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1巻
1-2
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彼はふうと一度息を吐くと、不快そうに顔を歪めながら続ける。
「力を出せない状況になってしまったんだ。簡単な妖術なら何とかなるが、難易度の高いものは厳しい。他の妖に襲われても対抗しづらく、非常に困っている。この状況をどうにか出来るのは、お前の父親ぐらいかと思って訪ねてきたが、この世にいないとはな……」
まさか、妖が父にそんな相談を持ち掛けようとしていたなんて。
私は心底驚いた。だってこれまで、妖に悪さをされる人間からの依頼ばかりで、いつだって妖は敵だった。その妖から相談を、しかも力を解放してほしいという内容を聞かされることになるとは思いもしなかったのだ。
「う、うちは妖から相談を受けることなんてないけど」
「そんな決まりがあるのか? ないだろう?」
「ないけど、いつも妖から被害を受ける人間の相談ばかりで――」
「相談してくる相手によって仕事を断るのか?」
「それは……」
なんだろう、なんだか言いくるめられている気がする。でも、すぐに気を取り直した。仮に妖からの依頼を受けていいのだとしても、私には力がないので断るしかないのだから。
「さっき言った通り父はいないから、どのみちあなたの相談は受けられないんです」
私がそうきっぱり言うと、妖狐はこちらをじっと見つめた。穴が開いてしまいそうなほど顔を凝視してくるので、なんだか恥ずかしくなってくる。相手は妖だとは分かっているけれど、こんなに綺麗な顔をした男性と向き合う機会はそうそうない。
「な、なんでしょう?」
「ほう……お前、パッと見たところ無能な人間かと思ったが」
「む、無能って! 言い方、もう少し何とかならないの?」
私はつい声を低くして強く言い返してしまった。洞察力がない、鈍いと来て、あげくの果てに無能呼ばわりとは。失礼すぎるこの男には、私も毅然とした態度で臨む必要がありそうだ。敬語なんて必要ない。
「話を最後まで聞け。――そう思ったが、潜在能力が凄まじいな。やはり親子だな」
感心するように妖狐が言った。私は悪口を言われたことはとりあえず忘れて、能力を見抜いたことに素直に驚く。
「見ただけで分かるんだ……父にもよく言われていたけど、結局私の能力は開花してないので、出来ることは何もないの。防御するぐらいで……おかげで祓い屋の仕事を継ぐことも無理みたい」
言葉に出してみると、また落ち込んだ。すっかり依頼もなくなって静かになった我が家の状況を思い出してしまったのだ。そもそも、妖狐にこんな話をしてどうするのだ。
「畳むのか」
「……迷い中」
「お前の家は長く続く祓い屋だろう? 有名だぞ」
「妖なのに、なんでうちのことを知っているの?」
「妖だから知っているんだ。我々の相手になる人間など滅多にいないだろう? 嫌でも耳に入ってくる」
「な、なるほどね……」
「お前の家はかなり昔から妖の中で有名だ。そんな歴史ある家業を畳むのか」
彼の言葉を聞いて私は少し首を傾げた。
妖である彼からすれば、敵が減ってラッキーじゃないのか。なのに、なんでそんな言い方をするのだろう。何か企んでいるとか?
「あなたからすれば嬉しいことなんじゃないの?」
「私は元々、お前たちの世話になるような悪さなどしないから、どうでもいい」
「どうでもいいなら放っておいて。別にあなたに関係ないでしょう」
「私には関係ないぞ。お前の話をしているんだからな。お前はそれでいいのかと聞いているんだ」
容赦ない妖狐の言い方に、私は唇を嚙んだ。そんなこと私が一番よく分かっている。
父も、祖父も、またその祖々父もずっとやってきた神代の祓い屋を、自分のせいで終わらせてしまう悲しさがこの妖狐に分かるはずなんてない。
私は妖狐から視線を外し、冷たい声で言う。
「余計なお世話」
「ふうん。強い潜在能力はあるのにな」
「あっても表に出なければ意味がないから」
「でも、お前は仕事をやめたくはないのだろう?」
「当たり前なことを聞かないで。父の跡を継ぐことはずっと目標だった。でも、どう頑張っても力は開花しないし、仕事も来なくなってしまったんだから、仕方ないじゃない」
私は泣きそうになりながら言い返した。妖狐は何かを考えるようにじっとこちらを見ているが、これ以上話していても仕方がないと、私は話を切り上げる。
「というわけで、うちでは何もできないのでお引き取りを――」
「よし、いい案を思いついた」
にやりと笑って妖狐が言ったので、思わず聞き返す。
「いい案?」
「お前にとっても私にとってもいい話だ」
「一体何?」
「私と結婚しよう」
彼の薄い唇から、突如そんなセリフが飛び出した。
妖狐が言ったことを理解出来ず、私はしばらく棒のように突っ立ったままでいた。
結婚……結婚? つまりは、プロポーズ? 妖狐が、私に?
