ヒョロっとした十七の女、眼鏡」というのがレベッカから聞いていたテア・ブライアントの情報だった。しかしどちらの女性も眼鏡をしていなかったし、エヴァンズの目には両者とも大差が無いように映った。そもそもこの家にテア・ブライアント候補が複数いるとは聞いていなかった。
 最初に対応した女性は既に奥に引っ込んでおり、後から代わった女性が笑顔で会計を済ませた。
「失礼。テア・ブライアントという方は?」
 エヴァンズの不意の問いかけで彼女の表情が驚きに変わった。
「――どちら様?」
「黄道十二宮会第七領リーブラ魔法学校で、教師をしている者です」
「魔法学校?」
 表情がみるみる警戒と不愉快で染まっていく。
「テアって誰よ。うちに魔法なんて小麦の一粒だって関係ないわ。帰って」
 言い終わるやいなや会計口の短いカーテンが勢いよく閉められた。が、勢いよく開いた。
「さっきいたのはお手伝いのスージーよ」
「ご親切にどうも」
 今度こそカーテンが閉めきられた。
 エヴァンズは店を出ると路地を歩いた。この一帯に賭け魔法が起因する忌魔法文化が浸透しているのは知識にあったが、確かにこの街は住人にしても街灯ひとつにしても魔法の気配が極端に少なく、図らずもフィールドワーク代わりとなった。
 購入したパンに痕跡解明を行使してみると、ごく弱い痕跡が見て取れた。側で魔法の火が燃えていた証だった。
 ベイカー邸の母屋の裏に回るとある物が目に入った。木戸を空けて敷地内に入り、雑草の合間に設置された簡易的な竈に痕跡解明を行使する。強く火魔法を示す痕跡が表れた。振り返るとこじんまりとした石造りの倉庫が建っていて、物体操作で開錠し室内を見れば物置にしては殺風景だった。
 飛んできた小さな甲虫が開いた扉から入ってきて、ブリキの入れ物のふちに止まる。中には櫛や鏡が収められていた。窓辺に置かれた携帯ランプにはロウソクが入っておらず、痕跡解明はルブの反応を示した。
 ここで生活している魔法使いがいる。それがおそらくテア・ブライアント。
 エヴァンズは倉庫の前でテア・ブライアントが現れるのを待ったが、日が暮れても、母屋の電気が消えても、彼女は帰宅しなかった。
 いったん出直すことにした彼は今晩の宿へ向かった。今日中に一度宿から報告の便りを飛ばすようウィリアムに頼まれていた。師匠が亡くなった顛末と孫の存在は既に連絡済みだったが、兄弟弟子は職務で帰国が叶わないでいた。
 飛行魔法のかかった便りが部屋の窓から飛び去る頃には真夜中だった。窓を閉め、懐中時計に目をやったエヴァンズはベイカー家を明日の朝にもう一度訪ねるつもりでいた。
 その時、爆発のような音と共に窓が激しく振動した。視線を上げたエヴァンズの目にガラスの向こうの景色が映った。
 暗闇に緋色の明かりが浮かんでいる。それは宿にほど近い林を燃やしている炎で、その揺らめき方は――街の者が目を凝らせば奇妙だと分かっただろうが――彼には極見慣れたものだった。
 魔法による火だ。
「触らないで!」
 向かった先でエヴァンズが遭遇したのは、眼鏡の女性が魔法を行使する場面だった。
「キャロル、死、死んで、わたしが――」
「いや、死んでない」
 魔法を受けて倒れたのはパン屋で会計を担った方の女性で、痕跡解明をすると人体操作、気絶魔法だとわかった。
「テアが全部やった」
 魔法が解除されたキャロルは健康的な足取りで駆けだしていった。エヴァンズは立ち上がり、キャロルが指さした女性に顔を向けた。
 座り込んでいる眼鏡の彼女こそが、師匠の孫で人体操作の才を持つ魔法使い、テア・ブライアントだった。
 テア・ブライアントは立ち上がると、歩いて暴発現場から離れ始めた。エヴァンズは後を着いていった。
「……もう、逃げたところで――」
 テア・ブライアントは急に立ち止まった。
「ベイカーさんが絶対に許さない、もう、戻れない。ぶたれる、そうじゃない、そんなのじゃない。追い出される。逃げても意味ない。家どころじゃない、この街にすら――もう、わたしの行くところなんて、ない」
 彼女は頭を抱えて呟いた。
「……どこにも行けない……」

 それは、違う。

 かつて幼い自分も似た言葉を吐いたことが思い出として浮かぶ前、考えるより先、反射でエヴァンズはそう感じた。
 かつての彼もそう信じた。あの部屋の暗闇に閉じ込められて、行き止まりで土に伏して。
 それでも、道は在った。それが元の場所より幸福だったのか不幸なものだったのか知れないけれど、ここではない何処かというものが彼にも確かに在った。例え苦しみに耐えきれず力尽き土に伏せても、道の途中には誰かが、その手を引く誰かがいた。
 心の機微を感ずるには曖昧になってしまった彼の情緒では、そこに伴うはずの感情を知覚するのも、教訓や同情として言葉にするのも不可能だった。
