その男、幽霊なり

オトバタケ

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憎悪と恋慕

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 七月に入った。まだ梅雨が明ける気配はなく、すっきりしない天気が続いている。俺の胸中を表しているみたいだな。今にも降り出しそうな鉛色の分厚い雲を見上げて苦笑する。
 雨に打たれて帰ったあの日、エレベーターであの野郎と鉢合わせて、野郎の部屋でシャワーを浴びた後の記憶がない。気付くと、自室のベッドで眠っていたのだ。体は見たこともない高級そうなバスローブに包まれていて、すぐに大財閥の御曹司でいいものばかりを使っているあの野郎のものだろうと気付いた。なぜ野郎のものを着て自室で眠っていたのか知りたかったが、自分から野郎に話し掛けるのは癪だ。あの日以来、あの野郎から話し掛けられないので、真相は今も分からぬままだ。

 あれから教室以外であの野郎とは会っていない。どうやら、俺への接触を避けている節がある。そのくせ、ふと視線を感じて振り向くと、必ずそこには切なげに揺れる青い瞳がある。口では話し掛けてこないくせに、瞳は必死に何かを訴えかけてくる。それを見る度に胸が締め付けられ、頭に鋭い痛みが走る。なので、今は視線を感じても無視するようにしている。
 あの野郎だけではなく、三輪さんとも距離を置くようになった。野郎に凌辱された罪悪感から、永久に共にいると誓いあった魂の伴侶である三輪さんに違和感を覚えるようになってしまった。混乱している胸中を知られたくなくて、視線を独占したいとまで願っていた顔をちゃんと見られなくなってしまった。あんなに居心地がよくて穏やかな気持ちになれていた三輪さんの隣にいても、息苦しさしか感じないようになった。

 二ヶ月近くそんな日々が続き、三輪さんが痛ましげに俺を見てくるようになった。顔を合わせれば無理矢理作り出したような満面の笑みと元気な声で話し掛けてきてくれるが、その度に三輪さんに気を遣わせている自分が居たたまれなかった。徐々に距離をとっていき、今では週に一、二度話をする程度の関係になってしまった。
 家族よりも長い時間を共に過ごしていたのにな……。幼稚園帰りの子供と手を繋いだ母親が楽しそうにカエルの歌を口ずさみながら横を通り過ぎていくのをぼんやり眺めていると、民家の庭に咲く青い紫陽花が目に入った。雨に濡れて帰るきっかけになった、あの紫陽花だ。そこだけ晴れ渡っているような澄んだ青色を見て脳裏に浮かぶのは、やはりあの野郎の切なげな瞳だ。ズキリと痛んだ胸を押さえ、立ち尽くす。

「拓也、危ないっ!」

 街の喧騒を耳が遮断して、宇宙空間のような無音の中で紫陽花の青い花弁だけを見つめ続けていたら、突然切羽詰まった叫び声が鼓膜を揺らしてきた。他の音は聞こえなくても構わないが、この声だけは聞き取らなくてはならない、というような鼓膜の動きに胸の痛みが増していく。
 錆びたブリキのロボットのようにギギギと音を立てながら声のした方に顔を向けると、今の今まで視線を独占していた澄んだ青と同じ色の瞳を捉えた。俺だけしか見えていないような真っ直ぐな視線。独占したいのはこの瞳ではないのに、視線に入れるのも入れられるのも絶対に御免な憎い野郎なのに、嬉しいと言わんばかりに心臓が甘く締め付けられるのは何故だ?

