退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで

有賀冬馬

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私はいつだって、背景の風景みたいに扱われてきた。目立たないことを、いつのまにか「いいこと」と思い込み、静かにいることが習慣になっていた。朝の食卓の音や、母のため息、使用人の足音——そういう小さな音に包まれて、私は空気のようにそこにいた。

「舞踏会には出るのね。礼儀だから」

私はうなずいた。声は小さく、すぐに母の視線は次のことへ移った。母はいつも世間体を気にしていて、私が目立つことで家の評価がどう変わるかを考えていた。

「着るものは大丈夫?髪型は整えた?」

「はい、大丈夫です」

父は何も言わなかった。父はいつも波風を立てない人で、私のことを深く詮索するより、庭の木を一本剪定するほうが好きだった。

舞踏会の準備は義務のようだった。婚約者の顔を見て、隣で笑う。それだけでいい、と自分に言い聞かせていた。彼は社交的で誰とでも明るく話す。私はその隣で、小さく笑っていればいいと思っていた。

会場は絢爛だった。シャンデリアの光が踊り、音楽が柔らかに流れる。貴族たちの衣装は豪華で、香りが溶け合う。私は深呼吸して、彼の腕を軽く握った。

彼は私から離れて、場の中央に出た。低くて確かな声が、周りを引きつけた。

「皆様にお知らせがあります」

会場が静まる。期待と好奇の目が彼に注がれていた。

「諸事情により、私たちの婚約を解消します。理由は個人的なものです」

言葉は冷たく、説明はなかった。私は胸が締めつけられるのを感じた。言葉は続いた。

「彼女は退屈で、私の隣に立つ資格がない」

その一言で、世界が変わった。周りの視線が一斉に私に向かい、ざわめきが広がる。私は反論する力を失っていた。声が出ず、足がすくんでしまった。

「おい、どういうことだ」

誰かが叫んだ。けれど、私の言葉はそこに届かなかった。旧友の顔が瞬時に変わり、遠くで母が手を口に当てて震えているのがわかった。父は見えなかった。彼はいつも、面倒なことから目をそらす人だった。

私は舞踏会の光にさらされながら、体が硬直したまま立ち尽くした。嘲笑と同情が混ざった視線が痛かった。涙が出るかと思ったが、出なかった。感情が麻痺していくようだった。

夜、家に戻ると空気はさらに冷たく感じられた。母は無言で私の着替えを見守り、父は新聞のページをめくるように生活に戻るふりをしていた。

「当分、外に出ていたほうがいい。家のためだ」

父の声は穏やかだったが、その言葉は追放のように響いた。

「しばらく静かにしていなさい。あなたのためでもあるのよ」

母の言葉は優しく聞こえたが、私の胸に刺さった。世間体を守るために私を消すのか、と怒りが湧いたが、それも声にならなかった。

夜明け前、私は荷物をまとめた。着替えは最低限だけ。鏡に映る自分を見て、驚いた。髪は乱れ、頬はやつれ、でも目は乾いていた。涙が出ないのだ。泣きたいのに、からっぽのようだった。

馬車の揺れが私の体に伝わる。母は庭先で静かに手を振った。父は遠くで影のように佇んでいた。彼らの姿は私の心には届かなかった。

「どこへ行くの?」

見送りの使用人が尋ねた。私は答えられなかった。どこへ行けばいいのか、自分でもわからなかったからだ。

「わからない。行き当たりばったりでいいんだ」

私は小さく言った。言葉はあまりにも弱く、風に流されてしまった。

馬車は町を抜け、夜の風景が次々に過ぎていった。街灯が遠ざかり、家々の窓に人の気配が灯る。私は窓の外を見つめながら、自分が何も持っていないことを確かめるように、心の中で何度も呟いた。

「私は何も持っていない」

言葉は冷たく、でも正直だった。家族の名、地位、誇り、未来の約束——それらが一夜で消えた気がした。手のひらを見れば、何もなかった。

だけど、不思議なことに、その虚しさの隙間に小さな疑問が生まれた。もし何も持っていないなら、逆に何かを一から得ることもできるのではないか。誰かの期待に応える人生ではなく、自分で選ぶ人生があるのかもしれない。

