三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

番外編 ヴァンダインの紋章

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 コン、コン。
 開けっぴろげの扉にノックして、アイビスは部屋の主に顔を上げさせる。

「俺は先に休ませてもらうから」
「……ん、ああ」
「なんだ、居眠りでもしてたのか。珍しいな」

 一拍遅れた反応を不審に思いアイビスが聞くと、ヘイレンはどっちつかずの反応を返す。まるでまだ夢の中にいるかのような、ぼんやりした瞳だ。

 ますます珍しいものを見た気になって、アイビスはうっかり立ち去るタイミングを逃してしまう。

「こんを詰めすぎなんじゃないか。まあ、人魚と貿易なんて大事業、張り切るなというほうが難しいが」

 アイビスが仲間からひとり離れてこの船にいるのは、その大事業の準備を手伝わされているからだ。
 なぜ自分だけ、と思わないでもないが、人魚の島での滞在が長期休暇バカンスのような展開になってきたことを考えると、何もしないことが苦手なアイビスとしては、こっちのほうが性に合っているかとも思う。

 それに苦手意識の強かったヘイレンのことも、少しずつ扱いを覚えてきた今では、それほど付き合い辛い相手でもない。
 というより、まったく微塵も気を使わなくてもいいから、むしろ楽なくらいだ。


「それにしてもけっこう意外だったな。お前がこんなにちゃんと事務仕事をしているなんて」
 ヘイレンに好かれようとも仲良くしようとも思っていないから、ズケズケと何でも言えてしまう。

「……書類は溜まると気持ち悪いんだ。まあ、全部片付けてもすぐに次が積み重なってるんだけどな」
 妙に素直な返事と、毒気のない苦笑い。やはり今夜のヘイレンは少し気が抜けているよう。


 アイビスはズカズカと部屋に入ると、「これ、もらうぞ」と卓の上に置いてあったブランデーを勝手に注ぎ、書類置きになっていたイスを発掘して勝手に座る。

 ヘイレンはそれをぼーっと見ていたが、結局、手に持っていた羽根ペンをグラスに持ち替えて、アイビスとのサシ飲みに付き合ってくれるらしい。


***

「お前、この後どうするんだ?」
「……うん?」
「って愚問だな。これ以上俺たちと一緒に行動する理由もないし、普通に商会の仕事に戻るんだよな」

 質問しておきながら自分で答えを出して納得しているアイビスに、ヘイレンが返せるのはまた苦笑いだけ。

「ま、俺も妖精に興味なくはねえが……これ以上の寄り道は怒られちまうからな。一度、帰らねえと」
 実のところ、この時ヘイレンが思い浮かべた顔はある特定のひとりだったのだが、アイビスは「お前の部下は大変だな。心底同情するよ」と見当違いの架空の人物に同情している。

 ──アイビスはタイミング悪く、ヘイレンが双子であるという情報がカイトの口から語られた時、その場にいなかったのだ。


 ヘイレンは誤解を親切にも解いたり──はしないで、「ははっ」と笑って流してから、「どっちにしてもしばらくは海から離れられないだろうな」と疲れた声を出した。

 人魚との交易はこれからが勝負だ。
 人魚側は全面的に人間を信用したわけではなく、あくまでユエやメイという同族が信頼していることや、カイト一行の業績によって、ヘイレンもついでにお目通りが叶っただけなのだから。

 人魚の島へ出入りが許されているのは、カイト一行というくくりで、まだヘイレンと側近の二人だけだし、必ず監視が付く。
 そのため交渉するにも部下に任せることはできないから、頭領自ら動くしかない。

 そして人間側にもこれから、人魚との付き合い方を教育していかねばならない。
 商会の人員から人魚と上手くやっていける人物を見極め、誰に何を任せ、どういうルールを作るか──やることが多すぎて、いくらヘイレンといえどもため息が止められない。


「大変だな」
 アイビスのねぎらいは完全に他人事だ。

「……こういう時に、もっと早く身軽になっておけばよかったと後悔するぜ」
「うん?どういう意味だ?」
「ここいらでぼちぼち、商会を解体しようかと思ってんのさ」
「解体……って」

