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第十七話 幕引の星空
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フォークで口に運ぶと、ふわりとラム酒が香った。よく焼きしめられたそれは想像よりもしっとりとしていて、甘い。
「美味しい」
口からつい感嘆が漏れた。きっと紅茶にもよく合うとテアは思ったが、手元にあるのは使用人が淹れてくれた栄養満点のココアだ。
「今年のシトロヴィア・ケーキはいかがですか、エヴァンズ様」
エヴァンズ邸の居間の窓辺に立つメイジーが訊ねた。無表情で卓に着いている主人の手前に置かれたカップにもココアがなみなみと入っている。
「ナッツが入っているシトロヴィア・ケーキだ」
いい加減にしろそういう事を聞いているんじゃないと使用人は思ったが、テアが満更でもない顔をしたので溜息で済ませておいた。
「メイジーさんは、まだ食べないんですか?」
合同試験翌日の今朝はテアもエヴァンズも寝過ごしてしまい、この昼食が最初の食事だった。昼のデザートにケーキを食べられるなんて魔法使いの祝日とはなんて豪華なのだろうとテアは感動していた。
「私は通常通り夕食の際に頂きます。お二人には食べられる内に食べておいていただかないと、この後また行方不明にでもなったら宙ぶらりんになりかねませんので」
「あ、ぁあぁ……」
テアは呻いた。
「あの、昨日はその、多大なご迷惑をおかけしておりまして本当に、ごめんなさい……」
「私は何もしておりません。家にいただけです。エヴァンズ様が向かわれたのですから、何も心配する必要などありませんでしたし、何も」
使用人はそう言ってついと背を向けてしまった。テアは恐縮して固まっていたが、怒っているはずのメイジーの後ろ姿を黙って見ていて――ふと席を立った。
慎重な歩みで近づき、彼女の背後に立つ。
「メイジーさん」
呼びかけても振り向かない使用人の肩に、テアは触れた。メイジーが僅かに振り向く。
伏せた目元が赤かった。
「メイジーさん、心配かけてごめんなさい。待っていてくれてありがとう」
メイジーがテアと向き合う。
二人は静かに、どちらからともなく互いを抱擁した。
テアにとって魔法以外に師匠がいるとすれば、この家で始めた生活の一番の師匠は、彼女以外にありえなかった。
滲む視線を上げたメイジーは主人と目が合って、しまったこんな情けないところをと我に返ったが、フォークを握ったままぱちくりと瞬きをする彼がなんだかおもしろくて、少し、笑った。
食事をとり終わると、テアとエヴァンズは予定通り出かけた。
昨日それを提案したのはエヴァンズで、目的地を聞いたテアは昨日の別れ際ウィリアムに言われた事が頭をよぎり、迷わず外出を了承した。
――このうわべの平穏に、自ら幕を引く為に。
出発が遅かったので、汽車と馬車を乗り継いで目的地に着いた頃には日が暮れ始めていた。
それが見えてきて、テアは小さく感嘆の声を上げた。
その館は林の中の、木が絶えてぽっかりと開いた空間の中央にあった。淡黄色の石を積み上げた外壁と角度の付いた屋根に夕日の橙色が射している。玄関にたどり着くまでには草木の生い茂る広い庭があり、巡る季節を花々が彩る光景がテアには容易く想像できた。
「人喰い館」という呼称がエヴァンズの口から飛び出た時は何事かと思ったが、その外観は覚悟していたよりもずっと普通で、加えて「家」にしては大きい方だが「館」と言うほど広大ではないことに関しては「師匠の魔法で自在に改築されている。昔は現在よりも大きかった」と彼から聞いていた。
