紅蓮の獣

仁蕾

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紅蓮の章

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 龍馬は火照る頬を押さえつつ、競歩状態で長い廊下を急いでいた。
(ない…っ、ないないないないない!)
 何かを懸命に否定しながら、徐々にスピードが上がって行く。走って走って、最後には猛ダッシュ。
 ―バン!バタン!!
 ゼェ…ハァ…ゼェ…ハァ…
『つ、疲れた…』
 極度の緊張が精神を苛んだ挙句、長い道のりを全力疾走した為、龍馬の疲れは極限に達していた。自室に駆け込んですぐに床にへたり込んでしまう。
 暗闇の中、ぽっ…と小さな明りが灯った。
《サラ様ですの?》
「へ、な、なに?」
 クリオスの声に反応し、重い体を引きずり這う様にベッドへと 向かう。そんな龍馬の様子を見ていたクリオスは、「あら?」と胸の内で呟く。
先程とは違う、部屋の新たな主の匂い。芳しく高級な匂い。世に二つとないその香りに、ついつい微笑んでしまう。
クリオスの意味深な微笑みに、ベッドに腰掛けた龍馬は怪訝そうに首を傾げた。
「どうかした?」
《いえ、とても甘く良い香りがしましたもので…》
「匂い?」
 くんくんと鼻を鳴らしても、室内に焚かれた香の匂いしかしない。その様子に、クリオスの笑みが深まる。
《この匂いは精霊王特有の香のかおり。異世界の方々には、お判りになられませんわ。こちらの方と婚姻されれば、別ですけれど…》
 クリオスが言った瞬間、龍馬の顔が硬直し朱に染まって行った。
《サラ様?》
「な、何でもない!ぉ、俺、風呂行ってくる!何処!」
《あ、あちらです…》
 何やら懸命な龍馬に気圧されながら浴室のある奥の扉を示せば、龍馬はその扉の奥に逃げ込んで行った。残されたクリオスは、頭の中をハテナで埋め尽くしていた。 


 ―チャプ…チャプ…
 桃のような香りが漂うかなり広い浴室。大きな湯船の隅。龍馬は高い天井を仰ぎ見ていた。
「あー…疲れた…」
 何と無しに零れた言葉。温まった体は仄かな桃色に染まっている。
 ちゃぷ、と水中から腕を出してみる。グーパーグーパーと、手の運動をしていてふと気付く。
「あれ?」
 己の左腕に違和感。
 光が反射すると極薄く見える『何か』。
 手の甲から絡まるトライバル模様。普通にしていれば、只の肌。本人からは見えないが、その模様は背中にまで広がっている。
「何だ?」
 影にしたり、光に当てたり、擦ってみたり。しかし、消えるわけでもなく、変化するわけでもなく。龍馬からしてみれば不気味と言える。
実はその模様は、彼の内に眠る『魄霊』の契約痕なのである。通常は、一人一体なので契約痕も一つなのだが、精霊王と『花嫁』は望めば幾らでも契約が出来る。
 龍馬の場合、彼の中の『魄霊』の数だけ契約痕が連なっているのだ。それが刺青のように背中にまで広がっている。
 しかし、そんな事を知らない龍馬は気味悪く思い、後で誰かに聞こうと自己完結をした。