 思いがけない言葉にアイビスは驚く。
 それと、こんな重要な話を自分のような部外者が聞いていいものかとうろたえたが、そうか、部外者だからか、と思い直す。

 自分にも時々、ヘイレンに話を聞いてもらいたい時がある。仲間だからこそ話しにくいこと、適度な距離感の相手になら話せること。


「商会はでかくなりすぎた。ここまでくると、もう末端まで俺たちの目が届かない。手足が腐っても気づかないような愚鈍になる前に、いらねえところは切り離して、独立できるやつは手離していかねえと」

「つまりは、分社?」
「まあ、そうだな。できればギルドなんかは完全に独立させてえが……んで、海の治安維持を人魚が担ってくれりゃあ、かなり楽になる」

 そこまでの広い展望を持っていたことに、アイビスははっきり言ってヘイレンを見直した。

「へぇー、そんなことまで考えてたのか。でもいいのか?人魚に海の治安維持を任せるってことは、海の支配権が完全に人魚に移るってことだろ。船に本部を置く商会としては、やりにくいことになるんじゃないか?」

「いいんだよ、それで。そもそも人間が海を管理しようだなんてどだい無理な話だったのさ。人間にとっちゃ海なんてしょせん、船の通り道だったり、魚を捕るための漁場だったり──ちょっと来て帰るだけの場所だ。だから平気で汚せる。それに比べて、人魚にとって海は自分の家だ。俺たちとは思い入れが違う」


 ヘイレンは西の海の現状を例に挙げて語る。
 人間の手に落ちた西の海は、すでに目に見えるほど荒れてきていた。汚水が垂れ流され、浜にはゴミが流れ着き、魚は数を減らし、その上味も落ちている。

「ああなるくらいなら、人魚に厳しく管理してもらって人間は不自由なくらいがマシだ」
「だがそうしてもらうには、人魚にもっと表舞台に出てもらわなければならないし、力を持ってもらわなければならない、よな」

 なかなか遠い道のりだ、とアイビスにもヘイレンのため息がうつった。


「あーあ、どっかに人魚と上手くやれて、人をまとめる能力があって、金勘定ができて、ついでに金に取り憑かれたりしない、いい人材がいねーかなー」
 わざとらしいヘイレンの嘆きだったが、「大変だな」アイビスはまったく察しない。

 今はまだ時期ではないと判断したのか、ヘイレンはそれ以上の勧誘はやめて、雑談に戻る。

「ギルドのほうはまだ任せといても大丈夫なんだがなー。商会はなー。まず監視体制を整えねえと始まらねえかなー。巨額の金を扱うとなると、誰にでも魔がさすってことがあるだろうしなー」

「……なんだか、引退するような言い草だな」
 アイビスの懸念はもっともで、これでは商会の経営を誰かに完全に引き継ぐことを前提としているようにしか思えない。


 しかしそれに対するヘイレンの返答はなく、腑抜けた声でこんなことを言い出した。


「例えばよー」「……は?」
「例えば、人生最大の幸福と人生最低の不幸とだったら、どっちがそいつの人生により影響を与えると思う?」

 話の繋がりがまったく見えなくて、アイビスはもう一度「は?」と聞き返した。

「もうちょい狭い範囲で考えるなら、今日一日でもいい。今日一日ですっげえいいことと、すっげえ悪いことがあったとする。一日の終わりに思い出すのは、どっちだと思う?」

「……なにが言いたいのかまったくわからない」
 からかわれているのかと思ったアイビスは真面目に考えるのをやめてそっぽを向いたが、ヘイレンはちっとも気にせずにグラスを傾ける。


「俺は絶対的に、『悪』のほうだと思うんだよな。ウキウキ気分はちょっとした嫌なことで吹き飛ぶが、その反対はねえんだよ。正義と悪の対決なら悪が勝つし、白と黒が混ざれば黒になる──ずっと、そう思ってきたんだがな」

 酒を口に運ぶヘイレンは、老成を通り越して一周し、反対に幼くなったように見える。
 相変わらず本音がわかりにくい男だと、アイビスはもはや達観した気持ちで「はいはい」と適当に相づちをうったら、なにやら不穏な言葉が聞こえてくる。

