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7.十月の浅田光。
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高校最後の学園祭の前日、授業は三時間で終わった。とはいえ三年生は出し物がなく、本当にただ帰るくらいしかやる事が無い。受験がまだな生徒は皆急いで勉強やら塾やらに繰り出そうとしているが、俺はありがたい事に先日AO入試の合格通知を受けたところだった。
「ふぅむ。まあ早いうちに決まってよかったな。じゃあこれ、報告書だけよろしく」
担任にはそんな風に軽く済まされ、報告書を書いて早々と進路指導室を出た。
二年生や一年生達は皆慌ただしく廊下を行き来している。俺も毎年こう慌てていた気がしないでもないが、正直あまり記憶にない。記憶に引っかかっていない、と言った方が正しいか。それだけなあなあで過ごしていたということだろう。以前修治と五月病の話をしていたが、結局それだけではないと思う。
ふと、目線の先。凪野さんだった。彼女は俺を見ると一瞬だけびくついて穏やかに微笑んだ。
「何、進路指導?」
俺の問いに、凪野さんは少しだけ困ったように頷いた。すべてを知っているから、俺は引き留めずに歩き出す。凪野さんは申し訳無さそうにぱたぱたと進路指導室の中へ入っていった。
……夏休みを経由して、俺はようやく知った。修治は本当はとんでもなく嫉妬深く束縛癖があるのだと。
凪野さんはクラスメイトと会話する事を禁じられていた。それも男子どころか女子すらも、修治の見張りは確実にあるようだった。修治の有人である俺ですら、凪野さんに近付く事は許されなかった。始業式早々俺は凪野さんに声を掛けようとしたが彼女もまたあんな感じで、そんな彼女に戸惑う俺を修治は呼び出した。
『俺、あいつだけは絶対誰にも渡したくない。だから、悪い』
奪う気など毛頭ないのに。むしろ、あの二人の幸福を願ってすらいるのに。白々しいだろうが。ただやっぱり凪野さんは美人だし、修治が懸念する理由も分かるには分かる。ただ、俺は彩に対してそんな独占欲を感じたかといえば……無い。そういう意味で俺と修治は正反対だ。でも彩もまた、修治のように独占欲が強い。そして、束縛も。
以前凪野さんが悩んでいた、修治が素っ気ないという悩みはある意味改善された。ただ、とんでもなく悪い方向に。
彩は彩で、受験の追い込みだとか言ってますます連絡が取れない状況にいる。ここまでくれば、もう……居ても居なくても同じな気すらしてきている。最後に会ったのも先月だ。そういえば彩は毎年うちの学園祭には来ていたが、今年も来るのだろうか。一応日程は伝えてあるが、来るかどうかの返事は結局未定で返されていた。
下駄箱で靴を履き替える。すると、背後から気配を感じた。
「浅田くん」
振り返ると、クラスメイトの女子が立っていた。凪野さんとはまた違う、どちらかといえば生命力に溢れた美人……とよく聞く女子だ。彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど。葵ちゃんの連絡先分かる?」
「凪野さんの?」
「うん。さっき進路指導行った時にこれが」
そう言って、彼女は一つの赤い巾着を差し出してきた。ぱんぱんに膨れ上がっていて、何か詰まっているようだった。
「どうも忘れ物してたみたいで、私の前に来た子だろうってことで多分凪野ちゃんじゃないかって先生が。でも私、あの子の連絡先分からなくてさ」
「明日会う時じゃ駄目なのか、それ」
明日は学園祭だが、最初だけ教室でホームルームを行う事になっている。それに本人に会えなくても、机にでも置いておけばいいだろうに。しかし彼女は気まずそうに巾着を開けた。中には、大量の……錠剤。それも何種類もある。
「……明日渡す、とかだとちょっとまずいんじゃないかなって思って」
「……確かに。もう校内見た?」
「一応、進路指導から下駄箱までだけ。外かって思って出ようとしたら浅田くん居たから。確か仲良かったなって」
ふと、修治の顔が過ぎる。しかしあいつはあいつで、今日は何故か欠席だった。……それなら。
「分かった、かけてみる」
「ありがとうね。一応浅田くんにこれ預けておくから。私もう一回学校の中探してみる。にゃ……元林くんにも、ちょっと手伝ってもらうね。まだ教室いるはずだから」
元林の連絡先は一応知っているので何かあれば彼経由で連絡する、という事になり一旦彼女は校内に戻った。とりあえず、凪野さんに電話をかける。修治に勿論俺からの連絡を受けるのは禁じられているはずだが、こればかりは賭けるしかないだろう。3回程コールが鳴り、応答の気配。
『浅田くん?』
戸惑った声だが、よかった。出てくれた。俺は安堵の息を吐きながら、口を開く。
「凪野さん、今どこ」
『その……ちょっと忘れ物しちゃって。駅から学校戻ってるの。どうかした?」
「それって赤い巾着?」
ハッ、と息を呑む気配。しかしすぐに『それ』と返ってきた。
『え、浅田くんが見つけてくれたの?』
「いや、ちょっと色々あって預かってるだけ。今学校だから、どうしよう。戻ってくる?」
『うん、そうする。ごめんね、ありがとう』
電話を切り、元林にメッセージを打って送信する。すぐに『分かった、伝えておくね』と返ってきた。ホッとしてスマートフォンを鞄にしまう。
……久々にまともに会話した。凪野さんと。
少しして、駆け足気味に凪野さんがやってきた。彼女は申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね、ほんとに」
「いいよ。これ」
巾着を渡すと、まず彼女は巾着の中身を確認していた。その様子を見て、声をかける。
「……それ、何の薬?」
凪野さんはハッとしたように顔を上げると、少しだけ歪ませた。聞いてはいけない事を聞いてしまった気もするが、凪野さんは「時間ある?」と聞いてきた。戸惑いながら頷くと、凪野さんは歩き出す。とりあえずついていくと、中庭のかなり奥にあるベンチに到着した。ベンチに乗った埃を払いながら、凪野さんは呟く。
「ごめん、本当は食堂がいいかなって思ったんだけど。今の時間、二年とか一年もいるし」
「何、まずい?」
「……修治の後輩が」
そういう事か。そういう手まで使って、見張りたいか。どこか苛立って、声を投げる。
「辛くないの、凪野さんは」
凪野さんは何も言わずに、ベンチに座った。ひとまず隣に腰かける。
「辛い、というより申し訳ないかな」
「というと」
「……私が学校に戻ってから初めて良くしてくれたのに、あんな事言っても優しくしてくれたのに。なのに、浅田くんを避けるような真似をして」
恐らく修治が一番懸念しているのはそこなのだろう。クラスで、どころか学校中で、恐らく俺が凪野さんの中では好感度が高い。それは修治もよく分かっているはずだ。だからこそあいつは、俺に真っ先に牽制をかけた。
「それは、仕方ないよ」
俺のその言葉に、凪野さんは顔を伏せた。そして、ぽつりと呟く。
「薬については、だけど。私、入院してたじゃない」
「うん。その時の……って、そういえば、何で入院してたか聞いてなかった」
何となく聞くのをずっと躊躇っていたというのはある。クラスでもとくに話題に上がらないということは、本当に大したことないか……本当に触れてはいけないか、の二択な気もしていた。
「拒食症だったの、私」
何となく察していた。あまりにも細い体と、あの小食ぶり。普通の人間にしては、あまりにも極端な気はしていた。凪野さんは続ける。
「こんなの言うのも何なんだけど。……去年私、兄が死んでるのね。交通事故で」
