17 / 36
御者
十七
しおりを挟む
映画館を出ますと、外は夕闇が広がっております。西に広がる茜色の空が、じんわりと闇夜に塗り替えられていく様は美しいものでございました。
地上はというと、夜めいた町に提灯が列なり、祭りのような明るさに活気づいておりました。それは、かつて居着いていた故郷を思い起こさせ、私の目を奪ってしまいます。
「どうかしたのか」
「いいえ、」
直之様に声をかけられ、私は我に返ります。
「色に現を抜かすというのは、低俗な男のすることだ」
男の夢幻、女の地獄。新しい伊豆の遊郭街は、艶かしい光を放ちながら手招いているようで、酒に酔った大人の男たちを引き込んでいきました。
そんな浮わついた連中の背中に、直之様は侮蔑の眼差しを向けるのです。何も知らぬ幼児から、男女の理を知り始めた少年特有の潔癖さ。その穢れのない純真さは、私の心臓を貫きました。
けれど、直之様に知られるわけにはいきませんから、私は必死に笑顔を作ります。
「直之様は好い人はおられないんですか」
「僕はさ。夢二が描くような色白で儚げな女が好いんだ。そういう女は伊豆にはいない」
「そうですか」
直之様は遠くを見つめながら仰りました。
私にはわかりかねますが、西洋の紳士が信仰するキリスト教では、肉体的な欲を伴わない心の繋がりこそが「純愛」であると説いておりました。
直之様の仰るように、生粋の美男子に釣り合う女性というのは、線の細い儚げな少女なのかもしれません。そんな浮世離れした幻想的な美少女が、直之様に寄り添う姿を夢想して、私は息をつきました。
「お前はどうなんだ」
「私は朝倉の下男ですから」
無垢な問いかけは、私には些か酷でございます。直之様は、少し眉を曇らせながらも「そうか」と呟かれました。
帰りの馬車のことはあまりよく覚えてはおりません。直之様が他愛ないお話をしてくださっても、私の頭は靄がかかり、上の空でございましたから。
それでも、雇いの馬車は定刻通りに朝倉邸へと戻ったのでございました。
「ただいま戻りました」
玄関の扉を開いて直之様が声をかけると、程なくして二階の部屋から奥様がお出迎えになりました。
「おかえりなさい。映画は楽しかったかしら?」
すみれ色のワンピースを着ている奥様は、階段の手すりを撫でながら、にこやかに訊ねられました。なんでも帝都の若い女性たちの間では、シャツにスカートを履くことが流行っているようで、新しいもの好きの奥様も洋装を取り入れるようになっておりました。
「ええ、そうですね」
愛息子に微笑む貴婦人は、聖母のような温かい眼差しをしておられます。それでも、直之様は溜め息混じりの素っ気ない返答しか致しません。
「私まで映画観賞をお許しいただき、ありがとうございます」
「いいのよ。直之だけでは不安だったもの。弘と一緒なら安心だわ」
「子供扱いはやめてください」
「あら、ごめんなさい」
直之様が不貞腐れる様子に、奥様は口元を手で覆って上品に笑われました。大人になり始めた少年には、母親の過保護さは、些か不快でありましょう。
「弘、化粧台の下にイヤリングを落としてしまったの。化粧台を動かしてほしいのだけれど」
「……畏まりました」
私が答えると、奥様は満足そうに微笑んで、自室に戻られました。いつの頃からか、私に向けられる奥様の視線は、どこか纏わり付くような熱っぽさで私を絡めとり、身動きが取れなくなってしまうのです。
「大丈夫か?」
裾を引かれて、視線を下げれば、直之様が眉をしかめておりました。私は笑顔を貼り付けたまま、首を傾げます。
「顔色が悪いぞ」
「少し疲れたのかもしれませんね。大丈夫ですよ」
私は微笑んで、無意識に自らの胸を撫でました。胸ポケットには、映画のチケットの半券があったのです。
************************************************
竹久 夢二(明治17年-昭和9年)
大正ロマンを代表する画家。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。
