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前編
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甘い花の香りが漂う。
柔らかな日差しは惜しみなく青色の草原に降り注ぎ、遠くから吹く風は、地に倒れ伏した獣の上を静かに通り過ぎていく。
数多の森を抜けて谷を越え、川を泳ぎ、黒い獣はここへやってきた。
どうしてだか、自分でもわからない。
ただ、この場所に辿り着いた時、ああ、ここが目指していたところだったのだと、悟った。
するとこれまで日夜歩き続けてきた四肢に膨大なる疲れを覚え、気を失うように草の中へ倒れ込んだのだ。
しばらく、獣は目を瞑り暖かなそこで掠れた呼吸を繰り返していた。
足音が聞こえた。
獣は目を開くのも億劫で、そのままでいた。
とにかく疲れていた。
一体どれだけ歩き続けてきたのか、そして、自分の名前さえも思い出せない。
よく今まで持ち堪えられたものだと、獣は不思議に思った。
頭上で草を掻き分ける気配を感じ、獣は、やたらと重く感じられる瞼をやっと持ち上げた。
一人の少年がそこに立っていた。
セピア色の髪が美しい、まだあどけない顔立ちの、赤いコートを着た少年だった。
「……どうしたの?」
恐れるどころか、少年は摘んだばかりの花束を放り投げてしゃがみこみ、倒れ伏した獣に問いかける。
「怪我をしたの?」
答えるのも億劫で、獣は無言でいた。
「お腹が減ったの? 食べ物なら、あるよ」
そう言って、少年がバスケットから手作りのお菓子を取り出す。
獣は渋々答えた。
「そんなもの、食べない……」
「じゃあ何を食べるの?」
何を食べるのか。
また、それも忘れてしまった。
獣は緩慢な動作で身を起こすと、力なく目の前の少年を見つめた。
「とっても大きいね。こんな大きな狼、初めて見た」
「狼……?」
そうか、自分は、狼だったか……いや、違う。
何か別のものではなかっただろうか。
しかし、獣は考えるのをやめた。
とても疲れていたからだ。
再び大地に横になって、瞼を閉ざす。
眠りの訪れを予感して、そっとため息をついた。
少年は、バスケットを抱え直し、名残惜しそうにその場を後にした。
次に獣が目を開くと、空は夕日で茜色に染め上げられ、辺りの草花は冷ややかな風と共に音もなく戯れていた
獣は、すぐ隣で眠る少年を見つけ、驚いた。
起き上がろうとしたが、永い歩みの疲れを全身に感じて、そのままの姿勢でいる。
些細な動きが伝わったのか。
獣のすぐ隣で丸まっていた少年が目を開けた。
「心配だから、戻ってきたの。隣村のおばぁ様のところへお見舞いに行って、お花とお菓子を渡して、すぐ戻ってきたの。ねぇ、狼さん。とっても汚れてしまっているけど、狼さん、綺麗な目をしてる」
「……この目は何色だ?」
少年は楽しそうに微笑むと桜色の唇から答えを紡いだ。
「水晶玉と同じ色」
獣の疲れはなかなか癒えなかった。
このまま死ぬのではないだろうかと、獣は思った。
名前も何も思い出せないまま、ここで力尽きるのではないかと。
「大丈夫、きっと助かるから」
少年は毎日獣の元へやってきては、冷たい川の水を獣に飲ませ、ビスケットやパンケーキなどを食べさせようとした。
「そんなもの、食べない……」
「じゃあ何を食べるの?」
思い出せない。
手足の重みを持て余しながら、獣は小さく唸った。
「その内、きっと思い出すから」
少年はバスケットから櫛を取り出すと、土くれで汚れた獣の長い毛並みを梳かし始めた。
少年は、いつも赤いコートを着ていた。
フードを被り、セピア色の髪をさらりと伸ばしていた。
幼いような、大人びたような、いつもと変わらない眼差しで今日も獣を見つめていた。
「ほら、とっても綺麗になった」