唐突な話に、息を呑む。それでも凪野さんは、少しずつ続けた。
「即死とかじゃなくて、すぐに手術さえすれば助かるような怪我だったみたいで。でも、手術してもらえなかったの。病院の空きの都合で間に合わなかったって」
「それって」
「おかしいよね。空きの都合って何、って話だし。よくよく調べると今までに何件もそういうのがあったみたいで。でも大きな病院だから、優先的にその病院に運ばれてしまうって……。空きがないからよそ行って、じゃなくて空きがないから待って、ってことみたいで」
「いや、それでもおかしいだろそれ……」
はあ、と凪野さんは溜息を吐く。思い出すのも辛そうだ。
「家族みんな、精神的に参っちゃったんだけど。私が真っ先に体調に出ちゃって、入院することになったの。今は皆何とか落ち着いてきたって感じ。もう一年近くになるし」
「……そっか」
そうとしか言えない。しかし凪野さん自身もとくに言葉を欲してはいないようで、微笑んだまま首を振った。
「でももう体は大丈夫。むしろお医者さんには食欲戻る分食べ過ぎないでって言われた」
「修治はこの事知ってるのか?」
「うん、って言っても言ったのは付き合って少ししてからだけど。だから余計に心配してくれてるみたい」
修治自体は、本当に良い奴だと思う。こんな身の上を聴けば、確かにより情が深まっていそうだ。それが独占欲に直結したのかどうかまでは分からないが。
凪野さんは「ごめんね、こんな話」と呟いて立ち上がった。そんな彼女の腕を、掴む。びっくりした顔でこちらを見てくる彼女を見て、俺もまたハッとした。何故、こんな事をしたのか。……何故か、引き留めなければならないような気がして。
「……その。何かあれば言ってくれればいいから。修治にバレないようにしてでも」
凪野さんは戸惑うような表情だったが、それでも頷いてくれた。そのまま、手を握り返してくれる。骨ばっていて、それでも確かに存在している温もりが気持ちよかった。凪野さんはそっと俺の体を引っ張る。つられるようにして、立ち上がった。
「浅田くんは優しいね」
その言葉に、首を振る。ただ俺は、目の前で……悩んでいる人を見捨てるのが怖いだけな気もする。
ひとまず二人で、学校を出る。そういえばこうやって二人で居る事自体、最初の時以来だ。あれからはずっと修治が居た。
「そういえば修治、今日何で休んでるんだろうな」
「さあ。ただ、夜まで連絡は出来ないって言ってた」
まああいつは実家が病院だし、体調を崩して……なんてことはそうそう無いだろう。という事は、何かしらの用事という事か。
駅まで歩き、電車に乗る。凪野さんとは帰る方向こそ同じだが、彼女の方が二駅分先に降りる事になる。それでも二十分程は時間があるはずだった。
「なんか、やっぱり寂しいな」
ぼそり、と凪野さんは言った。
「修治の事も好きだし優しくもしてくれてるけど。やっぱり、寂しい」
「そりゃそうだろ」
男子同士での修治の付き合いは、各段に悪くなっている。その分を凪野さんに割いているのは周知の事実だ。付き合いたての頃は凪野さんへの照れもあってかなり距離があるように思っていたものの、凪野さんによれば一度話し合いをして解消されたようだ。その後のこれでは、極端過ぎる気もするが。
「……こっそりこういう風にするのって、やましいことになっちゃうのかな」
凪野さんの言葉に、俺は首を振った。
「別に無いだろ。浮気とか、そんなのにはならないって」
「そうだよね」
にこり、と微笑まれる。一瞬抱きしめたくなる衝動に駆られたが、おさえた。いや、そもそも何故そう思ってしまったのだろう。凪野さんは、凪野さんなのに。そう、彩とは、違う。
窓の外を眺める。そろそろ、二つ目の駅に到着するまであと五分、という頃だった。この辺りは比較的富裕層の住宅街だ。
「……ん?」
「どうしたの」
凪野さんの問いに目線だけで応えると、俺は窓の外を凝視した。
人通りは少ない。だからこそ、よく見えた。二人組だ。それも、よく見知っている。二人とも私服で、当たり前だがこちらには気付いていない。慌てて凪野さんを見たが、凪野さんも気付いたらしかった。顔が強張っている。
「修治だ」
男の方は、修治だった。そして、女の方は。
こみ上げてくる吐き気を、口元で必死に止める。そんな俺の様子に気付いたのか、凪野さんはそっと「次で一回降りよう」と耳打ちしてきた。頷く。
電車は進む。二人の姿も、遠のいていく。今からでは追いかけようがない。心臓が忙しなく鳴り響くも、それはきっと凪野さんも同じなのだろう。彼女の表情も、険しい。
ようやく停車して、二人で降りた。ホームの待合室には誰もおらず、ひとまずそこに入る。革張りのソファに並んで座ると、まず溜息が漏れた。
「……ごめん」
俺の呟きに、凪野さんは首を振った。
「大丈夫。でもごめん……私も、びっくりした。あれ、修治だったよね」
「だと思う」
そんな言い方しつつ、ほぼ確信だった。
少し眺めの溜息を吐きおろしながら、凪野さんは額に手を添えた。その影の奥にある表情は、この上なく暗かった。
「……私にはあれだけ言ってたのになぁ」
本当に、それだ。そしてそれは、……あいつにも当てはまる。
「凪野さん、女が誰か見た?」
「え、ううん。見えなかった」
首を振る。その事実を心の中で反芻するだけで、吐き気がこみ上げる。それでも。
「……俺の、彼女だった」
「え……」
二人とも楽し気に笑って歩いていた。それこそ、互いに気を許し合っているような気安さで。あの二人を思い返すだけで、虫唾が走る。
凪野さんは未だに顔を伏せたままだった。その細い体は、わずかに震えている。どこか、居たたまれなくなった。だからかもしれない。そっと手が伸びて、凪野さんの手を取った。それでも彼女は顔を上げず、視線だけこちらへ向けて来る。
「ごめん、ちょっと……こうしててほしい……」
言い訳のような縋り方だとは思う。今は何故か、すぐ傍の温もりを欲していた。それは彩への当てつけかもしれないし、修治への当てつけかもしれない。それでも凪野さんは頷いてくれた。
彩との出会い自体は小学校だった。でも六年間一度も同じクラスになった事はなく話したこともなかった。中学三年生でようやく同じクラスになった頃には、すでにあいつは立派に不良をしていた。俺は全然そういったのに関わりが無かったから結局打ち解ける事はない……と、想っていた。
あれもまた、確か十月くらいだった。一人でコンビニに行って、その帰り道。うちのマンションのゴミ捨て場がふと目に入って、そこに彩が倒れているのを見つけた。慌てて駆け寄ると息はあるけど気を失っていて、当時携帯電話をまだ持っていなかった俺は救急車を呼ぶために急いで家に戻った。彩を抱き上げて。その最中、彩は目を覚ました。
「ちょ、や、誰っ!?」
俺も驚いて彩を階段に落としてしまった。尻もち自体がかなり激痛だったのか、歯を食いしばりながら俺を睨んできた。仕方ないので、「同じクラスの浅田」と呟く。
「うちのゴミ捨て場で倒れてたんだよ。あのままにしておけないだろ」
その言葉に彩は舌打ちをして立ち上がる。そのまま、昇っていた階段を降りようとする。そんな彩の腕を引っ張って止めた。
「は、離してよっ」
「何か腹立った、無理」
ぎゃあぎゃあ喚いてはいるが、相手は手負いな上に女子だ。引きずるような形で部屋へと向かう。ようやく到着し部屋へ上げると、鍵を閉めた。今日は母が夜勤でいない。父は元からいない。
「この部屋で待ってて。色々持ってくる」
不機嫌そうながらようやく大人しく従った彩を見届けてから、俺はリビングに置いてある救急箱を回収した。部屋に戻ると、彩は隅の方で縮こまるように座り込んでいた。そんな彩の向かいに座って、消毒液をティッシュに浸す。まず顔面から押し当てると、露骨に顔を歪めた。相当染みるのだろう。