地上はというと、夜めいた町に提灯が列なり、祭りのような明るさに活気づいておりました。それは、かつて居着いていた故郷を思い起こさせ、私の目を奪ってしまいます。
「どうかしたのか」
「いいえ、」
直之様に声をかけられ、私は我に返ります。
「色に現を抜かすというのは、低俗な男のすることだ」
男の夢幻、女の地獄。新しい伊豆の遊郭街は、艶かしい光を放ちながら手招いているようで、酒に酔った大人の男たちを引き込んでいきました。
そんな浮わついた連中の背中に、直之様は侮蔑の眼差しを向けるのです。何も知らぬ幼児から、男女の理を知り始めた少年特有の潔癖さ。その穢れのない純真さは、私の心臓を貫きました。
けれど、直之様に知られるわけにはいきませんから、私は必死に笑顔を作ります。
「直之様は好い人はおられないんですか」
「僕はさ。夢二が描くような色白で儚げな女が好いんだ。そういう女は伊豆にはいない」
「そうですか」
直之様は遠くを見つめながら仰りました。
私にはわかりかねますが、西洋の紳士が信仰するキリスト教では、肉体的な欲を伴わない心の繋がりこそが「純愛」であると説いておりました。
直之様の仰るように、生粋の美男子に釣り合う女性というのは、線の細い儚げな少女なのかもしれません。そんな浮世離れした幻想的な美少女が、直之様に寄り添う姿を夢想して、私は息をつきました。
「お前はどうなんだ」
「私は朝倉の下男ですから」
無垢な問いかけは、私には些か酷でございます。直之様は、少し眉を曇らせながらも「そうか」と呟かれました。
帰りの馬車のことはあまりよく覚えてはおりません。直之様が他愛ないお話をしてくださっても、私の頭は靄がかかり、上の空でございましたから。
それでも、雇いの馬車は定刻通りに朝倉邸へと戻ったのでございました。
「ただいま戻りました」
玄関の扉を開いて直之様が声をかけると、程なくして二階の部屋から奥様がお出迎えになりました。
「おかえりなさい。映画は楽しかったかしら?」
すみれ色のワンピースを着ている奥様は、階段の手すりを撫でながら、にこやかに訊ねられました。なんでも帝都の若い女性たちの間では、シャツにスカートを履くことが流行っているようで、新しいもの好きの奥様も洋装を取り入れるようになっておりました。
「ええ、そうですね」
愛息子に微笑む貴婦人は、聖母のような温かい眼差しをしておられます。それでも、直之様は溜め息混じりの素っ気ない返答しか致しません。
「私まで映画観賞をお許しいただき、ありがとうございます」
「いいのよ。直之だけでは不安だったもの。弘と一緒なら安心だわ」
「子供扱いはやめてください」
「あら、ごめんなさい」
直之様が不貞腐れる様子に、奥様は口元を手で覆って上品に笑われました。大人になり始めた少年には、母親の過保護さは、些か不快でありましょう。
「弘、化粧台の下にイヤリングを落としてしまったの。化粧台を動かしてほしいのだけれど」
「……畏まりました」
私が答えると、奥様は満足そうに微笑んで、自室に戻られました。いつの頃からか、私に向けられる奥様の視線は、どこか纏わり付くような熱っぽさで私を絡めとり、身動きが取れなくなってしまうのです。
「大丈夫か?」
裾を引かれて、視線を下げれば、直之様が眉をしかめておりました。私は笑顔を貼り付けたまま、首を傾げます。
「顔色が悪いぞ」
「少し疲れたのかもしれませんね。大丈夫ですよ」
私は微笑んで、無意識に自らの胸を撫でました。胸ポケットには、映画のチケットの半券があったのです。
************************************************
竹久 夢二(明治17年-昭和9年)
大正ロマンを代表する画家。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
キャラ文芸
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる