退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで

有賀冬馬

文字の大きさ
2 / 4

2

しおりを挟む
辺境の地は、私の思っていた「どこか遠い場所」とは違っていた。荒れた野原と古い石塀、空気は冷たくて、でもなぜか落ち着く匂いがした。馬車が坂道を下ると、大きな屋敷が見えた。瓦屋根が並び、塔の影がゆっくり伸びている。

「ここが、公爵様の屋敷かしら」

使用人の一人がそう囁いた。私は窓越しに屋敷を見つめながら、胸が少しだけ弾んだ。どこへ行くのかはっきり決めてはいなかったけれど、何かが変わりそうな予感だけはあった。

馬車を降りると、門番がにこりともせずに私を見た。冷えた風が頬を刺す。私の服は古びていて、髪も乱れていた。心の中で小さく身構えた。

「ご用件は?」

門番は短く聞いた。私の声は震えていた。

「仕事を…探しています。掃除でも皿洗いでも、何でもします」

「公爵様に会うつもりか?」

「はい。お願いします」

門番は私を一瞥してから、使いの者に伝えに行った。ほどなくして、屋敷の中に通された。大理石の廊下は冷たく、絵画が並んでいた。周りの空気は静かで、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。

「ここは初めてか?」

低くて落ち着いた声がした。振り向くと、背の高い男が立っていた。黒い外套をまとい、目は氷のように冷たかった。でも、その目には何か静かな光があった。威圧されるような気持ちと、妙に安心するような気持ちが同時に来た。

「はい。すみません、突然来てしまって」

私は頭を下げた。彼は私の話を遮らずにじっと見ていた。

「名前は?」

「エリ莎です」

彼はゆっくりと頷いた。名を呼ばれて、胸が少しだけ軽くなった。

「何がしたい?」

彼の声は尋ねるだけで、私の過去を非難しなかった。私は驚いた。誰かに理由を詮索されるたびに、胸が詰まるような痛みを感じていたからだ。

「働きたいです。誰かの役に立ちたいだけです」

「なら、侍女として来い。雑用から始めるが、理不尽な扱いはさせない」

彼の言葉は短かった。けれど、その短さの中に安心が詰まっていた。私は思わず涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。

「ありがとうございます。がんばります」

屋敷での生活は、最初は緊張の連続だった。朝は早く、夜は遅い。掃除、洗濯、食事の準備、小さな皿一枚まで丁寧に扱う訓練のようだった。私は初めこそぎこちなく動いたが、使用人たちは優しく教えてくれた。叱る者はいなかった。むしろ、「よくやった」と声をかけてくれる人がいて、その言葉が心に染みた。

「ここで働くのは初めてかい?」

中年の調理場の女性が鍋をかき回しながら聞いた。彼女の手は真っ黒で、笑うと目じりにしわが寄った。

「はい。前の家では…うまくいかなくて」

「そうか。でも、ここの人間関係はきつくないよ。堅苦しくないから、すぐに慣れるよ」

彼女の言葉は、私の肩の力を抜いてくれた。使い走りの仕事の合間に、小さな会話が私を温めた。誰かに必要とされるって、こういうことなんだと少しずつ実感した。

ある日、私の掃除の仕方を見ていた公爵が、静かに声をかけてきた。

「埃は繊維の向きに沿って払う。そうすれば布を痛めにくい」

私は驚き、手を止めた。彼はわざわざ私を教えてくれる。やさしい口調ではなかったが、冷たくもなかった。

「はい、わかりました」

私は必死でその技を真似た。きちんとできたとき、公爵はわずかに頷いた。それだけで、私の胸は満たされた。

日々の中で、彼は私に本を差し出すことがあった。直立した背筋で本を置く様子は、厳かさを感じさせた。

「学ぶ気はあるか?」

彼はいつも簡潔に聞いた。私は顔を上げ、強く頷いた。

「はい。教えてください」

本は簡単な礼儀作法や社交の基礎、料理のレシピ、歴史のダイジェストなどが含まれていた。夜、寝る前にこっそりページをめくると、言葉が心に入ってくる。知識が増えると、自分が少しずつ形を取り戻していく気がした。

ある朝、髪型について小さくそれとなく注意された。

「前髪が乱れている。きつく結びすぎているな」

彼は鏡越しに私を見ながら言った。私は恥ずかしさで顔を赤らめた。鏡の中の自分は、少しだけ違って見えた。髪が整うと、不思議に背筋が伸びる。

「すみません。気をつけます」

彼は私を責めるでもなく、ただ指摘するだけだった。その態度が、私にはなぜか救いに感じられた。

公爵は私を甘やかさなかった。求められることは厳しかったが、公平で理にかなっていた。分からないことは教え、できたことには評価を与えてくれた。誰かをただ持ち上げるのではなく、能力を伸ばすやり方だった。