「てか、あんなところで何やってたの」
「別にあんたに言う必要ないし」
それはそうだが、どこかかちんときた。しかし抵抗する素振りはなくなっている分、ただつっけんどんにされているだけな気もする。とりあえずさっきより強めに消毒液を押し当てると、小さく呻いた。
「第一あんたこそ、何でこんなことするわけ」
「いやそりゃあんなところで気失ってたら放置できないだろ、さすがに」
はっ、と鼻で笑われた。
「何それ、偽善じゃない」
「やらない善よりやる偽善、だろ。次腕やってやるから出して」
返事を聞く前に手を取る。冷たい手だった。体温が通っていないかのような。掌を上に向けさせて、気付く。手首に並ぶ、無数の躊躇い傷。その視線に気付いたのか、彩は再び鼻で笑った。
「何、引いてるの」
「引いてるというか、生で初めて見たから」
「……そりゃあんたみなたいなのの周りにはこんなの居ないでしょ」
ごく普通の中学生。それが、周囲の俺の評価だろう。俺は別にそこからとびぬけたいわけでもない。
「痛いだろ、これ。切った時は」
「そりゃね」
「こんな風にいっぱい怪我してるのに、わざわざ更に自分を傷めつける必要あるのか」
それが、本心だった。彩は顔を全力で歪ませると、小さく呟く。何を言っているのか分からずに顔を近づけると、一気に赤く染まった。
「ち、近いったら!」
「だって聞こえないから」
「『気付いたらやっちゃってた』って言ったのよ!」
「ああ」
叫んだせいで口元の傷が痛んだのか、一瞬にして涙目になる。その傷に痛み止めでそっとワセリンを塗ってやるが、案外大人しかった。小刻みに震えていたが。
ある程度手当てを終えて、時計を見る。もう21時を回っていた。
「親御さん大丈夫? 連絡するなら電話使っていいけど」
この言葉に、彩は黙った。不思議に思い見つめると、すぐに顔をそむけられる。
「どうせ仕事だし別にいい。帰る」
「送る」
「は!?」
「いや、そりゃこんな遅くに女子ひとりで歩かせられないって。自転車二人乗り、出来る?」
「べ、別にいいし! ってか何、私を女子扱いとかっ」
「だってそうだろ」
彩は口を噤ませた。しかし観念したのか、「分かった」と呟く。俺はひとまず立ち上がり自転車の鍵を手に取ると玄関に向かった。彩も慌てて追ってくる。
部屋を出て駐輪場へ向かい自転車を出すと、俺は跨った。後ろの荷台に彩を座らせる。
「どこ、家」
「……茂木病院まで行ってくれたらいい。分かりやすいでしょ」
「もしかして茂木病院? 家」
「両親がやってるだけ。家はすぐ傍にある」
ひとまず自転車をこぎ出す。結構目立つ病院だし、ここから近い。すぐに行けるだろう。
時間も遅いお陰か、人通りは少ない。結構街灯も少ない道だし、送って正解かもしれなかった。彩は後ろで大人しくしていた。ぼつり、と呟かれる。
「初めて、こんなの」
「え」
「こんな風に、気遣ってもらえるの」
何となく状況くらいなら察していた。普段クラスにはなかなか現れないが、噂でよく校内を抜け出して悪い連中とよく補導されているというのは聞いている。その中でどんな立場なのかは分からないが、少なくともゴミ捨て場に放置される程度……というところなのだろう。
「別に俺だって、今日あそこで見つけてなかったら多分関わることはなかったよ」
信号で止まる。暗い世闇の中、赤い光だけが周囲を照らしている。
「でも私だって、わざわざ助けてって頼んだわけじゃないから」
「はいはい」
信号が、青になった。
「でもまあ、また何かあれば言ってくれたらいいよ。見たとこ、人に頼ったり甘えたりするの下手そうだけど」
彩は何も言わなかった。表情も見えない。ただ、俺の腰に捕まる力は少し強まっていた。
――あとで知った事だが、あの日彩は喧嘩に負けたとか何とかでグループを追放されていたらしい。金づるには出来たがあまり馴染めておらず、持て余したということだったのだろう。
翌日から彩はクラスに出て来るようになった。勿論他のクラスメイトは不思議がっていたし友達もいなかったようで、俺達がクラスの中でも関わるようになっていったのはごく自然なことだったと思う。
嫌な言い方になるが、俺は彩を恋愛対象では一切見ていなかった。それどころか淡い恋心を抱いていた他クラスの女子が居たが、それを知った彩の傷ついた顔……今でも忘れられない。その時に初めて、彩は俺にその気持ちを伝えてきた。所詮俺の恋心なんて親愛に毛が生えた程度だったし、目の前で必死に縋ってきた彩を振りほどく程、俺は非情にもなれなかった。
そうだ、俺は結局甘い。
「ごめんね」
凪野さんはそう呟いた。俺に対してなのか修治に対してなのか。聞く勇気は無かった。多分両方に対してなんだろう。より強く、抱きしめた。
あれから結局俺達は流れるようにして俺の家に来た。あのまま凪野さんを置いて帰る気もしなかったし、放っておけなかった。別に俺が居たからどうこうだなど思い上がってはいないが……それでも、置いていけなかった。
互いのぬくもりが、心地いい。甘い香りと、折れてしまいそうな体。彩とは、違う。だからこそ安心出来ているのかもしれない。彩と居て、こんなに自分自身が打算もなく安らげる時などなかった。いつも彩の機嫌を取ることに成功した喜びしか、感じる事は出来ていなかった。それを、凪野さんのお陰で気付けた。
ベッドに寝そべるも、互いに制服を脱ぐ事はなかった。ただ、互いに身を寄せ合って温め合うくらいしか。
「ごめんね」
「大丈夫」
俺にはそうとしか言えない。凪野さんは修治に多少の罪悪感は抱いているようだが、俺は彩に対して何も無かった。むしろ……安心していた。これで口実が出来た、と。
「凪野さん」
こちらを向いてきた凪野さんにそっと唇を重ねた。彩とは違って薄い唇だった。拒まれることはなかった。それでもこの先にまでは行く度胸はなかった。すべて、修治かあら聞いていたから。
『俺、まだヤれてねぇんだよな』
本当に数日前。本当に最近の話。
『勿論してぇよ。でも、何ていうか……緊張する。好き過ぎて。俺なんかがやっていいのかなって。でもよそには、絶対渡したくねぇんだよな』
結局気遣っている対象は修治になってしまうのだろうか。枷が多すぎて、俺は……俺のために、動けない。
凪野さんは唇を離すと、俺の胸元に潜り込んできた。そんな凪野さんを逃がさないように、強く抱きしめる。今まで感じた葛藤が、ようやく一つの形になった気がした。
文化祭当日となった。彩には連絡する気すら出なかったし、彩もまた連絡をしてこなかった。最近に始まったことではないが。
今日は修治も出席していたが遅刻ギリギリだったかして、ほぼ担任と同時に教室に入ってきたに等しかった。修治はただ凪野さんをいつものように見ていたが、凪野さんは目を合わせようともしなかった。
ホームルームが終わり、すぐに自由行動となる。現在教室の入り口の傍にある席に居る凪野さんは、すぐに出て行った。追いつけなかった修治は呆然と入り口を見ている。俺はどうしたものか、と思ったものの俺からは何もしない方がいいだろう。そう思っていたのに。
「光」
修治から来た。いやまあ、そうだろう。修治は俺と凪野さんの様子が変わっている事も理由も知らない。
「なあ、美術部の展覧行かね?」
「美術部? 知り合いでもいるのか」
そうは言ったものの、すぐに察した。凪野さんは確か元々美術部だ。そちらに居ると踏んだのだろう。
「そうそう。俺サッカー部手伝いに行かねえとだからすぐに解散になるけど」
「いいよ、行こう」
