どうあれ君の傍らに。

湖霧どどめ

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8.十一月の元林清斗。

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「この歳になって遠足がすいぞっかん。まさかの」

 ベッドの中で猫さんはそう言いながらも嬉しそうだった。
 今日は高校生活で最後の遠足だ。目当ての水族館は、一応この近隣のものとしては最大で日本でもかなり価値のあるものということで今回の遠足に選ばれているらしい。僕にとっては小学校で二回、中学校で一回、とかなり行き慣れたものにはなっているのだが。

「猫さんはあそこ行ったことある?」
「それが無いんだな。ほら、近くにあると逆に行かなくなる現象」
「ああ……」

 ふと時計を見た。ようやく朝の七時になったところだ。僕は朝の六時に猫さんの家に来た。最近お父さんが家に居るということでなかなかお邪魔出来なかった中唯一見つけた隙だったようで、僕は大喜びで乗った。そしてしっかり二回射精した。体がだるくて仕方ない。

「もう今日外出たくない、このまま寝てたい。あわよくばもう一回したい」
「ずっと思ってたけどにゃんこって絶倫かな?」

 あと三十分は時間がある。僕は改めて猫さんの大きな胸に触れたけど、猫さんは拒まなかった。むしろまた甘い声を上げだして、股間の熱が強まりだした。

「あ、んんっ……」

 最初にしたよりもねっとりと執拗に舌を絡ませながら、溢れる唾液を吸い上げる。今日は何度も混ぜ合わせて一体化させたというのに、まだまだ足りない。それでも猫さんに引かれている様子はなくて、安心すると同時に他にこれ以上の男がいたのかと苛立ちが芽生える。それでも悟られないように、猫さんを抱きしめる力を強めた。

「や、にゃんこっ……本当にもう一回……?」
「駄目?」

 首を振られる。そうやって受け入れられている、というサインが……僕にとっては本当に、心地よくて。

「あ、んっ」

 コンドームを付けたそれを一気に突き刺す。コンドームのローションのおかげで滑るのは滑るが、最初に比べるとやっぱり猫さんの愛液は乾きだしているようだった。けれど、その細かい引っかかりがそれはまた、刺激的だった。

「あ、ふっ……きっつい……」

 涎が垂れそうになるのを必死に堪えながら、腰を振る。ずにゅ、ずぢゅ、と濁った水音が部屋でかき混ぜられて頭が蕩けそうだ。猫さんの肉壁が、コンドーム越しに僕をぎゅうぎゅうに締め付けて来る。潰されそうだ。

「猫さん、ごめっ……」
「いいよ、おいで?」

 猫さんの腕が、背中に絡みついてくる。ああ、猫さんは……受け入れてくれている。

「んっ……」

 腰が砕けそうな快感。どく、どく、と音が鳴る程の勢いで精液が飛び出す。さっきあれだけ射精したのに、懲りない体だと思う。
 ずるり、と抜き出す。さすがに最初程の量は出ていない。コンドームを外して縛ると、ティッシュに包んだ。猫さんはぐったりとベッドに寝そべったまま、伸びをする。その様子は本当に猫のようだ。そういえば長く伸ばした毛も柔らかい猫っ毛だ。案外このあだ名も間違いじゃないのかもしれない。そっと指をくぐらせても、猫さんは疲れのあまりか無反応だった。
 時計を見ると、そろそろ時間だった。猫さんを揺らすと、呻きながら体を起こした。

「もう今日休んでよくない」
「楽しみにしてたんじゃないの……」

 今日は私服で向かうことになっていた。僕は服を着て、猫さんも渋々クローゼットを開く。
 猫さんが化粧をするのを鏡越しに眺めていると、こっちを向いてきた。そして、笑う。

「にゃんこごめん、恥ずかしい。こっち見んな」
「はいはい」

 最初の頃に比べれば口は少し悪くなった気がするが、これが彼女の素なのであればどこか嬉しい。最初に感じたあの引き攣った笑みも、もう見えない。今にして思えば……取り繕うのが下手なだけ、だったのか。
 準備が終わったらしく、僕達は猫さんの家を出た。未だに猫さんのお父さんに会った事はないけれど、少なくともうちの父親よりは絶対マシな人物のはずだ。