玄関の扉をくぐり、テアはエヴァンズの後に付いて家の中を歩いた。複雑な模様の美しい壁紙、艶のある木製の手すり、植物の彫刻が縁取る暖炉、分厚い本がいっぱいに詰められた大きな本棚――最後にガラスの温室のような構造になっている戸を開いて、居間から庭に出た。濃紺が覆い始めた空には星が見え、身震いする程ほどの冷たい風が頬を撫でた。
もう誰も暮らす人はいなくても、その家に残る生活の気配をテアは悲しいほどに感じ取った。父の母が生きた場所。そしてその弟子であるエヴァンズとウィリアムが暮らした場所。
「ウィリアムと話していた。記憶を取り戻した君が必要とするなら、師匠のこの家を相続できるようにする、と」
そう告げる声は凪いだままでいる。テアは振り返った。エヴァンズは照明にルブの光が灯る居間を背後にしており、逆光気味で表情はあまりよく見えない。
「ここが、私の家に」
「そうだ」
「私は、ここに――ここにいて、もう、どこにも行かなくても、いいんですね……」
「ああ」
エヴァンズを見つめるテアの表情が、ふと陰った。
「考えるんです……。もし私が魔法使いじゃなければ。父のこと――魔法のこと、全て忘れたら、何も無かったことに出来たら。何処かで……ここで、そんな風に生きていくことが、出来るか……」
「出来る」
エヴァンズは揺るがず答えた。それはこれまで何度もテアの動揺を引き止めてきた。
「必要なら私が忘却と改変を行使する」
二人の師弟関係の証明として互いの耳を飾っていた輪は、今はもう無い。
――テアの頭によぎったのは、昨日の別れ際に彼の兄弟弟子から言われたことだった。
「テア、下世話な忠告なのは承知だが聞いてほしい。最後に」
リーブラに帰るため先ずテアが箱馬車に乗り込むと、エヴァンズが続くのをウィリアムが乗り口に立ち塞がって阻止した。
テアは自動車に軟禁されたことを思い出して一瞬身を固くしたが、黙って見つめた。彼が壁となり外の音が遮られ、その声だけが箱馬車の中に響く。
「オリヴァーのそばにいる動機が、血族との間に失ったものの代わりを彼に求めているからなら、やめた方がいい。君が心を預けるに足る器を求めるのは酷だ。壊れたら二度と元に戻らないものもある。それは呪いではなく、彼という魔法使いには救いたりえる」
――ウィリアムはそう真摯に語ってテアに聞かせた。
祖母の家を背景に佇むエヴァンズを見つめていたテアは、僅かに俯き、目を閉じた。父に憎まれ居場所を失い、帰る家を求めてさ迷い続けた幼い魔法使いの悲劇が、今終わる。
「……忘れてしまいたいんです」
テアは顔を上げた。その目は空を映していた。
「でも、どうしよう。星がこんなにきれいで」
思い出した。
父に許されなかったあの日、雲の間から見えた星空も。ウィンフィールドから逃げ出したあの日、走る貨物車両から見上げた星空も。今見つめている、日の名残から夜へ移ろうこの星空も。
星空は同じ星空なのに、違う。毎日学校の玄関広間の星座盤を見ていたから、星に由来する鳥達の名前を呼んでいたから、今は見上げている光の粒ひとつひとつがよく分かる。でもそれだけじゃない。
帰る家を失くし、師匠の家で過ごし、学校で働き、リーブラの街で過ごし、様々な人と出会い、驚き悩み奮闘し、感動し、積み重ねたものが辿り着いた今のこの星空を、今までのどの星空より一等特別な物にしている。
その日々にはいつも魔法があった。
ただ楽しくて魔法を使ってた子供時代の記憶を取り戻したところで、無邪気に愛することはもう出来ない。耐え難い悲しみも思い出してしまったから。
父の事は苦しい。振り返れば今この瞬間だって涙が滲む。魔法がある限りずっとこの身に取り憑くのだろう。