二人で教室を出る。修治はまだ、俺の内心には気付いていないようだった。
本当なら、彩と二人でいた……彩を誑かしたかもしれないこいつを糾弾すべきなんだろう。でもそんな気が沸かなかった。修治への友情なのか、彩への呆れなのかは分からない。
階段を降りてすぐに美術室はある。中に入ると、受付が居た。凪野さんではなかった。ひとまずぐるりと中を見ると、凪野さんの作品は一つだけ展示されていた。名前の横の学年の数字は2だったが、二本線を引かれて3に訂正されている。恐らく今年の分は、間に合わなかったのだろう。淡い、水彩画だった。
修治はすぐに美術室を出ようとする。それを追った。
「凪野さんか」
仕方ないのでこちらから吹っかける。修治は頷いた。しかし、それだけだった。間が持たないので、俺の方が続ける。
「別のクラスの子と周ってるんじゃないか」
「いや、あいつは朝いちで美術部の受付やるって言ってた。なのに違うってことは、急遽替え玉作ったんだろ」
そこまで手を回していたか。どうやら本気で修治を避ける気らしい。修治の顔は疲れ切った様子だった。
「昨日電話しても出なかった」
俺はその時、凪野さんと居た。ベッドで、行為まではしていないが抱き合っていた。その記憶が蘇り、内心冷や汗が流れてくる。
「メッセージも読んでくれてる気配が無い。何でだろうな、俺……何か、したかな」
俺から言うのは筋違いだろう。だから「本人を捕まえて聞くしかなさそうだな」とだけ言った。これが凪野さんへの裏切りになるかは、正直分からない。しかし修治は頷いた。
「悪いな、変な話して。じゃあ俺行くわ。サッカー部また来てくれよ」
「焼きそばだっけ。分かった、昼頃にでも」
修治は手を振って、廊下の奥へと消えていった。
……罪悪感。勿論感じている。だが、それを掻き消す材料も揃えている。スマートフォンを取り出すと、凪野さんからメッセージが入っていた。
『体調が少し崩れたので、保健室にいます。修治には伝えないで。ごめんね』
俺は『了解』とだけ打つと、溜息を吐いた。
しかしこうなると俺は何をしようか。他の友達は皆すでに行動を始めているし、大概が未だ引退していない文化部達だ。こういう時、自分に友達が少ないのだと痛感する。
「おう、浅田」
背後から声が聞こえた。生物の浦見先生だった。
「何やお前、一人か」
相変わらずの関西弁だ。頷くと、先生はニカッと笑う。
「俺も一人や、よかったら一緒に回らん?」
「え、先生と?」
「何や不満か」
「いや、仕事とか」
「無い無い。学園祭やからな。俺本顧問の部活無いし」
そんな問題なのか。でもなかなか無い経験だとは思う。頷くと、先生は校内地図を広げた。
「よっしゃ、じゃあどこ行く? 腹減ってるか」
「いや、そんなに。昼はサッカー部行こうかなって」
「そうか。じゃあとりあえず1年のクラスから攻めるか。というかお前、何で一人なん」
まあそうなるだろう。とりあえず俺は「三崎が部活の方行っちゃって」とだけ答える。
「え、あいつサッカー部引退したんちゃうん。大変やな、彼女と周ったりしたいやろに」
恐らくそれがあいつにとっては一番だったのだろう。まあ部活に所属している以上それは実際難しいだろうし、見張りも兼ねて朝一で美術部に来たんだろうが。まあそれも、昨日の件で狂ってしまっているわけだが。きっと今頃必死に探しているだろうし、凪野さんが見付かるのも時間の問題か。
歩きながら、先生は口を開いた。
「そういやお前彼女とかおらんの」
「……いますよ」
少し間が空いたのは、やはり迷ったからだ。先生はそんな俺を見て「ワケありかいな」と呟く。
「まあ高校生の時なんてそんなもんやでな」
「先生は、どうだったんですか。高校の時」
「彼女? おったけど、浮気されたから別れたで」
やはりそうか。その言葉にどこか気分が沈む。もし昨日のことを浮気だと言われるなら、俺と凪野さんは。でもそれをカウントするとすれば、それより前にしていたのはあの二人だ。
「今彼女いるんですか」
「おるよ。その子は浮気しやんって、俺は信じてるけど」
気付けば1年1組の教室に来ていた。クラスで撮った映画を上映しているらしい。真っ最中なようで、どうも入るには勇気が要った。
「先生にとって、浮気ってどこからですか」
俺の問いに、先生は首を捻る。
「んー、正直それって彼女よりけりなとこ無い?」
「え」
「好きであれば好きである程、浮気判定が鋭くなっていくというか。まあ独占欲によるものなんやろけど」
……言われてみれば確かにそうかもしれない。ただ彩の場合は、好きというよりは……あれだけ好きでいてくれた自分の所有物、という認識に近い。自分のものが取られた、という醜い認識。修治が凪野さんの事をどれだけ好きか知っているからこそ、あいつの中での判定はかなり厳しいだろう。だからこそ、束縛も強まっているわけで。
2組、3組は空き室だった。恐らく体育館での出し物だ。
「俺は今の彼女なら……そやなあ、他の男のこと考えたらかな」
「他の男を好きになったら、ってこと?」
「あいつの脳の中に他の男が入ったら。あいつのことをずっと見てきたのは、絶対俺が一番やから」
随分と厳しそうだ。でもそれだけ好き、ということなのだろう。
先生は歩きながら、尚も続ける。
「何。彼女が浮気疑惑なんか」
「……まあ、そんなとこです」
「成程なあ。それならとことん縛った方がええで。その気力も無いなら、お前の中で彼女への気持ちはその程度やって事や」
……耳に痛い。でも、その言葉は胸の奥に少しずつ沈んでいく。
適当に1年のクラスを徘徊し終わって2年の階に移った時、先生のスマートフォンが震えた。先生は数言交わすと、すぐに閉じる。
「悪い、ちょっと俺行かなあかん。体育館裏で乱闘やって」
「大丈夫ですかそれ」
「とりあえず行くわ。じゃあな、残り楽しめよ」
そう言い放って、先生は駆けだしていった。
俺の、彩への気持ちか。そうだ、確かに……彩のことを好きか、と言われれば違うと言えてしまう。ただ自分を好きでいてくれて、それを表現してくれる有り難い存在。そんなあいつが、俺から離れていくのであれば。無傷ではいられないにしろしょうがない、と思えてしまう。
……誰が、好きか。それだけは、今考えてはいけない気がする。
ひとまず時計を見ると、そんなに時間は経っていなかった。しかしやる事が無いので、廊下からサッカー部の出し物のテントを見下ろす。内部までしっかり見えた。修治の姿が見えた。他の部員と何かを話していて……奥に、消えていった。後ろにある校舎の扉が開く。そこに入っていったのか。とくにやる事も無いし、行ってみるか。
通路を一つ渡って、隣の校舎。階段を降りてみると、そこには保健室があった。そこで、凪野さんの事を思い出す。でも、修治は知らないはずだ。
そっと扉に近付く。スライド式の扉だ。音を立てないようにそっと、ずらしていく。何故だか、俺の存在がバレてはいけないような気がした。
中から、声が聞こえる。泣いている声。それと、あやすような……優しい、修治の声。
「なあ、葵」
音。衣擦れの、静かな音。
「あれは浮気なんかじゃない。本当だから。俺が葵以外好きになるわけねぇだろ?」
そうか、話したのか。
「俺、本当に葵が好きなんだよ……葵じゃねぇと、駄目だ……」
この音は、何だ。何故、凪野さんは泣いている。
「痛い、よな……ごめんな……でも俺、幸せっ……」
……察した。扉を閉める。手が震えていた。
「……っ」
胸の奥が絞められたように痛い。息が出来ない。胃の底が揺らぐ。頭の奥が、熱い。
そばにあった階段に足をかける。しかし、つまずいた。段差に膝を打ち付けるも、痛みより……息苦しさが勝る。