「しかしあんな短時間でよく三発も出したよね。猿かっつーの」
「悪かったね」

 もはや憎まれ口の応酬のようになっているが、絶対に互いに笑顔だった。それがたまらなく、楽しい。こんなにも気を抜いて話すのがこんなにも楽しい、だなんて。
 一緒に電車に乗って、他愛もない会話をして水族館へ向かう。三十分もあれば到着する距離で、ちらほら生徒らしき人物も乗ってきている。
 すぐに到着して降りる。駅のすぐ傍に水族館があるので、実質駅が集合場所のようになっていた。もう結構な人数が揃っている。猫さんは色々な人に挨拶されているが、僕から離れることはなかった。
 担任による点呼を受けてチケットを受け取るともう自由行動に入っていいらしく、猫さんは意気揚々と僕の手を引いた。そのまま入館する。

「いやー初体験だわ。ここどころか私、水族館ってどこも行ったことないんだよね」
「そうなの?」
「何かきっかけが無かった。学校の遠足とかでも一回も無い」

 なかなか珍しいとは思う。しかし猫さんは確か、小学校か中学校の時あたりにこの地域に引っ越してきているはずだった。そういう学校だったのだろう。

「にゃんこ慣れてんなら案内してよ」
「はいはい」

 何となく、楽しい。
 最初のエスカレーターを昇る時点で猫さんはテンションが上昇しまくっていたらしく、ずっと目をキラキラさせていた。鮫の泳ぐ水槽を見付けると、声を上げながら擦り寄っていっている。案内を強要したくせに僕の存在はもはや無視されているような勢いだった。

「これがシロワニだって」
「鮫なのに?」
「鮫だけどワニ。で、あれがネコザメ」
「何あれめっちゃ可愛いんだけど!」

 まるで反応が子どもみたいで、耳がキンキンする。でももし子どもが実際いて連れてきたら、こんな感じなのだろうか。こんな風に、心が……温かくなるのだろうか。
 鮫の水槽をどうにか抜けて淡水魚のコーナーに出る。ピラルクの泳ぐ姿をじっと見つける猫さんの背中を、僕はただじっと見た。
 猫さんは、どういう気でいるんだろう。他にも一緒に回る友達などたくさんいるだろうに。案外見せかけだけなのか、それとも……己惚れていいのか。
 体の関係はある。でもそれは僕だけじゃない。猫さんは多分気を利かせて隠してくれているだろうけど、男子同士のネットワークまではさすがに掌握なんて出来ていないはずだ。嫌でも耳に入るし、その度に気が遠くなる。
 この約半年近く、猫さんは一切告白されなかったわけではないらしかった。その断り文句は毎回「興味ないから」。もし……実際言われたら。僕は猫さんとの関係を継続させていける自信がない。
 猫さんを、失いたくない。
 肉体関係だけの男に関しての噂が無かったわけではないけれど、最近はだんだん減ってきている。どれもすべて、猫さんを独り占め出来ないと悟った男達が勝手に離れているだけに過ぎないらしい。その事に安堵すると同時に……やっぱり、吐きそうな程の身勝手な感情。

「ガー可愛すぎる」
「趣味独特過ぎない?」

 ……今はまだ、このままでいい。僕から消える事はまず無いし、有り得るとすれば猫さんから拒まれる時だけだ。そうなったら僕は、死んでしまうかもしれないけれど。
 ふと向こう側に、三崎くんが見えた。凪野さんもいる。凪野さんは改めて思うけどクラスの中でも一番の美人で、最近どこかふっくらしてきた気がする。元々がかなり痩せていたから、それでも細身だけど。猫さんと見比べても、猫さんは良い意味で柔らかそう……というより、実際柔らかい。三崎くんもまた、凪野さんを抱いたりしているのだろうか。でもあの二人は実際付き合っていて、それは認められる行為だ。僕達と、違って。

「にゃんこあれ何、あの一匹だけ入ってるやつ」
「あれ? ああ、デンキウナギだって」
「おおー、あれが」

 ……嫌われていない。そう信じる事でしか、僕は縋れない。
 三崎くんはこちらに気付いたが、少し反応してくれただけで話しかけにはこなかった。少し距離もあるしそうなるか、とは思ったが……ふと、思い出す。

「猫さん」
「ん」
「……森園さん、どうなったのかな」

 猫さんは振り返った。その表情は、笑っていない。不謹慎だけど、取り繕ってでも無理やりずっと笑っているよりはこっちの方がよかった。

「どうしたの急に」
「ごめん、本当にふと思い出して」

 怒っているわけではないだろう。ただ、無感情なだけで。猫さんは水槽の前を移動した。

「んー、ちょっと私も分からない。連絡もブロックしてるし」
「そうなの?」
「もういいやって思って。ね」

 あの時の井沢に見せられた映像の事を思い出す。あれで、完全に見限ったのか。

「井沢は大丈夫だった? 何もしてこなかった?」
「廊下ですれ違う度にガン飛ばされたり足引っ掛けられたりするくらいかな。まあそれであいつの気が済むならいいんじゃない、卒業までだし」