獣の毛が絡んだ櫛をバスケットに直して、少年は笑う。
少年の言う通り、それまで砂に塗れて縮れていた獣の毛はさらりと風になびき、艶やかな漆黒を帯びて、日差しの中に煌めいた。
「僕がもしも狼だったら、きっと双子か、親子だったに違いないよ」
少年が嬉しそうにそんなことを言う。
あんまりにも嬉しそうなので、獣も、牙を覗かせて微かに笑った。
「なら、己が人間なら、双子か、親子だったかもしれないな」
「うん、そう。きっとそう」
草むらの中で横たわる獣の背を撫で、少年は、幸せそうに笑った。
その日、少年が帰った後、獣は目を瞑りじっとしていたのだが、また少年の声を聞いて、耳をそばだてた。
「狼なんて、危険だわ、疲れている内に村の外へ追い出さなくちゃあ……」
「だめ、やめて、死んじゃうよ」
「それに、もらったばかりの私の櫛を勝手に持ち出して、全くもう……」
草を掻き分ける音がしたかと思うと、次の瞬間、夕刻の静寂を悲鳴が貫いた。
「お母さん、やめて、びっくりする」
獣の視界に写ったのは、少年と、その母親だった。
母親は震え上がり、驚いている我が子の腕を乱暴にとると、大急ぎで来た道を戻っていった。
「あれは狼なんかじゃない……!」
恐怖に満ちた叫び声が、野に響き渡った。
村にやってきた恐ろしい異形のもの。
少年の母親から話を耳にした村人達は恐れ戦いた。
恐怖はあっという間に広がり、子供一人の言う事に誰も耳を貸さず、手に手に武器を取った。
「やめて、何も悪い事してないのに!」
少年の悲痛な叫び声が虚しく野に響き渡る。
それを聞いて、獣は、眠るように大地に伏したまま、これで最期かと思った。
逃げる力もないし、逃げたいという思いもない。
このままここで殺されて死ぬのに何の抵抗もなかった。
目指していたここへ辿り着けたのだから……。
『心配だから、戻ってきた』
殺気立った喧騒が近づいてくる中、ふと、獣は少年の声を思い出した。
「――いたぞぉ!!」
いくつもの手が草を掻き分け、やがて、倒れ伏した獣の周りに荒く土を踏みつける足が並んだ。
松明の炎が目を閉じた獣の全身を照らし出す。
村人達は、息を呑み、彼等の恐怖は勢いを増した。
殺せ、と誰かが叫んだ。
次いで、一人が猟銃を構え、一人が斧を頭上に掲げた。
「お願い、やめて!」
不意に。
夜目にも色鮮やかな赤いコートを羽織った少年が。
群集から飛び出て。
涙を流しながら獣に抱き着いた。
「ああ、我が子は呪われた……」と、少年の父親は異形に抱き着いた自分の息子を見、また恐れ、猟銃の引き鉄に手をかける。
そして、獣は目を開けた。
ああ、そうだ、わかった。
どうしてここへ来たのか、
何故なら。
それは。
「お前と出会うために」
獣がそう呟くのと、一発の弾丸が少年の背に放たれたのは、同時であった。
鮮血の臭気が漂う。
血塗られた夕暮れの空が大地にのしかかる。
自分にもたれかかる少年の重みと、そこから伝わってくる死の感触に、獣は全てを思い出した。
我が名はヴィッカス。
月を喰らう月蝕の産物。
人間の血を貪るヴァルコラクという吸血種。
その瞬間、ヴィッカスの毛は轟然と逆立ち、牙は無慈悲に尖らされ、青水晶の眼は薄闇を鋭く射抜いた。
中空に月が姿を現す頃、草原は、村人数多の亡骸で埋め尽くされた。
牙と牙の狭間から止め処なく血肉を滴らせ、ヴィッカスは、地平線まで脅かすような凄まじい咆哮を上げる。
ヴィッカスのそばには生きているように死んでいる少年の屍があった。
それを見下ろしてヴィッカスは咆哮をやめる。
己は月蝕の産物……光を闇に変えるもの。
理を捻じ曲げる邪悪なもの。
死神の鎌を噛み砕く、不届きなるもの。
少年は祖母の腕の中で目を覚ました。
すべての記憶を忘却の彼方へ追いやられて、何もわからずに、少年は何度も瞬きする。
何も覚えていない、でも……。