私をからかっているか、騙そうとしているのか? だって、会ったばかりなのに求婚されるなんてあり得ない。相手は人間を騙すことに長けている狐なのだ。
でも、もし本当に妖狐が私を見初めたとしたら……? 妖から人間に求婚だなんて普通はないけど、可能性がゼロなわけではない。
そう考えた途端、ぶわっと顔が赤くなる。生まれてこのかた、誰かにプロポーズされたことがないので、相手が妖と言えども恥ずかしくなってしまったのだ。しかも、顔だけ見るととんでもない美形だ。
でも結婚なんて無理なので、しっかりお断りしなくては。私は視線を外しつつ、しどろもどろに答える。
「きゅ、急にそんなことを言われても! 一目惚れされても、私たちは種族が違うのに……き、気持ちには応えられないっていうか、もちろんそう言ってくれたのは嬉しいんだけど」
言葉を選びつつ、必死に話しながらちらりと彼を見上げると、なんとも冷めた目で私を見ていた。あれっと思い、口を噤むと、妖狐は静かに言う。
「私がこんな地味な人間に一目惚れすると思うか? 無駄に前向きだな」
「え、地味って言った?」
「話を聞け。暴走するな」
妖狐が呆れたようにため息をついたが、私もここで黙るわけにはいかない。
「急にプロポーズしてきたのはそっちじゃない!」
「いいか? もし私とお前が婚姻関係を結べばお互いに利点がある。まず一つ目――」
妖狐が私の鼻に触れそうな位置で人差し指を立てる。
「私たちの世界の婚姻とは、二人が一つになることを意味する。つまり潜在的に強い力を持ったお前と関係を結べば、私は自然と封印が解けて元の力を取り戻せるのだ」
「……私の利点は? 私も能力が開花するの?」
「残念ながら、人間にはこちらの能力が影響することはないだろう」
「じゃあ、どこがいいの?」
静かに睨みながら尋ねると、妖狐はふっと口角を上げて笑って指を二本に増やした。
「祓い屋の仕事を手伝ってやる。父親が残したものを何とかしたくないか? お前の力が開花するまで、私が手助けをしよう」
妖が祓い屋の仕事を手伝う?
彼が突然私と結婚しよう、なんて言った理由がやっと理解出来た。向こうは持っていた妖狐の力を取り戻せるから万々歳、ということか。
その代わりに私の仕事に協力してくれるとは言うけれど……それを信じる人間がどこにいるだろう。
私は妖狐が立てた二本の指を払った。
「無理に決まってるでしょう。何を言ってるの」
「なぜ? このままだと、祓い屋も終わりなんだろう?」
「あなたの話を信じる馬鹿がどこにいるの! 私は祓い屋の娘なの。その私が、妖と婚姻関係を結ぶなんてあり得ない。そもそも、本当にお父さんの知り合いなの? 私を騙そうとしてるんじゃない?」
「心外だな。騙す気なんてこれっぽっちもない」
妖狐は肩をすくめて言うが、どうも胡散臭く感じる。
「狐は人間を騙すのが得意でしょ。それに封印された、って言うけど……悪いことをしたから力を封印されたんじゃないの? そんな妖を信じるなんて、出来るはずがないでしょう!」
「馬鹿なことを言うな。私は頭の悪い妖とは違う。人間に危害を及ぼしたことは一度もないが、一部の人間はこちらが妖というだけで攻撃してくる。それに巻き込まれただけだ」
妖狐が鋭い目で言い返してきたので、少し後ずさった。彼の口調は強く、噓をついているようには見えなかったのだ。
緊張を緩めない私に、彼は続ける。
「仕事をこなしていけば、いつかはお前の能力も開花するだろう。一人で祓えるようになるまでの関係だ。それに結婚と言っても形だけで、人間であるお前の生活に変化はない。今まで通りの日常を続ければいい」
ただ婚姻関係を結ぶだけで、本当の夫婦にはならない、ということか……人間の結婚の形式は関係ないだろうし、私の籍がどうこう変わることもない。
そりゃ、本当に仕事を手伝ってもらえるならありがたい。いつ私の能力が使えるようになるのか分からないだけに、それまでサポートしてくれる存在がいるのなら欲しい。とはいえ、さすがにこんな話に食いつくほど軽率ではない。
「……でも、初めて会った妖を信じることなんてできない。結婚だって絶対に無理。お引き取りください」
きっぱりそう言うと、妖狐は鼻から息を長く吐いた。てっきり怒るのかと思ったが、そんな様子はない。
「まあ、急にこんな話をしても戸惑うのは当然か」
「あの、お引き取りを――」
「すぐに私の力が必要だと分かるはずだ。お前が首を縦に振るまで、私はここに居座ることにする」
妖狐がそんなことを言い出したので、ぎょっとした。
居座る? 私が認めるまで?
「ちょ、ちょっと待ってよ、そんなの――」
「考える時間くらい与えてやろう。私は心が広いからな」
「今すぐ出て行って! 私の答えは変わらないんだから!」
思い切り叫んでみたが、妖狐は余裕たっぷりに笑ってこう言った。
「嫌なら祓えばいいだろう? 出来るものならな」
その瞬間、自分の眉が怒りでぴくぴくと動くのを自覚した。なんて嫌味なやつなんだ。
妖狐が入り込んだその日の夜、私はイライラしながら普段は開けることのない押し入れに手を掛けた。
「今しか時間がない……! 急がないと」
妖狐は外にでも行っているのか姿を現さない。急に顔を出してくるので油断は出来ないが、今のうちにと探しに来たのは、亡き父が書いていた日記だ。今までの仕事の内容や妖の記録をつけていたので、あの妖狐について何か書いていないかと思ったのだ。
妖狐のことは、父の旧友に相談すれば何とかしてもらえるかもしれない。でも、ただでさえ依頼人を紹介しまくっているのに、私の相談まで持ち掛けるのはなけなしのプライドが許さなかった。祓い屋の娘が妖にまとわりつかれたあげく、他の祓い屋に泣きつくなんて。もうこれ以上情けない自分の姿を見せたくない。あの妖狐は、私が何とか対応してみせる。
取り出した父の日記はよくある大学ノートに書かれていたが、何十冊にも及び、これまで解決してきた仕事量に今更ながら感服する。ノートには相手の妖の特徴や祓った方法などが細かく記してあり、しっかり者の父らしかった。久々に見た父の字に少し切ない気持ちになりながら、私はノートを読む。
あの妖狐について何かないだろうか。例えば弱みとか……祓う力がない私にも対抗出来る方法が書いてあれば……!