ある日の午後、庭で小さな怪我をした子供が泣いていた。私はすぐに駆け寄り、包帯を取り出して傷を拭いた。子供の母親が驚いて私にお礼を言った。

「早かったわね。あなたみたいな手つきの人がいてくれて助かった」

「大丈夫です。痛かったでしょう。お母さんを呼びますね」

その場面を見ていた使用人の一人が微笑んだ。私は自分が人のために動けたことに、不思議な誇りを覚えた。小さな出来事が、私の中にある力を少しずつ確かめさせてくれた。

ある晩、公爵は私を書斎に呼んだ。重い扉の向こうは静かで、本の匂いが満ちていた。

「最近の働きぶりはどうだ?」

「まだまだです。でも、一生懸命やっています」

私は正直に答えた。公爵はしばらく沈黙した後、机の引き出しから一着の簡素なドレスを取り出した。

「これは、外で使うものだ。派手ではない。だが、きちんと見える」

私は驚いた。これまで私が着ていたのは古い服ばかりだった。彼が用意してくれたその衣裳は、質は良く、でも控えめだった。私は胸が熱くなった。

「どうして…こんなものを?」

「見た目は人の行動を左右する。だが、それが本質を変えるわけではない。だが、適切に振る舞えれば、道は開ける」

彼の言葉は理論的で、余計な感情がなかった。それでも私は、その言葉を温かく受け取った。

日々、私は役に立つことを喜び、学ぶことを楽しんだ。お茶の淹れ方、テーブルの並べ方、来客の応対――どれも小さな技術だったが、できるようになると自信がついた。使い古された自分を一枚ずつ脱いで、新しいものを身につけているような気がした。

夜になると、寝台で本を開いてこっそり勉強した。ページをめくる音が静かに部屋に響いた。鏡に映る自分は、少しだけ違って見えた。頬に色が戻り、目に光が戻っていた。

「あなたはここで、誰の助けにもなる」

ある夜、公爵は廊下で立ち止まり、私にそう言った。彼は淡々と話したが、その言葉は私にとって宝物になった。

「はい。役に立ちたいです」

私は答えた。声はまだ柔らかかったが、確かな意思が込められていた。外の世界で何が起きるかはわからない。でも、今はここで学び、誰かの役に立つ自分でいたいと思った。

ある日、屋敷に小さな社交の集まりが開かれた。公爵の知人が数名招かれ、私はお茶出しを任された。心の中は緊張でいっぱいだったが、今まで覚えた所作を思い出して静かに動いた。

「お茶をどうぞ。温かいうちにお出ししますね」

私は一つ一つの動作を丁寧に行った。客の一人が私を見て、意外そうに眉を上げた。

「随分感じの良い侍女だ。教育が行き届いているな」

その言葉に公爵は軽く口角を上げただけだったが、私は心の中で小さな勝利を感じた。誰かに認められることは、思っていたよりもずっと励みになる。

しかし、侮蔑を隠さない者もいた。私の出自を嗤うような視線を向ける男がいた。昔の私なら、震えて逃げ出していたかもしれない。だがそのときは、胸の奥で何かが堅くなった。

「失礼ですが、ここにいる者は役割を持っている。誰かの手助けをするそれは、尊いことだ」

無意識のうちに私はそう言葉を返していた。言い方はぎこちなかったが、はっきりとした口調だった。周囲が一瞬静まり返った。公爵がわずかに眉を動かし、私を見た。

「強張るな。あれは口の悪い人間だ。だが、態度は正すべきだ」

公爵の声は穏やかだったが、その場の空気は変わった。私は自分自身を褒めたくなった。小さな勇気が、私を少しだけ自由にした。

夜、風呂を沸かしながら私は考えた。ここに来てから、誰かに守られているという安心感が少しずつ育っている。公爵は決して過保護ではない。むしろ、自分で動ける力をくれる人だ。私は初めて、「守られる」ことと「自分で立つ」ことが両立できるのだと知った。

「これからどうしたい?」

公爵に問われたことがあった。私は答えに詰まった。遠い日のことや、失ったものが一度に浮かんできて、胸が痛くなった。

「まだ、はっきりとは。けれど、人のために働きたいです。小さな幸せを作りたい」

「その気持ちは大事だ。続ければ、道はできる」

彼は笑わずに言った。私はその言葉を胸にしまい、翌日も洗濯をし、料理を運び、子供の遊ぶ相手をした。日々の繰り返しが、私を地面にしっかり立たせてくれた。

ある晩、屋敷の庭で一人で座っていると、公爵がそっと隣に来た。夜は冷たく、星が瞬いていた。言葉は少なかったが、その沈黙が二人の間に心地よく流れた。

「君は強くなった」

彼はぽつりと言った。私は驚いて顔をあげた。

「そうですか?」

「うむ。以前のように、すぐに折れない。困難を前にしても立ち向かう。良いことだ」

私は小さく笑った。公爵の言葉を聞きながら、自分の手を見た。手の甲のしわに、日々の仕事の痕が増えている。昔はそれを恥ずかしく思っていたが、今は家族や自分を支える証のように思えてきた。