 それよりも彼は――ただ、胸につかえていたものがすとん降りて、急に全てが腑に落ちた気がしていたのだ。
 それは初めからそこにあったように当然で自然で、疑問の無い選択だった。
 師匠の予測通り暴発が起こった。彼女の魔力は彼女自身の記憶改変で抑えきれる段階ではとっくになくなっている。現状、補強も解除も不可能なら人体操作までの魔法の扱いの基礎を最短で学ぶのが暴発対策に適している。学校の定められた課程では悠長。この街にはもう居れない。住む家も無い。
 だとしたらこうならない理由が無い。
「なら私の弟子になるか?」


 ウィリアムが職務の合間を縫ってロンドンからエヴァンズ邸にやってきた頃には、すでに夜更けだった。
 テアが弟子となって以来初の訪問だった。本来であれば訪問に相応しい時間でもなく彼女も使用人も既に寝室に引っ込んだ後だったので、兄弟弟子は静かに部屋へ入った。
「仕事忙しいのか? 髪伸びてるぞ」
 エヴァンズの自室の扉が閉まると早速ウィリアムが口を開いた。彼は前回師匠の墓参りの時も職務の合間で時間が限られていて、事の顛末を聞き足りないでいた。
 着席しエヴァンズから続きを聞く中で、師匠の孫が竈の火以外の魔法を許されないでいたというベイカー家の下りでは「閉じ込めておけばファルコンが鈍間になるとでも思ったか。壁に激突して死ぬだけだと誰でもわかる!」と苛立った相槌を打った。師匠の孫に代わってベイカー家をどうにかしてやれないかと一瞬目論んだが溜息を吐いて自制した。
 また、事の詳細を聞く中でウィリアムはレベッカの死についてある気付きを得た。
 どうして孫の魔法教育を弟子に頼んだのか――それが自分ではなくオリヴァーだったのは人体操作の才の有無で仕方無しとして――彼女であれば、他人に頭を下げるくらいならどんな常識外れの手段を用いてでも己でやり遂げるはずと思われた。どんな手段だって行使できるのだから。
 それは、もう決してやり遂げられないと彼女は知っていたからだ。
 どんな手段をも可能にしてきたその魔力はもう多くは残っていなかった。長い病ならば日頃から自覚症状もあったのだろう。
 レベッカは己の死期の間近さを悟っていたのだ。だから孫の事は託す以外なかった。
 何よりウィリアムが気付いて衝撃を受けたのは、病も死もレベッカは悟りつつ、それを弟子にも誰にも敢えて伝えずにいたのであろうことだった。
 いくら鈍感な質とは言え兄弟弟子が気付かなかったのを安易に責めるべきではないと思われた。彼女の事だから弱っている素振りは見せなかったのだろう。自分が一年ほど前最後に会った時もそんな気配は微塵も感じさせなかった。
 己が衰弱していく過程を誰かにそばで見守っていてほしい、天国に迎えられるよう慈悲深く見送ってほしい、などと願う女ではない事は百も承知だ。
「(けど人知れず死なれた方がこっちは厄介に決まってるだろう! どこまで勝手なんだ!)」
 ウィリアムは眉間を抑えていた手を椅子の腕置きに戻すと、顔を上げた。
「――それで、今後はどうするつもりなんだ」
「どうするとは?」
「師匠の孫のことだ。施設管理補助員は早々お前の助手職に鞍替えするとして、その先はどう考えてるんだ?」
「どうもするつもりはない」
「ない?」
「助手に就く事も決まっているわけではない」
 悠然と言ってのける兄弟弟子にウィリアムは呆れて束の間言葉を失ったが、なんとか口を開いた。
「師匠から魔力も継いでるとすれば、並みの魔法使いにはならないくらいは想像がつくよな? 将来的には相応しい身分を考えてやらなければいけない。それに彼女には残念だが、前科がある。正しく導いてやらなければ記憶が完全に戻った時に、また魔法を手放そうとする可能性も否定出来ない。そうしたらここまでお前が彼女の為にしてきた事だって全て無駄になるぞ。いいのか?」
「彼女がそうしたいならそれでもいい」
「いいか。ものは良く考えてから言えオリヴァー・ウィーレベッカ・エヴァンズ。彼女の魔法の〝全て〟だぞ。過去だけじゃない、自分の祖母の事も、これまでの修行の事――お前の事も、彼女の中で全部無かった事にしてしまっても。それでも、か?」
「ああ」
 全く動揺の無い態度にウィリアムは苛立ちを越えて困惑した。
 この兄弟弟子はかつて友人に忘却魔法を行使し己を「無かったこと」にしたせいで我を失うほどの苦悩をしたはずではなかったのか。彼の情緒は最早何の感慨も呼び起こさせないほどに錆び切ってしまっているのか。自分達の師匠が死に、託された孫が魔法使いとして人生の危機にいるこの期に及んで。
「そんな無責任が許されるか」
 そもそも常日頃受け身の兄弟弟子がわざわざ孫を弟子に迎えたのは意外で、何かよっぽどの考えがあったのかと勘繰っていたが――まさか考え無しのただの無責任だったとは!
