三鍵の奏者

春澄蒼

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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る

104 大山脈を越えて

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 自分で自分の肩を揉むような仕草をしたカイトに、ユエが心配な目を向ける。それにちらっと笑みを作って、もう少し楽観的にいこう、と意識的に肩の力を抜く。

「……だがこれで、敵を崩す算段はつけやすくなった」

 アイビスたちからの情報とガレノス医師からの情報を掛け合わせて、カイトの中にはひとつの道筋が見えてきた。

「現法王が中心人物でないなら、交渉もできる」
「交渉?」
「こちらで対処するから、そっちは手出ししないでくれ──ってな。対・聖会という全面戦争ではなく、対・聖会の中の反乱分子の一部、という構図にしてしまえばいい」
「反乱分子……だが、聖会の本部がまったく関わっていないという保証はないぞ」
「実際に関わっているか、いないかは、この際関係ない」


 そっけないほどのカイトの物言いに、ガレノス二人は顔を見合わせる。

「どういう意味です?」
「たとえば現法王が、『再生の水』の恩恵を受けていたり、そこまでいかなくとも黙認していたとしても、『関わっていない』と証言することが身のためだと思わせれば、それでいい」


 黒幕たちは臓器売買のために、他国の人間の命を奪っている。
 ベレン領を有する国をはじめとする被害者が出た国々、ヴァンダイン商会、そして世間を敵に回すよりも、軍を切り捨てるほうが得策だということは、客観的に見ても明らかだ。

 特にアイビスたちが感じ取ったように、現体制と聖軍の関係が上手くいっていないなら、むしろこれは好機。外野が軍の勢力を勝手に削いでくれるのだから。


「そんなに簡単にいくか……?」
 内側をよく知る医師が懐疑的に首をひねるが、カイトは太鼓判を押す。

「聖会にとって一番避けたいのは、教会の介入を許すことだ。八十年前にもう、一度は失敗しているからな。二度目の信頼失墜は、致命的だ。自浄作用はないと判断されて、外部からの手が入ることになる。それならば、教会よりはベレン卿たちに介入されるほうがマシなのさ。信仰心は剣では奪えない。信心を変えることができるのは、また、信仰心だけなのだから」


「……なんだか意外だな」
 ガレノス医師は深々とイスに座りなおして、拍子抜けといった顔になる。
「『カイト』なら、もっと積極的に聖会をツブそうとするのかと」


「俺に──俺たちにとって重要なのは、聖会を壊滅することじゃない。犯行をやめさせることと、占拠されている妖精の谷を解放することだ。特に、後者が叶うのなら、犯人は誰であっても構わないくらいだ」

 誰でもいい、はさすがに言い過ぎたと思ったカイトは、冗談めかして「長く生きてると、悪知恵が働くようになるのさ」と嗤う。

 ガレノス先生はその本音をむしろ好意的に受け取ったようだ。
「いや、正義漢ヅラされるよりはいい。それに聖会そのものをどうこうする気はないなら、おれももうちょい協力してやってもいいぞ」


 情報提供以上の協力の申し出をありがたく受けて、さあ、これからどうする?と三人の視線がカイトに集中する。

 カイトは頬杖をついた気の抜けた格好で、「なんにしても、言い逃れができない証拠が必要だが……」

「証拠はメーディセインにあるでしょう?」
「乗り込む前にほしい。一番最適な道筋シナリオは、証拠を突きつけて法王をけん制、メーディセインに乗り込むのはベレン卿の兵を中心とすることを認めさせ、解放後の妖精の谷の管理を聖会には任せないように持っていくことだ」
「難しそう……」
「交渉はベレン卿のところの文官にでも任せればいいが……証拠……証拠、か」


 ガレノス医師の助言アドバイスをあおぎながら、カイトは何通りかの方策を考えた。

 そしてそれを携えて、四人は翌日、仲間たちと合流すべく出発した。どの策をとるにしても、人員が必要になる。アイビスやベレン卿配下の兵士たちと相談して、証拠を集める腹づもりだった。


 元聖軍の軍医であるガレノス医師がついてきてくれたことで、旅の安全は格段に上がった。
 検問は無条件顔パスとはいかなくとも深く突っ込まれることは減り、道に迷うこともなくなり、安全な宿の見極めも完璧だ。