「公爵様、ありがとうございます。ここに来て良かったです」

「そう思うのなら、それでよい」

彼は短く答えた。私たちは言葉少なに夜を分け合った。冬の冷たい風が頬を撫でると、私は背筋をただした。心の中に小さな灯がともり、暗さを少しだけ押し返しているようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

《完結》金貨5000枚で売られた王太子妃

ぜらちん黒糖
恋愛
​「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」 ​甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。 旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。 「それは本当に私の子供なのか?」

兄のお嫁さんに嫌がらせをされるので、全てを暴露しようと思います

きんもくせい
恋愛
リルベール侯爵家に嫁いできた子爵令嬢、ナタリーは、最初は純朴そうな少女だった。積極的に雑事をこなし、兄と仲睦まじく話す彼女は、徐々に家族に受け入れられ、気に入られていく。しかし、主人公のソフィアに対しては冷たく、嫌がらせばかりをしてくる。初めは些細なものだったが、それらのいじめは日々悪化していき、痺れを切らしたソフィアは、両家の食事会で……

妹に一度殺された。明日結婚するはずの死に戻り公爵令嬢は、もう二度と死にたくない。

たかたちひろ【令嬢節約ごはん23日発売】
恋愛
婚約者アルフレッドとの結婚を明日に控えた、公爵令嬢のバレッタ。 しかしその夜、無惨にも殺害されてしまう。 それを指示したのは、妹であるエライザであった。 姉が幸せになることを憎んだのだ。 容姿が整っていることから皆や父に気に入られてきた妹と、 顔が醜いことから蔑まされてきた自分。 やっとそのしがらみから逃れられる、そう思った矢先の突然の死だった。 しかし、バレッタは甦る。死に戻りにより、殺される数時間前へと時間を遡ったのだ。 幸せな結婚式を迎えるため、己のこれまでを精算するため、バレッタは妹、協力者である父を捕まえ処罰するべく動き出す。 もう二度と死なない。 そう、心に決めて。

侯爵様に婚約破棄されたのですが、どうやら私と王太子が幼馴染だったことは知らなかったようですね?

ルイス
恋愛
オルカスト王国の伯爵令嬢であるレオーネは、侯爵閣下であるビクティムに婚約破棄を言い渡された。 信頼していたビクティムに裏切られたレオーネは悲しみに暮れる……。 しかも、破棄理由が他国の王女との婚約だから猶更だ。 だが、ビクティムは知らなかった……レオーネは自国の第一王子殿下と幼馴染の関係にあることを。 レオーネの幼馴染であるフューリ王太子殿下は、彼女の婚約破棄を知り怒りに打ち震えた。 「さて……レオーネを悲しませた罪、どのように償ってもらおうか」 ビクティム侯爵閣下はとてつもない虎の尾を踏んでしまっていたのだった……。

うちに待望の子供が産まれた…けど

satomi
恋愛
セント・ルミヌア王国のウェーリキン侯爵家に双子で生まれたアリサとカリナ。アリサは黒髪。黒髪が『不幸の象徴』とされているセント・ルミヌア王国では疎まれることとなる。対してカリナは金髪。家でも愛されて育つ。二人が4才になったときカリナはアリサを自分の侍女とすることに決めた(一方的に)それから、両親も家での事をすべてアリサ任せにした。 デビュタントで、カリナが皇太子に見られなかったことに腹を立てて、アリサを勘当。隣国へと国外追放した。

【完結】婚約破棄?ってなんですの?

紫宛
恋愛
「相も変わらず、華やかさがないな」 と言われ、婚約破棄を宣言されました。 ですが……? 貴方様は、どちら様ですの? 私は、辺境伯様の元に嫁ぎますの。

いつまでも甘くないから

朝山みどり
恋愛
エリザベスは王宮で働く文官だ。ある日侯爵位を持つ上司から甥を紹介される。 結婚を前提として紹介であることは明白だった。 しかし、指輪を注文しようと街を歩いている時に友人と出会った。お茶を一緒に誘う友人、自慢しちゃえと思い了承したエリザベス。 この日から彼の様子が変わった。真相に気づいたエリザベスは穏やかに微笑んで二人を祝福する。 目を輝かせて喜んだ二人だったが、エリザベスの次の言葉を聞いた時・・・ 二人は正反対の反応をした。

【完結】私が愛されるのを見ていなさい

芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定) 公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。 絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。 ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。 完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。  立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。

処理中です...