聖なる王女はベッドの上で帝国を救う

梵天丸

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第五十話 古の契約と帝国の危機

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オルダス宰相の逮捕は、ヴァリス帝国の中枢に大きな衝撃と混乱をもたらした。
長年にわたり皇帝の右腕として絶大な権力を振るい、多くの廷臣たちから尊敬と畏怖の念を集めていた人物が、皇太子を呪い、帝国転覆を企んでいた黒幕だったという事実は、にわかには信じがたいものだった。
しかし、宰相の私室から発見された禁断の祭壇と禍々しい儀式の痕跡、そしてレティシア妃殿下の証言は、その事実を疑いようのないものとしていた。

皇帝ルイードは、直ちに信頼できる側近のみを集め、極秘裏に事態の収拾と真相究明に乗り出した。
オルダス宰相の派閥に属していた貴族や官僚たちは厳しく尋問され、その中から数名が宰相の陰謀に加担していたことが明らかになった。
彼らは次々と逮捕され、帝都は一時騒然となったが、皇帝の迅速かつ断固たる処置により、大きな混乱には至らなかった。
しかし、問題の核心は、オルダス宰相が口にした「古の契約」と「大いなる闇」という言葉だった。
皇帝は、皇宮の最も厳重な地下牢に投獄されたオルダス宰相に対し、自ら尋問を行った。
だが、宰相は意識を取り戻して以降、完全に口を閉ざし、不気味な笑みを浮かべるだけで、何一つ語ろうとはしなかった。まるで、自分の役割は終わったとでも言うかのように。

「陛下、オルダス宰相が隠し持っていたこの書物ですが…」

レティシアは、宰相の隠し部屋の祭壇で見つけた、黒い革装丁の古文書を皇帝に差し出した。
その書物には、解読困難な古代文字でおびただしい記述がなされており、所々に血痕のような染みも付着していた。
それは明らかに、尋常ではない雰囲気を漂わせていた。

「これは…」

皇帝は、その書物を受け取ると、顔を顰めた。
彼もまた、その書物から発せられる禍々しい気配を感じ取ったのだろう。
皇帝は、帝国で最も博識とされる学者や、古代文字の専門家を密かに召集し、その書物の解読を命じた。
数日間にわたる困難な作業の末、書物の内容は徐々に明らかになっていった。
そして、その内容は、皇帝やレティシアを震撼させるに足るものだった。

その書物は、オルダス宰相の先祖、ヴァレンシュタイン家の初代当主が記したものであり、彼が数百年前に「影の災厄」を引き起こしたとされる闇の精霊“虚無喰らい”ザルゴスと交わした、禁断の契約に関する記録だった。
ヴァレンシュタイン家は、代々、ザルゴスの力を借りて帝国の影の支配者となることを悲願とし、その契約を密かに受け継いできたのだ。
契約の代償は、定期的な生贄と、そして最終的にはヴァレンシュタイン家の血筋の者の魂そのものをザルゴスに捧げること。
オルダス宰相は、その契約の最後の継承者であり、クリストフ皇太子をザルゴスへの「器」として捧げ、自身はザルゴスの力を完全に掌握し、帝国を支配しようと企んでいたのだ。
ハルディンは、ザルゴスを呼び覚ますための、いわば露払いに過ぎなかったのかもしれない。

「なんと恐ろしいことを…! ザルゴス…“虚無喰らい”とは、古文書にあった、聖女エリアーデ様が命と引き換えに封印したという、あの…!」

レティシアは、書物の解読結果を聞き、血の気が引くのを感じた。
聖女エリアーデの記録は、彼女にとって他人事ではなかった。
オルダス宰相の目的は、クリストフを器として、あの伝説の災厄を再びこの世に解き放つことだったのだ。
そして、その儀式は、宰相が逮捕されたことで中断されたものの、完全に阻止されたわけではない可能性があった。
契約はまだ生きているのかもしれない。

「オルダスめ…そこまで深い闇に魂を売っていたとは…」

皇帝ルイードは、怒りと絶望に声を震わせた。
長年の腹心が、これほどまでに恐ろしい計画を秘密裏に進めていたとは、想像だにしなかった。

「陛下、ザルゴスを完全に封印するためには、どうすれば…? 古文書には何か手がかりが?」

レティシアが尋ねると、解読にあたっていた老学者が、重々しく口を開いた。

「…書物によれば、ザルゴスを完全に滅するか、あるいは再び封印するためには、契約者であるヴァレンシュタイン家の血を完全に絶つか、あるいは…契約そのものを無効にする何らかの対抗儀式が必要と記されております。しかし、その対抗儀式については、この書物には具体的な記述がございません。おそらく、ヴァレンシュタイン家にとって都合の悪い情報は、意図的に抹消されたか、あるいは別の場所に隠されているものと思われます」

ヴァレンシュタイン家の血を絶つ…それは、オルダス宰相だけでなく、彼の血を引く者全てを処刑することを意味する。
皇帝はその非情な選択肢に逡巡した。しかし、帝国の、いや世界の危機を前に、個人的な感情を挟むことは許されない。

「…オルダスの一族については、徹底的に調査し、厳正に対処する。だが、それだけでは不十分かもしれん。対抗儀式の手がかりを探さねば…」

その時、皇帝の元に、東部戦線からの急使が駆け込んできた。その顔は蒼白で、息も絶え絶えだった。

「陛下! 緊急のご報告です! 東部戦線にて、クリストフ皇太子殿下が…殿下が、敵の罠にかかり、行方不明との報せが…!」
「何だと!?」

皇帝とレティシアは、その衝撃的な報せに言葉を失った。
クリストフが行方不明? まさか、イルーナ軍の攻撃は陽動で、真の目的はクリストフの誘拐だったというのか? 
それとも、これもまた、ザルゴスとヴァレンシュタイン家の契約に関連する何かなのだろうか?
レティシアは、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。
クリストフの身に、何か恐ろしいことが起ころうとしている。
オルダス宰相は捕らえられたが、彼の言った「これで終わりではない」という言葉が、不吉な予言のように彼女の脳裏に響いた。
ザルゴスの脅威は、まだ去ってはいない。そして、その魔の手が、今まさにクリストフに伸びようとしているのかもしれない。

「陛下、私は…私はクリストフ様を助けに行かなければなりません!」

レティシアは、決意を込めた瞳で皇帝を見つめた。
彼女の聖なる力だけが、クリストフを救い出し、そしてザルゴスの脅威から帝国を守ることができるのかもしれない。

「しかし、妃殿下…戦場は危険です。それに、ザルゴスの力は未知数…」

皇帝は、レティシアの身を案じた。
だが、レティシアの決意は固かった。

「私の魂は、いつもクリストフ様と共にあります。彼を闇から救い出すためなら、どんな危険も厭いません。それに、私には、聖女としての使命があります」

皇帝は、レティシアの瞳に宿る、聖女としての揺るぎない覚悟と、クリストフへの深い愛を見て、ついに頷いた。

「…分かった。妃殿下のその覚悟、確かに受け取った。最精鋭の騎士たちを護衛につけよう。だが、決して無茶はしてくれるな。クリストフを、そして帝国を救えるのは、そなただけかもしれんのだから」

レティシアは深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
彼女の中で、新たな戦いへの決意が燃え上がっていた。
愛する人を救うため、そして帝国を恐るべき闇から守るため、聖女レティシアは、今、自ら危険な道へと足を踏み出そうとしていた。
その先には、想像を絶する困難と、そしてあるいは、聖女としての過酷な運命が待ち受けているのかもしれなかった。
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