 ちょっとそこまで、という気軽さで家を空けた医師は、どこで考えを変えたのか、それとも最初からそのつもりだったのか、「妖精の国か、せっかくだしおれも見にいくかな」と言い出した。

「古巣と敵対することになってもいいのか?」
 カイトの最終確認にも、「敵対?むしろこれは、聖会の崩壊を防ぐことになるんじゃねぇか」と不敵に笑って。


******


 事前に手紙を出し、落ち合う場所を決めておいて、聖会の西隣の国で仲間たちと再会は果たされた。

 しかし頭数が足りない。
 そこにいたのはアイビスとラーク、そしてベレン卿の配下だけ。

 他はどうした、とカイトが訊くと、アイビスは疲れた顔を隠さず、「山だ」と答える。

「山って、大山脈か?」
「そう。あっちのほうが居心地がよくなって、居座っている」
「……もしかして、地下通路を見つけたのか?」
「途中までは、な」


 詳しい事情を聞き出したところ、こういう経緯だったらしい。

 アスカを筆頭とした、フェザント、ヘロンの地下通路捜索班は、ベレン卿配下の潜入部隊に仲介してもらって、大山脈の鉱山に潜入した。

 そこはほとんど廃坑寸前の古い銀山で、取り仕切っているのも熟練ベテラン専門家プロたち。
 彼らは集団を形成し、鉱山を渡り歩いてきた本物の専門家で、この銀山も鉱山主から全面的に任されているため、他の鉱山とは違い、政治的なゴタゴタには我関せずだった。

 そのため、聖会に仇なすことになろうとも、仕事の分だけ賃金をもらえるならば協力にやぶさかではない、と。


 こっそり鍵を使ってドワーフの姿に戻ったアスカは、水を得た魚ならぬ、地下に潜ったドワーフとしてイキイキと坑道を踏破した。
 そして見つけたのだ。
 過去、ドワーフたちが使っていたであろう、古い、古い地下通路を。


 そこまでは予定通りだったのだが、予定外だったのは、アスカたちが鉱夫たちと仲良くなりすぎたことだ。
 そのきっかけは、純血のドワーフ・アスカの助言だった。

「こっちの道はもうすぐ崩れるよ」
「あっちにキラキラしたのがいっぱいあったよ」
「向こうにはこんなのがあったよ」

 地下を知り尽くしたアスカは、廃坑寸前にお宝を見つけてくれた救世主となった。
 さらに、誰にでも馴れ馴れしいヘロンと、子ども二人に振り回されるフェザントも、鉱夫たちとすぐ仲良くなった。


 そしてその話を聞いたクレインとジェイも、町で聖会に見張られる生活に嫌気がさしていたため、山のほうがまだ気楽かもしれないと移動し、居座ってしまったのだ。

 鉱夫たちの集団にはその家族も含まれていて、一団は大家族のような雰囲気だった。鉱夫たちが住む小屋が並んで、山には小さな村もできていて、案外、住み心地がよかったらしい。


 おかげで、アイビスとラークが山と町を行ったり来たりすることになって、冒頭の疲れ顔につながった。


「……お疲れさん」
 カイトに労われて、二人はやっとひと息ついた。

「それで?途中までっていうのはどういう」
「それは言葉の通り。途中で道が崩れていたり、水が溜まって通れなくなったりしていて、結局、メーディセイン?まではたどり着けてない」
「なるほど……」


 次は自分たちの番と、カイトは聞き役を交代する。
 ガレノス二人の紹介は簡単に済ませていたが、果たした役割を詳しく語ったところ、アイビスから「二人の面倒を見てくれて感謝する」と保護者のような謝辞を言われて、思わず笑ってしまう。

 こちらも打ち解けるのは早い。
 特にフローラはユエからよく仲間たちの話を聞いていたし、アイビスとラークはカイトの過去語りでガレノスを身近に感じていたため、互いに初対面とは思えない親近感を持ったようだ。


 さて、とカイトがこれからの話に移ろうとしたところで、「こちらからもいいですか?」と割って入る者があった。
 ベレン卿配下の隊長、エンデだ。

「いい報告と……それから、少し困った報告があります」
「……いい報告から聞こうか」
「それでは──」

 それは、先日カイトとガレノス医師が練った策が無意味に帰する報告だった。──証拠をつかんだ、というのだ。


 エンデたちは聖軍に狙いを定めて、行動を見張った。
 そして聖軍から『ワイン樽』を受け取った商人を捕らえ、その中身がワインではなく『再生の水』であることを確認、その商人(実際は奴隷商人)から証言も引き出したという。


 知らないところで準備が整っていたことに、カイトたちは気勢を削がれた形になる。
 しかしそれは確かに『いい報告』だと気を取り直して、法王との交渉について詰めていこうとしたところ、それも『少し困った報告』によって必要なくなる。


「……来る、のか?」
「はい。もう向かっています」
「……御大、自ら?」
「はい。こと『妖精』のこととなると、子どものようになるお方ですから」
「……ほんっとうに、来るのか?」
「カイトさんが『妖精の谷』の関係者だという情報に、大変興奮されたようです。周囲の制止を振り切って、こちらへといらっしゃるそうです」


「ベレン卿が、来る……」
 アイビスもこの時に初めて聞いたらしく、これは面倒なことになる、という正直な気持ちがダダ漏れている。

 ただし、ベレン卿が来てくれるのなら、交渉は全面的に任せることができる。政治的な駆け引きにおいては、カイトもベレン卿には敵わない。

 これで、ひとまずカイトたちがやることはなくなったといっていい。
 あとはベレン卿が到着するまで待つのみ。


「あ、そうだ」
 ついでのようにアイビスが、もう一人の援軍を教えてくれる。
「ヘイレンもこっちに向かってるらしいぞ」

「……来る、のか」
「『俺が行くまで、乗り込むのは待て』とか手紙に書いてあった。まあ、こっちは、別にいなくてもいいけどな」

 人魚の島まで行動をともにしたヘイレンは、その後、人魚との交易の準備のために海へ残った。
 しかし妖精のことは興味があるから、協力する代わりに、知り得た情報をすべて流せと言い含められたから、アイビスもカイトもギルドを通じて手紙を出していた。

 こちらも頭領自ら参戦する気になった理由は、カイトの故郷が『妖精の谷』かもしれないという、その一点だ。
 妖精に加えて、『カイト』も関わってくるとなると、これは自分の目で見なければ、と居ても立っても居られなくなったのだろう。



「……まるで見世物だな」
 里帰りがとんでもない豪華な観客に囲まれそうで、カイトは一気に気が重くなる。

 待ち時間をどう過ごすか──カイトの決断は『逃げ』だった。


******



 逃げた先は、大山脈の鉱山だ。
 アスカたちと合流し、ベレン卿の到着までここに潜伏することにした。

 さらに増えた客人に、最初はいい顔をしなかった鉱夫たちも、追加料金(出したのはベレン卿だが)を払い、医者が一緒だと知ると、態度は歓迎に変わった。

 ガレノス医師は頼まれなくても勝手に診察を始め、医者になどかかったことのない鉱夫たちは喜んで診察された。


 これまでは教会の司教としての立場も残していたアイビスとラークも、カイトとの合流を機に、町でやるべきことはもうないと判断して、司教服を脱ぐことにした。
 聖会には帰ったと見せかけて、山へと取って返したのだ。


 カイトは直接アスカから地下通路の話を聞くと、しばらく何やら考え込んだ。
 仲間たちのほとんどは、それを邪魔しないよう黙って待つつもりだったが、待ちきれない人物がひとり。

「なー、なー!そんで?カイトは『妖精の谷』を見たんだろ?どうだった?!妖精、いた?!」
 遠慮なく自分の興味を最優先するヘロンに、カイトの思考は中断される。

「妖精は……いたかどうかはわからなかったな」
「じゃあさ、じゃあさ!どんなところだった?!」
「どんな……そうだな、南に湖があって、高台におそらく聖会が建てた建物がいくつかあって、あと、崖の途中にもこう……階段状にせり出した場所がいくつかあって、そこにも建物があったな」