 卒業。
 そうか、あと半年もない。そうなると、猫さんとの繋がりは……切れる。そう考えると、全身の血の気が引いた。そんな僕を察してか、猫さんはやっと笑った。

「卒業してもこの辺にいるんでしょ、にゃんこ。会おうよ、卒業しても」

 ああ、こういうところだ。僕の苦しみを察して、先回りして、解いてくれる。どこか泣きそうになりながら、頷いた。

「猫さんって本当優しいよね」
「でしょでしょ」

 おどけながらも、猫さんの目は実際どこまでも優しかった。





「……え、何で僕が」

 遠足から土日を挟んで月曜日。僕は担任に呼び出されていた。担任は苦い顔のまま、僕を見る。

「いやな、お前が適任かと思ってな。ほら、近所だろ」
「それ初めて知ったんですけど……それなら、もっと仲いい女子とか」
「勿論先に何人かに声を掛けたが全員断った。……言いたかないが、なかなか嫌われているらしい」

 それは何となく思っていた。そもそもあの気性だ。猫さんですら慈悲で彼女と一緒に居たようなものだ。
 森園貴代、と手書きで茶封筒に掛かれている。担任の字だ。それを担任は、僕の手に触れさせてきた。仕方ないので受け取る。その中身は先程担任が言っていた。

「郵送で送るのも味気ないだろう。せっかくだし説得もしてくれ」
「味気って」

 猫さんならおどけて逃げたりできるだろうけど、僕は残念ながらそこまで心臓が出来上がってはいない。
 仕方ないので茶封筒と合わせて地図を預かり、職員室を出た。もうこれは行かざるをえない。八月のあの日から森園さんは一切出席しておらず、顔を合わせる事すら今日まで無かった。
 校門を出た。そこには。

「猫さん」

 放課後になってすぐに出たはずだったのに。猫さんは僕に気付くと、ゆるく手を振ってきた。

「や、にゃんこ」
「何してるの」
「今日父さんが近くで仕事らしくて、迎えに来てくれるって言ってたから待ってるの。あと十分くらい」

 猫さんの父親には、未だ会った事がない。会ってみたい気はするが、緊張が勝る。猫さんは僕の手にある茶封筒を見て首を傾げた。

「何それ」
「あの、その」
「何か書いてる」

 隠す前に、見付かった。猫さんの顔が、露骨に強張る。

「何それ」

 仕方ない。それによく考えれば隠す必要もない。

「……先生に、持っていけって言われた」
「何でにゃんこが」
「近所だからって。他の人全員駄目だったみたいで」

 猫さんは何も言わず、ただ表情を強張らせているままだった。こんな顔、見た事がない。怒っているわけではないし悲しんでいるわけでもないだろうけど……ただ、こちらの心臓の奥が小刻みに揺れてしまう。

「あの、猫さん」
「にゃんこ」

 声は、普段通りだった。

「まあ気ぃつけて。車とかに轢かれないようにね」
「え……あ、うん」
「貴代、5時になると弟ちゃん保育園に迎えに行っちゃうから早いとこ行った方がいいよ」

 普段の通りの猫さんだ。何だかそれが逆に、不気味だ。
 時計を見ると15時半だった。今から行けば、迷うことも考えれば丁度いい頃合いだろう。

「分かった、ありがとう。行くね」
「あいよー」

 猫さんはこちらを見ずに手を振る。もう何も言えなくて、僕は歩き出した。
 電車に乗り、ぼんやりと考える。ずっと脳内には、猫さんのあの表情があった。ずっとあの表情が、僕の頭の奥で苛んでくる。いつも僕を受け入れてくれていたあの猫さんとは、違った。
 一番、恐れていたのに。僕は猫さんが、いないと。
 電車が停まった。ふらついてしまうも、何とか降車する。森園さんの家は、僕の家と反対方向だった。一本道なので迷うのはどうも杞憂だったらしい。一軒家に『森園』の表札もあった。呼び鈴を鳴らす。

『はい』

 森園さんの声だ。緊張するが、言うしかない。

「元林です」

 一瞬、間が開く。しかし何かが切れる音がした。まさかと思いもう一度呼び鈴を押す。

『なに』

 ああ、やっぱりわざと切ったか。

「ごめん、相沢先生に頼まれたんだ。ちょっと渡したいものあって」
『郵便受け入れて』

 どこか不躾な言い方で、ムッとする。そのせいか、口走ってしまった。

「僕に会いたくないんだ」

 いや、それはそうだろうと僕でも思う。しかしこんな単純な挑発でも、どうやら乗ってくれたらしい。玄関扉が開いた。中から、上下スウェットの森園さんが出て来る。表情はこの上なく不機嫌そうだった。

「何」
「これ」

 茶封筒を差し出す。わざとらしく無理やり引っ手繰ると、中身を確認しだした。そして、表情を複雑そうに崩す。そんな森園さんを見届けてから、僕は背を向けた。声が追ってくる。

「どこ行くの」
「え、もう帰ろうと」

 振り返ると、森園さんは玄関の奥へ進もうとしていた。そのまま「来なさいよ」とぶっきらぼうに言ってくる。扉を開けたまま待たれているせいでどうも帰れる空気では無かった。大人しく従う。
 中に入ると、すぐに森園さんの部屋に通された。適度に生活感のある猫さんの部屋とは違って、物という物が全然ない。

「適当に座って」

 そう言い残し、森園さんは部屋を出た。仕方なくソファに腰を下ろすと、森園さんがカップを二つ持って戻ってきた。中には紅茶が入っているらしく、テーブルに置かれる。森園さんはそのまま隣に座った。
 互いに口を開かない。気まずい間が続く。そもそも何故、僕を入れたのか。

「全部、聴いたんだしょ。井沢から」

 急にぶち込まれた。それに驚くも、頷く。森園さんは深く溜息を吐いた。

「あいつ、本当にいらないことまで喋るから」
「森園さんの事、心配してたよ」
「あいつ私に捨てられたって言ってたでしょ。違うから。あいつが他校の女に手を出して愛想尽かしたのが先。私が初めてで怖くて、ずっと断ってたから」
「猫さんとの関係が始まったのは?」
「そこまで知ってるわけ。その後よ。弱ってる時に優しくされたらズルズルいった。我ながら単純だわ」

 その気持ちはよく分かる。僕もだけどきっとどこか依存先を探していて、あの初対面の衝撃から猫さんに引きずり込まれたに等しい。森園さんは紅茶に口を付けた。

「虫が良すぎるのよ、井沢は。いざ自分のものが離れていったら追ってくるんだから。その癖他の女にもちょっかいかけてるんでしょ、笑っちゃう」
「……そんなものだよ、人間は」
「そうね」

 素っ気ないながらも、会話は成立している。あの八月の時に感じた恐怖は今はもう薄れてはいるけれど。

「散々嫉妬して、あんたにあんな事して。それでいてこんな風にされて」

 ぼつり、ぼつり、と落とされていく言葉。

「……惨めだわ、何か」

 絞り出されたかのような言葉に、聴いているだけでも胸が痛む。けれど僕はあくまで被害者だ。でも森園さんも、勝手な思い込みとはいえ猫さんに裏切られたという意味では被害者だと思う。

「猫さんの事、まだ好き?」

 僕の問いに、首を振った。

「もう吹っ切れたわ。三か月あいつを絶って、今はもう顔や声も思い出せなくなってる」

 そんなものなのだろうか。三か月だなんて、数字にしてしまえばあっという間だ。けれど記憶というものは確かに残酷だから、もしかすると案外そうなのかもしれない。僕に母の記憶が微かにしかないのと、きっと同じだ。

「僕のことはまだ憎い?」
「同じだったわ。でも今日実際会ってみて、確かに薄れてるのは分かった」

 僕は何もしていない。森園さんが勝手に暴走しただけだ。それでも確かに、心の底が落ち着いていくのを感じた。やっぱり、憎まれるのは苦手だ。それを、ぶつけられるのも。

「学校にはもう来ないの?」
「行く気はなかったけど、あんたに会ったら気が変わったわ。あいつと会ってももう大丈夫だろうし。卒業したいし」

 あの書類にはきっとそういった関連の事が書いてあったのだろう。しかし確かに、三か月の欠席は色々きわどそうだ。
 僕の今日の目的は、書類を届ける事と……森園さんの様子を、この目で確かめる事だ。あの猫さんとの記憶が急激によみがえって、吐き気がこみ上げてくる。そうだ、目的は終えた。ここに居る必要はない。

「帰るね」

 立ち上がる。そんな僕を、森園さんは「元林」と呼び止めた。見下ろすと、彼女は真っすぐに僕を見ていた。

「セックスしよ」
「……え」
「あいつへの未練を完全にトばしたい。でも多分、自分の気持ちだけじゃ駄目。『あいつにとっての私は死にました、もう合わせる顔もありません』って、口実を作らなきゃ」