「師匠は死んだ。もういない。テア・ブライアントはその師匠が、たったひとつこの世に残していったものだぞ! 人体操作の才まで継いだ魔女レベッカのあまりにも正当すぎる源脈だ。どんな魔法の一片だって損なうわけにはいかない。彼女を魔法使いとして立派に育て上げるのが師匠としての責任だろう!」
「ウィリアム――」
「冷静でいられるか! 誰もがお前みたいに冷血じゃない!」
 苛立ちが怒りへ完全に変わった丁度その時、物音と短い声がした。
「――そこでつっ立ってる。出てやれよ」
 一瞬扉の方へ視線を走らせたウィリアムに言われて、エヴァンズは静かに席を立った。
「あの、あの……」
「どうかしたか」
「ごめんなさい。盗み聞きしていたんじゃ――」
 あのやけに厳めしい使用人のものではない、初めて耳にするそのか細い声に、ウィリアムは思わず席を立ち廊下に出た。
「テア・ブライアント?」
 彼はやっとそこで敬愛する師匠のその孫との初対面が叶った。ランプに照らされた容貌は想像より幼さが見てとれ、所在無さげに視線をさ迷わせるさまは巣から落ちた小鳥のようで憐れみすら誘った。その手を思わず両手で握った。
 彼女の祖母にあった尊大さが微塵もないのは落胆するような安堵するような微妙な心地だったが、二度と会うことの叶わない師匠に再び近付けた気がして感慨深かった。
「ブライアント様! 何をなさっているんです。お客様の前に寝間着で出るなんて失礼ですよ」
 出てきた使用人が気の利いた振る舞いをしたのでいったん身を引くことにした。去り際には睨まれて威嚇された。
「おやすみなさい」
 姫君とその護衛を笑顔で見送り、ウィリアムは再びエヴァンズと二人きりになった。
「俺も失礼する」
 笑顔は消え去り、その声音は低く冷たかった。
「お前には失望しきった――彼女の事は任せておけない」
 兄弟弟子を一瞥もせずに歩き出す。
 ――テア・ブライアントの師匠の無責任さは想像を越えていた。任せておくわけにはいかない。大切な師匠の孫は、俺が何とかしなければならない、必ず――
 *****


 それまでの涼やかなものとは違い、その端正な顔に浮かぶ笑みは好戦的だった。
「ひとつ夢を壊そう。テア、ドラゴンが出てくるおとぎ話はお気に入りだったか? 残念だがドラゴンという〝生き物〟はこの世に実在しない。あれはより生物らしい強く美しい兵器を生み出そうとした、義体を行使する魔法使い達の創意工夫の結晶だ」
 ドラゴン。ウィリアムのその言葉を聞いてテアは目の前の事象が多少鮮明になった。箱馬車をなぎ倒しエヴァンズを押しのけた二つの何かはこちらに背を向けている。翼をはためかせて地面に近い所で浮いているそれは、だがしかしテアが幼い頃本の挿絵に見たようなドラゴンとは違っていた。
 大きな翼や鋭い爪の四肢、爬虫類を思わせる長い尾は合っているが、絵の中のドラゴンとは違って彼らの体躯はすらりとして重みを感じさせない。何よりもガラスか水晶の鎧の如きその体躯が透き通って輝くさまは、退治されるべき悪しきモノというよりは気高く神聖な存在のようにテアの目に映った。
 エヴァンズの腕が動いたのと義体達が動いたのはほぼ同時だった。
 二頭は彼に到達する直前で光に弾かれた。ひらりと旋回して再びエヴァンズに向かう。
「! エヴァン……」
 テアはこの事態がよく理解できないでいたが、義体達が師匠を襲い彼がそれを魔法で防いでいるらしいのは分かった。咄嗟に立ち上がり駆け寄ろうとした。
 しかし急に足元が光ると、銀色の網目が走るガラスのような壁が自分を半円状に囲んで閉じ込めてしまった。
「!?」
「情で先走るな。考えて行動しなさい」
 ウィリアムの後ろ姿が言う。彼の拳の動きに連動して義体達が躍動していた。羽ばたきでテアの方へ勢いよく飛んできた砂利を壁が防ぐ。壁を手で押してみたがびくともしない。
 彼は本気でエヴァンズと決着をつけて自分を連れて行くつもりなのだとテアは悟った。
「まだ彼が耳輪を外す前だが先んじて俺から講釈を垂れさせてもらう。君の現師匠の〝とっておき〟は距離を保っていれば俺にはほぼ効かない」
 テアは耳を疑った。直後、義体達の絶え間ない突進の合間にエヴァンズの視線がこちらの方に向いた。彼の腕の動きに合わせウィリアムの頭上で光が散る。しかし、ウィリアムは問題なく魔法を行使し続けた。
「(今のは人体操作じゃ!? 失敗? でもルブは光ったのに――)」
「人体操作を行使する魔法使いは稀有だ。だが俺ほど人体操作を受けた魔法使いも稀有だ。俺達は長らく互いの魔法の練習台だったからな」
 エヴァンズへ突進した義体の内一頭が光に弾かれ、半身が甲高い粉砕音と共に粉々になった。ウィリアムは一瞬眉根を寄せたが素早く拳を握ると地に落ちかけた義体はすぐに再生された。
「生体と物体のあわいにある義体を魔法で破壊するのは本来難しい。だがあいつは俺との長年の疑似決闘で心得がある。代わりに俺は人体操作を飽きる程浴びて、神経に到達する前に魔力を押しとどめ抵抗する技法を得ている。互いに拳が届く程の距離にでもならない限りあいつには簡単に操作されない。君の現師匠も万人に万能なのではないよ」
 義体も人体操作も本来であれば知略を尽くす手段で有り得た。しかし互いの手の内を知り尽くしている兄弟弟子の間では、最早単純な魔力と魔力のぶつかり合い、どちらかが力尽き果てるまでの消耗戦だった。
