盟約の花婿─魔法使いは黒獅子に嫁ぐ─

沖弉 えぬ

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「魔法使いは黒獅子に嫁ぐ」後編

18失われる純血

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 翌日よろよろの状態でベッドから抜け出したのは日が高くなってからだった。一方アスランは朝になると公務があるのかさっさと出て行ってしまったのを夢心地の中で見ていた。昼になって覚醒し、一人っきりの室内にカルディアの溜息がこぼれていく。
 発情期は概ね一週間ほど続く、はずだ。いかんせん初めての事なので勝手が分からない。カルディアはのろのろと起き出して床の上で足を引きずりながら机の引き出しを開ける。『初めての発情期』とフォトス語で書かれた可愛らしい装丁の本を出して読み進める。書いてある事のほとんどは、まさに昨晩経験したような事だった。他に目新しい事は特になく、まだ熱いような溜め息を吐き出して本を閉じた。
 体全体の熱は熾火のようになって昨日ほどではない。だけどアスランに触れられたらまたあっという間に燃え上がるだろう事は想像出来る。
 昨晩の自分の乱れ具合、そしてアスランの熱っぽい表情を思い出してカッと首まで熱くなる。
 昨日の事を思い出すだけで興奮してくるので、頭を振って記憶を追い出すと、カルディアはまたベッドに転がった。
 汚れたシーツは侍女が変えてくれた。まさに臭い物をつまむような手つきでシーツを持ち上げながらも、何だか諦めたような様子だった。αには番を持つΩの匂いが分かるらしいので、シーツの匂いで改めてカルディアがアスランの番だと認識させられたのだろう。気の毒だが恐らくカルディアが同情するのは逆効果だ。とはいえシーツ一つで全てが丸わかりという状況があまりにいたたまれなく、カルディアは俯いて彼女たちが去るのを待つ事しか出来なかった。
 綺麗に洗濯されたシーツの匂いを胸いっぱい吸い上げて目を閉じる。いよいよ何かカルディアにも出来る事を見つけなければ、カルディアはこうして夜毎抱かれては昼を怠惰に過ごすだけの日々になってしまう。
 確かにアスランと夜を過ごす事もカルディアの務めだ。だがこれではまるで家畜のようではないか。
「家畜……」
 自分で想像して落ち込んだ。こうしてベッドでぐずぐずしていると本当にそうなりそうな気がして体を起こした。
 それを狙っていたかのようなタイミングでコンッと軽い音がした。誰かが扉を叩いている。一体、誰だろう。
 カルディアが発情期に入った事はいつもの顔触れには通達されたそうだ。ティキもケディも侍女たちもみんなαなのでこの部屋には近寄りたがらない。万が一を起こさないためにも部屋には最低限の世話をしに侍女がやってくるだけに留められた。
 カルディアは警戒しながら扉の向こうに答える。「誰?」
「この部屋の匂いについて苦情を言いに来ました」
 扉の向こうからこもった声が答えた。気味の悪い事に何故か喜色が滲んで聞こえ、カルディアの手がきゅっとシーツを掴む。声の主は昨日勝手に入ってきた知らない男だ。
 本能が言う、扉を決して開けてはいけないと。そしてこの男の事をすっかり報告し忘れていた事を今になって思い出し後悔していた。
「あの、近付かないくらいしか対策はなくて」
 そのまま扉越しに話すと突然扉がガタガタと鳴らされる。
「く、臭いなら、そこ開けない方がいいですよ」
 どういう立場の人間なのか分からず言葉遣いが不確かになってしまう。シリオ語もあやふやだ。
「いえいえ、親切な私があなたのその匂いを改善して差し上げようと思いまして」
 言っている事が最初と変わっていた。それに気付いた瞬間怖気が走る。
 男は会話を続けながらも執拗に扉を開けようと取っ手を掴んで扉を鳴らした。
 何か武器になる物はないかとベッドから降りて辺りを見回す。ナイフもフォークも仕事は真面目な侍女がきちんと毎食片付けてしまう。あとはもう大きな家具くらいだろうか。倒して扉の前を塞げたら良かったが、とてもではないがカルディア一人で動かせる大きさの家具はない。
 何か、何か、と念じるようにして鏡の方へ目を向けた時、そこに佇むとあるアイテムを見つけて閃いた。
(これなら……!)