「……カイトはよく闇堕ちしなかったよな」
「はあ?」
「裏切られたことのほうが多いだろうに、カイトの記憶には『いいやつ』ばかり残ってた」

 アイビスの脳裏にはすぐに、五人の名前が浮かんでくる。
 アスクレア・ガレノス。ヴェルドットのローランド王とローサ姫。人魚のユラン姫。そしてアディーン大司教。

 ガレノス以外は歴史上の偉人と言ってもいい大物たちで、世に知られている偉大な功績だけでも賞賛に値するというのに、その上さらに知られていない偉業──カイトを助けたという偉業──があったというのだからすごい。
 そのカイトに助けられた今の仲間たちからすれば、恩人の恩人のようなもので、アイビスはいっそうの敬意を持った。


 しかしヘイレンの口調はというと、彼らを賞賛しているというよりむしろ不満げに聞こえて、アイビスは鼻白む。

「なんだ、なんでそんなに不満げなんだ」
「べつに不満なわけじゃねえさ。どっちかっつーと……不本意なんだ」
「不本意?」
「なんだか知らんうちに宗旨替しゅうしがえさせられたみたいで」


 そこで先ほどの正義と悪の話に繋がった。

「自慢じゃないが、今現在、世界を一番よく知るのは俺だろうよ。表も裏も、だ。さらに言えば『過去も』だな。んで、知れば知るほど幻滅するんだよ。──世の悪人の多さに、な」

 アイビスは特に反論もないから無言で先を促す。

「世間でいくら善人と評判でも、裏では悪どいことばかりやってるし、過去の英雄は本性を知れば大悪党に早変わり。じゃあ反対に悪人と評判の人間が実はいいやつ──なんてことはまずなくて、悪人はやっぱり悪人なんだよな。んで、俺は悟ってたわけよ。『世の中こんなもんだ』ってな」

「カイトの話でそれが覆されたってわけか」
「覆されたっつーか、なんつーか……確かに悪人は腐るほどいるだろうが、どっかに善人もいるっていう、まあ、当たり前のことを思い出したっつーか」


 なんだか臭いセリフになってきたことに、なぜかヘイレン本人ではなくアイビスが恥ずかしくなって、相づちをうつのも忘れてしまう。

「世の中捨てたもんじゃねえ──なんて気分になっちまうどころか、なんかいいことしなれりゃいけない気がするような、俺も実は案外いい人間なのかもしれないなんて錯覚が……!!」
「──っおい、完全に途中からふざけたな!」

 臭いセリフに照れたアイビスのことをわかっていて、ヘイレンはわざと大げさな物言いをして、最後は笑い話にしてしまった。


 無駄な時間だったと、アイビスは残っていたブランデーをあおって立ち上がる。
 それを通常運転のにやにや笑いが戻ったヘイレンが、「まあ、最後にひとつ聞いていけよ」と引き止めた。

「もうこれ以上一秒たりとも無駄な時間を過ごしたくないっ!」
「まあ、まあ。──実はよ、俺、ひとつだけカイトも知らない秘密を握ってるんだよな」
「なんだ、そのわざとらしいもったいぶり」
「特別に、お前だけに教えてやろう」
「いい!いらん!絶対に言うなっ!!」

 耳を塞いで逃げようとしたアイビスを、「──ローサ姫の日記」そのセリフがとどめる。

「ドワーフの騒動の折にヴェルドットのシンシア王女に見せられて、俺はそれを読んだ。──読んじまったんだよな」

 いかにも後悔しているという言い方が、もしかしたら本当にヘイレンひとりでは抱えきれないような秘密なのではないか、とアイビスはつい気を引かれてしまう。
 そして──ヘイレン同様、聞いたことを後悔することになるのだ。


「日記に書いてあったのは、ローサ姫の隠しきれない恋心──本当はカイトに惚れてたっつぅ真実だ」

「え、でも、カイトはそんなこと……力いっぱい否定してた、だろ?そんな関係じゃなかったって……」
「そうさ、日記にも恋人だったとは書かれていない。それどころか……気持ちを伝えることなく別れたと明言してあった。カイトのあの反応からすれば、それは本当なんだろう」