 義体がその外殻を軋ませる音や地面を抉る鈍い音が周囲を満たしている。その最中で離れた相手に届くようウィリアムが声を張った。
「最後くらい弟子に意気地を見せてやれ! 耳輪を外す気になったか!」
「テアが言うなら」
「聞こえないなぁ!」
 二頭の代わる代わるの突進を捌きながらエヴァンズがじわりと後退する。
「テアがもし魔法の全てを無かった事にしようとしても、そうしたいならそれでいいなんてお前が言った時腑に落ちたよ、師匠の孫を学生の小間使い如きに貶めたワケが!」
 テアは目を見張ってウィリアムの後姿を見た。
「忘れられても構わないような、どうでもいい修行生活してたんだお前は! どうでもいいから師匠の孫を雑用係になんかさせられたんだ! 行動を共にする師弟の規範を守ったつもりだったか馬鹿が、そんな修行の役に立たない事をさせるなら家に置いて自主鍛錬でもさせるのがマシだ!」
 エヴァンズは何も言い返さないでいた。義体を捌くのに気を取られていたからというのもあったが――どんな手段であってもテアを家の外へ連れ出した理由。それを答えるのは彼には困難だった。
「薄情者が師匠の恩まで忘れたのか!? あのひとはどんなに勝手でもお前ほど無責任じゃなかった。あのひとの教えてくれた事に忘れたっていいものなんて一つも無いのはお前が一番理解してたんじゃないのか!」
 兄弟弟子が黙ったままでいるのが余計にウィリアムの癪に障った。
「お前が師匠だろう、どうして! 忘れてもいいなんて言えるんだ、そんなにまで壊れてるのかお前の、お前は――」
 隙を見て行使された人体操作に抵抗すると同時に二頭を猛攻させる。エヴァンズの魔法が弾いて砕け散る。
「本当にお前には痛むものはないのか、たった一人の師匠なのに!」
 それは、エヴァンズの無意識であった。
 彼には彼自身のかつての経験から、弟子を魔法の為に家に閉じ込めるような選択肢は存在しなかった。生徒だろうが補助員だろうが他であろうが、それは問題にはならなかった。自分の見た絶望の閉塞を弟子から遠ざけた、それは無意識な身勝手だった。
 そんな自分の内側すら曖昧になってしまった彼に、残され続けた確かなものがあった。師匠から授かった知が恐怖の靄を払いのけた底に残された、苦しみの純粋な根源。
 それは――魔法で大切な人に忘れ去られてしまった、悲しみ。
 涙が枯れようが痛み続けた悲しみは彼の傷そのものだった。時が経てば消える程の浅い傷ではなかった。
 しかし彼は弟子に人体操作の純素割合を教えた。
 テアが己に行使した改変は徐々に崩れ、ルブへの反応も――寝る間無く調べても解決策は見つけられないでいたが――恐らく副反応の一つで、改変が元に戻りつつある事を示していると考えられた。その時に自分が近くに居ればなんとでもするが、もしテアが一人きりで人体操作を行使するなら。己で制御できるように少しでも整えておく必要があった。ルブへの拒否反応が続いている間は鍛錬は出来ないが、せめて純素割合を意識できれば幼い時分よりも精度を上げられる。今度こそ、テアは魔法を制御して思う通りの行使をやり遂げる。彼女が勤勉で優秀な弟子である事は、修行を通して知っていた。自分が弟子のために出来る事は、持ちうる魔法を手渡す事だけだと分かっていた。
 例えその魔法が叶える弟子の望みが、この日々の全てを忘れる事だとしても。
「悲しいよ」
 ――忘れられてしまうのは。

「でもそれで、テアが泣かないのならいい」

 この悲しみはどうでもいい。
 君の望みが叶うのなら。
 望みが叶うその先で君の悲しみが、息絶えてしまいそうな程の涙が終わるのなら。
 忘れていい、無かったことにしていい。君の行く道が途切れなければ何でもいい。
 どうか絶望しないでくれ。
 続く道の途中で、君の手を引く誰かにきっと出会える。


「ハァ? 泣かない?」
 すぐに再生した義体達が距離を取り騒音が一旦収まって、エヴァンズの落ち着いた声音でもウィリアムとテアへ確かに届いていた。
「子供じゃあるまいし泣くのがなんだ、忘れるなんて逃げでしかない!」
 騒音はすぐに復活し以前よりも激しさを増した。
「逃げて何が不都合だ」
「聞こえないが!!」
 義体は破壊と再生を繰り返した。エヴァンズは距離を詰められないでいるが後退もしない。抉られた地面や垣根の破片がそこら中を舞う。テアは自分を囲う壁に張り付いた。
「エ――、――! ――は――――!」
 声は容易くかき消された。かつて誰も気付かなくても声だけで弟子だと判別してくれた師匠が、こちらを見もせずただ無表情で応戦している。
「(エヴァンズ先生、なんだか様子が違――何? 苛立って、るような?)」
 今の彼女は兄弟弟子二人の眼中に無かった。
「(クソ、右足にまともにくらった)」
 人体操作への反応が遅れて抵抗が間に合わなかった。ウィリアムは距離を詰められないように絶え間なく義体に攻撃させる。
 エヴァンズの光に弾き飛ばされた一頭が民家の屋根に激突しめり込んだ。
「!!」

 ――I.187/V.155/A.328/T.266/L.624――

 直後、兄弟弟子の動きが一瞬止まった。
 突如周囲を覆うほどの閃光が放たれ目が眩んだのだ。視界を取り戻したウィリアムは咄嗟にテアを振り返った。
「(いい加減聞き分けの悪い!)」
 彼女が師匠に肩入れして何か魔法を放ったのだと察した。
