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逃げた魚が愛した夫 後編
しおりを挟む「またすぐ君が欲しくなる。こんなふうになるなんて思わなかったよ」
たびたび歯止めが効かなくなる自分を恥じながら、マクエルはぐったりとベッドに沈むアスティに口付けを落とす。
「……マックなら……いいの……私の旦那様だもの……」
もう指一本動かせない風情なのに、そんなふうに健気に振る舞うアスティに、マクエルは奥歯を噛み締めた。
「アスティ……やめてくれよ……今日はなんとか堪えられたんだから……」
視線を逸らして顔を赤くしたマクエルに、アスティは小さく笑いを零した。
ベッドから立ち上がったマクエルは、水差しを手に取ると水を注ぎ入れアスティに差し出した。アスティが身体を起こすのを支えながら、水を飲むその姿に瞳を細める。
「眠る前にお姫様の様子を見てくるよ。孤児院でずいぶんはしゃいでいたから」
「ふふふ、きっとぐっすり眠っているわ。すごく楽しそうだったから」
「孤児院の子ども達に僕の奥様は大人気だから、お姫様も歓迎してもらえた」
「私が受け入れてもらえたのは、私の旦那様が何年も誠実に管理をしていたからだわ。そんなあなたの娘だからリリアナにもたくさんの友達ができたの。全部あなたのおか、げよ……」
トロトロと瞳を閉じながら、最後はため息のように囁いてアスティは眠りに落ちた。小さく笑みを浮かべたような寝顔に、マクエルは幸福感に胸が詰まるのを感じた。
結婚から七年。変わらず慎ましく優しい妻に、愛しさはただただ降り積もるばかりだった。
「愛しているよ、アスティ……」
起こさないよう静かに口付けて、眠るアスティに寝具を引き寄せる。マクエルはそっと立ち上がると、リリアナの部屋へと歩き出した。
すやすやと安らかな寝息を立てる一人娘のリリアナは、お気に入りのくまのぬいぐるみを抱きしめ、ぐっすりと眠っていた。
「僕のかわいいお姫様、今日は楽しかったね」
そっとリリアナのキスを落とす。くすぐったそうに身を捩ったリリアナが、くまを抱き寄せると安心したようにまた規則正しく寝息を立てた。愛らしい寝顔に目頭が熱くなった。
マクエルは万が一のために切実に、トロウェル家の血を引く子どもを望んでいた。それがどれだけ愚かしい考えだったか、リリアナを見るたび思い知らされる。
自分によく似ていると言われるたびに誇らしく、嬉しそうに駆け寄ってくる笑顔に胸が詰まる。諦観で求めていた子どもは、生まれた瞬間からマクエルの生きる意味になった。リリアナの成長を見守り、手助けしてやりたい。愛する妻と一緒に。
「……おやすみ、リリ。いい夢を……」
もう一度キスをして、マクエルは部屋を出た。扉を閉めた瞬間せり上がってきた嘔吐感に、マクエルは激しく咳き込んだ。震えながら落とした視線が血まみれの手のひらを捉える。
「ああ……」
天を仰いで静かに目を閉じる。
いつ終わっても悔いはないと思っていた頃の自分は、もう思い出せない。どうしてそんなふうに思えていたのか。流れていく日常は温かで、愛しい妻と娘のいる日々は幸せで。決めていたはずの覚悟は、今はもうどこにも見当たらない。
ぐほぐほと嫌な咳は立て続けに出て、止まらなくなった。吐き出されるばかりの息に肺がちぎれるように痛み出す。
がくがくと力の入らなくなった痙攣する足を動かして、マクエルは壁伝いに必死に歩く。
倒れた自分をリリアナが発見することだけは、どうしても避けたかった。
(アスティ……)
懸命にリリアナの部屋から遠ざかりながら、かすみ始めた意識の奥でマクエルは愛しい妻の名を呼んだ。
※※※※※
ふわりと広がるフレアのスカートを摘み、ぎこちなく折り曲げた身体を勢いよく上げたリリアナは、キラキラと輝く瞳をマクエルに向けた。
マクエルは思わず笑みをこぼしながら、優しく細めた瞳でリリアナを見つめるアスティと微笑みを交わした。
「さすがお父様のお姫様だね。とても可愛らしいカーテンシーだ」
とても愛らしいが優雅さはまだ足りない。それでもリリアナは得意満面の笑みでマクエルのベッドに飛びついた。
「そうでしょう? シーバンス夫人にも褒められたのよ! お母様のような立派な淑女になるから、お父様は早く元気になって! デビュタントのダンスの練習をしないと!」
「デビュタントはまだまだ先だろう?」
「だってお母様が言ってたわ! お父様はあんまりダンスが得意じゃないって。だからたくさん練習しなきゃ! だから……」
コンコンと控えめな叩音が響いて、リリアナは悲しそうに口を閉じた。
あの夜マクエルは倒れてから、ベッドから出られなくなった。授業の合間にリリアナはマクエルの部屋に来て、授業の進捗を話して聞かせる。その傍には常にアスティが寄り添っていた。
離れ難い様子のリリアナを抱き寄せ、マクエルは額にキスをする。
「次は歴史の授業だったね。終わったらまたお父様に会いにきて、どんな内容だったか教えてくれるかい?」
「……うん! リリが教えてあげるね」
「楽しみにしているよ」
リリアナはマクエルとアスティを振り返りながら、迎えにきた侍女と一緒に部屋を出ていく。
リリアナがいなくなり、静かになってしまった部屋。ふと目に止まった花瓶の花に、思わず笑みがこぼれた。
「今日はガーベラだね」
「ええ、花言葉は覚えている?」
「もちろん。希望・前進だ。リリアナが生まれた日に君に贈った花だからね」
「ふふふ。リリにはまだデビュタントは早そうだわ。さっきのカーテンシーは元気が良すぎたもの」
「ああ、まだもう少し僕たちだけのお姫様でいてくれそうだ。でもとても可愛かったね」
二人になった室内でリリアナの成長を喜び合いながら、アスティとマクエルは静かに言葉と笑みを交わし合う。
マクエルが倒れてから、アスティは献身的に支えてくれていた。
一緒に見た風景、読んだ本、贈りあった花。共に過ごしてきた年月をゆっくりと振り返るような時間は、穏やかで幸福に満ちている。残された時間を惜しむように流れていく静かな時間。
不意にマクエルが咳き込んで、胸の痛みにくの字に身体を折り曲げた。立ち上がったアスティが、マクエルの背を祈るように撫でる。
ゴホッと一際強く咳き込んだ途端に、寝具に血が吐き出された。顔色をなくしたアスティが、ベッド脇の紐を強く引き緊急を知らせる。
「……ねぇ、アスティ。僕は君を幸せにできたかな?」
「何を……! マック……今は話さないで!!」
「アスティ、僕はいい夫でいい父であれただろうか?」
激しく咳き込む合間にマクエルは必死に言葉を紡いだ。
妻と娘が笑みを浮かべる日常は、ただ幸せでただ愛しくて。なんの努力もする間もなくあっという間に過ぎてしまった。
幸せにしようとした妻に幸せにしてもらい、命尽きる前の義務だった娘が、生きる気力を与えてくれる日々。マクエルはとても幸福だった歳月。
「アスティ、君に結婚したことを後悔させない夫であれただろうか?」
「マック……マック……あなた以上の夫も父親もどこにもいない。一度だって後悔したことなんてない。誰よりも幸せよ……だからお願い……!」
「良かった、愛してるよ。アスティ」
祈るようにマクエルの手を握り、アスティが涙をこぼす。マクエルは少しだけ笑みを浮かべて、寝具を震える手で押しやった。
察したアスティが急いで血のついた掛け具を剥ぐと、医師と侍女に連れられたリリアナが室内に飛び込んできた。
マクエルは容態を見ようとする医師の手を押しやって、リリアナに震える手を伸ばした。
「お父様……!」
真っ青になってマクエルに駆け寄ったリリアナを、力の入らない腕で抱きしめる。
「リリ。僕の宝物。お母様を頼んだよ」
「やだ! お父様! やだ! デビュタントではリリと踊ってくれるんでしょ? やだぁ……!」
ごめんね。リリ。泣き出したリリアナを慰めたくても、もう声は出なかった。アスティがリリアナを抱きしめ、マクエルの手をしっかりと握る。握り合った手にアスティの涙がポタポタと落ちた。
(泣かないで、アスティ……)
痛みを乗り越え、しなやかな強さを身につけたアスティを愛していた。尊敬していた。マクエルを選んでくれた。幸せにしてくれた。リリアナに出会わせてくれた。
マクエルの限られていた時間を、ただただ愛おしく幸福に満ちた日々にしてくれたアスティ。
できることならもう少し生きていたかった。それでも残していく申し訳なさはあっても、後悔は何一つない。幸せだったと言ってくれたから。
(どうか、アスティ……幸せに……)
愛しい妻と娘に見守られ、マクエルはゆっくりと瞳を閉じた。
享年三十三歳。堅実に領地を守り誠実で慈悲深い人柄を慕われた、トロウェル家当主のまだ若すぎる死を悼み葬儀には多くの領民が参列した。
一人息子を喪った前当主夫妻の嘆きは大きく、次期トロウェル家当主のリリアナをめぐって溝がゆっくりと深まっていく。
マクエルの切実な最後の願いは、彼を慕う者たちの悲しみの深さから、叶えられるまで長い時間が必要になった。
※※※※※
リクエストありがとうございました。
あちこち移動しての閲覧は大変。タイアップさんは掲載が一年経つし。ということで、リクエストを頂いたのを機に、アルファさんにて特典SSの掲載をし完全版としました。
楽しんでいただけたら幸いです。悲しい気持ちになるお話ですけど……。
そしててもう一つ!タイアップにてイラスト担当してくださった猫倉ありす先生のコミカライズデビュー作が明日から公開になります。Twitterにて告知いたしますので、よろしければチェックしてみてくださいね!
ここまでお付き合いありがとうございました
応援ありがとうございます!
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