 いつの間にか男もカルディアも喋る事をやめていた。部屋に響くのはガタガタと狂ったように鳴る扉を揺らす音だけ。そのうち、取っ手から異音が鳴った。廊下側と室内側で対になっていた金属の取っ手がゴトンと重たげに床に落ちる。
「ふう……やっと開きました」
 やはりそうだ、あの大きな耳を持つ男。顔はのっぺりとしていてつぶらな瞳は笑っていない。男は昨日も手にしていた丸いガラスのような物を目に当てて、小さくて黒い豆のような目を細めてカルディアを見た。
「ああ……本当にアスラン様は番をお決めになられたんですねぇ……」
 テーブルを挟んで男と対峙する。男の目はまともではない。恍惚とした表情を浮かべて少しずつカルディアににじり寄ってくる。
 舐められたものだと思う。確かに体格では劣るがカルディアとて男だ。アスランほどの膂力があるならまだしも、相手のほっそりとした体は鍛えているようには見えなかった。
 カルディアが下がれば男が近づく。そのうち壁に追い詰められると男はテーブルを回り込んでくる。
 ここには武器になりそうな物はなかった。あるのはこの身一つだけ。
「お可哀想に、アスラン様が慰めてくれないのでしょう? ですからこの私が、代わりを務めて差し上げますよっ」
 男が両手を広げて襲い掛かってくるのを、カルディアも両手を広げて男の手を取るようにして受け止める。がっちりとかみ合った手の力が拮抗していたのは最初のうちだけだった。次第にカルディアが押し負け始めて体を壁に押しつけられながら沈んでいく。
 男はカルディアを押さえつけようとしながら何かをぶつぶつと唱えていたが、カルディアはその雑音を一切聞かないようにして手の平に意識を集中させる。
 ゾッとするようなディナミが手の先からカルディアの中に入ってくる。こんなに気持ちの悪いディナミは初めてだ。
 優勢だったはずの男の体が押し返され始めると、違和感に気付いた男が眉を持ち上げた。
「あなた、何を……?」
「僕に触れたら痛い目を見ると教えてあげてるんだ、その体に」
 要領はニーマの治療と全く同じ。男の中にあるディナミを吸い上げるだけだ。しかしカルディアには勝算があった。
「へ、あ……?」
 男が情けない声をあげてぐにゃっと潰れるようにして床にへたりこんでいく。その間もカルディアは決して手を放さない。
 男はカルディアにディナミを抜かれるほどに全身が虚脱していき、最後は頬を床にこすり付けてへろへろになってしまった。
 カルディアがぱっと男の手を放すと、男は自身の腕の重さにさえ堪えかねてパタンと床に落としてしまう。
「カルディア様!!」
 男がまるで泥のように地面の上で溶けたところでケディが壊れた扉から駆け付けた。
「って、え? やっつけちゃった?」
「遅かったね、ケディ」
 ふふんと胸を反らし鼻高々の様子でカルディアは手を服の裾で拭う。男の手汗がびっしょりついていたので気持ちが悪い。
「どうやったの? 何か生気抜かれたみたいにぺちゃんこになってるけど」
「生気じゃないよ、ディナミを抜いたんだ」
「へー……?」
 よく分からんという顔をしたケディが男を床に転がし体勢を変えさせて、手際よく縄で縛りあげていく。その様子は実に手慣れていた。
「しばらく起き上がれないと思う。けど……」
「けど?」
 男は意識をなくし昏倒してしまっている。もしもこれがニーマなら今頃笑って「いつもありがとな」と礼を言っているところだ。
 カルディアは自分の手を見つめる。男から吸い上げたディナミはちょっとした魔法数回分といったところだ。やはり、亜獣人とはディナミの総量がとても少ないものらしい。
「ディナミ、吸い取ったからには放っておくと僕もそのうち倒れちゃうんだよね」
「ええ? まずいじゃん」