 ―その頃。
「更紗龍馬…何なの、あの男…!」
 女の声が室内に響く。他にも、女が一人、男が二人。
 彼女たちは、皆が皆、『花嫁候補』である。
 忌々し気に呟いた先程の女の名は、日比谷水城ひびやみずき。垂れた眦を更に下げ、水城を見つめるもう一人の女は、仁科美智留にしなみちる。つまらなそうにソファーに寝転がる男の一人は、立花康平たちばなこうへい。同じくつまらなそうにソファーに腰掛け、優雅に足を組みながら読書をするもう一人は麻生望。
「まぁ、落ち着けよー、水城ちゃん」
「落ち着けるわけないでしょ!?康平、あんたは何でそんなのんびり出来るわけ!?」
「水城ちゃん…」
 イライラとしている水城に対し、康平と美智留が宥め賺している。望は一人、本から目を逸らして外を見下ろしている。その表情は、何やら小さな笑みを浮かべていた。気付いた康平が、身を起こして望に問うた。
「ノンちゃん、どうかしたの?」
「あ?あぁ。…なぁ、お前等、アイツ嫌い?」
「嫌いに決まってるわ!」
「うーん…ちょっと怖い…かな?」
「おれぁ、楽しければどうでも?」
 各々の答えに、望は笑みを深くする。
「俺、アイツの事、気に入った。ってなわけで『花嫁候補』いち抜けた」
 と言って、皆の返事も聞かず、本を片手に手を振って部屋を出て行った。唖然とするのは当たり前だ。今迄、一番『花嫁』に近かったのは望だ。それを、簡単に放棄した。
 その後、元々興味のなかった康平も望同様、部屋を出て行く。
 残されたのは女二人。気の強い水城と気の弱い美智留。
「あいつ等…後悔させてやる…」
 キッと小さな明りが灯る部屋を、水城はしばらく睨みつけていた。

  ***

 不意に龍馬の背中に嫌な悪寒が走った。
「な、何?」
 辺りを見渡しても、当たり前だが湯気ばかり。気のせいだ、と思い込む事とにして、再度天井を仰ぎ見た。桃の香りのお陰なのか、体の緊張が解れて行くのが解る。
「お邪魔します」
 知らぬ声が後方から突如聞こえた。ひっ、と情けなくも息を吸い込んだ。気配が全くなかったのだ。恐る恐る振り向けば、綺麗な衣に身を包み綺麗な笑みを浮かべた…望が居た。
「だ、れ…?」
「初めまして、『花嫁』様。貴方と同じ世界から来た麻生望と申します」
「ど、どうも」
しどろもどろに返せば、にこっと微笑まれた。
 何がどうなってしまったのか。現在二人で入浴中。
勿論、無言。
(き、気まずい…)
「うーん…なんて呼べばイイですかね」
「へ、ぁ、お好きなように」
「じゃー…龍馬でいっか。オレの事は望でいいよ」
 望の笑みに、龍馬も笑みで返す。その笑みはやや引き攣ってはいるが。じっと、望の琥珀色の瞳が龍馬の金の目を見つめる。
「の、望、さん?」
「あ、ゴメン。いや…この人が『紅蓮の花嫁』かと思って」
 聞き慣れない言葉に首を傾げれば、望が丁寧に教えてくれた。
「精霊王の種族によって、花嫁の正式名称が変わるんだよ。火神族サラマンダーなら『紅蓮』、水神族ウンディーネなら『青藍せいらん』、風神族シルフなら  『翡翠』、地神族ノームなら『黒檀こくだん』ってなるんだ」
「へー…ってか、俺、花嫁じゃないですからぁ!」
 眉間に皺を寄せ、不機嫌に否定する。が、望は「それが?」と言った顔をする。
「あの圧倒的な精霊力は、花嫁に間違いないよ。目も綺麗な金色だもの。君が何をどう言おうと、この世界は君を『紅蓮の花嫁』として迎え入れてる」
 ほら、と湯の中から引き上げたのは、龍馬の左手。模様が広がる腕だ。
「それに、君は既に精霊を手にしている」
「は?」
「しかも数体。一人一契約の常識を覆せるのは、精霊王と王后のみ」
 望は妖艶に微笑み、龍馬の手をパッと手を離した。パチャン、と龍馬の腕が水面に沈む。そして、己よりも漆黒の龍馬の髪を、そっと撫で付けた。
「オレともう一人、康平って言う奴は君の味方だ。オレは二年、康平は三年、此処の世界にいる。何かあれば呼べばいい。君の力になる」
 真摯な目が、龍馬の言葉を封じ込めた。 