当然の事だ。だってあいつらは付き合ってる。昨日の事は、結局一瞬の……夢だった。自覚のない、夢だ。でもあの時のぬくもりが、凪野さんの存在が。あんなにも……。
「くそっ」
段差を蹴る。でもどんな痛みも、届かなかった。
「ふぅむ。まあ早いうちに決まってよかったな。じゃあこれ、報告書だけよろしく」
担任にはそんな風に軽く済まされ、報告書を書いて早々と進路指導室を出た。
二年生や一年生達は皆慌ただしく廊下を行き来している。俺も毎年こう慌てていた気がしないでもないが、正直あまり記憶にない。記憶に引っかかっていない、と言った方が正しいか。それだけなあなあで過ごしていたということだろう。以前修治と五月病の話をしていたが、結局それだけではないと思う。
ふと、目線の先。凪野さんだった。彼女は俺を見ると一瞬だけびくついて穏やかに微笑んだ。
「何、進路指導?」
俺の問いに、凪野さんは少しだけ困ったように頷いた。すべてを知っているから、俺は引き留めずに歩き出す。凪野さんは申し訳無さそうにぱたぱたと進路指導室の中へ入っていった。
……夏休みを経由して、俺はようやく知った。修治は本当はとんでもなく嫉妬深く束縛癖があるのだと。
凪野さんはクラスメイトと会話する事を禁じられていた。それも男子どころか女子すらも、修治の見張りは確実にあるようだった。修治の有人である俺ですら、凪野さんに近付く事は許されなかった。始業式早々俺は凪野さんに声を掛けようとしたが彼女もまたあんな感じで、そんな彼女に戸惑う俺を修治は呼び出した。
『俺、あいつだけは絶対誰にも渡したくない。だから、悪い』
奪う気など毛頭ないのに。むしろ、あの二人の幸福を願ってすらいるのに。白々しいだろうが。ただやっぱり凪野さんは美人だし、修治が懸念する理由も分かるには分かる。ただ、俺は彩に対してそんな独占欲を感じたかといえば……無い。そういう意味で俺と修治は正反対だ。でも彩もまた、修治のように独占欲が強い。そして、束縛も。
以前凪野さんが悩んでいた、修治が素っ気ないという悩みはある意味改善された。ただ、とんでもなく悪い方向に。
彩は彩で、受験の追い込みだとか言ってますます連絡が取れない状況にいる。ここまでくれば、もう……居ても居なくても同じな気すらしてきている。最後に会ったのも先月だ。そういえば彩は毎年うちの学園祭には来ていたが、今年も来るのだろうか。一応日程は伝えてあるが、来るかどうかの返事は結局未定で返されていた。
下駄箱で靴を履き替える。すると、背後から気配を感じた。
「浅田くん」
振り返ると、クラスメイトの女子が立っていた。凪野さんとはまた違う、どちらかといえば生命力に溢れた美人……とよく聞く女子だ。彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど。葵ちゃんの連絡先分かる?」
「凪野さんの?」
「うん。さっき進路指導行った時にこれが」
そう言って、彼女は一つの赤い巾着を差し出してきた。ぱんぱんに膨れ上がっていて、何か詰まっているようだった。
「どうも忘れ物してたみたいで、私の前に来た子だろうってことで多分凪野ちゃんじゃないかって先生が。でも私、あの子の連絡先分からなくてさ」
「明日会う時じゃ駄目なのか、それ」
明日は学園祭だが、最初だけ教室でホームルームを行う事になっている。それに本人に会えなくても、机にでも置いておけばいいだろうに。しかし彼女は気まずそうに巾着を開けた。中には、大量の……錠剤。それも何種類もある。
「……明日渡す、とかだとちょっとまずいんじゃないかなって思って」
「……確かに。もう校内見た?」
「一応、進路指導から下駄箱までだけ。外かって思って出ようとしたら浅田くん居たから。確か仲良かったなって」
ふと、修治の顔が過ぎる。しかしあいつはあいつで、今日は何故か欠席だった。……それなら。
「分かった、かけてみる」
「ありがとうね。一応浅田くんにこれ預けておくから。私もう一回学校の中探してみる。にゃ……元林くんにも、ちょっと手伝ってもらうね。まだ教室いるはずだから」
元林の連絡先は一応知っているので何かあれば彼経由で連絡する、という事になり一旦彼女は校内に戻った。とりあえず、凪野さんに電話をかける。修治に勿論俺からの連絡を受けるのは禁じられているはずだが、こればかりは賭けるしかないだろう。3回程コールが鳴り、応答の気配。
『浅田くん?』
戸惑った声だが、よかった。出てくれた。俺は安堵の息を吐きながら、口を開く。
「凪野さん、今どこ」
『その……ちょっと忘れ物しちゃって。駅から学校戻ってるの。どうかした?」
「それって赤い巾着?」
ハッ、と息を呑む気配。しかしすぐに『それ』と返ってきた。
『え、浅田くんが見つけてくれたの?』
「いや、ちょっと色々あって預かってるだけ。今学校だから、どうしよう。戻ってくる?」
『うん、そうする。ごめんね、ありがとう』
電話を切り、元林にメッセージを打って送信する。すぐに『分かった、伝えておくね』と返ってきた。ホッとしてスマートフォンを鞄にしまう。
……久々にまともに会話した。凪野さんと。
少しして、駆け足気味に凪野さんがやってきた。彼女は申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね、ほんとに」
「いいよ。これ」
巾着を渡すと、まず彼女は巾着の中身を確認していた。その様子を見て、声をかける。
「……それ、何の薬?」
凪野さんはハッとしたように顔を上げると、少しだけ歪ませた。聞いてはいけない事を聞いてしまった気もするが、凪野さんは「時間ある?」と聞いてきた。戸惑いながら頷くと、凪野さんは歩き出す。とりあえずついていくと、中庭のかなり奥にあるベンチに到着した。ベンチに乗った埃を払いながら、凪野さんは呟く。
「ごめん、本当は食堂がいいかなって思ったんだけど。今の時間、二年とか一年もいるし」
「何、まずい?」
「……修治の後輩が」
そういう事か。そういう手まで使って、見張りたいか。どこか苛立って、声を投げる。
「辛くないの、凪野さんは」
凪野さんは何も言わずに、ベンチに座った。ひとまず隣に腰かける。
「辛い、というより申し訳ないかな」
「というと」
「……私が学校に戻ってから初めて良くしてくれたのに、あんな事言っても優しくしてくれたのに。なのに、浅田くんを避けるような真似をして」
恐らく修治が一番懸念しているのはそこなのだろう。クラスで、どころか学校中で、恐らく俺が凪野さんの中では好感度が高い。それは修治もよく分かっているはずだ。だからこそあいつは、俺に真っ先に牽制をかけた。
「それは、仕方ないよ」
俺のその言葉に、凪野さんは顔を伏せた。そして、ぽつりと呟く。
「薬については、だけど。私、入院してたじゃない」
「うん。その時の……って、そういえば、何で入院してたか聞いてなかった」
何となく聞くのをずっと躊躇っていたというのはある。クラスでもとくに話題に上がらないということは、本当に大したことないか……本当に触れてはいけないか、の二択な気もしていた。
「拒食症だったの、私」
何となく察していた。あまりにも細い体と、あの小食ぶり。普通の人間にしては、あまりにも極端な気はしていた。凪野さんは続ける。
「こんなの言うのも何なんだけど。……去年私、兄が死んでるのね。交通事故で」
唐突な話に、息を呑む。それでも凪野さんは、少しずつ続けた。
「即死とかじゃなくて、すぐに手術さえすれば助かるような怪我だったみたいで。でも、手術してもらえなかったの。病院の空きの都合で間に合わなかったって」
「それって」