「――忘却魔法です」
 だが、様子が違った。
 囲いの中では立つテアは、携帯していた杖を取り出し構えていた。それは――エヴァンズに向けられていた。屋根にめり込んでいない方の一頭が音を立てて彼の周りを旋回している。特に何か変化があったようにはウィリアムには見受けられなかった。
 警戒しつつ、ある推測に基づいて口を開いた。
「おい。お前、その耳輪――」
「耳輪?」
 エヴァンズがいつもと同じ無表情で耳元に手を遣る。
「外せ」
 風に乗って付いてしまった綿埃のように。それになんの価値も見出していないように。
 エヴァンズは言われるがまま左耳の耳輪を外した。
「これが、どうした」
 そう言った彼がまじまじと見つめる前に、彼の手の中の耳輪は光の粒となり崩れて消えた。
 同時に、同じ型の物が自分の左耳から形を失くしたのを、テアは手で触れて確認した。
「……ウィリアムさんは、私が必要だって言ってくれたから」
 震える声は、だがか弱くはなかった。
「私は、お父さんたちを、見返さないといけない、強い魔法使いにならないといけない、そうじゃないと耐えられない。ウィリアムさんに付いていく。リーブラでの事は、断ち切らないといけない。そうしないと前に進めない。でも――」
 エヴァンズを見つめるテアの瞳から涙がこぼれた。
「あなたを悲しませたくない。だから、あなたが私を忘れて。断ち切らせて」
 目の前の少女が何故泣くのか理解していないように、エヴァンズはただ無表情で眺めていた。
「(単に消極的かと思っていたが、思い切った事をする……)」
 ここまでする必要があるかと思わないでもなかったが、ここにきてやっと彼女の祖母から受け継いだ大胆な性質が発露したのかもしれない、あるいは彼女にとってそれ程の重大な決心だったのだとウィリアムは理解した。
「私、きっと、おばあちゃんのような立派な魔法使いに……なるから……」
 テアは力なく杖を降ろすと俯いた。
 ウィリアムが掌を開く動作で彼女を囲む壁が立ち消えた。
「……君の気持ちはよくわかった。辛かっただろうが、よく決心した」
 歩み寄って横から声をかけると、肩が僅かに震えていた。巣から落ちて鳴き惑う小鳥が憐れで、慰めに肩へ手を置いた。その彼の手をテアは握った。
 目の中を光が散った。
 天地を見失い気が絶えかけたが、ウィリアムは反射で魔力の到達に抵抗した。体が後ろ向きに倒れる直前片足を引いて支え、テアの手を払った。
「(だめ、直接の気絶魔法でもほんの一瞬しか――!)」
 テアは失敗を悟った。師匠から教えられた純素割合での行使でもそれよりこの男の抵抗は強かった。反撃を覚悟した。
 だが反撃は起きなかった。
 倒れないよう片足を引いて体を支え、少しの驚きを浮かべたままの顔をテアに向けて、ウィリアムはそれ以上は身体を動かせずに固まっている。
 離れて佇むエヴァンズが伸ばす手の先はウィリアムに向けられていた。
 弟子に次いで、相手の注意が完全に逸れた隙に人体操作を行使したのだ。
 この瞬間、兄弟弟子の決闘はほぼ勝負がついた。
 ――だがそれはテアの本当の目的ではない。
 エヴァンズに街を破壊してまで勝ってほしいわけでも、ウィリアムを惨めに負けさせたいわけでもなかった。もちろん魔力消耗戦の末の殴り合いなんてもっと望んでいなかった。
 兄弟弟子両者と全ての魔法の一瞬の完璧な沈黙。彼女を閉じ込め声をくぐもらせる檻ももう無い。テアは思いっきり肺に息を溜めて、今度こそ、放った。
「喧嘩はもうやめなさい!!」
 直後、民家の屋根にめり込んでいた義体はガラスが雪崩れるような派手な音を立てて崩れ落ち、激しくきらめきながら地面に降り注いだ。
 テアはそれを、眼鏡がずり落ちているのにも構わず口を開けて見ていた。まさか自分の声が大きすぎてドラゴンが割れたのかと思ったがもちろんそんな事は無く、操縦者のウィリアムの魔力供給が足りなくなっただけだった。地面の近くを飛んでいたもう一頭も地に伏している。
 義体の破片がまだキラキラとかすかな音を立てる一方で、鈍い音がしてテアは我に返った。見るとエヴァンズが地面に膝をついている。
「エヴァンズ先生……!」
 テアはウィリアムを置き去りにして彼の方へ駆け寄った。自身も膝をついて彼をよく見れば髪も着衣も乱れいたる所が汚れている。
「大丈夫ですか怪我、怪我は? もしかして私の魔法のせいで――」
「テア」
「はいっ」
 これまでになく弱っている彼が何を言うのかとテアは緊張した。
「見事な記憶改変だった。久しぶりの全魔法で、よく純素割合を使いこなした」
 テアは束の間呆然とした。装いはボロボロだが、間近でも臆することなく見つめる黒い瞳も、表情も、声音も、いつもの凪いでいる師匠のそれだった。
「(今それ言わなきゃいけない事なのかな?)」
 戸惑ったが同時に安堵してこみ上げてくるものがあった。眼鏡の下を袖で拭く。
 いつもの彼でいてくれて良かったと思った。あれは嘘泣き芸とも言えるが、もしこれまでの日々が彼の中で無かったことになったらと想像するだけで、テアは自然と涙が出たのだ。
「――ッ、ッ! ……はぁ……」
 声とも息ともつかぬものを聞いて師弟が目を向けると、ウィリアムが時間差で人体操作に抵抗を果たし落ちるように座り込んだところだった。彼も兄弟弟子同様、整えられていた髪は無残に乱れコートに泥を付けている。
