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1.これが噂の
しおりを挟む「お疲れさまでした」
「はい、お疲れ様ー。また明日、よろしくね」
「はい! では、失礼します」
午後五時、近所のドラッグストアでパートを終えた私は、足早に店を出る。
その足が向かうのは、家……ではない。
私には、帰宅する前に寄るべき場所がある。
「愛ちゃーん、お迎えが来たよー」
「はーい! あっ、めぐちゃん!」
「おまたせ、愛ちゃん」
私の姿を見つけるなり、嬉しそうに飛び込んでくる愛ちゃんを抱きとめる。
ここは家からだいたい十分の場所にある『はばたき保育園』。
赤い屋根と黄色い壁がカラフルで可愛らしい建物に、子どもたちがのびのびと遊べる広いグランドがついている。
「愛ちゃん、ほら、先生に挨拶して」
「ゆみせんせいさようなら、またあしたね!」
「はい、さようなら。愛ちゃんも恵さんもまた明日」
「明日もよろしくお願いします。では、失礼します」
愛ちゃんの組を担当している由美先生に挨拶を済ませ、保育園をあとにする。
今日はどんな歌を歌ったのか、給食は、おやつはどんなものを食べたのか、誰とお絵かきして、誰とブランコに乗って、誰と喧嘩したのか。
手をつなぎ、家まで続くまっすぐな道をゆっくり歩きながら、今日一日の出来事を全部教えてくれる。
これが私の、いつもの夕方。
平凡な主婦である私――羽柴恵は、今年で結婚三年目を迎える夫――恭介と二人暮らし……だった。
『だった』という過去形は愛ちゃんを生んだから…………ではない。
半年前、夫の弟嫁――羽柴美緒が離婚を考えていると相談しに来てからずっと上がり込んだまま、我家を別居先にしてしまったのだ。
そして、その時に一緒に連れてきたのが娘の愛ちゃんだった。
つまり愛ちゃんは姪にあたる。
じゃあ、なんで母親じゃなくて私が毎日お迎えしてるのかって?
そりゃあ…………誰かさんが夫との浮気に忙しくて子育て放棄中だからよ。
……夫とはもちろん恭介のことだ。
追い出しもしない、諭しもしない、半年も居座るなんていくら義妹とはいえ甘やかしすぎでしょ、怪しい……と思ったら……はいはい、できてました。
あぁ、そうですか。
なんかもう、怒りよりも呆れっていうか。
美緒さんもまだ離婚成立してないのによくやるわ。っていうか、子ども放置するな!
そんな感じで、なんだかんだあって、私が愛ちゃんのお世話をすることになった。
まぁね、母親に放置された娘と、夫に放置された妻が、必要としてくれる存在を求めて寄り添い、あっという間に仲良くなったのは必然よね。
もちろん、夫と離婚してやろうかと考えたけど……でも、そうなると愛ちゃんはひとりになっちゃう。
美緒さんはこんなだし、夫の弟――徹君は妻の居場所を知っていながら連絡なし、愛ちゃんについても何も言ってこない。
……私のほうが愛ちゃんを大切に思ってるのに、連れ出す権利がない。
血のつながりって……はぁ……。
「――――ちゃん……ぐちゃん……おーい、めぐちゃん!」
名前を呼ばれているのに気づき、ハッと愛ちゃんを見る。
いろいろ考えてるうちに黙り込んでしまった私を心配してくれたらしい。
「ごめんごめん、今日の夕飯何にしようかなーって」
それらしいことを言って誤魔化す。
「ごはん! えーと、えーっとね……たまごやき! あとね、しゃけも!」
「おおぅ、渋いなぁ……冷凍庫に切り身が残ってたから……了解です!」
「えへへ、やったね」
了解しましたと敬礼してみせると、嬉しそうに笑ってくれる。
料理は得意とは言えない。
卵焼き、今日はきれいに巻けるだろうか、鮭の皮はパリッと、でも身は焦がさないように……なんて考えながら何本目かの電柱を超えたところで、ふと歩みを止めた愛ちゃんが、ポツリと呟いた。
「…………めぐちゃんが、ほんとのママならよかったのに……」
小さな呟きは、それでもはっきりと私の耳に届いた。
俯いてしまった愛ちゃんの前に膝をつき、ギュッと抱きしめる。
「私だって! 私も愛ちゃんの本当のお母さんになれたらいいのにって……そう思ってるよ」
いつの間にか夕日が真っ赤に照らす道端で、誰も通らないのをいいことに、ふたり抱き合ったまま涙を流す。
家まではもうあと少し。
だけど、あの場所に戻りたくないって……いつもより、強く思ってしまったら……もう、足が動かない。
「……めぐちゃんと、このままふたりでいたいな。……めぐちゃんとふたりで……ずっと」
「私も、愛ちゃんとふたりでいたい。ふたりでどこか……誰も知らない遠くへ行けたら……誰にも引き離されない場所へいけたらいいのに」
どうしようもない望みを、流れ星もない、七夕でもないこんな日に……なんて思う余裕もなく、ただただ溢れてくる願いを零していく。
『――その願い、叶えてあげようか』
「「……え?」」
ふいに聞こえた声に、ふたり顔を見合わせる。
いったいどこから……そう思って辺りを見回したが誰もいない。
――なんだったのかと気を抜いた次の瞬間、足元から眩い光が溢れ出した。
「めぐちゃんっ!」
「何これ!? 何がどうなって……!」
その光は私たちを包み込んでいるようだったが、何が起きているのかさっぱりわからない。
ただ、決して離れないようにとさっきよりも強くしっかり抱き合い、一層激しくなった輝きに目を瞑った。
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