「おかしいよね。空きの都合って何、って話だし。よくよく調べると今までに何件もそういうのがあったみたいで。でも大きな病院だから、優先的にその病院に運ばれてしまうって……。空きがないからよそ行って、じゃなくて空きがないから待って、ってことみたいで」
「いや、それでもおかしいだろそれ……」
はあ、と凪野さんは溜息を吐く。思い出すのも辛そうだ。
「家族みんな、精神的に参っちゃったんだけど。私が真っ先に体調に出ちゃって、入院することになったの。今は皆何とか落ち着いてきたって感じ。もう一年近くになるし」
「……そっか」
そうとしか言えない。しかし凪野さん自身もとくに言葉を欲してはいないようで、微笑んだまま首を振った。
「でももう体は大丈夫。むしろお医者さんには食欲戻る分食べ過ぎないでって言われた」
「修治はこの事知ってるのか?」
「うん、って言っても言ったのは付き合って少ししてからだけど。だから余計に心配してくれてるみたい」
修治自体は、本当に良い奴だと思う。こんな身の上を聴けば、確かにより情が深まっていそうだ。それが独占欲に直結したのかどうかまでは分からないが。
凪野さんは「ごめんね、こんな話」と呟いて立ち上がった。そんな彼女の腕を、掴む。びっくりした顔でこちらを見てくる彼女を見て、俺もまたハッとした。何故、こんな事をしたのか。……何故か、引き留めなければならないような気がして。
「……その。何かあれば言ってくれればいいから。修治にバレないようにしてでも」
凪野さんは戸惑うような表情だったが、それでも頷いてくれた。そのまま、手を握り返してくれる。骨ばっていて、それでも確かに存在している温もりが気持ちよかった。凪野さんはそっと俺の体を引っ張る。つられるようにして、立ち上がった。
「浅田くんは優しいね」
その言葉に、首を振る。ただ俺は、目の前で……悩んでいる人を見捨てるのが怖いだけな気もする。
ひとまず二人で、学校を出る。そういえばこうやって二人で居る事自体、最初の時以来だ。あれからはずっと修治が居た。
「そういえば修治、今日何で休んでるんだろうな」
「さあ。ただ、夜まで連絡は出来ないって言ってた」
まああいつは実家が病院だし、体調を崩して……なんてことはそうそう無いだろう。という事は、何かしらの用事という事か。
駅まで歩き、電車に乗る。凪野さんとは帰る方向こそ同じだが、彼女の方が二駅分先に降りる事になる。それでも二十分程は時間があるはずだった。
「なんか、やっぱり寂しいな」
ぼそり、と凪野さんは言った。
「修治の事も好きだし優しくもしてくれてるけど。やっぱり、寂しい」
「そりゃそうだろ」
男子同士での修治の付き合いは、各段に悪くなっている。その分を凪野さんに割いているのは周知の事実だ。付き合いたての頃は凪野さんへの照れもあってかなり距離があるように思っていたものの、凪野さんによれば一度話し合いをして解消されたようだ。その後のこれでは、極端過ぎる気もするが。
「……こっそりこういう風にするのって、やましいことになっちゃうのかな」
凪野さんの言葉に、俺は首を振った。
「別に無いだろ。浮気とか、そんなのにはならないって」
「そうだよね」
にこり、と微笑まれる。一瞬抱きしめたくなる衝動に駆られたが、おさえた。いや、そもそも何故そう思ってしまったのだろう。凪野さんは、凪野さんなのに。そう、彩とは、違う。
窓の外を眺める。そろそろ、二つ目の駅に到着するまであと五分、という頃だった。この辺りは比較的富裕層の住宅街だ。
「……ん?」
「どうしたの」
凪野さんの問いに目線だけで応えると、俺は窓の外を凝視した。
人通りは少ない。だからこそ、よく見えた。二人組だ。それも、よく見知っている。二人とも私服で、当たり前だがこちらには気付いていない。慌てて凪野さんを見たが、凪野さんも気付いたらしかった。顔が強張っている。
「修治だ」
男の方は、修治だった。そして、女の方は。
こみ上げてくる吐き気を、口元で必死に止める。そんな俺の様子に気付いたのか、凪野さんはそっと「次で一回降りよう」と耳打ちしてきた。頷く。
電車は進む。二人の姿も、遠のいていく。今からでは追いかけようがない。心臓が忙しなく鳴り響くも、それはきっと凪野さんも同じなのだろう。彼女の表情も、険しい。
ようやく停車して、二人で降りた。ホームの待合室には誰もおらず、ひとまずそこに入る。革張りのソファに並んで座ると、まず溜息が漏れた。
「……ごめん」
俺の呟きに、凪野さんは首を振った。
「大丈夫。でもごめん……私も、びっくりした。あれ、修治だったよね」
「だと思う」
そんな言い方しつつ、ほぼ確信だった。
少し眺めの溜息を吐きおろしながら、凪野さんは額に手を添えた。その影の奥にある表情は、この上なく暗かった。
「……私にはあれだけ言ってたのになぁ」
本当に、それだ。そしてそれは、……あいつにも当てはまる。
「凪野さん、女が誰か見た?」
「え、ううん。見えなかった」
首を振る。その事実を心の中で反芻するだけで、吐き気がこみ上げる。それでも。
「……俺の、彼女だった」
「え……」
二人とも楽し気に笑って歩いていた。それこそ、互いに気を許し合っているような気安さで。あの二人を思い返すだけで、虫唾が走る。
凪野さんは未だに顔を伏せたままだった。その細い体は、わずかに震えている。どこか、居たたまれなくなった。だからかもしれない。そっと手が伸びて、凪野さんの手を取った。それでも彼女は顔を上げず、視線だけこちらへ向けて来る。
「ごめん、ちょっと……こうしててほしい……」
言い訳のような縋り方だとは思う。今は何故か、すぐ傍の温もりを欲していた。それは彩への当てつけかもしれないし、修治への当てつけかもしれない。それでも凪野さんは頷いてくれた。
彩との出会い自体は小学校だった。でも六年間一度も同じクラスになった事はなく話したこともなかった。中学三年生でようやく同じクラスになった頃には、すでにあいつは立派に不良をしていた。俺は全然そういったのに関わりが無かったから結局打ち解ける事はない……と、想っていた。
あれもまた、確か十月くらいだった。一人でコンビニに行って、その帰り道。うちのマンションのゴミ捨て場がふと目に入って、そこに彩が倒れているのを見つけた。慌てて駆け寄ると息はあるけど気を失っていて、当時携帯電話をまだ持っていなかった俺は救急車を呼ぶために急いで家に戻った。彩を抱き上げて。その最中、彩は目を覚ました。
「ちょ、や、誰っ!?」
俺も驚いて彩を階段に落としてしまった。尻もち自体がかなり激痛だったのか、歯を食いしばりながら俺を睨んできた。仕方ないので、「同じクラスの浅田」と呟く。
「うちのゴミ捨て場で倒れてたんだよ。あのままにしておけないだろ」
その言葉に彩は舌打ちをして立ち上がる。そのまま、昇っていた階段を降りようとする。そんな彩の腕を引っ張って止めた。
「は、離してよっ」
「何か腹立った、無理」
ぎゃあぎゃあ喚いてはいるが、相手は手負いな上に女子だ。引きずるような形で部屋へと向かう。ようやく到着し部屋へ上げると、鍵を閉めた。今日は母が夜勤でいない。父は元からいない。
「この部屋で待ってて。色々持ってくる」
不機嫌そうながらようやく大人しく従った彩を見届けてから、俺はリビングに置いてある救急箱を回収した。部屋に戻ると、彩は隅の方で縮こまるように座り込んでいた。そんな彩の向かいに座って、消毒液をティッシュに浸す。まず顔面から押し当てると、露骨に顔を歪めた。相当染みるのだろう。
「てか、あんなところで何やってたの」
「別にあんたに言う必要ないし」
それはそうだが、どこかかちんときた。しかし抵抗する素振りはなくなっている分、ただつっけんどんにされているだけな気もする。とりあえずさっきより強めに消毒液を押し当てると、小さく呻いた。