「大丈夫。これがあるから」
 カルディアは床で転がされている男の体を跨いで鏡台の前から『それ』を取ってくる。ディナミを吸い取るという作戦を思いついたのは『それ』が視界に入ったおかげだ。
『それ』は、一見すると壺か水差しに見える。下の方がくびれて中ほどで大きく膨らみ、口に近づくとまた細くなるまさに壺。しかしその壺には取っ手が両側についていた。しばらく使う機会がなさそうだったので花を一輪生けてあったのだが、ひとまず湯桶に水ごと花を入れ替えてテーブルの上に持ってくる。
「カルディア様!」
「ティキも来てくれたんだ」
 ケディより少し遅れて二人の兵士を連れたティキも血相を変えてやってきた。そして床で這いつくばる男を見て表情を和らげる。
「ああご無事で……おや、ケディがこれを?」
 ティキが床の男とケディを見比べると、ケディは肩を竦めてカルディアを指さす。ティキの切れ長の目が珍しく大きく見開きカルディアを見つめた。
「ちょうど良いからティキも見ていって」
 ティキが兵士に男を運ぶよう指示したのを見計らって扉を閉めるよう言う。「これから起こる事は、他の人には絶対に黙ってて。話していいのはアスランだけ」
 ティキとケディがしっかりと頷いたのを見て、カルディアは壺の両端についた取っ手を握りしめ、ディナミを壺の中に注ぎ始めた。もしこの場に魔法を使える人間がいたなら、いや、ディナミを感じ取る事が出来たなら壺の中で何が起きているか察する事が出来たかもしれない。
 しかしティキとケディの目にはただただカルディアが自信満々で壺を握りしめているだけの光景に見えていただろう。
「はい、出来た」
 何が? と言いたげにティキとケディが同じ方向に首を傾げる。
 カルディアはふふんと笑って壺を逆さにすると、中からコロリとしたものが転がり落ちてくる。それは無色透明の鉱石のように見えた。
「石、ですか?」
「そう、ディナミの石」
 そこまで説明して漸くティキが壺の用途と石の正体に気付く。
「なるほど。〈魔法燃料〉ですか」
「正解!」と言って指を鳴らすと、ティキは『他言無用』の理由にも察しがついたようだ。
「それで、何故私たちは今、魔法結晶の精製過程を見せられたのでしょう?」
「信頼の証と思ってよ」
「なるほど」
 カルディアとティキの話をただ聞いていただけのケディが「分かんない」という顔をする。燃料として使われるこの結晶がフォトス人生きた人間から作られていると他の国の人間が知ったらどうなると思う? と質問すると漸く『他言無用』の理由をケディも理解した。
「ところでこれ、使えないかな?」
「もちろん使えますよ。この部屋の灯りの燃料には困らなくて済みそうです」
「違うよ、アスランの役に立てないかなって」
「どうでしょうねぇ。それはまた今度考えるとして、鍵も掛からない事ですしアスラン様の部屋に移動しましょうか」




 男の正体は大きな耳が特徴的な象族だった。驚くべきは男が次期族長になる人物のその息子だという事だ。つまり現族長の孫であり、カルディアを襲った事は互いの種族にとって多大な影響を齎す事になりそうだとティキが説明してくれた。
「だから耳が大きかったんだ」
「呑気ですね。ところであの男はどうやって部屋に入ってきたんです?」
 兵士に象族の男を連行させて、カルディアの部屋は扉が使用不可になってしまったのでアスランの部屋に移動してきたところだ。アスラン本人は公務で夜まで戻ってこられそうにないのでアスランの部屋にはティキの合鍵を使って入った。
 未だ発情期の匂いとやらは落ち着いていないので、二人に距離を取られているのは少し寂しい。
「扉を壊してそのまま。僕の事に気付いた時に目を付けてたのかも知れない」
ですって?」