「拓也、逃げてっ!」

 強い口調で命令しながら、必死の形相で俺に駆け寄ってくる野郎を茫然と見つめていると、ガシャンガシャンと耳を劈くような金属音が鼓膜に刺さってきた。不快な音のせいで頭に鋭い痛みが走って顔を顰めていると、どすんと体を押されて背中を地面に打ち付けた。余り痛さを感じなかったのは土の上だったからか、と掌に感じる湿った土の感触にぼんやりと思う。
 不快な金属音が消えたからか頭の痛みが収まってくると共に、ぼやけていた視界がはっきりしてきた。焦点のあった視線の先にあったのは、さっきまで見つめていた青い紫陽花だ。ということは、ここは紫陽花の咲く民家の庭なのか? 視界はクリアになっても、まだぼんやりとしている頭で考えていると、紫陽花の青にあの野郎の必死の形相が重なって見えた。
 あの野郎の叫び声が聞こえた後、俺はここに倒れ込んだ。ということは、あの野郎が押し倒してきたのか? いきなりぶつかってきて、連日の雨で湿った土の上なんかに倒しやがって。怒りに震えながら起き上がった先にあった光景を見て、怒りは恐怖に変わって震えが倍増する。
 アスファルトの歩道にうつ伏せに倒れている野郎の足に、一目で重そうと分かる鉄の看板が乗っかっているのだ。野郎の脇に立つ街灯を見上げると、看板が付いていたと思われる棒だけが寂しげに残されていた。棒があるのは三メートルくらいの高さのところだ。そこからこの看板は落ちてきたということになる。
 落下する看板から守る為に、野郎は俺を突き飛ばしたのか? そして、自分が看板の下敷きになってしまったというのか?

「お、おい、大丈夫か?」

 駆け寄って野郎の顔を覗き込むと、青白い顔が辛そうに歯を噛み締めていた。痛みに耐えているのだと分かる表情に恐怖が増し、引き付けを起こしたように体の震えが激しくなる。

「い、痛いのか? まさか、死ぬんじゃないよな?」

 野郎が死んでしまうかもしれないと思った途端、全ての生命体が滅亡した荒野に一人きりで取り残られたような気持ちになり、怖くて怖くて堪らず滝のような涙が溢れてきた。

「死ぬなよ! 死んだら許さないからな!」

 一人にされたくない。俺の傍から消えるなんて許せない。恐怖と寂しさと怒りと切なさと、様々な感情が体内を駆け巡り、嗚咽となって吐き出される。

「大丈夫、拓也を置いて死んだりしませんよ。だから落ち着いてください。助けを呼びますから少しだけ待っていてくださいね」

 あんなに重そうな鉄板が足に乗っていて痛くて苦しいはずなのに、俺を宥めるように優しい眼差しと声を掛けてくれる野郎。このまま天使になってしまいそうな慈愛に満ちた姿に益々恐怖は増していき、羽が生えてこないように野郎の背中に縋り付き泣き崩れる。
 どこにも行かないから大丈夫だと言うように、優しく俺の背中を摩りながら野郎はどこかに電話を掛けている。さっきの野郎の言葉から考えて助けてくれる人を呼んでいるのだろうが、俺以外の奴と話しているのが、俺以外の奴を頼っているのが悔しくて、俺だけを見ていてくれという嫉妬と独占欲が沸いてきてしまう。大切な電話だと分かっているのに、野郎の意識を俺の方に向けたくて、野郎の背中にぎゅっと抱き付き匂いを付けるように頬を擦り寄せる。
 俺の気持ちは分かっているから大丈夫と告げるように、赤子を寝かしつける時のように背中を優しく叩いてくれる野郎。三輪さんの隣にいても感じられなくなった居心地の好さがある野郎の温もりに、恐怖は薄れていき穏やかな気持ちになっていく。

「お坊っちゃま、大丈夫ぅ?」

 キーキー、と急ブレーキで車が止まる音がする。雲に包まれているようなほわほわした気持ちから覚醒して顔を上げると、心配そうに野郎を見下ろす桃井先輩がいた。
 医者の卵である桃井先輩が助けに来たということは、野郎は重傷だということか? また恐怖が沸き上がってきて、涙がボロボロと零れ落ちる。

「絶対死ぬなよ! 俺を置いていったら許さないからなっ!」

 錯乱して泣き叫びながら野郎に縋りつく。
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