それでも――魔力への感覚を研ぎ澄ます時の静けさ、新たな魔法を得た時の心の躍り、行使の瞬間の何とも言えぬ騒めきを、知っているから。忘れさせないでくれたから、師匠との修行が。教えてくれた、魔法学校での時間が。拙い魔法であっても誰かの日常を守っていける、それが自分の誇りになり得るのだと。
手放したくない。何一つ忘れたくない。
魔法がもたらした耐え難い苦しみもあるけれど、魔法がもたらした今のこの私の感情を。
「(お父さん、ごめんなさい)」
あなたが憎んでも嫌っても、私は魔法使いの私を嫌いになれない。
喜びも苦しみも悲しみも、それが私の魔法の一部ならば、なにひとつ欠けてほしくないの。
「この星空を忘れたくない。今日までの私を忘れたくない。魔法を捨てたくない。私は、あなたの魔法を見たから」
――別れ際の兄弟弟子から真摯な忠告を受けて、「はい」と頷いたテアは、ウィリアムには意外なほど動揺が無かった。
「……さようならテア。君の幸福をいつでも祈っている」
「さようなら。レベッカの事をずっと想っていてくれて、ありがとう」
ウィリアムは目を丸くした後「君は、本当に師匠に似ていない」と苦く笑って、箱馬車の扉から離れた。
――預かってほしいものなんてない。これは、私が決めること。
そう分かっていても、選び取ることは恐ろしい。
この選択は身勝手で、きっと誰かからしたら愚かで間違ってる。希望の光なんかじゃない。世界なんてものの役にも立たない。人体操作がどんな目で見られるかも知ってる。それを以て目指すところ、なんて大それたモノまだ分からない。
失敗と後悔の予感、容易く想像できる非難の声と視線に怯える弱さに、失望して潰されて挫けそうになる。
でも、悲しみに代えても私の望む選択に頷こうとしてくれた人がいたから。
その瞬間を見たから。それが私の手を引いてくれるから。
今は奮い立つものがこの胸の内にある。
だから、たとえ恐ろしくても私は選択する。私の道を。
これは癒されるために行く道じゃない、悲しみに涙を滲ませながらでも行きたい道だから。たったひとつ以外の他のものでは、嫌だ。
「あなたの魔法は優しい。私が欲しいのはあなたの魔法」
ただ、私はこの日々の先に、この師匠との修行の先に、どんな私の魔法があるのか知りたい。まだ見ぬ景色の美しさと、その感動を味わいたい。
ただ私が私の為にそう望む、それだけの為に。
「全てを教えてください。今度こそ、私を、あなたの本当の弟子にしてください」
私は魔法使い。テア・ウィーオリヴァー・ブライアント。
苦しみも悲しみも引き連れて、魔法と共に生きていく。
「わかった」
そう答えるエヴァンズに動揺はなく、悠然として凪いでいた。
それはある程度予想通りの反応であったが、自分としては一世一代の宣言だったので、返事を受けたテアは胸を抑えて大きく息を吐いた。
「――あの、実は私、ずっと言ってなかったことがあって……一番最初『弟子になるか』と聞かれた時に『はい』と答えたのは、違くて、あれは弟子入りを了解したんじゃなくて、勘違いだったんです……」
「そうなのか」
エヴァンズはふぅんという顔をしている。
「あと、あと、あの、ウィリアムさんと内緒で転字帳のやりとりしていたのは、メイジーさんに気安く応じちゃだめだって言われてたのに、でも、兄弟弟子のウィリアムさんなら知ってて、聞けるかもしれないと思ったからなんです――エヴァンズ先生の〝好きな物〟を」
だが、彼がたった一人の兄弟であるなら、自分だってこの人のたった一人の弟子だ。「弟子で同士なら、きっといつか彼が好むものだってわかるようになるかもしれない」とメイジーだって言っていた。
「でもここに来るまでの間に私、思いついたんです。もしかしてエヴァンズ先生は――――汽車。が、好きなんじゃないかって」