澄んだ双眸から一筋の涙を頬に伝わらせて、少年は、ジェイドは虚空を見つめた。
「僕、誰かを探していたような気がする……」
柔らかな日差しは惜しみなく青色の草原に降り注ぎ、遠くから吹く風は、地に倒れ伏した獣の上を静かに通り過ぎていく。
数多の森を抜けて谷を越え、川を泳ぎ、黒い獣はここへやってきた。
どうしてだか、自分でもわからない。
ただ、この場所に辿り着いた時、ああ、ここが目指していたところだったのだと、悟った。
するとこれまで日夜歩き続けてきた四肢に膨大なる疲れを覚え、気を失うように草の中へ倒れ込んだのだ。
しばらく、獣は目を瞑り暖かなそこで掠れた呼吸を繰り返していた。
足音が聞こえた。
獣は目を開くのも億劫で、そのままでいた。
とにかく疲れていた。
一体どれだけ歩き続けてきたのか、そして、自分の名前さえも思い出せない。
よく今まで持ち堪えられたものだと、獣は不思議に思った。
頭上で草を掻き分ける気配を感じ、獣は、やたらと重く感じられる瞼をやっと持ち上げた。
一人の少年がそこに立っていた。
セピア色の髪が美しい、まだあどけない顔立ちの、赤いコートを着た少年だった。
「……どうしたの?」
恐れるどころか、少年は摘んだばかりの花束を放り投げてしゃがみこみ、倒れ伏した獣に問いかける。
「怪我をしたの?」
答えるのも億劫で、獣は無言でいた。
「お腹が減ったの? 食べ物なら、あるよ」
そう言って、少年がバスケットから手作りのお菓子を取り出す。
獣は渋々答えた。
「そんなもの、食べない……」
「じゃあ何を食べるの?」
何を食べるのか。
また、それも忘れてしまった。
獣は緩慢な動作で身を起こすと、力なく目の前の少年を見つめた。
「とっても大きいね。こんな大きな狼、初めて見た」
「狼……?」
そうか、自分は、狼だったか……いや、違う。
何か別のものではなかっただろうか。
しかし、獣は考えるのをやめた。
とても疲れていたからだ。
再び大地に横になって、瞼を閉ざす。
眠りの訪れを予感して、そっとため息をついた。
少年は、バスケットを抱え直し、名残惜しそうにその場を後にした。
次に獣が目を開くと、空は夕日で茜色に染め上げられ、辺りの草花は冷ややかな風と共に音もなく戯れていた
獣は、すぐ隣で眠る少年を見つけ、驚いた。
起き上がろうとしたが、永い歩みの疲れを全身に感じて、そのままの姿勢でいる。
些細な動きが伝わったのか。
獣のすぐ隣で丸まっていた少年が目を開けた。
「心配だから、戻ってきたの。隣村のおばぁ様のところへお見舞いに行って、お花とお菓子を渡して、すぐ戻ってきたの。ねぇ、狼さん。とっても汚れてしまっているけど、狼さん、綺麗な目をしてる」
「……この目は何色だ?」
少年は楽しそうに微笑むと桜色の唇から答えを紡いだ。
「水晶玉と同じ色」
獣の疲れはなかなか癒えなかった。
このまま死ぬのではないだろうかと、獣は思った。
名前も何も思い出せないまま、ここで力尽きるのではないかと。
「大丈夫、きっと助かるから」
少年は毎日獣の元へやってきては、冷たい川の水を獣に飲ませ、ビスケットやパンケーキなどを食べさせようとした。
「そんなもの、食べない……」
「じゃあ何を食べるの?」
思い出せない。
手足の重みを持て余しながら、獣は小さく唸った。
「その内、きっと思い出すから」
少年はバスケットから櫛を取り出すと、土くれで汚れた獣の長い毛並みを梳かし始めた。
少年は、いつも赤いコートを着ていた。
フードを被り、セピア色の髪をさらりと伸ばしていた。
幼いような、大人びたような、いつもと変わらない眼差しで今日も獣を見つめていた。
「ほら、とっても綺麗になった」
獣の毛が絡んだ櫛をバスケットに直して、少年は笑う。
少年の言う通り、それまで砂に塗れて縮れていた獣の毛はさらりと風になびき、艶やかな漆黒を帯びて、日差しの中に煌めいた。