 ヘイレンは初めて見るなんとも言えない表情をしている。たぶん自分も同じ顔をしているんだろうと、アイビスは思う。

 王女という立場からか、別れを前提とした関係だったからか──秘めた恋心を隠し続けたローサ姫。それもカイトに察せられることさえないよう、深く深く心を抑えていたのだ。

「健気、だよな」
 アイビスと同じ感想がヘイレンの口から出る。

「健気すぎて、たまんねえよ。そんでさらにたまんねえのは、カイト本人さえ知らされていないその本心を、俺なんかがぽろっと知っちまったことだ」


 確かにこれはひとりで抱えるには辛い秘密だと、アイビスも納得する。
 シンシア王女などはこの物語を、もう亡くなった人たちの過去のものとして楽しめるだろうが、カイトのことを知っている二人としてはまだ生々しい現実だ。

 しかも、知ったところで何もできないことがさらに辛い。

 今さらカイトに伝えたところで誰も幸せにはならないし、そもそもローサ姫はカイトに伝えることを望んではいなかったはず。
 知ってもどうしようもないことなら、初めから知らなければよかったと、アイビスはやはり聞いたことを後悔した。


「もともとそのローサ姫の日記は、誰かに読まれるために書かれたんじゃなくて、ホントに個人的なもんだった。だからローサ姫はずっと自分で持っていたし、死後には一緒に埋葬してくれって頼んでもいたらしい。なのにそれは守られなかった。ヴェルドットの建国の過程を記録した大事な資料と見なされて、王族専用の図書館に置かれるようになって、んで、シンシア王女がそれを読んで、俺がそれを見せられて──」

「俺も知ってしまった、と。……はあ、勘弁してくれよ」
 頭を抱えたアイビスは、この秘密をカイトに一生隠して生きていかなければならないのかと、重い鎖を繋がれた気分だった。


「悪いな、共犯になってもらったぜ。これを俺ひとりの心に秘めておくのは、どう考えてももったいないからな。どうせならお前の方が、秘密の守り人にはふさわしいだろ?」

 意味ありげにウインクを飛ばすヘイレンは、アイビスに重い荷を半分押しつけたことで肩が軽くなって晴れやかになれたようで、アイビスに残されたせめてもの抵抗といえば、高級ブランデーを瓶ごと横取りしてやるくらいだった。



******




 ひとりに戻ったヘイレンは、またうたた寝しておかしな夢を見ないように、本日の業務をこれで終わりにしてちゃんとした睡眠を取ることにする。


 アイビスがヘイレンに気を使わなくていいから楽だと感じているように、ヘイレンもアイビスを気楽な話し相手に選んでいる。

 仕事はできるのに妙に鈍感で、ごく常識的な感覚といかにも育ちがいい上品さがあるアイビスは、自分がいかに異端で非常識なのかということをヘイレンに思い出させてくれるのだ。



 あれだけ長々と語りながら、ヘイレンはアイビスにもその心の内をすべて見せたりはしない。──と、いうよりも、ヘイレン自身にさえ自分の本心などわからないことが多い。

 正義と悪の話もいかにもいい話風に語ってはみたが、わざと言葉にしなかった主張もあれば、まだ言葉にならない感情もあった。


『わざと』を少し説明すれば、アイビスに語った主張の前提となる、善人と悪人の定義がそもそもどうなのだということに、ヘイレンはわざと触れなかった。

 人を簡単に善人と悪人に分けることなどできるだろうか。人の中には善と悪どちらもが必ず同居していて、常にせめぎあっているものだろう。そして選択のたびにどちらを勝たせるかで、善人に見えるか悪人に見えるかが決まる。

 いや、そもそも善と悪の基準だって曖昧だ。
 例えばジャン・ノーだって誰の目から見ても真の悪人に見えるが、やつが殺した男に虐げられていた女がいたとすれば、女にとって男を殺してくれたジャン・ノーは正義なのかもしれない。

 そう、人という小さな枠組みの中では悪に当たることも、もっと大きな──自然や世界から見れば善なのかもしれない。


 ──と、そのようなことをつらつらと、ヘイレンはアイビスと話しながら頭の隅で考えていた。


 うたた寝中に見た夢には二人の対照的な人物が出てきた。
 その影響でこのような思考になったと思うと、自分の中でその二人がそれぞれ善と悪の象徴になっているのかもしれないと、ヘイレンは寝る準備を整えながら考える。

 善の象徴とは、アディーン大司教。
 対して、悪の象徴は──父親だ。


 どちらも故人であり、アディーン大司教はつい先日、父親──本物の『ヴァンダイン』氏は二十年以上前にこの世を去っている。

 ヘイレンにとって意外なのは、アディーン大司教が父親のついになっていること。それはつまり、ある意味父親と同じくらい、アディーン大司教から受けた影響が大きくなっているということだ。