単なる偶然かもしれないが、エヴァンズと行動を共にするようになって汽車に乗る機会が激増した。何より、乗車している時に彼が窓の外を通り過ぎる景色をじっと見ている姿がテアには印象的だった。
テアは賞金が懸かっているわけでもない答えの正誤を固唾をのんで待った。エヴァンズが答える。
「テアがそう言うなら、きっとそうなんだろう」
「(――うーん……? これは……微妙……)」
当たっていれば働いて貯めたお金で一等車の乗車券でも贈りたかったが、同士となるにはまだ鍛錬が足りないのだと肩を落とした。
しかし、テアは知らなかったしエヴァンズは深掘りしなかったので自覚が薄かった。
汽車から見る景色こそ、生気が有り不快が無くつい眺めてしまうような、自分の気付かぬうちにそこへ意識が奪われる彼にとって〝おもしろい〟ものであり――
師匠が彼を絶望から遠ざけた、修行の日々の始まりの象徴であることに。
エヴァンズが前置き無く手を差し出してきて、テアは何かと思い彼の顔を窺った。
「君の手を」
「あ、はい」
思い当ることが合ってテアは手を差し出した。エヴァンズが手を握る。
繋いだ手の隙間から光が漏れ始める。その――青白さの中に少し紫がかった――光が散って消え、エヴァンズが手を離した。開いた彼の掌には鈍い金色の小さな輪が二つ姿を現していた。
テアは渡されたそれをまじまじと見た。先代と変わらず、金属の表面は滑らかではなく少し歪で、飾り気がなく武骨だ。
これよりも綺麗な物は他に沢山ある。しかしこれこそどんなに金銭を積んでも得られない、何より彼女の〝欲しい物〟だった。
テアは臆することなく、己の右耳に師弟の証を掲げた。
「今後、再び、私は私の持つ魔法の全てを君に授ける」
エヴァンズが悠然と宣誓する。
「はい。よろしくお願いします。師匠」
テアは胸を張り、真っすぐ答えた。
そして師弟は星空の下を帰途につく。二人の職場がある街に、心配性の使用人が待つ家に。
だが、その前に――
「あの、出来れば」
師匠に向き合っていた弟子は、気恥ずかしさで視線を泳がせた。
「やっぱり呼び方は、エヴァンズ先生、のままでもいいでしょうか……?」
校舎脇に人が集まっている。
彼らの声が届かない程の距離の木陰からそれを眺めているのは、植木鉢を抱えたブルーベルだった。
「こんにちは。お散歩に良い陽気ね」
足音に気付いた彼女が挨拶をしたのは、芝生を踏み近付いてくるバードマスターのミッチェルだ。その両肩には鳥が止まっていて何らかのご機嫌な大道芸にも見えた。
「やあ本当に。ところでローレン、あれってどうしたのかな」
「施設管理補助員の勤務兼修行、及びその観戦よ」
青い制服が囲んでいるのは校舎の壁に向き合うテアとエヴァンズだった。
「今日はどんな魔法を?」
「壁に這ってる蔦の方向を左へ変えるんですって。窓にかからないように」
「わあ、がんばれブライアントさん」
内容は聞こえないが、エヴァンズの言っている事に対しテアが頭を上下に振っているのが見て取れる。
「――なんだかあんまり変わらないよね、あの二人って。あんな事件があったからなんて言うかさ、もしかして距離が近づくかな? って期待しちゃった」
「そうね。でもそれがあの師弟なんじゃない?」
ブルーベルは微笑んで眺めている。その時聴衆から歓声が上がった。
沸く拍手の中央で職務を達成した施設管理補助員が小さくなっていると、校舎から言伝鳥が飛んできて師弟の頭上を回った。
「さあ、私達も働きましょうか」
「そうだね、じゃあねローレン」
挨拶を交わしブルーベルとミッチェルは互いを追い越した。
鳥から言伝を聞き終わったテアは、壁に立てかけてあった掃除用具を慌ただしく鳴らした。観戦に満足した生徒達が散り始める。装備を終え立ち上がったテアに、エヴァンズが悠然と言う。
「では、また後で」