「第一あんたこそ、何でこんなことするわけ」
「いやそりゃあんなところで気失ってたら放置できないだろ、さすがに」
はっ、と鼻で笑われた。
「何それ、偽善じゃない」
「やらない善よりやる偽善、だろ。次腕やってやるから出して」
返事を聞く前に手を取る。冷たい手だった。体温が通っていないかのような。掌を上に向けさせて、気付く。手首に並ぶ、無数の躊躇い傷。その視線に気付いたのか、彩は再び鼻で笑った。
「何、引いてるの」
「引いてるというか、生で初めて見たから」
「……そりゃあんたみなたいなのの周りにはこんなの居ないでしょ」
ごく普通の中学生。それが、周囲の俺の評価だろう。俺は別にそこからとびぬけたいわけでもない。
「痛いだろ、これ。切った時は」
「そりゃね」
「こんな風にいっぱい怪我してるのに、わざわざ更に自分を傷めつける必要あるのか」
それが、本心だった。彩は顔を全力で歪ませると、小さく呟く。何を言っているのか分からずに顔を近づけると、一気に赤く染まった。
「ち、近いったら!」
「だって聞こえないから」
「『気付いたらやっちゃってた』って言ったのよ!」
「ああ」
叫んだせいで口元の傷が痛んだのか、一瞬にして涙目になる。その傷に痛み止めでそっとワセリンを塗ってやるが、案外大人しかった。小刻みに震えていたが。
ある程度手当てを終えて、時計を見る。もう21時を回っていた。
「親御さん大丈夫? 連絡するなら電話使っていいけど」
この言葉に、彩は黙った。不思議に思い見つめると、すぐに顔をそむけられる。
「どうせ仕事だし別にいい。帰る」
「送る」
「は!?」
「いや、そりゃこんな遅くに女子ひとりで歩かせられないって。自転車二人乗り、出来る?」
「べ、別にいいし! ってか何、私を女子扱いとかっ」
「だってそうだろ」
彩は口を噤ませた。しかし観念したのか、「分かった」と呟く。俺はひとまず立ち上がり自転車の鍵を手に取ると玄関に向かった。彩も慌てて追ってくる。
部屋を出て駐輪場へ向かい自転車を出すと、俺は跨った。後ろの荷台に彩を座らせる。
「どこ、家」
「……茂木病院まで行ってくれたらいい。分かりやすいでしょ」
「もしかして茂木病院? 家」
「両親がやってるだけ。家はすぐ傍にある」
ひとまず自転車をこぎ出す。結構目立つ病院だし、ここから近い。すぐに行けるだろう。
時間も遅いお陰か、人通りは少ない。結構街灯も少ない道だし、送って正解かもしれなかった。彩は後ろで大人しくしていた。ぼつり、と呟かれる。
「初めて、こんなの」
「え」
「こんな風に、気遣ってもらえるの」
何となく状況くらいなら察していた。普段クラスにはなかなか現れないが、噂でよく校内を抜け出して悪い連中とよく補導されているというのは聞いている。その中でどんな立場なのかは分からないが、少なくともゴミ捨て場に放置される程度……というところなのだろう。
「別に俺だって、今日あそこで見つけてなかったら多分関わることはなかったよ」
信号で止まる。暗い世闇の中、赤い光だけが周囲を照らしている。
「でも私だって、わざわざ助けてって頼んだわけじゃないから」
「はいはい」
信号が、青になった。
「でもまあ、また何かあれば言ってくれたらいいよ。見たとこ、人に頼ったり甘えたりするの下手そうだけど」
彩は何も言わなかった。表情も見えない。ただ、俺の腰に捕まる力は少し強まっていた。
――あとで知った事だが、あの日彩は喧嘩に負けたとか何とかでグループを追放されていたらしい。金づるには出来たがあまり馴染めておらず、持て余したということだったのだろう。
翌日から彩はクラスに出て来るようになった。勿論他のクラスメイトは不思議がっていたし友達もいなかったようで、俺達がクラスの中でも関わるようになっていったのはごく自然なことだったと思う。
嫌な言い方になるが、俺は彩を恋愛対象では一切見ていなかった。それどころか淡い恋心を抱いていた他クラスの女子が居たが、それを知った彩の傷ついた顔……今でも忘れられない。その時に初めて、彩は俺にその気持ちを伝えてきた。所詮俺の恋心なんて親愛に毛が生えた程度だったし、目の前で必死に縋ってきた彩を振りほどく程、俺は非情にもなれなかった。
そうだ、俺は結局甘い。
「ごめんね」
凪野さんはそう呟いた。俺に対してなのか修治に対してなのか。聞く勇気は無かった。多分両方に対してなんだろう。より強く、抱きしめた。
あれから結局俺達は流れるようにして俺の家に来た。あのまま凪野さんを置いて帰る気もしなかったし、放っておけなかった。別に俺が居たからどうこうだなど思い上がってはいないが……それでも、置いていけなかった。
互いのぬくもりが、心地いい。甘い香りと、折れてしまいそうな体。彩とは、違う。だからこそ安心出来ているのかもしれない。彩と居て、こんなに自分自身が打算もなく安らげる時などなかった。いつも彩の機嫌を取ることに成功した喜びしか、感じる事は出来ていなかった。それを、凪野さんのお陰で気付けた。
ベッドに寝そべるも、互いに制服を脱ぐ事はなかった。ただ、互いに身を寄せ合って温め合うくらいしか。
「ごめんね」
「大丈夫」
俺にはそうとしか言えない。凪野さんは修治に多少の罪悪感は抱いているようだが、俺は彩に対して何も無かった。むしろ……安心していた。これで口実が出来た、と。
「凪野さん」
こちらを向いてきた凪野さんにそっと唇を重ねた。彩とは違って薄い唇だった。拒まれることはなかった。それでもこの先にまでは行く度胸はなかった。すべて、修治かあら聞いていたから。
『俺、まだヤれてねぇんだよな』
本当に数日前。本当に最近の話。
『勿論してぇよ。でも、何ていうか……緊張する。好き過ぎて。俺なんかがやっていいのかなって。でもよそには、絶対渡したくねぇんだよな』
結局気遣っている対象は修治になってしまうのだろうか。枷が多すぎて、俺は……俺のために、動けない。
凪野さんは唇を離すと、俺の胸元に潜り込んできた。そんな凪野さんを逃がさないように、強く抱きしめる。今まで感じた葛藤が、ようやく一つの形になった気がした。
文化祭当日となった。彩には連絡する気すら出なかったし、彩もまた連絡をしてこなかった。最近に始まったことではないが。
今日は修治も出席していたが遅刻ギリギリだったかして、ほぼ担任と同時に教室に入ってきたに等しかった。修治はただ凪野さんをいつものように見ていたが、凪野さんは目を合わせようともしなかった。
ホームルームが終わり、すぐに自由行動となる。現在教室の入り口の傍にある席に居る凪野さんは、すぐに出て行った。追いつけなかった修治は呆然と入り口を見ている。俺はどうしたものか、と思ったものの俺からは何もしない方がいいだろう。そう思っていたのに。
「光」
修治から来た。いやまあ、そうだろう。修治は俺と凪野さんの様子が変わっている事も理由も知らない。
「なあ、美術部の展覧行かね?」
「美術部? 知り合いでもいるのか」
そうは言ったものの、すぐに察した。凪野さんは確か元々美術部だ。そちらに居ると踏んだのだろう。
「そうそう。俺サッカー部手伝いに行かねえとだからすぐに解散になるけど」
「いいよ、行こう」
二人で教室を出る。修治はまだ、俺の内心には気付いていないようだった。
本当なら、彩と二人でいた……彩を誑かしたかもしれないこいつを糾弾すべきなんだろう。でもそんな気が沸かなかった。修治への友情なのか、彩への呆れなのかは分からない。