「おい、右足と左肩は完全にかかってどうにもできない。解除しろ」
 不遜な態度で言う彼にテアは警戒すべきか迷ったが、エヴァンズは無言で軽く右手を振った。ウィリアムは長い足で胡坐をかくと気怠そうに眉間に手をやった。
「…………なんて醜態。いい歳して喧嘩って……しかも結構な年下に諌められて……」
 テアの一声はドラゴンには効かなかったが彼には十分響いて戦意を損なわせていた。いったん髪を掻きあげてから、ウィリアムは顔を上げた。
「――テア・ブライアント。君が何を企んだのか聞かせてもらっても?」
 テアは胸の前できゅっと拳を握ると、立ち上がり、彼に向いた。
「私が……あの時エヴァンズ先生に行使したのは忘却じゃなくて、改変だったんです」
 とにかくウィリアムを止めなければいけなかった。しかし閉じ込められ距離がある状況では何か人体操作を行使しても抵抗される、初手で成功させなければ状況を悪化させ本気で連れ去られるかエヴァンズに害が及ぶかしかねない。テアはそう考え、まず声の届かない師匠と〝会話する〟手段を取った。ウィリアムを完全に油断させる仕掛けの打ち合わせの為、師匠の記憶の一部を改変し師弟で事前に〝会話をした〟記憶を仕立てた。
「本来ならドラゴンと戦っていて会話する暇が無かったのを、私が『この会話は私の記憶改変。忘却魔法にかかって私の全てを忘れたふりをしてウィリアムさんの言う通り耳輪を外して。彼が油断した隙に気絶魔法をかけます』と話してエヴァンズ先生が『わかった』と答えたというような会話したと……」
「驚いたな。記憶が戻っていきなり改変の扱い方も取り戻せたのか?」
「……いいえ、思い出せたのは扱い方なんてものじゃ……それでも成功したのは、エヴァンズ先生の修行のおかげです」
 師匠から人体操作の純素割合を記した紙を渡された時、その数字を素直に記憶へ刻み込むべきなのかテアには分からなかった。明かされていない何かが明らかになる予感に怯えたから。
 それでも、テアは数字の羅列を全て覚えた。毎日口で唱え手で書いた。行使は出来なくても想像で鍛錬をした。
 迷いが全く無いわけではなかった。だが師匠しか知らない特別なものを渡されたのだ。彼が何を思っていようと、自分が何に怯えようとも、応えるべきだと思った。弟子なのだから。
 行使する瞬間の恐れは不思議となく、何かに祈る時間はもう必要なかった。自分には魔法があって、師匠が教えてくれたものがあったから。
「囲いを取り払わせたのも計算のうちだな? 接触型の気絶魔法を打ち込むために」
「はい。それが一番成功率が高いと教わっていたので」
「それは正しいが、囲いの中からでも俺を火魔法で丸焼きにしたら手っ取り早く師匠を勝たせてやれたんじゃないか?」
「それは、勝ってほしいとかじゃなくて、そうじゃなくて酷くなる前にただ、お二人にいったん冷静になってほしかったからで……」
 生ぬるい、と思わないでもなかったが
「(俺は気を遣われたのか)」
 ウィリアムはそれ以上は口を慎んでおいた。
「それと私はどうしても、あなたに言っておかなければいけない事があったから――」
 顔を上げたテアの表情が強張ったのにウィリアムが気付き、黙って注視する。
「『師匠失格だ』って、言いましたよね」
 澄んだ色の目が真っすぐこちらを捉えていて、テアは視線が泳ぎそうになったが堪えた。胸の前で握る拳に力が入る。
「私は、兄弟弟子のあなたに比べたら全然、知らなくて。あなたの言う通りまだちょっとしか、ちょっと鈍感なとことか、生活にちょっと配慮が無いとことか、そういうのを少しだけしか、知らないのかもしれない。でも――でも、あなただって、知らないでしょう。私たちが、どんな師弟だったか。この人が私にとってどんな師匠だったか。泣いている時に居てくれた朝を知らないでしょう」
 握った手が僅かに震えていた。それは緊張や恐れだけからくるのではなかった。
「知らないくせに私の師匠を馬鹿にしないで」
 胸のあたりで渦巻く熱は頭に昇る。それは『怒り』なのだとテアは解っていた。怒りの表明なんて少なくともベイカー家で暮らし始めて以降したことがなかった。どんな理不尽があっても怒る力など湧いたことが無かった。でもこればかりはその力が湧いていた。言わずにはおけなかった。
「――それに、私の仕事のことについても、学生の小間使いとか、それはそうかもしれないけど、貶めてるとかじゃないんです。施設管理室の職務は学校の日常が、日常のまま続くようにしていくことで、管理したり修繕していくことが――た、大切で、床磨きでだって生徒を守れる……その、そういうことを、してきたから私は……これからも草刈りが出来る……」
 テアの口ぶりが怪しくなってきても、ウィリアムは表情を変えずに見ていた。
「(――だ、だめだ……スミス室長がすごく大切な事を言ってくれたのに、うまく言葉に出来ない……)」
 師匠についての事が言い切れたからと勢いに乗ったのが完全に仇となった。緊張が空回って収拾がつかない。羞恥が怒りに水をかけて、冷えたテアは不甲斐なさの余り消え行ってしまいそうだった。
「本人に誇りが有るなら職務に貴賤は無い。愚弄してすまなかった」
 言わんとする事を察したウィリアムにテアが顔を上げると、彼は自嘲気味に笑った。
「俺は君を侮ってた。一人じゃ歩けない小さな女の子だと思ってたのに」
