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第1章
その腕の中で、国境を越えて。
しおりを挟むディオス様は、私のことを抱きかかえたまま、大きな窓から、バルコニーへと降り立った。
その途端、指先が冷たくしびれてしまうみたいな、冷たい風。
私の家、ルンベルグ家は、乙女ゲームの舞台であるベールンシア王国の北端にある辺境伯家だ。高い山脈を挟んで、魔王の国ガルシアとの国境に位置する、この王国の防衛線として、重要な役割を持つ。
「さあ……。行きましょうか」
「――――どこに?」
ずっと、ディオス様のことを、無条件に信頼していた。
乙女ゲームの悪役令嬢として、転生してしまった私にとって、幼い頃からいつも一緒にいてくれて、しかも乙女ゲームには登場しないディオス様の存在は、かけがえのないものだった。
でも、今はわからない。
だって、ベールンシア王国とは敵対関係にある、魔王の国ガルシアの軍服を着たディオス様。
このままついていったら、悪役令嬢の断罪から逃げ続けていたのに、魔王側の人間になってしまいそうだ。
――――乙女ゲームのシナリオを壊し続けてきた、バグか何かなの? 王立学園の乙女ゲームの悪役令嬢という役割から、逃げ切ったはずなのに。
ううん。三日前、王都からの正式な使者が差し出した書簡は、学友でもある第三王子ロイス・ベールンシア殿下との、婚約の打診だった。あんなに避け続けていたのに、どうして今になって。
フルリと震えれば、ディオス様は、「気が付かずに申し訳ありません」と、纏っていたマントで私のことを包んでくれる。
温かさ包まれた安心感。そして、三年前と、まったく変わることがない香りは、屋上庭園を駆け抜ける、甘やかで爽やかな風みたいで。
「ディオス様……」
「本当は、リリーナが望む場所に、連れて行って差し上げたいのですが」
大好きな香りが、私の思考能力を奪っていく。
「返事はいりません。これは、三年前のあの日から、決まっていたことです」
「三年前?」
三年前のあの日、私の手のひらに口づけを落としたディオス様は、珍しいことに、浅瀬の海のような色をした瞳を、真っすぐに私に向けた。
魔王軍との戦争は、何百年も続いていた。でも、それも聖女であるヒロインの登場により、もうすぐ終わりを迎えるはずだった。
ディオス様は、私の守護騎士をしてくれてはいたけれど、王国騎士団の所属。
何度も、過酷な戦場に身を置きながらも、怪我一つなく帰ってきていたから、もちろん三年前も、無事私の場所に帰ってきてくれると信じて疑わなかった。
魔王軍との戦いの最前線でもある、ルンベルグ辺境伯家に生まれながら、私の家族は誰も私に現実を見せてくれなかった。だから、戦争はどこか遠い世界の出来事のようだった。
そうではないのだと、三年前のあの日。私は残酷な現実を思い知らされた。
「三年前のあの日、何があったのですか」
廊下が騒がしくなる。部屋の鍵が、ガチャンと開く音が、妙に大きく耳に残る。
「時間がないようです。説明はあとで」
私の問いに答えることなく、ディオス様はバルコニーから飛び降りる。
一瞬の浮遊感。思わず目を閉じて、ディオス様に縋り付くと、次の瞬間には、バサバサと羽音が聞こえてくる。
あっという間に、ルンベルグ家の屋敷は遥か遠くに遠ざかる。
城壁に囲まれた、辺境の領土ルンベルグ。
ここから王都までは、馬車で一週間以上かかる。
そして、魔王の国ガルシアの都までは、通常の手段では行くことができない。
雪に閉ざされたピリア山脈を越えるか、転移魔法を使うか、それとも竜の背中にでも乗るか。
……そう、こんな風に。
魔王の国との唯一の接点でもあるルンベルグは、希少な魔石の産出地で、潤沢な資金と、王国の剣としての軍備を備え、王国で重要な意味を持つ。
王都にある王城は美しいが、ルンベルグ家の屋敷は要塞であり、荘厳な城だ。
並の人間が、入り込むなんて不可能なはずなのだ。
「竜が、人の言うことを聞くなんて……」
竜は人と敵対する生き物だと認識していた。
実際に、ディオス様も、何度も竜の討伐戦に参加している。
それでも確かに、今、私はディオス様が操る竜の背中に乗っていた。
「――――リリーナの価値観なら、すぐになじめるでしょう」
価値観って、乙女ゲームの悪役令嬢としての価値観なら、確かに魔王の国にすぐになじめるのかもしれないけれど。
竜は高く高く舞い上がり、魔王の国ガルシアとベールンシア王国を分ける白い雪と青みを帯びた氷に閉ざされたピリア山脈を軽々と越えていく。
魔法が掛かっているのだろう、風圧を感じることもないし、ディオス様のマントにくるまれた私が、寒さを感じることもない。
「眠っていてください」
やさしく髪の毛を梳かれる。
大好きな温かくて、大きな手。
魔法にかけられたのだろう。
微睡の中に落ちていく。
色とりどりの花が咲く庭園の、お気に入りの場所で、つい微睡んでしまったような、フワフワと心地よい眠りに落ちていく。あの時も、ディオス様は、私のそばにいた。
三年分の悲しみ全てが、今だけは塗り替えられてしまうようだった。
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