幸福を知らない俺は不幸も知らない

三谷玲

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何も知らない俺

 彼の名前を知ったのはあのキスの後。俺がキスの余韻にぐったりとしてしまい、抱きかかえられたまま、パティオの長椅子に座らせられた時だった。いや、長椅子に座ったのは彼であり、俺は彼の膝の上だけど……
 本屋敷の造りは複雑だ。正面から見れば森を背景に白く荘厳な真四角の建物が浮き上がっているように見える。門扉からのアプローチもそれほど長くはなく、その両脇には青い芝が敷かれた庭が広がっている。しかし、上から見れば、コの字型となっており、さらにコの字もまたいくつかに分かれ、回廊で繋がれている。いくつもある1階の部屋には各々パティオが設けられており、そこは借景の森の木々と壁に阻まれ、外界の喧騒を感じさせない静謐な雰囲気を醸し出している。
 応接間にももちろん、パティオが設えられており、彼は俺をそこに連れ出した。壁に沿って置かれた長椅子は程よい硬さのクッションをオーク材で支えられた重厚な造りのものだった。

 抱えられた俺はふらつく身体を支えられながら、なんとか振り絞って彼に名前を尋ねた。彼は銀色の耳を横に倒して、それから息を吐くと、俺に名前を教えてくれた。

「シルファ・クルス……」

 彼の名前を呟く。俺の髪を梳きながら彼が頷く。誰かとこんな風に触れ合うのがはじめての俺は身体が硬直してしまう。

「名前も聞いてなかったのか?」
「父は何も言いませんでしたし、相手がどなたかも、性別も聞いていませんでした。申し訳ありません」

 あの時父は何も言わなかった。婚約が決まったとだけ伝えてすぐに立ち去ったのだから。さっきの挨拶の時にも名前を言っていなかったと思うが、あの時の俺の頭は酩酊状態だったので聞いていても覚えていられなかっただろう。流石に名前を知らないのは問題があるよな。

「いや、君が謝る必要はない。これからはシルファと呼んでくれ」

 両手で頬を掴んで顔を上げさせられて、その目を見詰める。髪と同じ銀色の中にうっすら紅い虹彩が綺麗だ。こんな綺麗なものは見たことがない。吸い込まれるような思いで見つめ返して、こくっと頷く。

「シルファ、様……お……私はソラハ、ソラハ・アキピテルと言います」
「様はいらない、名前も知ってる、ソラハ……」

 うっとりとした目で俺に頬ずりししっぽで俺の身体をなぞるシルファの様子にまた先程のキスの気配を感じ、俺は腕を伸ばして身体を離した。初めて逢ったのにこんなに求められるなんてどう考えても番なんだと否が応でも思い知らされる。この人は俺が好きなわけではない。番という本能だけでこんなになってるんだと思うと、切なくなった。

「ソラハ……そうだな。これ以上は拙いな……」

 しっぽをしょんぼりと下げ残念そうな顔で俺を長椅子の隣に下ろすとシルファは深呼吸をして目を閉じた。

「これから、どうなるんですか?私は何をすれば?」

 落ち着いたところで今後のことを確認しようと問うと、シルファは顎に手を宛て壁の方を見ながら話しだした。

「当分は私と一緒に宴に出席してもらいこの婚約を広める作業だな。この婚約で私達第3師団と閣下の間に縁が出来たことを周囲に理解させる必要がある」
「第3師団?シルファ、は軍人なのですか?」

 俺はシルファのことを何も知らないのだなと思い知らされた。何も知らない相手とこれから婚約者として、ゆくゆくは結婚となることに不安を覚える。いや、これから知っていけばいいのだ。

「そこからか……閣下はこの婚約を何だと思っているのやら」

 そこで一旦言葉を区切るとシルファは溜息を一つ吐いて天を仰いだ。面倒な話しなのだろうか?それとも俺が何も知らないことに呆れている?

「今回の婚約は王命に近い。第3師団の設立を勧めた陛下に最後まで反発していた閣下との間に溝が出来ていたのだが、この辺境の地は防衛の要だ。今は平和になったがそれでもな」

 王命?

「閣下は閣下で陛下や第3師団を認める他の臣下との間の軋轢に苦戦していたようだ。思うように進まない中、陛下が進言したのだ。閣下の元に第3師団の団員を迎え入れるようにと」

 それではこの婚約はまさしく政略結婚になるのだろう。しかしなぜそれが俺なんだ?男同士の結婚も多いがアキピテル家には女の義妹もいるのに。

「それでなぜ私なのですか?」
「第3師団がどういう団か知らない?第3師団は、ケモノだけで組織された軍団だ。私はそこの副団長だ」

 ケモノ、ヒトとは違い何かしら身体的に獣の要素を持つものを総称してそう呼ばれる。父のように嫌っているヒトもいるがここ最近はその差別も減っていると聞いた。しかしそれが一つの軍団を作るまでになっているとは知らなかった。俺が持ちうる知識は母の遺した書物だけだから情報が更新されていないようだ。それにしても副団長ということはシルファは流麗な見た目に反して強いのだろうか?あ、俺を抱えてここまで来るくらいだから力はあるか。

「父は義妹を溺愛していますから……」
「そういうことだ」

 ケモノを産んだだけで父は母を拒絶し、俺を遠ざけた。その事実は伏されているが義妹が父の愛情を一心に注がれていることは世間では知られていることなのだろう。その父がいくら王命とはいえ溺愛している義妹の相手にケモノを選ぶとは思えない。しかもシルファは見た目も立派なケモノだ。顔や身体の見える範囲についてはヒトのそれと変わらないものの、耳としっぽは隠しようがないほど狐そのもの。銀の耳の先は更に白く、しっぽの先もまた白い。

「ソラハは?ケモノの狐の私ではダメか?」

 そうだ、俺はヒトだ。父が自分の息子がケモノであることを認められるわけがなく、出生届にはヒトとして登録したと伝えられていた。シルファも俺をヒトだと思っているだろう。ここは父に従うしかなさそうだがダメかそうじゃないかといえば、もちろんダメなわけがない。俺は首を左右に振ってシルファの方を向いた。

「ダメ、じゃないです。私の婚約者としてシルファはもったいない方です」

 シルファは美しい見た目もさることながら所作や言葉遣いも綺麗で洗練されている。父や世間がいう、ケモノが野蛮だとか荒々しいだとかの批判はシルファに限っては当てはまらないだろう。それに引き換え俺はケモノとしては認めてもらえず、ヒトとしても半端な、何もない、しかも男だ。この先シルファの婚約者として俺なんかでいいのだろうか?心に一抹の不安を抱えながら、抱き寄せるシルファの胸でそっと息を吐いた。
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