「はい」
師弟はそれぞれの持ち場へ歩みだした。
なんの変哲もない彼らの勤労の日々が、今日も続いていく。
「美味しい」
口からつい感嘆が漏れた。きっと紅茶にもよく合うとテアは思ったが、手元にあるのは使用人が淹れてくれた栄養満点のココアだ。
「今年のシトロヴィア・ケーキはいかがですか、エヴァンズ様」
エヴァンズ邸の居間の窓辺に立つメイジーが訊ねた。無表情で卓に着いている主人の手前に置かれたカップにもココアがなみなみと入っている。
「ナッツが入っているシトロヴィア・ケーキだ」
いい加減にしろそういう事を聞いているんじゃないと使用人は思ったが、テアが満更でもない顔をしたので溜息で済ませておいた。
「メイジーさんは、まだ食べないんですか?」
合同試験翌日の今朝はテアもエヴァンズも寝過ごしてしまい、この昼食が最初の食事だった。昼のデザートにケーキを食べられるなんて魔法使いの祝日とはなんて豪華なのだろうとテアは感動していた。
「私は通常通り夕食の際に頂きます。お二人には食べられる内に食べておいていただかないと、この後また行方不明にでもなったら宙ぶらりんになりかねませんので」
「あ、ぁあぁ……」
テアは呻いた。
「あの、昨日はその、多大なご迷惑をおかけしておりまして本当に、ごめんなさい……」
「私は何もしておりません。家にいただけです。エヴァンズ様が向かわれたのですから、何も心配する必要などありませんでしたし、何も」
使用人はそう言ってついと背を向けてしまった。テアは恐縮して固まっていたが、怒っているはずのメイジーの後ろ姿を黙って見ていて――ふと席を立った。
慎重な歩みで近づき、彼女の背後に立つ。
「メイジーさん」
呼びかけても振り向かない使用人の肩に、テアは触れた。メイジーが僅かに振り向く。
伏せた目元が赤かった。
「メイジーさん、心配かけてごめんなさい。待っていてくれてありがとう」
メイジーがテアと向き合う。
二人は静かに、どちらからともなく互いを抱擁した。
テアにとって魔法以外に師匠がいるとすれば、この家で始めた生活の一番の師匠は、彼女以外にありえなかった。
滲む視線を上げたメイジーは主人と目が合って、しまったこんな情けないところをと我に返ったが、フォークを握ったままぱちくりと瞬きをする彼がなんだかおもしろくて、少し、笑った。
食事をとり終わると、テアとエヴァンズは予定通り出かけた。
昨日それを提案したのはエヴァンズで、目的地を聞いたテアは昨日の別れ際ウィリアムに言われた事が頭をよぎり、迷わず外出を了承した。
――このうわべの平穏に、自ら幕を引く為に。
出発が遅かったので、汽車と馬車を乗り継いで目的地に着いた頃には日が暮れ始めていた。
それが見えてきて、テアは小さく感嘆の声を上げた。
その館は林の中の、木が絶えてぽっかりと開いた空間の中央にあった。淡黄色の石を積み上げた外壁と角度の付いた屋根に夕日の橙色が射している。玄関にたどり着くまでには草木の生い茂る広い庭があり、巡る季節を花々が彩る光景がテアには容易く想像できた。
「人喰い館」という呼称がエヴァンズの口から飛び出た時は何事かと思ったが、その外観は覚悟していたよりもずっと普通で、加えて「家」にしては大きい方だが「館」と言うほど広大ではないことに関しては「師匠の魔法で自在に改築されている。昔は現在よりも大きかった」と彼から聞いていた。
玄関の扉をくぐり、テアはエヴァンズの後に付いて家の中を歩いた。複雑な模様の美しい壁紙、艶のある木製の手すり、植物の彫刻が縁取る暖炉、分厚い本がいっぱいに詰められた大きな本棚――最後にガラスの温室のような構造になっている戸を開いて、居間から庭に出た。濃紺が覆い始めた空には星が見え、身震いする程ほどの冷たい風が頬を撫でた。