「こんなはずじゃなかった」

私は小声で言った。声は途切れたけれど、胸の奥で何かが少しだけ動いた。馬車の揺れが心地よくもあり、怖くもあった。未来はまだ白紙で、何が起きるかわからない。

あの日のことが、時折私の頭の中で反芻される。彼が最初に私に言った言葉を、忘れられない。優しい灯りの下で、彼は真剣に私を見ていた。

「君は静かで、でも特別だ。僕には君が必要だよ」

私はそれを宝物のように受け取った。誰かに必要とされるという感覚が、私を満たした。だから、彼の隣にいることが嬉しかった。だけど、その言葉の重みはいつの間にか薄れていった。彼は人の気持ちを飾りにするのが得意で、言葉は簡単に使い捨てられた。

「君は特別だよ、本当に」

当時の彼の声を思い出すと、胸が痛む。今思えば、それは演技の一部だったのかもしれない。私が小さく笑うたびに、周りも笑った。私はそこに居るだけでよかった。自分の意思で何かを選ぶという感覚は、薄れていった。

家に戻ってからの数日は、時間がゆっくりと過ぎた。母は外で私の噂を気にし、近所の女性たちがささやく声が耳に残った。

「まあ、大変ね。本当にあの子が?」

「そうみたいよ。見ていてかわいそうだわ」

人の声が私を裁く。私は部屋の隅で布を織るふりをして、声の方向を向かなかった。誰かの視線を受け止める力は、もう残っていなかった。

ある朝、母がそっと小さな箱を差し出した。中には彼と一緒に撮った写真が入っていた。母は私に何かを伝えたかったのだろう。

「これは捨てなくていいわ。あなたの記憶だから」

「ありがとう」と私は答えたが、胸の奥が苦しかった。写真は私たちの笑顔を写しているけれど、そこに写っているのは本当の笑顔だったのだろうかと疑いたくなる。

「家のために、とにかく静かにしていなさい」

父はそう言って出かけた。彼は朝の光に溶けるように、いつもの仕事に戻った。私は家族の重みを感じながら、荷造りを進めた。荷物は少ない。必要最低限のものだけを手に入れ、後は思い出を箱に詰めた。

馬車に乗ったとき、私は初めて自分の足で外に出ることに恐怖と少しの期待を感じた。家は安全ではなかったが、外には何があるのか見当もつかなかった。私の未来は空白だった。

夜の道を揺られながら、私は自分の顔を見た。泣けない自分が不思議だった。感情がどこかへ流れてしまったようで、代わりに思考だけが冷静に動いている。自分を守るための小さな計算が、無意識に始まっていた。

「一歩ずつだよ」と小さくつぶやいた。言葉は誰に向けたものでもなかったが、胸のどこかが少し軽くなった。遠ざかる家の灯りを見ながら、私は自分の中に残っているものを探した。誇りと呼べるものは消えかけていたが、根っこにある何かはまだ枯れていなかった。

馬車の中で眠れずにいると、ふと未来の自分の姿がちらりと浮かんだ。今の私は小さく、傷ついている。でも、どこかで誰かに拾われて、守られて、少しずつ立ち直る姿を想像した。想像は薄くて頼りないけれど、それでも私を少し前へ動かす力になった。

夜明けが近づくと、空が青みを帯びてきた。馬車の振動が私の身体に伝わり、眠気がやってきた。涙は出なかったけれど、心に小さな火種が残った。その火種がいつか大きな炎になるかはわからない。それでも、私はその火を抱えていくことにした。

馬車が丘を越えると、風が冷たくなった。使用人の一人が外から小さく声をかけてくれた。

「気をつけてね。どこへ行っても、あなたらしくいて」

その言葉に、私は胸が熱くなった。優しさはいつも予想外の場所にある。私は窓を開け、小さな声で答えた。

「ありがとう。覚えていてくれて、嬉しい」

言葉は短かったけれど、本心だった。夜の風が頬をなで、私は目を閉じた。何も持たないという事実は重かったが、それでも少しだけ軽くなった気がした。遠くに見える山の影が黒く横たわる中、私は小さな決意を胸に抱えていた。

夜が白んでくるころ、私は小さく約束した。いつか、自分の名前で笑える日を取り戻すと。 眠りにつく前、私は自分の手のひらをもう一度見つめた。そこから始めると決めた。そして前へ進む。
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