「――その……泣いて騙すなんて、汚い手を使ってごめんなさい……」
「いや。俺だって君を丸めこみたかった。俺が修行を修了して軍人になった動機のひとつが師匠の――君の祖母であるレベッカの源脈を確立したかったからだ。君はレベッカの源脈に名を連ねるに正当過ぎる。彼女の血も魔力も継いでいる君を、軍所属の優れた魔法使いに育て上げればレベッカの源脈は強化されその名はいよいよ残る。その為に君が都合よく言いなりになるのを望んでた」
「でも、どうしてここまで……レベッカが、亡くなってしまったから?」
「ああ。より強く心に決めた。そして師匠の間違いを絶対に証明してやると」
 彼の言葉が不可解でテアは相槌をためらった。
「師匠は己を間違ったりしない。反省も後悔もしない。そういうところに呆れもしたし憧れもした。でもこれだけは認められない。違う。一人で死のうとするなんて、絶対に間違ってる」
 涼やかな色の瞳に、決闘中の無節操な怒りとは違う熱が宿っている。
「人の親としてはクソだろうが、俺にはたった一人の師匠だ。偉大な魔女だ。偉大な魔女が誰にも知られず病に冒され館の隅でひっそり死んで、大して悼まれもせず暗い穴に入って終わり。そんなのが正しいか? 源脈が強く豊かに広がって彼女の名が知らしめられれば、誰だってわかる。そんな死に方違う。尊敬されて大切にされて、惜しまれて悼まれるべき魔女だったと人々が知る。間違っていたのはそんな死に方を選んだあのひと自身だったって皆が口を揃える。彼女にはそれが気楽で、弱ってるのを晒せるほど弟子を重んじてなかったってだけの話かもしれないけれど、知るかよ。俺はいい加減腹が立つんだ。本当に最後まで好き勝手しやがって。だから俺も勝手に後悔させてもらう」
 いったん口を閉ざすと、ウィリアムは僅かに俯いた。
「……俺じゃ駄目ならオリヴァーでもいい。もう、誰だっていいよ。誰でもいいからあの人のそばにいてほしかった」
 目元にほつれた髪がかかる。
「ひとりで死なせたくなかった」
 話を聞くテアは泣いていた。無言で涙をこぼし続ける彼女を見て、ウィリアムが力なく笑った。これまでのどの笑い方とも違い毒気は完全に抜けている。
「そんなに泣くなよ。極端な師弟だな。君の師匠はずっと顔色一つ変わらないでいるのに」
 そう言うとテアの背後の兄弟弟子に顔を向けた。そこから笑顔は消えたが怒りも無かった。
「……それとも、お前にも実は変化があったのか。師匠が死んでから」
「何も無い」
「なんでだよ無神経。弟子として何かやらずにいられなくなったりとかも無いのか物ぐさが」
 棘の生えたウィリアムの物言いにテアは一瞬緊張したが、エヴァンズは静かに答えた。
「私には、師匠から授けてもらったものを別の誰かに渡す以外に、何も出来ない」
 黒く凪いだ瞳をウィリアムは黙って見ていた。やがて「そうか」と淡白に呟いた後、目を伏せた。
「きっと、それがお前の弔いなんだろう」
 地面を揺らし蹄と車輪の重い音が響いてきた。
 何事かと三人が目を向けると、道を走ってくるのは制服の警官達が操る馬車だった。
「お前達か!? 喧嘩をしてる魔法使いっていうのは!」
 テア達から距離を置いた場所で馬が止まる。
 ウィリアムが微妙な顔をして重そうに腰を上げた。エヴァンズも立ち上がりテアも慌てて続く。馬車は三台連なって何故か消火用ホースを乗せたものもある。その背後に、今まで民家や石垣の影で固唾を呑んでいた住民達がわらわらと出てきた。
「いいか、大人しくしてろよ、何もするんじゃないぞ、いいな!」
 警官は馬上から声を張るもののまごついていた。住民の中には疑体の残骸を見て短い悲鳴を上げる者もいた。
「あれが飛んでるのを見た? 恐ろしい!」「ひどい、道があんな……」「あの魔法使い達どこから」
 十人以上はいる住民達は恐ろし気に囁きあっていた。母親に抱かれた幼子の泣き声が響いている。誰もが怯えてその場に不安が満ちていた。
「ちょっ、ま、待て動くなこら!」
 まごつく警官を無視してウィリアムがテア達の方へ歩いてきた。
「もう限界だオリヴァー。やるしかないだろう」
「そうか?」
「兄弟弟子二人して警察の世話になってクビにでもなったら師……いや、あのひとはおもしろがって爆笑するだけだなクソ……俺と師匠であるお前の不祥事で、テアに肩身の狭い思いをさせたくない」
「どうする」
「雨も降ってたし、今回は竜巻でどうだ」
「わかった」
 ウィリアムが宙で何かを掴むような動きをすると義体の残骸が光となって消えた。エヴァンズが手をひと振りすると聴衆たちの頭上で、光が粉雪のように舞ってすぐに散った。
「やはり竜巻でしたか! 大変でしたね、みなさん」
 ウィリアムの発言に住民と警察官全員の視線が集まる。テアも思わず彼を見た。
「本当に」「ああ、凄い風の音だったよ」「家の中にいたから助かったわ」「あーあ見ろよあの屋根……」「怪我人は? 住人は留守だったか」
 一斉に口を開いた人々は、怯えているというよりも災難が過ぎた安堵を共有しているようにテアには見えた。警官達も馬車から降りてきびきびと被害確認を始めている。幼子は泣き止んで母親に揺られていた。
「よろしければ私達が修復しますよ」
「ん? 大工……には見えないけど、あなた方は?」
 訊ねる警官にウィリアムは涼しい笑顔を向け、エヴァンズは悠然と無言でいる。