もう誰も暮らす人はいなくても、その家に残る生活の気配をテアは悲しいほどに感じ取った。父の母が生きた場所。そしてその弟子であるエヴァンズとウィリアムが暮らした場所。
「ウィリアムと話していた。記憶を取り戻した君が必要とするなら、師匠のこの家を相続できるようにする、と」
そう告げる声は凪いだままでいる。テアは振り返った。エヴァンズは照明にルブの光が灯る居間を背後にしており、逆光気味で表情はあまりよく見えない。
「ここが、私の家に」
「そうだ」
「私は、ここに――ここにいて、もう、どこにも行かなくても、いいんですね……」
「ああ」
エヴァンズを見つめるテアの表情が、ふと陰った。
「考えるんです……。もし私が魔法使いじゃなければ。父のこと――魔法のこと、全て忘れたら、何も無かったことに出来たら。何処かで……ここで、そんな風に生きていくことが、出来るか……」
「出来る」
エヴァンズは揺るがず答えた。それはこれまで何度もテアの動揺を引き止めてきた。
「必要なら私が忘却と改変を行使する」
二人の師弟関係の証明として互いの耳を飾っていた輪は、今はもう無い。
――テアの頭によぎったのは、昨日の別れ際に彼の兄弟弟子から言われたことだった。
「テア、下世話な忠告なのは承知だが聞いてほしい。最後に」
リーブラに帰るため先ずテアが箱馬車に乗り込むと、エヴァンズが続くのをウィリアムが乗り口に立ち塞がって阻止した。
テアは自動車に軟禁されたことを思い出して一瞬身を固くしたが、黙って見つめた。彼が壁となり外の音が遮られ、その声だけが箱馬車の中に響く。
「オリヴァーのそばにいる動機が、血族との間に失ったものの代わりを彼に求めているからなら、やめた方がいい。君が心を預けるに足る器を求めるのは酷だ。壊れたら二度と元に戻らないものもある。それは呪いではなく、彼という魔法使いには救いたりえる」
――ウィリアムはそう真摯に語ってテアに聞かせた。
祖母の家を背景に佇むエヴァンズを見つめていたテアは、僅かに俯き、目を閉じた。父に憎まれ居場所を失い、帰る家を求めてさ迷い続けた幼い魔法使いの悲劇が、今終わる。
「……忘れてしまいたいんです」
テアは顔を上げた。その目は空を映していた。
「でも、どうしよう。星がこんなにきれいで」
思い出した。
父に許されなかったあの日、雲の間から見えた星空も。ウィンフィールドから逃げ出したあの日、走る貨物車両から見上げた星空も。今見つめている、日の名残から夜へ移ろうこの星空も。
星空は同じ星空なのに、違う。毎日学校の玄関広間の星座盤を見ていたから、星に由来する鳥達の名前を呼んでいたから、今は見上げている光の粒ひとつひとつがよく分かる。でもそれだけじゃない。
帰る家を失くし、師匠の家で過ごし、学校で働き、リーブラの街で過ごし、様々な人と出会い、驚き悩み奮闘し、感動し、積み重ねたものが辿り着いた今のこの星空を、今までのどの星空より一等特別な物にしている。
その日々にはいつも魔法があった。
ただ楽しくて魔法を使ってた子供時代の記憶を取り戻したところで、無邪気に愛することはもう出来ない。耐え難い悲しみも思い出してしまったから。
父の事は苦しい。振り返れば今この瞬間だって涙が滲む。魔法がある限りずっとこの身に取り憑くのだろう。
それでも――魔力への感覚を研ぎ澄ます時の静けさ、新たな魔法を得た時の心の躍り、行使の瞬間の何とも言えぬ騒めきを、知っているから。忘れさせないでくれたから、師匠との修行が。教えてくれた、魔法学校での時間が。拙い魔法であっても誰かの日常を守っていける、それが自分の誇りになり得るのだと。
手放したくない。何一つ忘れたくない。
