献身

nao@そのエラー完結

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御者

十七

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 映画館を出ますと、外は夕闇が広がっております。西に広がる茜色の空が、じんわりと闇夜に塗り替えられていく様は美しいものでございました。
 地上はというと、夜めいた町に提灯が列なり、祭りのような明るさに活気づいておりました。それは、かつて居着いていた故郷を思い起こさせ、私の目を奪ってしまいます。

「どうかしたのか」
「いいえ、」

 直之様に声をかけられ、私は我に返ります。

「色にうつつを抜かすというのは、低俗な男のすることだ」

 男の夢幻、女の地獄。新しい伊豆の遊郭街は、艶かしい光を放ちながら手招いているようで、酒に酔った大人の男たちを引き込んでいきました。
 そんな浮わついた連中の背中に、直之様は侮蔑の眼差しを向けるのです。何も知らぬ幼児から、男女のことわりを知り始めた少年特有の潔癖さ。その穢れのない純真さは、私の心臓を貫きました。
 けれど、直之様に知られるわけにはいきませんから、私は必死に笑顔を作ります。

「直之様はい人はおられないんですか」
「僕はさ。夢二ゆめじが描くような色白で儚げな女が好いんだ。そういう女は伊豆にはいない」
「そうですか」

 直之様は遠くを見つめながら仰りました。
 私にはわかりかねますが、西洋の紳士が信仰するキリスト教では、肉体的な欲を伴わない心の繋がりこそが「純愛」であると説いておりました。
 直之様の仰るように、生粋の美男子に釣り合う女性というのは、線の細い儚げな少女なのかもしれません。そんな浮世離れした幻想的な美少女が、直之様に寄り添う姿を夢想して、私は息をつきました。

「お前はどうなんだ」
「私は朝倉の下男ですから」

 無垢な問いかけは、私には些か酷でございます。直之様は、少し眉を曇らせながらも「そうか」と呟かれました。



 帰りの馬車のことはあまりよく覚えてはおりません。直之様が他愛ないお話をしてくださっても、私の頭は靄がかかり、上の空でございましたから。
 それでも、雇いの馬車は定刻通りに朝倉邸へと戻ったのでございました。

「ただいま戻りました」

 玄関の扉を開いて直之様が声をかけると、程なくして二階の部屋から奥様がお出迎えになりました。

「おかえりなさい。映画は楽しかったかしら?」

 すみれ色のワンピースを着ている奥様は、階段の手すりを撫でながら、にこやかに訊ねられました。なんでも帝都の若い女性たちの間では、シャツにスカートを履くことが流行っているようで、新しいもの好きの奥様も洋装を取り入れるようになっておりました。

「ええ、そうですね」

 愛息子に微笑む貴婦人は、聖母のような温かい眼差しをしておられます。それでも、直之様は溜め息混じりの素っ気ない返答しか致しません。

「私まで映画観賞をお許しいただき、ありがとうございます」
「いいのよ。直之だけでは不安だったもの。弘と一緒なら安心だわ」
「子供扱いはやめてください」
「あら、ごめんなさい」

 直之様が不貞腐れる様子に、奥様は口元を手で覆って上品に笑われました。大人になり始めた少年には、母親の過保護さは、些か不快でありましょう。

「弘、化粧台の下にイヤリングを落としてしまったの。化粧台を動かしてほしいのだけれど」
「……畏まりました」

 私が答えると、奥様は満足そうに微笑んで、自室に戻られました。いつの頃からか、私に向けられる奥様の視線は、どこか纏わり付くような熱っぽさで私を絡めとり、身動きが取れなくなってしまうのです。

「大丈夫か?」

 裾を引かれて、視線を下げれば、直之様が眉をしかめておりました。私は笑顔を貼り付けたまま、首を傾げます。

「顔色が悪いぞ」
「少し疲れたのかもしれませんね。大丈夫ですよ」

 私は微笑んで、無意識に自らの胸を撫でました。胸ポケットには、映画のチケットの半券があったのです。



************************************************
竹久 夢二(明治17年-昭和9年)
大正ロマンを代表する画家。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。
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