「えぇー!?なんか建物ばっかで、あんまり妖精の国って感じがしねぇ……!」

 残念がるヘロンに代わって、クレインが質問者の立場を奪う。
「そんなんじゃ、聖会がなにしてるかもわからなかったんじゃない?どうやってそこ──メーディセインが『妖精の谷』だって確信持ったの?」

「聖会の連中の会話に出てきたのさ、『再生の水』と『妖精』って単語がな。葉っぱがなにかで指を切ったひとりに、もうひとりが一番大きな建物を指差して『再生の水で治してこいよ』と冗談を言っていた。それとこっちは遠くて全部は聞き取れなかったが、『妖精の羽根が』とか、妖精のなにかが足りないから、足さなくては、とか言ってたな」

 会話の意味まではわからないが、クレインもその二つの単語だけで納得する。

 深読みしすぎたアイビスが「妖精の谷から『再生の水』を運んできただけで、メーディセインはただの中継地点ってことも……」とまで言って「いや、そんな面倒なことはしないか」と自分で否定する。

「ああ、それはないな。中継地点を作るならもっと往き来しやすい場所にするだろう。メーディセインはどう考えても、大勢が作業するのに向いている場所ではない」
 カイトも補強した。


「ねえ、」ふと思いついたラークが誰にともなく尋ねる。「聖会は?聖会はどうやって、メーディセインが妖精の谷だって確信を持ったのかなあ?」

「どうって……」
「メーディセインにはなにか妖精の痕跡が残ってるのかなあ。でも妖精は遺体も残さないんでしょう?」
「遺跡でもあったんじゃね?」
「遺跡……でも妖精は家とか作らなかったって」
「なにそれ、俺、聞いてねぇ!」
「あ、その話の時、ヘロンはいなかったっけ」

 ラークが教会でカイトから聞きかじった話をかいつまんで説明する。最後に「だよね?」とカイトに確認を取ると、カイトは深刻な顔で考え込んでいた。


「カイト……?」
「確かに……俺たちは奴隷商人からの又聞きである、『再生の水』のことを『妖精の国の遺物』と呼んだという情報を元にして、『再生の水』がある場所がすなわち、妖精の国であると判断しているわけだ」

「っ!もしもその前提が間違っていたら……?」
 真っ先に危険に気づいたアイビスが息を飲んだ。

 地図が間違っていれば、たどり着くのは間違った場所だ。

「……少し、先走りすぎていた、か」
 カイトは自嘲気味につぶやいて、方向性を修正する。
「あくまで現段階では、メーディセインは俺の故郷かつ、聖会が妖精の国だと考えている場所である──ってことだな」


「聖会の勘違いって可能性もあるわけだ」
 皮肉な笑いのクレインに、冷静を取り戻したカイトが答える。
「だが、臓器売買の黒幕があそこにいることは確実だろう。それならどの道、やることは変わらない。勘違いかどうかは行ってみればわかる」



******



 しかし翌日になって、カイトはアスカに地下通路の案内を頼んだ。

「ベレン卿が来るまでの暇つぶしだ」と嘯いていても、ただ待つだけでは落ち着かないという焦りが見え隠れする。

 ダメ元だと送り出した仲間たちだったが、行き止まりまで行って帰ってきたカイトは、出発前より元気が戻っていて、何か収穫があったことがうかがえる。


「もう少し先まで行けそうだ」
 カイトは仲間たちの期待の目に応えて、地下通路の印象を語る。
「崩れた道をどうこうはできなさそうだったが、水没した道ならまだ先まで繋がっている感じがした」

「アスカから聞いた感じでは、水が溜まっている程度ではなく、完全に水没していそうなんだろう?行けるかどうか──あ、カイトなら行けるか」

 三種の力を純血並みに発揮できるカイトなら、潜水もお手の物だったとひとりで納得したアイビスだったが、カイトは「いや、ユエに行ってもらおうと思って」と人魚を指名した。

「え、おれ?」
「俺では潜水はできても、水の流れなんかを読めないから、迷う」
「……おれも迷わない自信、ないよ」
「やってみる価値はあるさ。それに、もうひとつ確かめたいこともある」
「確かめたいこと?」

「地下通路は純血のドワーフでなければ辛いほどの深度にある」

「それじゃあ、アスカとカイトにしか無理じゃないか。ユエがいくら純血でも、人魚、なんだから……」
 反論したのはアイビスだったが、途中で自分でも何か理屈がおかしいと気づいて、首をひねっている。

「確かめたいのは、そこだ」
 カイトはアイビスのもやもやを言語化してくれる。
「地下通路は、アスカであっても人間の姿では息ができない。もちろんユエもだな。だが、人魚に戻ったらどうなる?」

「人魚なら……水があれば息ができる?」
「そうだ。海で、同じ深さで平気なんだからな」

 本人を置いてけぼりに、二人だけでわかり合うカイトとアイビス。

「だが水がある場所までたどり着くまでは……ああ、そうか」
「ああ、最初から人魚の姿で行けばいい。樽か……皮袋に水を溜めて、そこに入って」
「なるほど、カイトなら背負って行けるってことか。三人の合わせ技だな」


 まとまったところで、アイビスが任せたぞという顔でユエとアスカを見たが、当事者二人はまだきょとんとして、自分がやることをわかっていなかった。


***


 さらに翌日。
 カイトとユエとアスカの三人で、三度地下通路に挑む。

 カイトの背には水の入った樽。かなり重いはずのそれを軽々と担いで、まずは人間たちが掘った坑道を進む。
 まだここまでは、ユエもアスカも鍵を使っていない。


 坑道から、ドワーフたちが作った地下通路に変わる直前に、二人は鍵を使う。
 ここまで来れば、純血のドワーフに毒となる太陽の光は届かない。ユエはまだ人間のままで進めるが、万が一を考えて早めに人魚になっておく。

「カイト、重くない?」
 水に加えてユエの体重を背負うことになったカイトだが、軽々と立ち上がる。それでも気遣うユエに、カイトは「大丈夫だ」と返して、さらに「お前こそ、狭いところに押し込めて悪いな」と気遣い返す。

 強度を考えて、真鍮で補強した樽の中に大きな皮袋を入れて、その中に水とユエが入ることになった。そのため、狭い、暗い、揺れるといった、とても居心地がいいとは言えない運び方になっている。


「おれも大丈夫」
「息苦しいとか、気持ち悪いとか、体調に異変があったら、早めに言えよ。別に無理をしてまでやらなきゃいけないことじゃないんだからな」
「ん、わかった」


 水が漏れないようにと蓋もしたが、定期的に休憩して蓋を開けてくれたため、ユエにも地下通路の様子が観察できた。
 アスカには必要ないが、カイトの胸元にはネックレスにした『紅光石』が光っていて、かつてドワーフたちが日常的に使っていたであろう堅牢な通路にポツンと灯っている。

 所々にはかつての住居跡もある。ほとんどは見捨てて放置されたような荒々しさはなく、きちんと処理されていて、廃墟という言葉は似合わない。


 前日より倍以上の時間をかけて、三人は目的の行き止まりまでたどり着いた。

 通路を埋める水は闇そのもののように暗く、バットの案内で進んだ水路よりも、ずっと地下にあることが推測された。

 カイトの背中から下ろされた樽の中から、ユエはその闇をじっと見つめる。
「息は大丈夫か?」カイトの心配にこくん、とうなずくと、ユエは手を伸ばして抱き上げてくれと頼む。

 ユエを抱きかかえたカイトは水の淵ギリギリにしゃがむと、鱗の下半身だけを水にそっと浸すように下ろしてくれる。
 人間の姿ならばきっと冷たく感じるであろう地下水は、鱗に染み渡るように馴染んだ。


 ユエはカイトの手を握ったまま、二人から離れてたたずむアスカへ向けて「大丈夫?」と声をかける。水が苦手な純血のドワーフは、絶対に水飛沫がかからない位置まで下がっている。

「大丈夫。でも、これ以上は近くに行けないから」
 人間の姿ならば少しは泳げるようにもなっていたが、元の姿に戻るとその感触もすっかり忘れてしまうものらしい。

 そんなに怖いなら鍵を使って人間になればいいのに、と言いかけたユエは、口に出す前にそれは不可能だと気づく。ここは人間の能力では息ができない、深い深い地下なのだ。


 改めて、鍵を使うことで得るものと失うものがあることを痛感させられる。
 人魚も、ドワーフも、そして人間も、できることとできないことがあって、純血であっても万能ではないのだ。