そう願いながら古い日記を読み進めていくが、今のところ目ぼしいものはない。しばらくして目に疲れを覚えた私は、はあと深いため息をついた。
「仕事は来ないし変なのに絡まれるし、さんざんだよ……まあ仕事は来ても、こなせないんだろうけど……」
嘆きながらパラパラとめくっていくと、あるページが目に留まった。それはもう十年も前の日記で、まだ私が父の仕事に同行していない頃だ。
「狐って単語があった……!」
私は食い入るようにノートの文字を追う。
『……とても強い力で、その上相手は一体ではなかったので苦戦した。悪意しか持っていない妖が一番恐ろしい。だが今日は珍しいことに、力を貸してくれた狐がいた。銀髪の美しい妖狐だった。突然現れ、妖を攻撃し始めた時、一体何が起こったのか分からず呆然としてしまった。妖が人間の手助けをするなど考えられない。結局、彼の助けによって勝利した。お礼を言ってなぜ助けてくれたのか尋ねたが、別に人間の味方というわけじゃない、と一言だけ残して去ってしまう。長い祓い屋生活でも初めてのことで驚いた。名前ぐらい聞いておけばよかっただろうか。いつか恩を返すことが出来ればいいのだが』
「銀髪の美しい妖狐……」
この日記を見るに、父が強い妖相手に苦戦している時、颯爽と現れて手助けをしてくれたらしい。そんな妖が本当にいるのだろうか? でも、噓を書いているとは思えないし……
「まさかこれが、さっきの……?」
特徴はその通りだけれど、妖は美しいものが多いし、あいつと同一人物だと決めるには早すぎる。あんな失礼なやつが、ピンチの時に現れて助けてくれるなんて想像も出来ない。これはやっぱり、違う狐だったんじゃないだろうか?
「何を一人でぶつぶつ言っているんだ」
突然背後からそんな声が聞こえ、私は短い叫び声を上げた。
慌てて持っていたノートを閉じて振り返ってみると、例の妖狐が腕を組んで壁にもたれかかりながら、こちらを見ていた。
「急に現れないで! びっくりするから!」
「そんなに散らかして何をしている」
「お、お父さんの日記を読んでただけ……力を開花する方法とか書いてないかな、って」
「ふうん……まぁ、力を開花させるにはお前自身が頑張らないと到底無理だろう。有能な父親が残した言葉を参考にするだけでは、な」
悔しい。私は唇を噛みしめた。
何が悔しいって、間違えたことを言っていないところだ。妖狐の言うことはもっともで、耳が痛いと感じるほどだった。
「分かってるけど……藁にもすがりたかったの!」
「お前の父親は確か、水の力を使って祓っていたな?」
妖狐が思い出したように尋ねてくる。父の祓い方を知っているなんて、やっぱり一緒に戦ったから……? と思ったが、すぐに思い直す。いや違う、妖の中でも父は有名だと言っていたから、誰かから聞いて知っていただけだろう。
「そうだよ。うちは代々、水の力を使ってきた。だから私もその力が目覚めるはずなんだけど、そんな感覚はまるでないっていうか……お父さんは体の奥底で水の気配を感じるなんて説明してたけど、全然分からないし」
「水の力は知性が必要だぞ。お前はもう少し落ち着いた方がいい」
「ち、知性?」
妖狐は頷く。
「神にも性格があるからな。水は静かで知性がある。風は明るく奔放で小さなことは気にしない。土は穏やかで温厚だ。火は情熱的で少し気まぐれなところがあるから、あの力を扱える人間はあまりいない。お前は見たところ、水というより風と相性がよさそうだが」
「……詳しいんだね」
「長く生きていれば、これくらいの知識があるのは普通だ。まぁ、代々水に力を借りているのなら、そうなる可能性は高い。静けさも知性も足りないから、時間がかかっているだけなんだろう。もう少し理性的に動くんだな」
静けさも知性も足りなくて悪かったですね。だがそこは自覚があったので言い返せなかった。
私は恥を忍んで妖狐に尋ねる。
「落ち着くって、おしとやかになればいいってこと? 知性っていうなら勉強すべきなの?」
「性格はすぐに変えられないだろうが、そうなるように意識してみるだけで違うということだ。知性は知識だけじゃない。むやみに動くのではなく、考える癖をつけろ」
確かに、考えるより先に動くタイプなのは否めない。力が開花していないのに、現場に出てみればどうにかなるかも、なんて思ってしまう人間なのだ。
反省してがっくり項垂れる私に、妖狐はにやりと笑って言う。
「そんなことを気にするより、私と結婚した方が早――」
「それとこれとは話が別! ていうか、そもそも部屋に勝手に入ってこないでよ、デリカシーがない人ね!」
「私は人じゃなくて狐だ」
「細かいな!」
私は大声でそう言い返しながら、すぐに彼に背を向けて散らかったノートを片付け始めた。その時、ふと気になったことがあって振り返り、まだ壁にもたれて立っていた妖狐に訊いてみる。
「あなた……名前はあるの?」
日記に書いてあった一文が気になっていたのだ。
妖狐は呆れたように眉を顰める。
「あるに決まっているだろう。私の名は瑶」
「瑶……」
「だが、名を呼ぶ者はそう多くない」