 極端にも程がある。頭の奥が不快感でぐらついて、僕は鞄を手に取った。そんな僕の肩を、いつの間にか立ち上がっていた森園さんが強く掴む。

「男とは嫌だけど女となら、あんたとならシたいって言ったらあいつはシてくれた。本当に良かったの。そこからズブズブ依存した」

 ゾッとした。それは、まるで……僕と同じ。

「だから、男でも大丈夫になったって知ったら。あいつは私に情を一切かけなくなるでしょうね、そうすれば……私の中の、優しかったあいつも死ぬ」

 優しくない、猫さん。そんなのを想像するだけで背筋が凍りそうになる。……いや、さっき、その片鱗を見た。
 森園さんの手が、僕を床に降ろさせた。その手は、震えている。

「なに、あいつに遠慮してるの? そんな必要ないでしょ、だって付き合ってないんでしょ。どうせあいつの事だから、あんたの気持ちに気付いた上で他の男ともヤッてるよ」
「森園さん、」
「一回、一回でいい。イかなくてもいい、私を処女じゃなくしてくれたら、それで」
 縋りつくように絡みついてくる腕を、僕は……振りほどけなかった。





 服を着る。森園さんはベッドから起き上がる素振りすら見せない。

「帰るね」

 無視された。ただ、手を振る素振り。僕はするりとベッドを抜けて、部屋を出て、玄関に手をかけた。外に出ると、もう日はとっぷりと沈んでいる。もうそろそろ冬だ。
 スマートフォンが震える。取り出すと、猫さんからの着信だった。応答ボタンを押す。

「はい」
『お疲れさま』

 あくまで穏やかな声だったけれど、いつものようにはしゃいではいない。そのギャップが余計に、声を僕の心臓に染み込ませてくる。

『書類渡せた?』
「うん、大丈夫だよ。今から帰る」

 どこまで察されるか、というのは正直賭けた。猫さんは一つだけ間を置いて、

『貴代、処女だったでしょ』

 ああ、すべてか。猫さんの勘はもはや動物並だと思う。何も言わずにいると、溜息が聞こえた。

『何となく分かってた、こうなるって。もはや未来予知の域だわ』
「猫さん」
『にゃんこ』

 制された先の言葉は、あまりにも……苦し気で、無感情を気取っていて。

『処女、よかった?』

 僕は黙った。ここで猫さんの機嫌を無理にとった……という風に思われれば、それこそ終わりだ。だから、あくまで慎重に言葉を選びながら。

「猫さんを抱きたくなる、って改めて思わされた意味ではそうかも」

 猫さんは黙った。しかし、やがて聞こえた空気を呑む音。

「ずるいよ」
「え」

 背後から聞こえた肉声。制服ではなく私服の猫さんが立っていた。まさかの登場で心音が大きくなる。猫さんは相変わらず、崩れそうな表情だった。少しずつ歩み寄ってくる。

「言っとくけど、尾けたわけじゃないから。嫌な気がして、何となく来た瞬間ににゃんこが出てきた」
「そっか」

 立ち止まった猫さんの手をそっと引く。一瞬固まっていたけど、僕は躊躇わなかった。一気に寄せ、強く抱きしめる。ああ、これだ。僕が欲しているのは、まさしくこの人だ。

「猫さん、したい」

 鼻で笑われた。ふと見えた表情は、あまりに皮肉的なものだった。

「やっぱ絶倫じゃん。貴代としたばっかのくせに」
「出してないからね」

 表情が戸惑いに変わった。こんな猫さんを見るのは初めてで、不謹慎ながらもどこか面白い。

「突っ込んですぐ抜いたよ。本当に、穴を開けただけって感じ。多分あっちもだろうけど、僕も結構痛かった」
「な、なんで。もったいない」

 そこかよ、とは思うが口にはせずにおいた。だからこそ、まっすぐ目を見る。

「いやなんか、やっぱり猫さん以外無理だ僕。違和感がすごくて」
「違和感?」

 匂いも、感触も、見える表情も。五感と本能すべてが、猫さんに支配されている。そう、痛感した。それは文字通り、痛みと伴ってやってきた再確認だ。
 猫さんの耳をくわえる。体が硬直していたが、これは猫さんならではの反応だ。ああ、なんて……可愛いんだろう。

「猫さん、いい? しよう、すぐに」
「ちょ、ちょちょちょちょっうち無理だよ!? お父さんいるし」
「ここに来る途中でいい公園見つけたんだ」
「青姦!?」
 ……やっぱり僕は、この人が、好きだ。
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