『万能』──その言葉を思い浮かべて、ユエは顔を見上げた。

 カイトはおそらく、もっともその言葉に近い存在であろう。しかし近くとも、そのものではない。
(だってさすがにカイトでも、空は飛べないもの)
 想像してくすっと笑ってしまったユエに、カイトがどうしたと目を瞬かせる。

「んーん、なんでもない。それじゃあ、予定通り行ってくるね」
「……気をつけろ」
「うん」


 深みへ向かって身を潜らせてから、後ろを振り返る。ぼんやりとした光が見守っていてくれるのを確認し、前を向いた。

 カイトの手によって水の中に入れられた『紅光石』が、ユエの帰る場所を教えてくれている。光源として火よりも優れている点は、こうして水の中に入れても消えないところだ。
 まずはこの光が届く限界までを探って、一度報告に戻る予定になっていた。


 地下通路の続きは、もう一段深くなってから四方八方に広がっている。ユエは分岐で止まり、水の流れを読むために感覚を研ぎ澄ます。

「ん~……?」
 ひとりで首をひねって、いくつもの分岐の中からたったひとつを選んだ。そして、その中へ首だけ突っ込んで様子を探る。
「う~ん……?」

 ひとりでは答えを見つけられないと判断して、ユエはすぐに身を翻した。


「大丈夫か?」
 今日だけで何度も聞いた言葉を、またカイトは戻ってきたユエにかける。
「うん、体調は大丈夫。でも、おかしなことがあって」
「おかしなこと?」

「ここの水って、元は雨水なんだよね?」
 ユエの質問の意図は伝わらないまま、カイトは肯定する。
「まあ、そうだ。山に降った雨が浸み込んで、どこからか湧いてきているんだろう」

「だったら、やっぱりおかしいよ」
「なにがおかしい?」
「だって、海水が混じってる」
「海水、だと……?」

 目を見開いたカイトに、ユエははっきりうなずく。

「一番近いのが西の海でしょう?それでもここまで流れてくるはずはない、よね?」
「ない、な。それはありえない」

「流れてくる方向はね、えっと……こう進んで、あっちを向いたから……うん、こっちから!」
 ユエが指差した方角を、カイトは懐から取り出した羅針盤で確かめる。「……北だ」

 カイトはしばらく黙って考え込んで、意味もなく羅針盤の蓋を開け閉めしてから、「……やめておいたほうがいいか」とつぶやく。

「カイト?」
「もしかしたら今俺たちがいる位置、すでに大山脈を越えているかもしれない」
「越えて……?」

 カイトは頭上を指差す。「この上はもう、頂上を越えた北側なのかも」
「大山脈は越えられないんじゃあ……?」
「登って越えたという記録はないが、地下から越えたという記録は知らない」


 カイトはすでに決断した顔で、パチンと蓋を閉めた。
「これ以上北へ行くのは危険すぎる。なにが起こるかわからないし、やめておこう」

「っ、でも……!」
 後ろ髪を引かれて、ユエはカイトを引き止めていた。

「ユエ?」
「でも……危険な感じはしなかった。それどころか、なんだか……行ってみたいって思ったんだ」

 それはユエの本心だ。
 ──あの道の先には、なにか明るく、心地のいい場所が待っているような。ジャン・ノーが沈んでいた海で感じた気配とは、正反対の。


 人魚の感覚を信じていいものか悩むカイトを、ユエはじっと見つめた。
 根負けしたのはカイトだ。
「絶対に無理はするな」と念押しして、ユエの手首に細い紐を結びつけてくれる。細く、それでいて頑丈な紐は命綱となって、ユエの手首とカイトの手首を繋いだ。


 もう一度例の分岐まで来ると、ためらわずに一本の道を選んで進む。
 進むほどに確信に変わっていき、ユエはひとりの道行きでもまったく不安を感じていなかった。


 ──この先には、間違いなく海がある。



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