それだけ言うと、妖狐は静かに部屋から出て行ってしまった。
揺れる彼の尻尾を見つめながら、もしこの日記に書いてあった妖狐が彼だったら――と想像し、複雑な気持ちになった。
*
こうして瑶は宣言した通り、うちに居座ってしまった。
私が修行や家事をしているところを横でずっと眺めていたり、庭で優雅に花を愛でたりと、まるで家族の一員のように振る舞っている。何度も出て行けと言ったし、結婚なんかするつもりはないと宣言してもどこ吹く風。時々ふらりといなくなることがあるけれど、瑶は出て行くそぶりを見せない。
イライラが募る。
相手が人間ならば警察を呼べばいいし、私に祓い屋としての力があれば、祓ったり結界を張ったりできる。でも残念ながら、今回の場合警察は役に立たないし、今の私では追い払うことも出来ないのだ。
ただ私に危害を与えようと思っていないのは本当のようで、何もしてこないのは幸いだが、こんなに付きまとわれていては堪らない。
その上この妖狐、いちいち気に障るようなことばかり言ってくる。妖はデリカシーも何もない、ということをこの一件でよく学んだ。一人ぼっちは寂しいと思っていたけれど、こんな得体のしれない妖と一緒にいるよりはマシだ。
私の周りを離れようとしない瑶にどう対処しようか、必死に考えていた。
そんなある日のこと。私のもとに客人が訪れた。
私が昼食の準備を始めようとしたところ、インターホンの音が鳴り響いたのだ。もしや、久々に依頼の話でも来たのかもしれない。瑶は今家にいないようなので、ちょうどいい。
慌てて長い廊下を進み、返事をしながら玄関の引き戸を開けた。
「はーい!」
でも目の前にいたのは、見知った顔だった。
「あれっ……志保のおじさんとおばさん」
私の幼馴染の両親だ。近くに住む松井志保は、私と同い年の女性で、小さな頃からよく遊んでいる親友だ。私と違ってのほほんとした性格で可愛らしい子だけど、気が合ってずっと仲良くしている。志保は昔から教師になるのが夢で、今年の春からその夢を叶えて教職についており、この近くの高校で働いている。
祓い屋という職業は異質なので、距離を取りたがる人も多い。でも志保やその両親は、私たちと普通に接してくれる数少ない人たちだった。三人とも心優しく、明るい。
そんな志保の両親が、げっそりした顔で立っていたので驚いた。父の葬儀には三人揃って参加してくれて、会うのはあれ以来だけれど……
「どうしたんですか? 志保は来てませんけど」
私が尋ねると、二人は同時にため息をつき、か細い声を出す。
「ちょっと璃央ちゃんにお願いがあって……」
「私ですか……? えっと、ここじゃなんですし中へどうぞ」
私は客間に二人を案内した。
歩くたびに軋む廊下を抜けて襖を開けると、そこは畳が敷かれた和室。中央には木製のテーブルがあり、それを囲むように紫色の座布団が六つ並んでいる。床の間には父が買ってきた壺がひっそりと置いてあった。
ここ最近、客人が来なくなっていたのでこの部屋を使うことはなかったが、毎日掃除していたので埃一つない。
「どうぞ。私はお茶を――」
「大丈夫、そんなのはいいから。璃央ちゃんも座って」
おばさんが神妙な顔をして言ったので、私は素直にそれに従って二人の正面に座った。改めて見ると、おじさんもおばさんも本当に顔色が悪い。
「あの、一体何が……」
「志保がいなくなってしまったの」
おばさんの涙声が響き、私は息を呑んだ。
「そ、それ、どういうことですか?」
「突然、消えてしまったの。二日前から……。私たちに連絡はないし、部屋もそのままで。旅行バッグだってあるし、スマホも置きっぱなし。なのに忽然と姿を消してしまったの」
「そ、そんな……!」
「もちろんすぐに探して、警察にも届けを出したんだけど……成人しているせいか、本腰を入れて捜索してくれそうになくて……」
おばさんは苦しそうに顔を歪めて項垂れた。おじさんが静かに口を開く。
「家出の可能性もあるから、と警察は言っていて――」
「あの志保がですか? あり得ない!」
私はつい声を荒らげてしまった。志保はおばさんたちと仲が良かったし、夢の教師になれて嬉しいと言っていた。それが何も告げず突然家出をするなんて、絶対にあり得ない。
私の声に、おばさんが顔を上げて何度か頷いた。
「そう……そうよね、私もそう思うの。それで、仲が良かった璃央ちゃんに悩みとか相談してなかったかなと思ったんだけど……何も聞いてないわよね?」
「何も聞いてないです。私の父が亡くなってバタバタしてたから、最近は会ってませんけど……最後に食事に行った時、仕事は大変だけど楽しい、って言ってましたし。たまにメッセージのやり取りや電話はしてましたが、何も聞いていません」
「……やっぱり事件に巻き込まれたとしか考えられない……」
「事件、って……」
おじさんの言葉を聞いて青ざめる。
例えば誘拐され、どこかに監禁されているとか? 怪我をして動けない状態かもしれない。今はどこで誰に狙われるか分からないし、その可能性は十分ある。