「僕がもしも狼だったら、きっと双子か、親子だったに違いないよ」
少年が嬉しそうにそんなことを言う。
あんまりにも嬉しそうなので、獣も、牙を覗かせて微かに笑った。
「なら、己が人間なら、双子か、親子だったかもしれないな」
「うん、そう。きっとそう」
草むらの中で横たわる獣の背を撫で、少年は、幸せそうに笑った。
その日、少年が帰った後、獣は目を瞑りじっとしていたのだが、また少年の声を聞いて、耳をそばだてた。
「狼なんて、危険だわ、疲れている内に村の外へ追い出さなくちゃあ……」
「だめ、やめて、死んじゃうよ」
「それに、もらったばかりの私の櫛を勝手に持ち出して、全くもう……」
草を掻き分ける音がしたかと思うと、次の瞬間、夕刻の静寂を悲鳴が貫いた。
「お母さん、やめて、びっくりする」
獣の視界に写ったのは、少年と、その母親だった。
母親は震え上がり、驚いている我が子の腕を乱暴にとると、大急ぎで来た道を戻っていった。
「あれは狼なんかじゃない……!」
恐怖に満ちた叫び声が、野に響き渡った。
村にやってきた恐ろしい異形のもの。
少年の母親から話を耳にした村人達は恐れ戦いた。
恐怖はあっという間に広がり、子供一人の言う事に誰も耳を貸さず、手に手に武器を取った。
「やめて、何も悪い事してないのに!」
少年の悲痛な叫び声が虚しく野に響き渡る。
それを聞いて、獣は、眠るように大地に伏したまま、これで最期かと思った。
逃げる力もないし、逃げたいという思いもない。
このままここで殺されて死ぬのに何の抵抗もなかった。
目指していたここへ辿り着けたのだから……。
『心配だから、戻ってきた』
殺気立った喧騒が近づいてくる中、ふと、獣は少年の声を思い出した。
「――いたぞぉ!!」
いくつもの手が草を掻き分け、やがて、倒れ伏した獣の周りに荒く土を踏みつける足が並んだ。
松明の炎が目を閉じた獣の全身を照らし出す。
村人達は、息を呑み、彼等の恐怖は勢いを増した。
殺せ、と誰かが叫んだ。
次いで、一人が猟銃を構え、一人が斧を頭上に掲げた。
「お願い、やめて!」
不意に。
夜目にも色鮮やかな赤いコートを羽織った少年が。
群集から飛び出て。
涙を流しながら獣に抱き着いた。
「ああ、我が子は呪われた……」と、少年の父親は異形に抱き着いた自分の息子を見、また恐れ、猟銃の引き鉄に手をかける。
そして、獣は目を開けた。
ああ、そうだ、わかった。
どうしてここへ来たのか、
何故なら。
それは。
「お前と出会うために」
獣がそう呟くのと、一発の弾丸が少年の背に放たれたのは、同時であった。
鮮血の臭気が漂う。
血塗られた夕暮れの空が大地にのしかかる。
自分にもたれかかる少年の重みと、そこから伝わってくる死の感触に、獣は全てを思い出した。
我が名はヴィッカス。
月を喰らう月蝕の産物。
人間の血を貪るヴァルコラクという吸血種。
その瞬間、ヴィッカスの毛は轟然と逆立ち、牙は無慈悲に尖らされ、青水晶の眼は薄闇を鋭く射抜いた。
中空に月が姿を現す頃、草原は、村人数多の亡骸で埋め尽くされた。
牙と牙の狭間から止め処なく血肉を滴らせ、ヴィッカスは、地平線まで脅かすような凄まじい咆哮を上げる。
ヴィッカスのそばには生きているように死んでいる少年の屍があった。
それを見下ろしてヴィッカスは咆哮をやめる。
己は月蝕の産物……光を闇に変えるもの。
理を捻じ曲げる邪悪なもの。
死神の鎌を噛み砕く、不届きなるもの。
少年は祖母の腕の中で目を覚ました。
すべての記憶を忘却の彼方へ追いやられて、何もわからずに、少年は何度も瞬きする。
何も覚えていない、でも……。
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