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天空の檻

第60幕

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 幼少期に植え付けられたイメージを払拭するのは、容易なことではない。
 ヒトは記憶と忘却を繰り返し、断片的な記憶を少しずつ蓄積しながら大人になっていく。けれど、幼い頃に記憶されたことは、決して忘れることはない。一見、忘却しているように思えるが、心の奥底に深く刻み込まれている。それは、単純でありながら、この世界を生きていく上で、最も重要な理であるからだ。


 少しばかり、昔話をしよう。
 神崎響が三歳になったばかりの頃である。
 それまで、片時も離れることがなかった母親が急に家を空けることがあった。幼い響にとっては、一世一代の大事件である。酷く動揺し、寂しさを訴える響を、父や家政婦は「もうすぐ兄になるのだから、そのような我が儘を言うものではない」と至極、理不尽な言葉で窘めた。
 理不尽や不条理を受け入れることは、大人になることである。響は唇を噛み締めて「兄になる」ことを受け入れ、初めて一つ「大人」になった。

 そうして、響が少しだけ大人になった数日後には、家政婦に手を引かれて、神崎の病院に訪ねることとなった。巨大で白い病院には、白衣を纏った父が待っていた。父に案内されるままに病室に向かい、数日ぶりに、最愛の母と再会することになる。母はベッドに腰かけて、泣いている赤ん坊を抱いて、あやしているところであった。それでも響に気がつくと、泣いている赤ん坊を、真新しい「兄」に見せてやった。

 全くの偶然であったが、赤ん坊は響を目にすると、ピタリと泣き止んだ。そうして、きゃきゃっと嬉しそうな声をあげ、響に両手を伸ばした。色の白く、目元に小さな黒子がある赤ん坊は、この世の幸福を全て詰め込んだような愛らしさで、響に向けて笑ったのだ。
 その笑顔を一目見た瞬間、響は自身の存在意義を確信した。

 赤ん坊は「薫」と名付けられた。
 薫は無垢で、無知で、無力な存在である。

 三歳児の響は年相応に幼く、難しい言葉などは知らなかったし、成人を迎えた今では、薫の誕生の記憶すら朧気である。それでも、実母に聖母の微笑みで語りかけられた言葉は、響の心に深く刻まれていた。

「響はお兄ちゃんになったのだから、薫を守ってあげてね」

 響は大学の研究室で作業を終えると、白衣を脱いで、愛車に乗り込んだ。高層マンションまで車を走らせると、地下の駐車場の定位置に車を停める。マンションのエレベーターに乗り込むと、迷わず高層階まで上っていく。ようやく自宅の玄関の前まで辿り着き、そっと窺うようにドアを開く。

 自身の帰宅の気配を感じてか、小走りでリビングから現れるのは、サイズの合っていない大きなYシャツを着込んで、黒いズボンを履いた少年だった。

「兄さん、おかえりなさい」
「ただいま、」

 微笑む薫に、響も微笑み返す。
 ただ、ひたすら響の帰りを待ち焦がれ、響が帰ると、健気に玄関まで出迎えにくる薫の姿を、響は「愛らしい」と思う。男子高校生に対して抱く感情としては、異質なものであったが、響にとって、薫はいつまでも、無垢で、無知で、無力な幼い弟であった。


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