同時に、最悪のパターンが脳裏をよぎった。怪我どころではなかったとしたら……? もしそうなら、家出だったという結末が一番よかったのかもしれない。毎日のようにニュースで見る、悲惨な事件の被害者になってしまったら――
だが私は頭を振って、嫌な想像を一旦追い払った。今はそんなことを考えている場合ではない。
「いくら成人してるとはいえ、荷物やスマホも持たずいなくなったんだから、警察も動くべきです!」
「力を出せない状況になってしまったんだ。簡単な妖術なら何とかなるが、難易度の高いものは厳しい。他の妖に襲われても対抗しづらく、非常に困っている。この状況をどうにか出来るのは、お前の父親ぐらいかと思って訪ねてきたが、この世にいないとはな……」
まさか、妖が父にそんな相談を持ち掛けようとしていたなんて。
私は心底驚いた。だってこれまで、妖に悪さをされる人間からの依頼ばかりで、いつだって妖は敵だった。その妖から相談を、しかも力を解放してほしいという内容を聞かされることになるとは思いもしなかったのだ。
「う、うちは妖から相談を受けることなんてないけど」
「そんな決まりがあるのか? ないだろう?」
「ないけど、いつも妖から被害を受ける人間の相談ばかりで――」
「相談してくる相手によって仕事を断るのか?」
「それは……」
なんだろう、なんだか言いくるめられている気がする。でも、すぐに気を取り直した。仮に妖からの依頼を受けていいのだとしても、私には力がないので断るしかないのだから。
「さっき言った通り父はいないから、どのみちあなたの相談は受けられないんです」
私がそうきっぱり言うと、妖狐はこちらをじっと見つめた。穴が開いてしまいそうなほど顔を凝視してくるので、なんだか恥ずかしくなってくる。相手は妖だとは分かっているけれど、こんなに綺麗な顔をした男性と向き合う機会はそうそうない。
「な、なんでしょう?」
「ほう……お前、パッと見たところ無能な人間かと思ったが」
「む、無能って! 言い方、もう少し何とかならないの?」
私はつい声を低くして強く言い返してしまった。洞察力がない、鈍いと来て、あげくの果てに無能呼ばわりとは。失礼すぎるこの男には、私も毅然とした態度で臨む必要がありそうだ。敬語なんて必要ない。
「話を最後まで聞け。――そう思ったが、潜在能力が凄まじいな。やはり親子だな」
感心するように妖狐が言った。私は悪口を言われたことはとりあえず忘れて、能力を見抜いたことに素直に驚く。
「見ただけで分かるんだ……父にもよく言われていたけど、結局私の能力は開花してないので、出来ることは何もないの。防御するぐらいで……おかげで祓い屋の仕事を継ぐことも無理みたい」
言葉に出してみると、また落ち込んだ。すっかり依頼もなくなって静かになった我が家の状況を思い出してしまったのだ。そもそも、妖狐にこんな話をしてどうするのだ。
「畳むのか」
「……迷い中」
「お前の家は長く続く祓い屋だろう? 有名だぞ」
「妖なのに、なんでうちのことを知っているの?」
「妖だから知っているんだ。我々の相手になる人間など滅多にいないだろう? 嫌でも耳に入ってくる」
「な、なるほどね……」
「お前の家はかなり昔から妖の中で有名だ。そんな歴史ある家業を畳むのか」
彼の言葉を聞いて私は少し首を傾げた。
妖である彼からすれば、敵が減ってラッキーじゃないのか。なのに、なんでそんな言い方をするのだろう。何か企んでいるとか?
「あなたからすれば嬉しいことなんじゃないの?」
「私は元々、お前たちの世話になるような悪さなどしないから、どうでもいい」
「どうでもいいなら放っておいて。別にあなたに関係ないでしょう」
「私には関係ないぞ。お前の話をしているんだからな。お前はそれでいいのかと聞いているんだ」
容赦ない妖狐の言い方に、私は唇を嚙んだ。そんなこと私が一番よく分かっている。
父も、祖父も、またその祖々父もずっとやってきた神代の祓い屋を、自分のせいで終わらせてしまう悲しさがこの妖狐に分かるはずなんてない。
私は妖狐から視線を外し、冷たい声で言う。
「余計なお世話」
「ふうん。強い潜在能力はあるのにな」
「あっても表に出なければ意味がないから」
「でも、お前は仕事をやめたくはないのだろう?」
「当たり前なことを聞かないで。父の跡を継ぐことはずっと目標だった。でも、どう頑張っても力は開花しないし、仕事も来なくなってしまったんだから、仕方ないじゃない」
私は泣きそうになりながら言い返した。妖狐は何かを考えるようにじっとこちらを見ているが、これ以上話していても仕方がないと、私は話を切り上げる。
「というわけで、うちでは何もできないのでお引き取りを――」
「よし、いい案を思いついた」
にやりと笑って妖狐が言ったので、思わず聞き返す。
「いい案?」
「お前にとっても私にとってもいい話だ」
「一体何?」
「私と結婚しよう」
彼の薄い唇から、突如そんなセリフが飛び出した。
妖狐が言ったことを理解出来ず、私はしばらく棒のように突っ立ったままでいた。
結婚……結婚? つまりは、プロポーズ? 妖狐が、私に?
