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出会い
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数子の父 孝之(たかゆき)は、救急車で大学病院に搬送された。
検査室の傍にある待合室の時計は二時半を指している。
CT検査の数分間、数子は身を固くし祈るような思いで結果を待った。
彼女のもとへ真剣な表情の医師が駆け寄って来る。
「海老沢孝之さんのお嬢さんですね?」
「はい」
「血管外科の鈴田です。お父様は腹部大動脈瘤破裂を起こしています」
「あ…の」
具体的な事は分からない。しかし『破裂』という言葉を聞いた途端、数子の心臓や首の血管は、今まで経験したことも無いほど、めちゃくちゃなリズムと強さで拍動し始めた。
「簡単に言うと心臓から繋がっているお腹の太い血管の一部が瘤のように膨れ上がって破裂しており、一刻を争う非常に危険な状態です。今から緊急手術を行いますので同意書にサインをお願いします」
三十歳くらいの医師に少し早口で言われ、気が動転しながらも差し出された書面に震える手でサインする。
「あの…父は助かりますか?」
張り付いた喉から声を絞り出す。何でも良いから安心できる何かが欲しかった。
「申し訳ありませんが、五分五分としか言えません……」
数子は目を見開いた。
「手術は五時間を予定しています。僕も何としても助けたいのですが、最悪の事も覚悟しておいて下さい。……では手術に入りますので」
「宜しくお願い致します……」
数子の言葉が終わらないうちに、鈴田は時間を惜しむように走り去って行った。
静かな院内に響く靴音を聞きながら、数子は床に突き刺さるほど深く頭を下げ続けた。
(どうかお願いです。お父さんを助けて下さい!!)
*
七時十五分
鈴田がマスクを外しながら、手術室から出て来た。
「先生」
表情をこわばらせ立ち上がる。
「あ…手術成功しましたよ」
鈴田の言葉に数子は目を潤ませた。
「有り難うございました!!! 本当に何とお礼を申し上げて良いか」
そう言って、体を二つ折りにするように頭を下げる。
「実は海老沢先生には、高校の時凄くお世話になったんです」
「えっ?」
「僕はもの凄く出来が悪かったのですが親身に面倒を見て下さって、百万分の一でもお返し出来て良かったですよ」
鈴田はそう言って口元を綻ばせ、数子は目を丸くして息を飲んだ。
「まあ、そうだったんですか……。百万分の一だなんてとんでもない、教え子に手術して貰えたなんて、目を覚ましたらきっと涙を流して喜ぶはずです」
「僕が医者を志した頃に、『将来手術してあげます』って冗談で言ったんですけど、まさか現実になろうとは」
鈴田は小さく笑った。
「不思議なご縁ですね」
「本当に……。ああそうだ、失礼ですがあなたの名前は先生が付けたんですか?」
数子は苦笑しながら、ええ、と頷いた。
「古臭いですよね? いくら数字や数学が好きだからって、『字』と『学』のうえを取っ払って数子って……。『すうじとも読めるぞ、素晴らしい!』ってホント意味分かんないんです。まったく大きくなってから、数の子って男子に馬鹿にされる事とか予想して欲しかったですよ」
「ははは、そう言えば『数学には愛と希望が詰まってる』って高校時代よく聞かされましたけど、僕も未だに意味が分かりません。けど数学馬鹿……失礼、先生の愛情がぎっしり詰まった凄く良い名前だと思います……。では僕は所用がありますのでこれで」
名前を褒めて貰えた事なんて初めてかも。嬉しい……。出来が悪かったって言っても、きっと凄い進学校の真ん中よりちょっと下とかよね……。
遠ざかって行く長身を見送りながら、数子は心の中で呟いた。
まさか鈴田が、エビせんがいなかったら今頃ヤクの売人にでもなってた……と、九九もまともに言えなかった公立工業高校二年の頃に思いをはせ、微笑していたなどとは知る由もなく。