「竜巻に巻き込まれた、通りすがりの魔法使いです」
 ウィリアムの白々しい振舞いもエヴァンズが老若男女に一瞬で完璧な記憶改変を行使したその力にも、そして先ほどまで大喧嘩を繰り広げていたはずの兄弟弟子の連携にもテアは唖然としていたが、ふと空に目が向いて、いつの間にか雨が止んでいたのにやっと気付いた。




 いかにも重い音を立てて、青銅の門が閉まる。
 学校の敷地内にはもう部外者はおらず、壁の掲示物を確認したり石垣に腰を掛けて今日の試験内容について話し合っているのは、リーブラの生徒達ばかりだった。
 焼けるような色の空に、校舎裏の空き地へ出てきたオズボーンは顔を上げた。ぶっ通しの試験監督業に若くはない身は軋み、夕焼けがやけに目に沁みる。深呼吸をしてから去ろうとして、二度見した。レイヴンにしてはやけに大きいなと思った。
「――! スミス室長、ヘンリー・スミス施設管理室長!! 馬車~~~~!!」
 慌てて周囲を窺い丁度目に入ったのは、離れた所を歩くスミス室長だった。
 外壁の掲示物を回収していた彼は甲高い声に怪訝な顔をしたが、小柄なオズボーンが体全体で指し示す物に気付くと掲示物を取り落とした。二人は校舎脇を離れ予想される着地点へ急いだ。箱馬車は飛行してきた勢いを落とさず広く土が露出した所へ乱暴に着陸し、慌てて距離を取り直した二人を追い越すと急な角度を描いて校舎にぶつかり、止まった。
 緊張して見守る教師と室長の前で黒い扉が開く。
「ごめんなさいごめんなさい」
 そう言いながらよろめき出たのは情けない表情のテアだった。
 決闘と竜巻被害の修復で魔力をほぼ使い果たしたエヴァンズに代わり、教わりながらここまでの方向を司っていたのはテアだった。彼女に続いてエヴァンズも降りてきた。
「良かったぁ~! 先に戻ってきた言伝鳥からブライアントさんを見つけたのは聞いてたけど二人とも無事……あれ、エヴァンズ先生は大丈夫なんですか?」
 テアの服の擦れや泥汚れはウィリアムが別れ際に魔法で綺麗にしてくれていたが、彼は兄弟弟子については無視した。
「大丈夫です」
 エヴァンズが悠然と答えていると、背後の馬車が動かされた。外壁にスミス室長が早速修復魔法を施している。
「本日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「も、申し訳ありませんでした……」
「別に、迷惑も何も仕事をしただけですから」
 二人へ向けて謝罪するテアとエヴァンズに、室長は淡白すぎるほど淡白に返した。
「あ、でも私、忘れさせて貰えると嬉しいことが~……風で葉っぱを裏返す呪文今日だけで百回以上聞いてこびりついちゃってるんですよぉ。今も聞こえてくる」
「エヴァンズ先生!?」
 弱った表情のオズボーンが喋っているところへ、校舎の裏口から出てきたのは目を丸々とさせたガーディリッジ校長だった。背後には数人の生徒を引き連れており、皆衝突音を耳にして何事かと出てきたのだ。
「二人とも無事に――いえエヴァンズ先生の方はそれ問題ないやつですかな?」
「問題ありません」
「おーーーい!! やっと見つけたよ! アイリーン、こっちこっち!」
 低学年の男子生徒が扉から校舎内に向かって呼びかけた。するとすぐに、息を切らしたアイリーンが顔を出した。一行の後を追ってきた彼女はいったんテアの目の前まで来たが、我に帰ると友人達の背後に回った。
「誘導係やってるっていうからアイリーンが移動中ずっと気にしてたのにさ!」
「あ。ご、ごめんね……」
「良かったな。ブライアントさんと会えなきゃやる気なくなっちゃう~って言ってたもんな」
「言ってない!」
 アイリーンは顔を赤くして友人に怒っている。
「でも全然見かけませんでしたけど、どこで誘導をしてたんですか?」
「――さぁ、あなた達はまだ先生との面接があるでしょう? 行くんですよ」
 アイリーンの友人からテアへの質問に割って入ったのはガーディリッジだった。生徒達は「はい」と口々に返事をして校舎に足を向け始める。
「あの、ガーディリ……」
「シ!」
 微かな声でガーディリッジはテアの口を封じた。
「あれなんかエヴァンズ先生ボロボロじゃない?」
「なんで馬車?」
「試験中なにか事件でもあったんですか?」
「あ! 実はそれでどっか行っちゃってたから見かけなかったんじゃ」
「事件ってなに?」
 一人があげた声で雪崩れるように噴出する子供たちの疑問符で、面接に向かおうとしていたアイリーンも足を止めた。無言だったがテアを見る目に不安とも心配ともとれる惑いが浮かんでいた。
 その時、テアは凄まじい圧を確かにその身に感じた。爛々とした大きな眼で彼女を射抜いている校長は――そう、ただの臨時の誘導員などではない。正念場の生徒達を惑わす一塵の動揺も許さぬ、屈強なこと無かれ主義――否、教育の守護者であった。
 硬直するテアは横のエヴァンズに目を向けた。どんなに装いがボロボロであっても彼の紳士然とした動揺の無さに揺るぎはない。その揺るぎなさを少し分けてもらった心地になってから――惑う生徒達へ視線を戻し、今日一日学校職員達が一丸となった職務をやり遂げる為に、口を開いた。
「何も無かったよ。今日もいつも通り学校でお仕事してただけ、ですよ」
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