私をからかっているか、騙そうとしているのか? だって、会ったばかりなのに求婚されるなんてあり得ない。相手は人間を騙すことに長けている狐なのだ。
でも、もし本当に妖狐が私を見初めたとしたら……? 妖から人間に求婚だなんて普通はないけど、可能性がゼロなわけではない。
そう考えた途端、ぶわっと顔が赤くなる。生まれてこのかた、誰かにプロポーズされたことがないので、相手が妖と言えども恥ずかしくなってしまったのだ。しかも、顔だけ見るととんでもない美形だ。
でも結婚なんて無理なので、しっかりお断りしなくては。私は視線を外しつつ、しどろもどろに答える。
「きゅ、急にそんなことを言われても! 一目惚れされても、私たちは種族が違うのに……き、気持ちには応えられないっていうか、もちろんそう言ってくれたのは嬉しいんだけど」
言葉を選びつつ、必死に話しながらちらりと彼を見上げると、なんとも冷めた目で私を見ていた。あれっと思い、口を噤むと、妖狐は静かに言う。
「私がこんな地味な人間に一目惚れすると思うか? 無駄に前向きだな」
「え、地味って言った?」
「話を聞け。暴走するな」
妖狐が呆れたようにため息をついたが、私もここで黙るわけにはいかない。
「急にプロポーズしてきたのはそっちじゃない!」
「いいか? もし私とお前が婚姻関係を結べばお互いに利点がある。まず一つ目――」
妖狐が私の鼻に触れそうな位置で人差し指を立てる。
「私たちの世界の婚姻とは、二人が一つになることを意味する。つまり潜在的に強い力を持ったお前と関係を結べば、私は自然と封印が解けて元の力を取り戻せるのだ」
「……私の利点は? 私も能力が開花するの?」
「残念ながら、人間にはこちらの能力が影響することはないだろう」
「じゃあ、どこがいいの?」
静かに睨みながら尋ねると、妖狐はふっと口角を上げて笑って指を二本に増やした。
「祓い屋の仕事を手伝ってやる。父親が残したものを何とかしたくないか? お前の力が開花するまで、私が手助けをしよう」
妖が祓い屋の仕事を手伝う?
彼が突然私と結婚しよう、なんて言った理由がやっと理解出来た。向こうは持っていた妖狐の力を取り戻せるから万々歳、ということか。
その代わりに私の仕事に協力してくれるとは言うけれど……それを信じる人間がどこにいるだろう。
私は妖狐が立てた二本の指を払った。
「無理に決まってるでしょう。何を言ってるの」
「なぜ? このままだと、祓い屋も終わりなんだろう?」
「あなたの話を信じる馬鹿がどこにいるの! 私は祓い屋の娘なの。その私が、妖と婚姻関係を結ぶなんてあり得ない。そもそも、本当にお父さんの知り合いなの? 私を騙そうとしてるんじゃない?」
「心外だな。騙す気なんてこれっぽっちもない」
妖狐は肩をすくめて言うが、どうも胡散臭く感じる。
「狐は人間を騙すのが得意でしょ。それに封印された、って言うけど……悪いことをしたから力を封印されたんじゃないの? そんな妖を信じるなんて、出来るはずがないでしょう!」
「馬鹿なことを言うな。私は頭の悪い妖とは違う。人間に危害を及ぼしたことは一度もないが、一部の人間はこちらが妖というだけで攻撃してくる。それに巻き込まれただけだ」
妖狐が鋭い目で言い返してきたので、少し後ずさった。彼の口調は強く、噓をついているようには見えなかったのだ。
緊張を緩めない私に、彼は続ける。
「仕事をこなしていけば、いつかはお前の能力も開花するだろう。一人で祓えるようになるまでの関係だ。それに結婚と言っても形だけで、人間であるお前の生活に変化はない。今まで通りの日常を続ければいい」
ただ婚姻関係を結ぶだけで、本当の夫婦にはならない、ということか……人間の結婚の形式は関係ないだろうし、私の籍がどうこう変わることもない。
そりゃ、本当に仕事を手伝ってもらえるならありがたい。いつ私の能力が使えるようになるのか分からないだけに、それまでサポートしてくれる存在がいるのなら欲しい。とはいえ、さすがにこんな話に食いつくほど軽率ではない。
「……でも、初めて会った妖を信じることなんてできない。結婚だって絶対に無理。お引き取りください」
きっぱりそう言うと、妖狐は鼻から息を長く吐いた。てっきり怒るのかと思ったが、そんな様子はない。
「まあ、急にこんな話をしても戸惑うのは当然か」
「あの、お引き取りを――」
「すぐに私の力が必要だと分かるはずだ。お前が首を縦に振るまで、私はここに居座ることにする」
妖狐がそんなことを言い出したので、ぎょっとした。
居座る? 私が認めるまで?
「ちょ、ちょっと待ってよ、そんなの――」
「考える時間くらい与えてやろう。私は心が広いからな」
「今すぐ出て行って! 私の答えは変わらないんだから!」
思い切り叫んでみたが、妖狐は余裕たっぷりに笑ってこう言った。
「嫌なら祓えばいいだろう? 出来るものならな」
その瞬間、自分の眉が怒りでぴくぴくと動くのを自覚した。なんて嫌味なやつなんだ。
妖狐が入り込んだその日の夜、私はイライラしながら普段は開けることのない押し入れに手を掛けた。
「今しか時間がない……! 急がないと」
妖狐は外にでも行っているのか姿を現さない。急に顔を出してくるので油断は出来ないが、今のうちにと探しに来たのは、亡き父が書いていた日記だ。今までの仕事の内容や妖の記録をつけていたので、あの妖狐について何か書いていないかと思ったのだ。
妖狐のことは、父の旧友に相談すれば何とかしてもらえるかもしれない。でも、ただでさえ依頼人を紹介しまくっているのに、私の相談まで持ち掛けるのはなけなしのプライドが許さなかった。祓い屋の娘が妖にまとわりつかれたあげく、他の祓い屋に泣きつくなんて。もうこれ以上情けない自分の姿を見せたくない。あの妖狐は、私が何とか対応してみせる。
取り出した父の日記はよくある大学ノートに書かれていたが、何十冊にも及び、これまで解決してきた仕事量に今更ながら感服する。ノートには相手の妖の特徴や祓った方法などが細かく記してあり、しっかり者の父らしかった。久々に見た父の字に少し切ない気持ちになりながら、私はノートを読む。
あの妖狐について何かないだろうか。例えば弱みとか……祓う力がない私にも対抗出来る方法が書いてあれば……!