階段を降りてすぐに美術室はある。中に入ると、受付が居た。凪野さんではなかった。ひとまずぐるりと中を見ると、凪野さんの作品は一つだけ展示されていた。名前の横の学年の数字は2だったが、二本線を引かれて3に訂正されている。恐らく今年の分は、間に合わなかったのだろう。淡い、水彩画だった。
修治はすぐに美術室を出ようとする。それを追った。
「凪野さんか」
仕方ないのでこちらから吹っかける。修治は頷いた。しかし、それだけだった。間が持たないので、俺の方が続ける。
「別のクラスの子と周ってるんじゃないか」
「いや、あいつは朝いちで美術部の受付やるって言ってた。なのに違うってことは、急遽替え玉作ったんだろ」
そこまで手を回していたか。どうやら本気で修治を避ける気らしい。修治の顔は疲れ切った様子だった。
「昨日電話しても出なかった」
俺はその時、凪野さんと居た。ベッドで、行為まではしていないが抱き合っていた。その記憶が蘇り、内心冷や汗が流れてくる。
「メッセージも読んでくれてる気配が無い。何でだろうな、俺……何か、したかな」
俺から言うのは筋違いだろう。だから「本人を捕まえて聞くしかなさそうだな」とだけ言った。これが凪野さんへの裏切りになるかは、正直分からない。しかし修治は頷いた。
「悪いな、変な話して。じゃあ俺行くわ。サッカー部また来てくれよ」
「焼きそばだっけ。分かった、昼頃にでも」
修治は手を振って、廊下の奥へと消えていった。
……罪悪感。勿論感じている。だが、それを掻き消す材料も揃えている。スマートフォンを取り出すと、凪野さんからメッセージが入っていた。
『体調が少し崩れたので、保健室にいます。修治には伝えないで。ごめんね』
俺は『了解』とだけ打つと、溜息を吐いた。
しかしこうなると俺は何をしようか。他の友達は皆すでに行動を始めているし、大概が未だ引退していない文化部達だ。こういう時、自分に友達が少ないのだと痛感する。
「おう、浅田」
背後から声が聞こえた。生物の浦見先生だった。
「何やお前、一人か」
相変わらずの関西弁だ。頷くと、先生はニカッと笑う。
「俺も一人や、よかったら一緒に回らん?」
「え、先生と?」
「何や不満か」
「いや、仕事とか」
「無い無い。学園祭やからな。俺本顧問の部活無いし」
そんな問題なのか。でもなかなか無い経験だとは思う。頷くと、先生は校内地図を広げた。
「よっしゃ、じゃあどこ行く? 腹減ってるか」
「いや、そんなに。昼はサッカー部行こうかなって」
「そうか。じゃあとりあえず1年のクラスから攻めるか。というかお前、何で一人なん」
まあそうなるだろう。とりあえず俺は「三崎が部活の方行っちゃって」とだけ答える。
「え、あいつサッカー部引退したんちゃうん。大変やな、彼女と周ったりしたいやろに」
恐らくそれがあいつにとっては一番だったのだろう。まあ部活に所属している以上それは実際難しいだろうし、見張りも兼ねて朝一で美術部に来たんだろうが。まあそれも、昨日の件で狂ってしまっているわけだが。きっと今頃必死に探しているだろうし、凪野さんが見付かるのも時間の問題か。
歩きながら、先生は口を開いた。
「そういやお前彼女とかおらんの」
「……いますよ」
少し間が空いたのは、やはり迷ったからだ。先生はそんな俺を見て「ワケありかいな」と呟く。
「まあ高校生の時なんてそんなもんやでな」
「先生は、どうだったんですか。高校の時」
「彼女? おったけど、浮気されたから別れたで」
やはりそうか。その言葉にどこか気分が沈む。もし昨日のことを浮気だと言われるなら、俺と凪野さんは。でもそれをカウントするとすれば、それより前にしていたのはあの二人だ。
「今彼女いるんですか」
「おるよ。その子は浮気しやんって、俺は信じてるけど」
気付けば1年1組の教室に来ていた。クラスで撮った映画を上映しているらしい。真っ最中なようで、どうも入るには勇気が要った。
「先生にとって、浮気ってどこからですか」
俺の問いに、先生は首を捻る。
「んー、正直それって彼女よりけりなとこ無い?」
「え」
「好きであれば好きである程、浮気判定が鋭くなっていくというか。まあ独占欲によるものなんやろけど」
……言われてみれば確かにそうかもしれない。ただ彩の場合は、好きというよりは……あれだけ好きでいてくれた自分の所有物、という認識に近い。自分のものが取られた、という醜い認識。修治が凪野さんの事をどれだけ好きか知っているからこそ、あいつの中での判定はかなり厳しいだろう。だからこそ、束縛も強まっているわけで。
2組、3組は空き室だった。恐らく体育館での出し物だ。
「俺は今の彼女なら……そやなあ、他の男のこと考えたらかな」
「他の男を好きになったら、ってこと?」
「あいつの脳の中に他の男が入ったら。あいつのことをずっと見てきたのは、絶対俺が一番やから」
随分と厳しそうだ。でもそれだけ好き、ということなのだろう。
先生は歩きながら、尚も続ける。
「何。彼女が浮気疑惑なんか」
「……まあ、そんなとこです」
「成程なあ。それならとことん縛った方がええで。その気力も無いなら、お前の中で彼女への気持ちはその程度やって事や」
……耳に痛い。でも、その言葉は胸の奥に少しずつ沈んでいく。
適当に1年のクラスを徘徊し終わって2年の階に移った時、先生のスマートフォンが震えた。先生は数言交わすと、すぐに閉じる。
「悪い、ちょっと俺行かなあかん。体育館裏で乱闘やって」
「大丈夫ですかそれ」
「とりあえず行くわ。じゃあな、残り楽しめよ」
そう言い放って、先生は駆けだしていった。
俺の、彩への気持ちか。そうだ、確かに……彩のことを好きか、と言われれば違うと言えてしまう。ただ自分を好きでいてくれて、それを表現してくれる有り難い存在。そんなあいつが、俺から離れていくのであれば。無傷ではいられないにしろしょうがない、と思えてしまう。
……誰が、好きか。それだけは、今考えてはいけない気がする。
ひとまず時計を見ると、そんなに時間は経っていなかった。しかしやる事が無いので、廊下からサッカー部の出し物のテントを見下ろす。内部までしっかり見えた。修治の姿が見えた。他の部員と何かを話していて……奥に、消えていった。後ろにある校舎の扉が開く。そこに入っていったのか。とくにやる事も無いし、行ってみるか。
通路を一つ渡って、隣の校舎。階段を降りてみると、そこには保健室があった。そこで、凪野さんの事を思い出す。でも、修治は知らないはずだ。
そっと扉に近付く。スライド式の扉だ。音を立てないようにそっと、ずらしていく。何故だか、俺の存在がバレてはいけないような気がした。
中から、声が聞こえる。泣いている声。それと、あやすような……優しい、修治の声。
「なあ、葵」
音。衣擦れの、静かな音。
「あれは浮気なんかじゃない。本当だから。俺が葵以外好きになるわけねぇだろ?」
そうか、話したのか。
「俺、本当に葵が好きなんだよ……葵じゃねぇと、駄目だ……」
この音は、何だ。何故、凪野さんは泣いている。
「痛い、よな……ごめんな……でも俺、幸せっ……」
……察した。扉を閉める。手が震えていた。
「……っ」
胸の奥が絞められたように痛い。息が出来ない。胃の底が揺らぐ。頭の奥が、熱い。
そばにあった階段に足をかける。しかし、つまずいた。段差に膝を打ち付けるも、痛みより……息苦しさが勝る。
当然の事だ。だってあいつらは付き合ってる。昨日の事は、結局一瞬の……夢だった。自覚のない、夢だ。でもあの時のぬくもりが、凪野さんの存在が。あんなにも……。
「くそっ」
段差を蹴る。でもどんな痛みも、届かなかった。
応援ありがとうございます!
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