魔法がもたらした耐え難い苦しみもあるけれど、魔法がもたらした今のこの私の感情を。
「(お父さん、ごめんなさい)」
あなたが憎んでも嫌っても、私は魔法使いの私を嫌いになれない。
喜びも苦しみも悲しみも、それが私の魔法の一部ならば、なにひとつ欠けてほしくないの。
「この星空を忘れたくない。今日までの私を忘れたくない。魔法を捨てたくない。私は、あなたの魔法を見たから」
――別れ際の兄弟弟子から真摯な忠告を受けて、「はい」と頷いたテアは、ウィリアムには意外なほど動揺が無かった。
「……さようならテア。君の幸福をいつでも祈っている」
「さようなら。レベッカの事をずっと想っていてくれて、ありがとう」
ウィリアムは目を丸くした後「君は、本当に師匠に似ていない」と苦く笑って、箱馬車の扉から離れた。
――預かってほしいものなんてない。これは、私が決めること。
そう分かっていても、選び取ることは恐ろしい。
この選択は身勝手で、きっと誰かからしたら愚かで間違ってる。希望の光なんかじゃない。世界なんてものの役にも立たない。人体操作がどんな目で見られるかも知ってる。それを以て目指すところ、なんて大それたモノまだ分からない。
失敗と後悔の予感、容易く想像できる非難の声と視線に怯える弱さに、失望して潰されて挫けそうになる。
でも、悲しみに代えても私の望む選択に頷こうとしてくれた人がいたから。
その瞬間を見たから。それが私の手を引いてくれるから。
今は奮い立つものがこの胸の内にある。
だから、たとえ恐ろしくても私は選択する。私の道を。
これは癒されるために行く道じゃない、悲しみに涙を滲ませながらでも行きたい道だから。たったひとつ以外の他のものでは、嫌だ。
「あなたの魔法は優しい。私が欲しいのはあなたの魔法」
ただ、私はこの日々の先に、この師匠との修行の先に、どんな私の魔法があるのか知りたい。まだ見ぬ景色の美しさと、その感動を味わいたい。
ただ私が私の為にそう望む、それだけの為に。
「全てを教えてください。今度こそ、私を、あなたの本当の弟子にしてください」
私は魔法使い。テア・ウィーオリヴァー・ブライアント。
苦しみも悲しみも引き連れて、魔法と共に生きていく。
「わかった」
そう答えるエヴァンズに動揺はなく、悠然として凪いでいた。
それはある程度予想通りの反応であったが、自分としては一世一代の宣言だったので、返事を受けたテアは胸を抑えて大きく息を吐いた。
「――あの、実は私、ずっと言ってなかったことがあって……一番最初『弟子になるか』と聞かれた時に『はい』と答えたのは、違くて、あれは弟子入りを了解したんじゃなくて、勘違いだったんです……」
「そうなのか」
エヴァンズはふぅんという顔をしている。
「あと、あと、あの、ウィリアムさんと内緒で転字帳のやりとりしていたのは、メイジーさんに気安く応じちゃだめだって言われてたのに、でも、兄弟弟子のウィリアムさんなら知ってて、聞けるかもしれないと思ったからなんです――エヴァンズ先生の〝好きな物〟を」
だが、彼がたった一人の兄弟であるなら、自分だってこの人のたった一人の弟子だ。「弟子で同士なら、きっといつか彼が好むものだってわかるようになるかもしれない」とメイジーだって言っていた。
「でもここに来るまでの間に私、思いついたんです。もしかしてエヴァンズ先生は――――汽車。が、好きなんじゃないかって」
単なる偶然かもしれないが、エヴァンズと行動を共にするようになって汽車に乗る機会が激増した。何より、乗車している時に彼が窓の外を通り過ぎる景色をじっと見ている姿がテアには印象的だった。
テアは賞金が懸かっているわけでもない答えの正誤を固唾をのんで待った。エヴァンズが答える。
「テアがそう言うなら、きっとそうなんだろう」