そう願いながら古い日記を読み進めていくが、今のところ目ぼしいものはない。しばらくして目に疲れを覚えた私は、はあと深いため息をついた。
「仕事は来ないし変なのに絡まれるし、さんざんだよ……まあ仕事は来ても、こなせないんだろうけど……」
嘆きながらパラパラとめくっていくと、あるページが目に留まった。それはもう十年も前の日記で、まだ私が父の仕事に同行していない頃だ。
「狐って単語があった……!」
私は食い入るようにノートの文字を追う。
『……とても強い力で、その上相手は一体ではなかったので苦戦した。悪意しか持っていない妖が一番恐ろしい。だが今日は珍しいことに、力を貸してくれた狐がいた。銀髪の美しい妖狐だった。突然現れ、妖を攻撃し始めた時、一体何が起こったのか分からず呆然としてしまった。妖が人間の手助けをするなど考えられない。結局、彼の助けによって勝利した。お礼を言ってなぜ助けてくれたのか尋ねたが、別に人間の味方というわけじゃない、と一言だけ残して去ってしまう。長い祓い屋生活でも初めてのことで驚いた。名前ぐらい聞いておけばよかっただろうか。いつか恩を返すことが出来ればいいのだが』
「銀髪の美しい妖狐……」
この日記を見るに、父が強い妖相手に苦戦している時、颯爽と現れて手助けをしてくれたらしい。そんな妖が本当にいるのだろうか? でも、噓を書いているとは思えないし……
「まさかこれが、さっきの……?」
特徴はその通りだけれど、妖は美しいものが多いし、あいつと同一人物だと決めるには早すぎる。あんな失礼なやつが、ピンチの時に現れて助けてくれるなんて想像も出来ない。これはやっぱり、違う狐だったんじゃないだろうか?
「何を一人でぶつぶつ言っているんだ」
突然背後からそんな声が聞こえ、私は短い叫び声を上げた。
慌てて持っていたノートを閉じて振り返ってみると、例の妖狐が腕を組んで壁にもたれかかりながら、こちらを見ていた。
「急に現れないで! びっくりするから!」
「そんなに散らかして何をしている」
「お、お父さんの日記を読んでただけ……力を開花する方法とか書いてないかな、って」
「ふうん……まぁ、力を開花させるにはお前自身が頑張らないと到底無理だろう。有能な父親が残した言葉を参考にするだけでは、な」
悔しい。私は唇を噛みしめた。
何が悔しいって、間違えたことを言っていないところだ。妖狐の言うことはもっともで、耳が痛いと感じるほどだった。
「分かってるけど……藁にもすがりたかったの!」
「お前の父親は確か、水の力を使って祓っていたな?」
妖狐が思い出したように尋ねてくる。父の祓い方を知っているなんて、やっぱり一緒に戦ったから……? と思ったが、すぐに思い直す。いや違う、妖の中でも父は有名だと言っていたから、誰かから聞いて知っていただけだろう。
「そうだよ。うちは代々、水の力を使ってきた。だから私もその力が目覚めるはずなんだけど、そんな感覚はまるでないっていうか……お父さんは体の奥底で水の気配を感じるなんて説明してたけど、全然分からないし」
「水の力は知性が必要だぞ。お前はもう少し落ち着いた方がいい」
「ち、知性?」
妖狐は頷く。
「神にも性格があるからな。水は静かで知性がある。風は明るく奔放で小さなことは気にしない。土は穏やかで温厚だ。火は情熱的で少し気まぐれなところがあるから、あの力を扱える人間はあまりいない。お前は見たところ、水というより風と相性がよさそうだが」
「……詳しいんだね」
「長く生きていれば、これくらいの知識があるのは普通だ。まぁ、代々水に力を借りているのなら、そうなる可能性は高い。静けさも知性も足りないから、時間がかかっているだけなんだろう。もう少し理性的に動くんだな」
静けさも知性も足りなくて悪かったですね。だがそこは自覚があったので言い返せなかった。
私は恥を忍んで妖狐に尋ねる。
「落ち着くって、おしとやかになればいいってこと? 知性っていうなら勉強すべきなの?」
「性格はすぐに変えられないだろうが、そうなるように意識してみるだけで違うということだ。知性は知識だけじゃない。むやみに動くのではなく、考える癖をつけろ」
確かに、考えるより先に動くタイプなのは否めない。力が開花していないのに、現場に出てみればどうにかなるかも、なんて思ってしまう人間なのだ。
反省してがっくり項垂れる私に、妖狐はにやりと笑って言う。
「そんなことを気にするより、私と結婚した方が早――」
「それとこれとは話が別! ていうか、そもそも部屋に勝手に入ってこないでよ、デリカシーがない人ね!」
「私は人じゃなくて狐だ」
「細かいな!」
私は大声でそう言い返しながら、すぐに彼に背を向けて散らかったノートを片付け始めた。その時、ふと気になったことがあって振り返り、まだ壁にもたれて立っていた妖狐に訊いてみる。
「あなた……名前はあるの?」
日記に書いてあった一文が気になっていたのだ。
妖狐は呆れたように眉を顰める。
「あるに決まっているだろう。私の名は瑶」
「瑶……」
「だが、名を呼ぶ者はそう多くない」
それだけ言うと、妖狐は静かに部屋から出て行ってしまった。
揺れる彼の尻尾を見つめながら、もしこの日記に書いてあった妖狐が彼だったら――と想像し、複雑な気持ちになった。
*
こうして瑶は宣言した通り、うちに居座ってしまった。