鈴田の口元から笑みが消える。
もう一度ちゃんと見ないと……
彼は、心の中で呟いた。
検査室の傍にある待合室の時計は二時半を指している。
CT検査の数分間、数子は身を固くし祈るような思いで結果を待った。
彼女のもとへ真剣な表情の医師が駆け寄って来る。
「海老沢孝之さんのお嬢さんですね?」
「はい」
「血管外科の鈴田です。お父様は腹部大動脈瘤破裂を起こしています」
「あ…の」
具体的な事は分からない。しかし『破裂』という言葉を聞いた途端、数子の心臓や首の血管は、今まで経験したことも無いほど、めちゃくちゃなリズムと強さで拍動し始めた。
「簡単に言うと心臓から繋がっているお腹の太い血管の一部が瘤のように膨れ上がって破裂しており、一刻を争う非常に危険な状態です。今から緊急手術を行いますので同意書にサインをお願いします」
三十歳くらいの医師に少し早口で言われ、気が動転しながらも差し出された書面に震える手でサインする。
「あの…父は助かりますか?」
張り付いた喉から声を絞り出す。何でも良いから安心できる何かが欲しかった。
「申し訳ありませんが、五分五分としか言えません……」
数子は目を見開いた。
「手術は五時間を予定しています。僕も何としても助けたいのですが、最悪の事も覚悟しておいて下さい。……では手術に入りますので」
「宜しくお願い致します……」
数子の言葉が終わらないうちに、鈴田は時間を惜しむように走り去って行った。
静かな院内に響く靴音を聞きながら、数子は床に突き刺さるほど深く頭を下げ続けた。
(どうかお願いです。お父さんを助けて下さい!!)
*
七時十五分
鈴田がマスクを外しながら、手術室から出て来た。
「先生」
表情をこわばらせ立ち上がる。
「あ…手術成功しましたよ」
鈴田の言葉に数子は目を潤ませた。
「有り難うございました!!! 本当に何とお礼を申し上げて良いか」
そう言って、体を二つ折りにするように頭を下げる。
「実は海老沢先生には、高校の時凄くお世話になったんです」
「えっ?」
「僕はもの凄く出来が悪かったのですが親身に面倒を見て下さって、百万分の一でもお返し出来て良かったですよ」
鈴田はそう言って口元を綻ばせ、数子は目を丸くして息を飲んだ。
「まあ、そうだったんですか……。百万分の一だなんてとんでもない、教え子に手術して貰えたなんて、目を覚ましたらきっと涙を流して喜ぶはずです」
「僕が医者を志した頃に、『将来手術してあげます』って冗談で言ったんですけど、まさか現実になろうとは」
鈴田は小さく笑った。
「不思議なご縁ですね」
「本当に……。ああそうだ、失礼ですがあなたの名前は先生が付けたんですか?」
数子は苦笑しながら、ええ、と頷いた。
「古臭いですよね? いくら数字や数学が好きだからって、『字』と『学』のうえを取っ払って数子って……。『すうじとも読めるぞ、素晴らしい!』ってホント意味分かんないんです。まったく大きくなってから、数の子って男子に馬鹿にされる事とか予想して欲しかったですよ」
「ははは、そう言えば『数学には愛と希望が詰まってる』って高校時代よく聞かされましたけど、僕も未だに意味が分かりません。けど数学馬鹿……失礼、先生の愛情がぎっしり詰まった凄く良い名前だと思います……。では僕は所用がありますのでこれで」
名前を褒めて貰えた事なんて初めてかも。嬉しい……。出来が悪かったって言っても、きっと凄い進学校の真ん中よりちょっと下とかよね……。
遠ざかって行く長身を見送りながら、数子は心の中で呟いた。
まさか鈴田が、エビせんがいなかったら今頃ヤクの売人にでもなってた……と、九九もまともに言えなかった公立工業高校二年の頃に思いをはせ、微笑していたなどとは知る由もなく。
鈴田の口元から笑みが消える。
もう一度ちゃんと見ないと……
彼は、心の中で呟いた。
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