***


 ヘイレンの人生はそのほとんどを、父親に対する復讐に費やしてきたようなものだった。

『ヴァンダイン』という名と商会を奪う命も奪ってやった。
 あの男が築いたものを踏みにじるより大きくする道を選んだのは、誰にも支配されないためには自分たちが支配する側に回らなければならないと知ったからだ。そのためには金と権力が必要だった。

 だから別に世のため人のためになどという信念はなかったし、それなりに後ろ暗い取引も必要ならしてきた。組織を維持するには清濁せいだくあわせ呑むことがむしろ不可欠だとさえ思っていた。

 そんなヘイレンでも、絶対に足を踏み入れるものかという一線があった。
 それが父親だ。
 決してあの男のようにはならない、あの男がしたようなことはしない──その基準を守り続けてきた。

 ヘイレンにそこまで嫌悪されるヴァンダインは、例えばジャン・ノーのように後世まで恐れられるような大悪党──だったわけではなく、小悪党がせいぜいの器の小さな男だった。

 品性のかけらもなく、金に汚く、権力には媚を売り、しかし弱い者にはとたん強気に出るような、そんな小物。

 悪に対する美学があったり、何か信念があったりしたのなら、結果が良いか悪いかは置いておいて、悪党でも世界を動かすきっかけになることもあるが、あの男は悪党の責任からも逃げるようなどうしようもない人間だった。


 とかくヴァンダインの所業の中でもっとも醜悪だったのは、そんなどうしようもない人間のをまき散らしたことだ。
 だからヘイレン兄弟には、異母兄弟が数え切れないほどいる。探し出せただけで二十人を超えているのだから、実際にはもっと多いのだろうし、それ以上に弄ばれた女性の数は多いはずだ。

 そしてそれだけの子どもを産ませておきながら、一度も責任を取らなかったのだから、その逃げっぷりがよくわかるだろう。


 ヘイレン兄弟の母は元貴族の娼婦だった。時々ある話で、没落貴族が借金のかたに娘を取られたのだ。
 世間知らずで、なんでもいいから地獄から抜け出したいと願っていた娘は、自分の子どもを孕んだなら身請けしてやろうという甘言を信じた。そして弄ばれたと気付いた時にはもう、産むしかないところまできていた。

 不幸中の幸いだったのは、騙した男への怨みを糧に母が強くなったことだった。

 生まれた子どもはその怨みを反映したように、白髪・金眼という珍しい風体の、それも双子であった。周囲に気味悪がられても母親だけは、憎い男の血を引く子どもを愛してくれた。

 そして子どもたちが立派に育つことこそが男への復讐だと、あらん限りの教養を二人に身につけさせてくれた。


 そんな母も兄弟が十歳を迎える前に亡くなった。
 母の後に兄弟の面倒を引き受けてくれたのは、二十も年の離れた異母兄弟のひとりだ。

 その異母兄は復讐の機会を狙って父親へ近づくかたわら、自分と同じ境遇の子どもたちを陰ながら支援していたらしい。

『簡単に殺しちまうのはもったいない』
『そう、もっとじわじわ苦しめないと』

 異母兄の復讐の話を聞いてヘイレン兄弟が発した言葉は、すでに子どもとは思えないもので、その時からヘイレンはヘイレンとして完成されていた。

 それから復讐の舵取りはヘイレン兄弟の手に渡り、見事に父親のすべてを乗っ取ることに成功したのだった。


 現在のヴァンダイン商会は、表向きは『ヴァンダイン氏』という影武者が代表を務め、裏ではヘイレン兄弟が実権を握っている。──と、カイトやベレン卿すらも思っているが、実際にはそれは正確ではない。


 ヘイレン兄弟が蛇の双頭ならば、頭をつなぐ胴体部分は多くの異母兄弟たち。


 一部は共に復讐を成し遂げ、商会の乗っ取りから協力してきた者で、人魚の島に同行したヘイレンの部下というのも実は異母兄のひとりなのだ。

 他にも、異母兄弟だと知らずに商会で働いている者もいる。
 ヴァンダインが無責任に作った子どもたちが、自分と同じように苦労しているのを放っておけないからと、ヘイレン兄弟を保護した二十年上の異母兄が、名乗らずこっそり職を斡旋あっせんした結果だ。