 フェネックの長い耳がピと天井を向く。しまったと思ってももう遅い。常に笑っているような顔立ちをしているのに、切れ長の目が細められると凄みが増していく。
「えっと、匂いで僕の事が見つかって、それで、でも発情期の事でうやむやになっちゃって……あはは……」
 へらりと曖昧に笑ってみせるがティキは釣られてくれない。まるで子供のような言い訳をしている気分になり、胸の前で指を合わせてトントン鳴らす。
「アスラン様には黙っておきましょうか。今日の事はもちろん報告しますけど」
「昨日の事も別に言って構わないんじゃない? 危ない男がうろついてた事は周知した方がいいと思うし」
「……烈火のごとく怒りだすと思いますが、いいんです?」
「怒る? まさか。でも危険を事前に知らせなかった事は僕の失態だから呆れられそうだけど」
 立っていたティキの耳が力が抜けるようにして降りていく。どうやらティキの方こそ呆れさせてしまったらしい。だが今回の事で対亜獣人の防衛方法が分かったのは怪我の功名だった。それでどうか許してほしいところである。
「まぁ……今回の事で一つ象族に貸しが出来たと思う事にしましょう。これでどうにかアスラン様の頑固頭を柔らかく出来そうです」
 と、言うと?
「今回の事は当然うやむやに出来るような事ではありませんから、それにはカルディア様の公表が必要になるでしょう? アスラン様もいい加減お二人の婚姻について公表する覚悟を持つべきです」
 公表という言葉にカルディアの無い尻尾が立つ。
 つまりカルディアをアスランの伴侶として公にするのだ。いよいよ十日に及んだ軟禁生活終了の鐘が鳴る──。
「浮かれているところに水を差すようですが、果たしてカルディア様にとって状況が良くなるとは言い切れませんよ」
「うん、分かってるよ。Ωなんて、対立している人間の恰好の的でしょ?」
 へぇ、というようにティキは腕を組み、顎を上げた。
 平和を絵に描いたような牧歌的な故国、フォトス魔法国。故郷では学者や王族の対立もなければ、諍いなんて兄弟喧嘩や夫婦喧嘩がせいぜいだった。そんなカルディアでも自分の身が狙われているらしいと知る事が出来たのは、クファルの企てによってアルタナ地区で捕まった経験があったからだ。
 クファルとアスランの関係は未だに教えられていないが、アスランの王太子としての不安定な立場をヒントに考えれば廷臣たちの間で意見が分かれているだろうという事が予想出来た。
 きっと、カルディアはアスランにとって泣きどころになるのだろう。番は生涯に一人だけ。番は、伴侶を亡くすと後を追うように次第に弱っていくという。それを初めて知った時、まるで命を二人で分け合うようだと思った。そして、それだけ愛せる伴侶に巡り合えた兄の事を祝福する一方でひどく羨ましくもあった。自分は愛の無いαと番にならなくてはいけなかったから。
 だけど──。
 アスランのために死ねるかと問われたら、それは分からない。だけど死なないために力を貸したいとは思う。何か出来る事があるのなら、カルディアは助力を惜しまない。
 出会った頃はあんなに嫌っていたのに、自分の気持ちの変化に笑ってしまいそうだ。
「カルディア様……」
 カルディアの表情から何かを読み取ったらしいケディがしおらしく茶毛の猫耳をしゅんと垂れさせるので安心させるように笑い掛ける。
「それで、いつ?」
「カルディア様の発情期を終えてからになるかと。詳細はアスラン様とも話し合って決めなくては」
「じゃあ話そう。それに、僕は発情期の間にやっちゃった方がいいと思うけど」
「それはまた大胆な。一体どんなお考えがあるのか、聞かせていただきましょうか」
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