「(――うーん……? これは……微妙……)」
当たっていれば働いて貯めたお金で一等車の乗車券でも贈りたかったが、同士となるにはまだ鍛錬が足りないのだと肩を落とした。
しかし、テアは知らなかったしエヴァンズは深掘りしなかったので自覚が薄かった。
汽車から見る景色こそ、生気が有り不快が無くつい眺めてしまうような、自分の気付かぬうちにそこへ意識が奪われる彼にとって〝おもしろい〟ものであり――
師匠が彼を絶望から遠ざけた、修行の日々の始まりの象徴であることに。
エヴァンズが前置き無く手を差し出してきて、テアは何かと思い彼の顔を窺った。
「君の手を」
「あ、はい」
思い当ることが合ってテアは手を差し出した。エヴァンズが手を握る。
繋いだ手の隙間から光が漏れ始める。その――青白さの中に少し紫がかった――光が散って消え、エヴァンズが手を離した。開いた彼の掌には鈍い金色の小さな輪が二つ姿を現していた。
テアは渡されたそれをまじまじと見た。先代と変わらず、金属の表面は滑らかではなく少し歪で、飾り気がなく武骨だ。
これよりも綺麗な物は他に沢山ある。しかしこれこそどんなに金銭を積んでも得られない、何より彼女の〝欲しい物〟だった。
テアは臆することなく、己の右耳に師弟の証を掲げた。
「今後、再び、私は私の持つ魔法の全てを君に授ける」
エヴァンズが悠然と宣誓する。
「はい。よろしくお願いします。師匠」
テアは胸を張り、真っすぐ答えた。
そして師弟は星空の下を帰途につく。二人の職場がある街に、心配性の使用人が待つ家に。
だが、その前に――
「あの、出来れば」
師匠に向き合っていた弟子は、気恥ずかしさで視線を泳がせた。
「やっぱり呼び方は、エヴァンズ先生、のままでもいいでしょうか……?」
校舎脇に人が集まっている。
彼らの声が届かない程の距離の木陰からそれを眺めているのは、植木鉢を抱えたブルーベルだった。
「こんにちは。お散歩に良い陽気ね」
足音に気付いた彼女が挨拶をしたのは、芝生を踏み近付いてくるバードマスターのミッチェルだ。その両肩には鳥が止まっていて何らかのご機嫌な大道芸にも見えた。
「やあ本当に。ところでローレン、あれってどうしたのかな」
「施設管理補助員の勤務兼修行、及びその観戦よ」
青い制服が囲んでいるのは校舎の壁に向き合うテアとエヴァンズだった。
「今日はどんな魔法を?」
「壁に這ってる蔦の方向を左へ変えるんですって。窓にかからないように」
「わあ、がんばれブライアントさん」
内容は聞こえないが、エヴァンズの言っている事に対しテアが頭を上下に振っているのが見て取れる。
「――なんだかあんまり変わらないよね、あの二人って。あんな事件があったからなんて言うかさ、もしかして距離が近づくかな? って期待しちゃった」
「そうね。でもそれがあの師弟なんじゃない?」
ブルーベルは微笑んで眺めている。その時聴衆から歓声が上がった。
沸く拍手の中央で職務を達成した施設管理補助員が小さくなっていると、校舎から言伝鳥が飛んできて師弟の頭上を回った。
「さあ、私達も働きましょうか」
「そうだね、じゃあねローレン」
挨拶を交わしブルーベルとミッチェルは互いを追い越した。
鳥から言伝を聞き終わったテアは、壁に立てかけてあった掃除用具を慌ただしく鳴らした。観戦に満足した生徒達が散り始める。装備を終え立ち上がったテアに、エヴァンズが悠然と言う。
「では、また後で」
「はい」
師弟はそれぞれの持ち場へ歩みだした。
なんの変哲もない彼らの勤労の日々が、今日も続いていく。
応援ありがとうございます!
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