  ***

 無音。ヒガディアルは柔らかな玉座に、その身を委ねて瞬きもせずに天井を見上げていた。
見慣れた天井だ。遥か昔と何一つ変わらぬ模様を浮かべている。不変なものは無機質なものだけなのかと深く息を吐き出した。
不意に己以外誰ひとり居ない部屋に、何者かの気配が入り込む。
「相も変わらず…不法侵入だな、ククルカン?」
《…アグニだ。全く…王も『花嫁』も…揃いも揃って人を侵入者 扱いしおって…》
 聞こえて来た小さな恨み言に、ヒガディアルは忍び笑いをしながら体を起こし、お座りの姿勢のアグニを視界に入れた。
「では、アグニ」
《何だ?》
「あの子をよく見ていておくれ」
《…お前の『不死鳥』が見ておるのだろう?》
 アグニの言葉に、ヒガディアルは微かに眉間に皺を刻んだ。
「常時見ているわけにもいかん」
《…『繋がっている』から心配するな。何かあれば向かう》
 それを聞いて安心したのか、無表情から一転して、柔らかな笑みを見せた。
《…まったく…お前も、アザゼルも、本当に『花嫁』好きだな。若干引くぞ》
 その言葉に、ピキッと空気が凍りついた。
「フェニーチェ、アグニのお帰りだ」
《あ、おい、コラ!》
 ヒガディアルが笑顔をそのままに、契約精霊に命ずれば、薄い炎のヴェールがアグニを包み込んだ。炎が消えれば其処には既に姿がなかった。
「愛して何が悪い……―」
 静寂の中に、一つの言葉が零れた。
「あの子は私の半身。故にあちらの世界では疎まれた…。刻まれた深い傷痕を癒したいと思うのも当たり前だろう…?」
 普段より饒舌に語るヒガディアルの表情は、僅か苦々し気に歪む。思い浮かぶ愛し子の真っ赤な顔が可愛らしいと思う。腕の中に温もりが蘇る。
「愛しい子…私の護るべき存在…」
 呟きを最後に、室内は再び静寂に包まれた。 

  ***

 龍馬は現状に、更なる混乱を起こしていた。その状況とは。
「何、じゃあ、まだ契約精霊と対面してないんだ?」
「そ。かなり強力な精霊だけど…自分の出る幕を解ってるのか、なかなか気配を探らせてくれない」
 龍馬の目の前に腰掛ける、部屋の持ち主より堂々としている望と康平。二人の視線は龍馬を向いてはいるが、会話の相手はお互いの為、龍馬としては非常に気まずい。
 入浴後、室内に戻ってみれば既に康平が居り、クリオスと 会話が弾んでいる状況であった。
それから数十分。この状態が続いているのである。
「あの…」
「何?」
「そろそろ寝ても…?」
 おずおずと声を掛ければ、「ああ」と望が声を上げた。
「思いの外、長居したみたいだね。そろそろオレたちも戻ろう」
「あいよー」
「お、俺みたいな奴、構ってくれてありがと…っ!」
 ずっと思っていた事を言葉にした瞬間、龍馬の目から雫が流れ落ちた。
「あ、あれっ、何で、おれ…」
 本人も予想だにしない出来事に、あたふたと狼狽し始める。何度拭っても零れ落ちてくる涙は、全く止まる気配がない。
 望と康平は踵を返して、龍馬の両サイドに腰を下ろした。望は龍馬の頭に手を置き、康平は龍馬の肩に手を回す。
「龍馬、自分を『俺みたいな奴』とか言っちゃダメだよ」
「だ、だって…っ」
 嗚咽を漏らさないようにするので一杯いっぱいだ。
 血も繋がらない他人に、これほど優しくされた事など今までなかった。でも、その優しさが自身の生い立ちを知らないゆえに来る優しさなのかもしれないと俯けば、康平の山吹色の目が覗き込む。
「何かヤな事でもあったのか?俺らには話せねー?」
 柔らかな笑みに、龍馬は更に涙した。
 涙と共に零れ落ちていく言葉の一つひとつ。わだかまっていた想いが、自然と吐露されていく。
「…辛かった?」
 今の貴方の方が辛そうです…と龍馬は言える筈もなく。ゆっくりと首を傾げて、自嘲気味に笑った。
「辛いと言えば辛かったけど…俺自身も、自分の事気味悪かったし…」
「龍馬…」
「でも、俺…どんな理由であれ、この世界に来れて良かったか なって思うんです」
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