 不思議なことに異母兄弟たちは、その誰もが母親似だった。
 だから商会内に何人もの兄弟がいようとも、誰もその血のつながりを指摘することはない。

 しかし、顔は似ていなくても似てしまった資質はある。
 子どもを作ること、血を残すことに消極的な点だ。

 決して示し合わせたわけではないが、これも父親に対する復讐の一環なのかもしれない。
 あの男の血を自分たちの代で絶やしてやろうという、自分たちでも無意味だとわかっている復讐。


 そうか、とヘイレンはひとつ腑に落ちたことがあった。

 自分がカイトに惹かれたのは、不老やら歴史の証人やらという理由ではなく、彼が子どもを作れないという一点のみだったのかもしれない、と。

 人の進化系とも思える完璧な存在なのに、子孫を残すという大多数ができることが、できない。
 純血もそうだが、一代限りのその潔さが、ヘイレンには羨ましく思える。


 そしてここまで考えて、もうひとつ『そうか』を見つける。


 これまでヘイレンが商会の後継問題を考えたことがなかったのは、血縁を残したくないと思ったのと同じ理由だったのかもしれない。
 つまり、ヴァンダインの血だけでなく、名も、自分たちで終わらせようと。


 しかし今になってヘイレンは、その主義を変えようとしている。
 ヘイレンを変えた人物こそが、アディーン大司教だ。


 アディーン大司教と教会は、一点の後ろ暗さもない奇跡のような存在だった。
 人の善意だけで成り立った組織など、ヘイレンからすれば気持ちが悪いくらいなのだが、いくらケチをつけようともつけようがないのだからしょうがない。

 アディーン大司教は教会設立においても、運営においても見事な手腕であったが、なによりもその引き際が素晴らしかった。
 自分の引退後を早くから考え、後継者を育て、そして死後のことまですべて整えて──それなのに最期に小さなわがままを通して、綺麗すぎない幕引きだったことが、よけいにヘイレンの心に残ったのかもしれない。


 アディーン大司教の生き様を前にすると、あれほど自分たちを縛ってきた父親の存在などどうでもいいと思えるほど。
 それはつまり、父親に象徴される悪が、アディーン大司教が象徴する善に負けたということで、ヘイレンの中でそれは実に画期的なことだった。


***



「ま、それでも、俺が善人になったっつぅ意味ではないがな」
 ひとりごとを言って、ヘイレンは寝台に横になった。


 アディーン大司教が最期に通した小さなわがまま『カイトに見送られたい』は、『愛した人に見送られたい』と同義であることに、ヘイレンは気づいていた。

 それをカイトに告げたかどうかはヘイレンには判然としないが、叶わなかった恋であることは確かだ。


 ローサ姫とアディーン大司教──ふたつの叶わなかった恋。


 アイビスにしてみれば唐突に思えるローサ姫の話題も、ヘイレンの中ではこうしてつながっていた。


 ローサ姫の恋心をアイビスにバラしたのは、こんな綺麗なものを自分の中に秘めておくのがむずがゆかったというのが第一の理由だが、第二にもっと単純に、そのほうが面白くなりそうだと思ったからだ。

 アイビスは間違いなく、ローサ姫に親近感を覚えたはず。
 これで、特に共通項のなかった二人に小さなつながりが芽生えた。

 それが今後、アイビスにどういう影響を与えるかはヘイレンにも予知できないが、何もなかったところに何かが生まれたことがとにかく重要なのだ。

 そうやってヘイレンは、言葉のタネをまいて楽しんでいる。

 いつかそのタネが綺麗な花を咲かせるのか、それとも毒草になるのか、はたまた枯れてしまうのか、それもわからないが、自分がそのタネに水をやるのか、肥料をやるのか、それとも引っこ抜いてしまうのか、それさえヘイレン自身にもわからない。


 善人になるつもりなど微塵もない。
 混乱上等。
 混沌こそがヘイレンを楽しませる。


 だからヘイレンの心の中も、善と悪、白と黒のようにはっきりしなくても構わない。
 混沌のまま、ヘイレンは眠りについた。


 夢は見なかった。
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