私が修行や家事をしているところを横でずっと眺めていたり、庭で優雅に花を愛でたりと、まるで家族の一員のように振る舞っている。何度も出て行けと言ったし、結婚なんかするつもりはないと宣言してもどこ吹く風。時々ふらりといなくなることがあるけれど、瑶は出て行くそぶりを見せない。
イライラが募る。
相手が人間ならば警察を呼べばいいし、私に祓い屋としての力があれば、祓ったり結界を張ったりできる。でも残念ながら、今回の場合警察は役に立たないし、今の私では追い払うことも出来ないのだ。
ただ私に危害を与えようと思っていないのは本当のようで、何もしてこないのは幸いだが、こんなに付きまとわれていては堪らない。
その上この妖狐、いちいち気に障るようなことばかり言ってくる。妖はデリカシーも何もない、ということをこの一件でよく学んだ。一人ぼっちは寂しいと思っていたけれど、こんな得体のしれない妖と一緒にいるよりはマシだ。
私の周りを離れようとしない瑶にどう対処しようか、必死に考えていた。
そんなある日のこと。私のもとに客人が訪れた。
私が昼食の準備を始めようとしたところ、インターホンの音が鳴り響いたのだ。もしや、久々に依頼の話でも来たのかもしれない。瑶は今家にいないようなので、ちょうどいい。
慌てて長い廊下を進み、返事をしながら玄関の引き戸を開けた。
「はーい!」
でも目の前にいたのは、見知った顔だった。
「あれっ……志保のおじさんとおばさん」
私の幼馴染の両親だ。近くに住む松井志保は、私と同い年の女性で、小さな頃からよく遊んでいる親友だ。私と違ってのほほんとした性格で可愛らしい子だけど、気が合ってずっと仲良くしている。志保は昔から教師になるのが夢で、今年の春からその夢を叶えて教職についており、この近くの高校で働いている。
祓い屋という職業は異質なので、距離を取りたがる人も多い。でも志保やその両親は、私たちと普通に接してくれる数少ない人たちだった。三人とも心優しく、明るい。
そんな志保の両親が、げっそりした顔で立っていたので驚いた。父の葬儀には三人揃って参加してくれて、会うのはあれ以来だけれど……
「どうしたんですか? 志保は来てませんけど」
私が尋ねると、二人は同時にため息をつき、か細い声を出す。
「ちょっと璃央ちゃんにお願いがあって……」
「私ですか……? えっと、ここじゃなんですし中へどうぞ」
私は客間に二人を案内した。
歩くたびに軋む廊下を抜けて襖を開けると、そこは畳が敷かれた和室。中央には木製のテーブルがあり、それを囲むように紫色の座布団が六つ並んでいる。床の間には父が買ってきた壺がひっそりと置いてあった。
ここ最近、客人が来なくなっていたのでこの部屋を使うことはなかったが、毎日掃除していたので埃一つない。
「どうぞ。私はお茶を――」
「大丈夫、そんなのはいいから。璃央ちゃんも座って」
おばさんが神妙な顔をして言ったので、私は素直にそれに従って二人の正面に座った。改めて見ると、おじさんもおばさんも本当に顔色が悪い。
「あの、一体何が……」
「志保がいなくなってしまったの」
おばさんの涙声が響き、私は息を呑んだ。
「そ、それ、どういうことですか?」
「突然、消えてしまったの。二日前から……。私たちに連絡はないし、部屋もそのままで。旅行バッグだってあるし、スマホも置きっぱなし。なのに忽然と姿を消してしまったの」
「そ、そんな……!」
「もちろんすぐに探して、警察にも届けを出したんだけど……成人しているせいか、本腰を入れて捜索してくれそうになくて……」
おばさんは苦しそうに顔を歪めて項垂れた。おじさんが静かに口を開く。
「家出の可能性もあるから、と警察は言っていて――」
「あの志保がですか? あり得ない!」
私はつい声を荒らげてしまった。志保はおばさんたちと仲が良かったし、夢の教師になれて嬉しいと言っていた。それが何も告げず突然家出をするなんて、絶対にあり得ない。
私の声に、おばさんが顔を上げて何度か頷いた。
「そう……そうよね、私もそう思うの。それで、仲が良かった璃央ちゃんに悩みとか相談してなかったかなと思ったんだけど……何も聞いてないわよね?」
「何も聞いてないです。私の父が亡くなってバタバタしてたから、最近は会ってませんけど……最後に食事に行った時、仕事は大変だけど楽しい、って言ってましたし。たまにメッセージのやり取りや電話はしてましたが、何も聞いていません」
「……やっぱり事件に巻き込まれたとしか考えられない……」
「事件、って……」
おじさんの言葉を聞いて青ざめる。
例えば誘拐され、どこかに監禁されているとか? 怪我をして動けない状態かもしれない。今はどこで誰に狙われるか分からないし、その可能性は十分ある。
同時に、最悪のパターンが脳裏をよぎった。怪我どころではなかったとしたら……? もしそうなら、家出だったという結末が一番よかったのかもしれない。毎日のようにニュースで見る、悲惨な事件の被害者になってしまったら――
だが私は頭を振って、嫌な想像を一旦追い払った。今はそんなことを考えている場合ではない。
「いくら成人してるとはいえ、荷物やスマホも持たずいなくなったんだから、警察も動くべきです!」
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